2020年4月11日土曜日

天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール


前項
で言及した、定気法で置閏する場合の「少々ややこしい話」について書き述べたい。

まず、中国暦の流れを汲む太陰太陽暦における置閏のおさらい。
二十四節気のうちの中気を含まない暦月を閏月とする。

中気の平均間隔は、約 365.2422  ÷ 12 = 30.43685日。一方、暦月の平均的な長さは 約 29.53日であるから、毎暦月中の中気の位置は、平均して毎月1日程度、月末方向にずれていく。そしてある時、月末を突き抜けて翌月初に中気が回ってしまう。ここに、「前月末に中気があり、翌月初にその次の中気があるが、当月自体には中気を含まない」という無中気月が発生する。この月を閏月とする。



平気法の場合


これをビジュアル的にわかりやすい(わかりやすくなっているかな?)ようにしたのが下記の表だ。天保11(1840)年 寛政暦のケースを例にあげている。

表の見方だが、各月の何日目に中気があるかを記載している。中気は緑・橙色の色付きで表示している。閏月の判定にあたっては中気が月末にあるのか月初にあるのかが問題なので、月末月初を表の真ん中あたりにおいている。表左側の「前月」と書いているのが毎月の月末部分、右側の「当月」と書いているのが月初部分、月の中ほどあたりは省略している。「当月」(右側の月初部分)は、一行下の「前月」(左側の月末部分)と同一の月である。
「仮配月」と記載しているのは、閏月決定前にその月を「何月」と呼ぶ名前がないと、説明の都合上面倒なので、この区間に全く閏月を挿入しないとすると何月なのかで仮の月名を決めている。閏月決定後の実際の月名(右の方の「配月」欄に記載)と比較した場合、閏月前は仮配月と配月が一致し、閏月以降は、配月は仮配月よりひと月小さい値になる。

寛政暦は平気法の暦なので、ほぼ直線的に中気が月末に向かって進んでいく。
 仮正月29日の雨水正月中で月末に到達し、仮2月には中気が無く、仮3月1日に春分二月中がくる。よって、仮2月が閏正月ということになる。

天保十一(1840)年の中気の推移
天保十一(1840)年 寛政暦

定気法の場合


これが、定気法だとどうなるか。下記は定気法の暦である天保暦 弘化三(1846)年の例である。

仮5月29日の夏至五月中→仮7月1日の大暑六月中の間で、中気が月末→月初に突き抜けているので、とりあえず、閏月は仮6月、閏五月ということでいいのだが、中気の推移が直線的だった平気法とくらべ、中気の動きがかなり「ぐねっている」のがわかる。

夏場の遠点(夏至と大暑の間ぐらい)前後では地球の公転角速度が遅いので中気間隔が長い。よって、毎月2日ぐらいのペースで急速に月末方向にずれていく。
一方、冬場の近点(冬至と大寒の間ぐらい)前後では地球の公転角速度が速いので中気間隔が短い。よって、中気間隔の長さが暦月の長さと大差ないか、場合によっては短くなったりもする。結果、月末方向に進まず同じところでぐずぐずしていたり、場合によっては月初方向に戻ってしまったりする。

弘化三(1846)年の中気の推移
弘化三(1846)年 天保暦





定気法での置閏の課題


では、冬場に生じる中気の「ぐずぐず」が月末月初境界で起きたらどうなるだろうか。下記は、嘉永四(1851)年の例である。
霜降九月中→小雪十月中で、一度月末→月初に突き抜ける。間にある仮10月が無中気月である。
ところが、小雪十月中→冬至十一月中で、再度月末に引っ込んでしまう。仮11月は、月初1日に小雪、月末30日に冬至と、二つの中気を持つ二中気月となっている。
さらに、冬至十一月中→大寒十二月中で、月末→月初に再度突き抜ける。間にある仮12月が無中気月である。
そして、大寒十二月中→雨水正月中で、またまた月末に引っ込む。仮正月は、月初1日に大寒、月末30日に雨水を持つ、二中気月である。
春分二月中→穀雨三月中で、月末→月初に突き抜け、その間の仮3月が無中気月、以降は、順調に月末に向かってゆく。

このように、定気法では、近点付近冬場に、「行きつ戻りつのぐずぐず」が発生するため、中気が月初→月末に戻ってしまい、二中気月が発生することがある。この結果、前後に複数の無中気月が発生するのだ。1851年の例では、仮11月、仮正月が二中気月であり、仮10月、仮12月、仮3月の三つの無中気月が発生している。

