前回は、宝暦暦について駆け足で説明を行った。今回からは寛政暦。寛政暦はさすがに駆け足というわけにはいかない。
今回は、寛政暦の簡単な歴史と、日躔の入り口あたり(平均黄経と平気節気)の計算。また、寛政暦で用いられる数学について、若干の説明。
寛政暦の概要
最新の天文学の知識を取り入れた暦の採用は、八代将軍徳川吉宗が強く望みながら宝暦改暦のときには頓挫してしまった。が、幕府として吉宗の遺志を果たそうと挑戦を続けていた。
修正宝暦暦を起案した吉田秀長の子、吉田靫負秀升(よしだ ゆげい
ひでのり)、宝暦改暦の際、改暦手伝として参加していた暦学者山路主住(やまじ
ぬしずみ)の孫で志願して天文方に参加した山路才助徳風(やまじ さいすけ
よしつぐ)らは、崇禎暦書(※)を基にした改暦を行おうと準備を進めていた。
- (※) イエズス会士アダム・シャール(湯若望)が明朝の崇禎帝の命に応じて著わした新暦案。明の滅亡により採用されることはなかったのだが、その焼き直し版「西洋新法暦書」が時憲暦(第一期)の暦法書となっている
が、宝暦改暦の際、朝廷方の土御門家にしてやられた苦い経験から、土御門家の追随を絶対に許さない圧倒的に高度な暦法が必要とされていた。土御門家がどんな暦学者をブレーンに集めてこようが、絶対に勝てる暦法が必要だったのである。国内の民間の暦学者の間でも既に研究が進んでいた崇禎暦書では、それには不足だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、大阪で活動していた麻田剛立学派であった。麻田剛立(あさだ
ごうりゅう。綾部妥彰(あやべ
やすあき))は、もとは九州の杵築藩(大分県杵築市)の儒者の家の出であるが、幼少時から医学・暦学等に興味を持ち独学で研究を進めていた。30歳のとき、宝暦暦が予報を外していた宝暦十三(1763)年九月日食も正しく予報していたとのことである。医学の腕を買われて藩主の侍医も務めるが、宮仕えは性に合わなかったようで、安永元(1772)年、侍医を辞して大坂に出、開業医を務めながら暦学研究に没頭することとなる。古今の暦の定数を比較勘案してその経時変化を推算した消長法を考案したり、また、ケプラーの第三法則(惑星の公転周期の二乗は、軌道長半径の三乗に比例する)を独立に発見したとも言われる(独立に発見したのか、ケプラーの法則をどこかで聞いたものなのかは議論の余地がある)。