嘉永四(1851)年の中気の推移
嘉永四(1851)年 天保暦







こうなると二つの問題が発生してくる。
  • 複数の無中気月のうちどの無中気月を閏月とするか、決定するルールが必要になる。
    無中気月のうち、実際に閏月とすべきなのはどれか一つだけなので、どれを閏月とするかの選定ルールを定める必要がある。
  • 中気が必ずしもその本月に属さなくなる。
    冬至十一月中が暦月十一月にある、雨水正月中が暦月正月にある、というふうに、X月中が暦月X月のうちにあるとき、「中気が本月に属する」という。
    中気がきれいに月末→月初に突き抜けて、月末に戻ったりしないケースにおいては(平気法では必ずそうなる)、無中気月を閏月にすることによって、必ず中気はその本月に属する。行きつ戻りつが発生すると必ずしもそうならない。
    きれいに月末→月初に中気が突き抜ける場合、 「閏月前の中気は月末にあり、閏月後の中気は月初にあり」という状態になっていて、その場合は、中気が本月に属する。よって、行きつ戻りつが発生している場合において、閏月前なのに月初にある中気、閏月後なのに月末にある中気は、本月に属していないということになる。例えば、上記の嘉永四(1851)年暦の例において、
    • 霜降→小雪間の仮10月を閏九月とした場合、
      • 閏月後なのに月末にある冬至十一月中(仮11月)・雨水正月中(仮正月)・春分二月中(仮2月)が、十月・十二月・正月に属することになり、本月に属さない。
    • 冬至→大寒間の仮12月を閏十一月とした場合、
      • 閏月前なのに月初にある小雪十月中(仮11月)が、十一月に属することになり、本月に属さない。
        閏月後なのに月末にある雨水正月中(仮正月)・春分二月中(仮2月)が、十二月・正月に属することになり、本月に属さない。
    • そして、春分→穀雨間の仮3月を閏二月にした場合、
      • 閏月前なのに月初にある小雪十月中(仮11月)・大寒十二月中(仮正月)が、十一月・正月に属することになり、本月に属さない。
    前回の説明では、雨水正月中が含まれる月を正月、春分二月中が含まれる月を二月……のようにして各月が何月かを決定したが、単純にそういうわけにもいかないということになる。複数の無中気月のうちどの無中気月を閏月とするかを決めたうえで最終的に決定しないといけない。

平山ルール


この問題を天保暦は、どう解決しているだろうか。上記の図の「配月」を見ていただくと、仮3月が閏2月になっている。三つの無中気月、仮10月・仮12月・仮3月のうち、天保暦は、仮3月を閏月として選定しているのである。

平山ルールなどと呼ばれているものがある。東京帝国大学の天文学者であり、東京天文台にも勤務していた平山清次が、天保暦(および、新暦改暦後の明治時代、移行措置として太陰太陽暦が公表されていた時の「旧暦」)の暦法を整理したものである。「日本百科大事典」に記載され、また、平山の著作「暦法及時法」(1933 恒星社)にも転載された。

天保暦の準拠せる暦法原則を今の術語によりて記載せば次の如し。
  • (一) 太陽と太陰の黄経の相等しき時刻を朔とす。 (定朔)
  • (二) 各宮の原点に太陽の在る時刻を中気とす。 (定気)。
  • (三) 暦日は京都に於ける地方真太陽時午前零時に始まる。
  • (四) 暦月は朔を含む暦日に始まる。
  • (五) 暦月中冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むを五月、秋分を含むを八月とす。
  • (六) 閏は中気を含まざる暦月に置く。中気を含まざる暦月必ずしもみな閏月とならず。
明治五年改暦以後同四十二年迄、太陽暦に附して頒布したる太陰暦も亦、此原則に拠りたるものなり。但し第三項の日の始は明治二十年迄は東京に於ける地方平均太陽時午前零時を採り、以後は中央標準時午前零時に改めたり。

(一) は、前項で述べたように、朔は「月(太陰)の黄経 - 太陽の黄経 = 0°」となる日時だということである。

(二) は、中気は太陽の黄経が30°の倍数となる日時だということを意味している。二十四節気は、太陽の黄経が15°の倍数となる日時だが、うち、中気は「太陽黄経 = 30°の倍数」、節は「太陽黄経 = 30°の倍数+15°」である。
「宮」は、1宮=30° という角度の単位であるとともに、0~30°の宮、30~60°の宮と、黄道を12に分割した天球上の位置の名前でもある。各宮は、星座にちなんだ名前でも呼ばれる。下表でもわかるように、各宮の原点(開始黄経)は 30° の倍数である。
黄経星宮対応する中気
0~30°白羊宮(おひつじ座)春分二月中
30~60°金牛宮(おうし座)穀雨三月中
60~90°双児宮(ふたご座)小満四月中
90~120°巨蟹宮(かに座)夏至五月中
120~150°獅子宮(しし座)大暑六月中
150~180°処女宮(おとめ座)処暑七月中
180~210°天秤宮(てんびん座)秋分八月中
210~240°天蠍宮(さそり座)霜降九月中
240~270°人馬宮(いて座)小雪十月中
270~300°磨羯宮(やぎ座)冬至十一月中
300~330°宝瓶宮(みずがめ座)大寒十二月中
330~0°双魚宮(うお座)雨水正月中
  • 以下、超余談。
    よく星占いなどで「何座うまれ」というが、これは、誕生時に太陽黄経がどの宮にあるかで決まる。星占いの本などを見れば「何月何日から何月何日までは何座」とかいう表が掲載されているが、あれは大体の日付を掲載しているので、本によっては微妙に日付が異なることもあり、二つの星座の間の微妙な日付生まれの人は「ほんとうは私は何座なの?」と思う人もいるかも知れない。そういう場合は、国立天文台暦計算室の「暦要項」のページで、自分の生まれ年の暦要項を見よう。例えば、あなたが、2000年10月23日の日本時間の15時頃生まれたとする。てんびん座かさそり座か、微妙な日付かも知れない。ここで、2000年の暦要項の二十四節気のページを見ると、霜降は、10月23日 11:47 JST だ。この時刻が、太陽黄経 = 210° の日時であり、この日時以降がさそり座だ。よって、10月23日15時はこの日時より後なので、あなたは、てんびん座ではなく、さそり座生まれだということになる。
    • なお、私には占いに関する知識はまったくありません。

(三) については、前項ではあまりふれず、当然のように日本の中央標準時 (JST) 0:00 を日の境界として扱っていたが、これは、明治二十一(1888)年以降の話である。天保暦においては京都地方真太陽時であった。が、明治時代、参考情報として旧暦を公表しているときに時制が変更されている。明治六 (1873) 年暦からの新暦改暦以降、明治二十 (1887) 年暦までは東京地方平均太陽時であった。そして、明治二十一(1888)年暦以降、日本中央標準時 (JST) に変更された。
太陰太陽暦においては、「暦日がいつから始まるか」は重要である。(四)則において、「暦月は朔を含む暦日に始まる」としているからである。朔が夜中0:00 近辺の微妙なタイミングに発生する場合、京都地方真太陽時・東京地方平均太陽時・日本中央標準時など採用する時制によって、朔の所属する日が変わってしまうことがある。
現在、世間で行われている「旧暦」では、日本の中央標準時を時制にとることになっている。これは、つまり、今の「旧暦」は江戸時代の天保暦を直接継承するものではなく、明治時代、参考情報として公表された「旧暦」を継承するものだということである。

(四) は、上でも述べたし、前項でも述べた。暦月は「朔からはじまり朔に終わる」のではなく、「朔日から始まり朔日前日に終わる」のである。

平山ルールの置閏法


平山ルール (五)(六) が、置閏に関するルールである。

(六) は、「無中気月を閏月とする」という大原則と、定気法によって複数の無中気月が発生した場合、うち一つを閏月としてその他は閏月としないことを意味している。

(五) が、複数無中気月のうち、どの月を閏月とするかの選定ルールである。
「暦月中冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むを五月、秋分を含むを八月とす」、これが意味するものはなにか。

平気法の置閏では、必ずすべての中気がその本月に属する。定気法でも、「行きつ戻りつ」が発生しない限りそうなる。しかし、「行きつ戻りつ」が発生するときは、すべての中気をその本月に属させることが出来ない。
その場合、「二至二分(冬至・春分・夏至・秋分)をその本月(十一月、二月、五月、八月)に属させることを優先せよ。そうなるような閏月を選べ。ほかの中気は本月に属さなくても構わない」というのが、平山(五)則が意味するところである。

嘉永四(1851)年暦において、
  • 霜降→小雪間の仮10月を閏月とした場合、閏月後なのに月末にある冬至・雨水・春分が本月に属さない。
  • 冬至→大寒間の仮12月を閏月とした場合、閏月前なのに月初にある小雪、閏月後なのに月末にある雨水・春分が本月に属さない。
  • 春分→穀雨間の仮3月を閏月にした場合、閏月前なのに月初にある小雪・大寒が本月に属さない。
という状況にあった。二至二分について言えば、仮10月を閏月とすると冬至・春分が本月に属さない。仮12月を閏月とすると、春分が本月に属さない。一方、仮3月を閏月とすると、小雪・大寒は本月に属さないがそれは構わない。二至二分は、問題なく本月に属する。よって、仮3月を閏月とするのである。

嘉永四(1851)年の中気の推移
嘉永四(1851)年 天保暦(再掲)
上に、嘉永四(1851)年の中気の推移の図を再掲したので、見てほしい。この図で、冬至・春分・夏至・秋分は橙色で表示している。そこだけを追ってみてほしい。夏至→秋分→冬至→春分まではすべて月末側に位置している。1852年春分→夏至のところで、月末→月初につきぬけている。
「閏月より前の月末中気・閏月より後の月初中気」は本月に属し、「閏月より前の月初中気・閏月より後の月末中気」は本月に属さないのだから、冬至・春分・夏至・秋分を本月に属させるためには、1852年春分→夏至の間に閏月を置けばいいということがわかる。この間の無中気月は、春分→穀雨の間の仮3月だからここが閏月だということだ。

「新法暦書」の記載


この平山置閏ルールは、天保暦の置閏ルールを「今の術語によって記載」したものであるわけだが、では天保暦の暦法書にはどう記載されているのだろうか。

実は天保暦の暦法書である「新法暦書」には、明確には記載されていない。
閏月について書かれているのは、「巻二 推月離法」の「求大小及閏月」の項目であるが、そこには、
「本月合朔干名与次月合朔干名同者本月大不同者本月小。内無中気者為閏月。」
本月合朔の干名と次月合朔の干名と、同じきは本月大、同じからざるは本月小。内、中気なき者、閏月と為す。
(漢文書き下しの文責は、当ブログの筆者。以下同)

と記載されているだけである。 この文の前段は、「月中の日数が30日なら大の月。29日なら小の月」と言っているだけである (※)。閏月については「中気なき者、閏月と為す」、無中気月を閏月とすると言っているに過ぎない。

  • (※) 月中の日数が30日 → 月中の日数が10の倍数→当月と次月の朔日の日十干が同じ。月中の日数が29日 → 月中の日数が10の倍数でない→当月と次月の朔日の日十干が異なる。

じゃあ、平山置閏ルールは、天保暦の暦法に基づかない平山オリジナルなのかというとそんなことはない。天保暦の解説編ともいうべき「新法暦書続編」に書いてあるのである。

新法暦書続編巻四の「二十四氣(閏月附)」の項目は、二十四節気を定気法で表示することの意義を述べたものであるが、このなかで、定気法で発生する置閏上の問題について、解決法を示している。

「但用実気亦常以無中気之月為閏。若一月内有両中気則於其前後無中気者有二(無中気者有時一在本年一在次年)。或以前無中気者為閏或以後無中気者為閏。要令二至二分必在其本月。」
但し、実気を用うるにまた常に無中気の月を以って閏と為す。若し、一月内に両中気有らば、即ち、其の前後、中気無き者二有り(中気無き者、時に、一は本年に在り、一は次年に在る有り)。或いは、前の中気無き者を以って閏と為し、或いは、後の中気無き者を以って閏となす。二至二分をして必ず其の本月に在らしむるを要す。
実気(定気法)においても無中気月を閏月とするという原則は維持されること、二中気月が発生することによって無中気月が複数発生すること、複数の無中気月は年またがりで発生するケースもあるため注意すべきことを述べている。そして、複数の無中気月のうち、前のものを閏月とするか、後のものを閏月をするかはケースバイケースなのだが、それを決める基準は「二至二分をして必ず其の本月に在らしむるを要す」、つまり、「冬至・夏至・春分・秋分をその本月に属させる」と言っている。これはすなわち、平山(五)則である。

これにつづけて、実例をあげて、定気法における置閏を説明している。

「因此意循新法遡探一月内有両中気者、乃如安永四年乙未、十二月内有冬至与大寒之両中気而、十一月及次年正月俱無中気。即以十一月為閏十月。又天保三年壬辰、亦十二月内有冬至与大寒之両中気而、十月及次年二月俱無中気。即以十月為閏九月。是要令分至各在其本月故、以各前無中気之月為閏。若文化十年癸酉、十一月内有小雪与冬至之両中気而、九月及次年三月俱無中気。即以次年三月為閏二月。是亦要令分至各在其本月故、以後無中気之月為閏也。余倣此」
此の意に因って新法に循ひ、遡って一月内に両中気有る者を探るに、乃ち、安永四年乙未 [1775]の如き、十二月内に冬至と大寒の両中気有って、十一月及び次年正月ともに中気無し。即ち、十一月を以って閏十月と為す。又、天保三年壬辰 [1832]、また十二月内に冬至と大寒の両中気有って、十月及び次年二月ともに中気無し。即ち、十月を以って閏九月と為す。是、分至をして各おの其の本月に在らしむるを要するが故に、各おの前の無中気の月を以って閏と為す。もしくは、文化十年癸酉 [1813]、十一月内に小雪と冬至の両中気有って九月及び次年三月ともに中気無し。即ち、次年三月を以って閏二月と為す。是また分至をして各おの其の本月に在らしむるを要するが故に、後の無中気の月を以って閏と為すなり。余、此れに倣へ。

実際、どうなっていたか見てみよう。順不同で恐縮だが、まずは最後に述べられている文化十(1813)年。
「十一月内に小雪と冬至の両中気有って九月及び次年三月ともに中気無し。即ち、次年三月を以って閏二月と為す」
確かに、仮11月は月初に小雪、月末に冬至の二中気月。秋分→霜降の間の仮9月が無中気月、春分→穀雨の間の仮3月が無中気月となっている。
そして、二至二分だけを見ると、春分→夏至の間で、月末→月初に突き抜けているから、この間の無中気月、つまり、仮3月を閏二月にすることになる。秋分→霜降の間の仮9月を閏月としたのでは、冬至・春分が本月に属さなくなる。

文化十(1813)年 定気法での中気の推移
文化十(1813)年 寛政暦を定気法で作暦したもの


次に、天保三(1832)年。「十二月内に冬至と大寒の両中気有りて、十月及び次年二月ともに中気無し。即ち、十月を以って閏九月と為す」
仮12月が、月初に冬至、月末に大寒を持つ二中気月。霜降→小雪の間の仮10月、雨水→春分の間の仮2月が無中気月。
二至二分だけを追っていくと、秋分→冬至のところで月末→月初に突き抜けているから、この区間の無中気月、霜降→小雪間の仮10月を閏九月にすればよい。仮2月を閏月にすると、冬至が本月に属さなくなる。

天保三(1832)年定気法での中気の推移
天保三(1832)年 寛政暦を定気法で作暦したもの

最後に安永四(1775)年。が、この年を見ると「行きつ戻りつ」が起きていないように見える。

安永四(1775)年 定気法での中気の推移
安永四(1775)年 寛政暦を定気法で作暦したもの

これらの実例は、天保暦採用 (1844年) から過去に遡って例をあげている。とすると「過去の暦を定気法で作暦したもの」が必要になる。上記は、寛政暦の施行期間であるため(正しく言えば、1775年は宝暦暦の施行期間なのだが、まあまあ)、「寛政暦を定気法で作暦したもの」として計算し、中気の配当を行った。しかし、どうやら、新法暦書続編の筆者(渋川景佑ら)がやった作業はそういうものではなかったらしい。中国の時憲暦は、寛政暦の元ネタになった暦であるが、寛政暦は平気法を採用したのに対し、時憲暦は定気法を採用していた。どうやら、時憲暦を見てこの項目を記載したのではないかと思われる。
時憲暦の実物は見てないのだが、下記は、日本・中国の時差を勘案し、「時憲暦はこんな感じだったんじゃないか 」で作ったものである。
これなら確かに「十二月内に冬至と大寒の両中気有りて、十一月及び次年正月ともに中気無し。即ち、十一月を以って閏十月と為す」の状態になっている。

安永四(1775)年 時憲暦を模して作暦した場合の中気の推移
安永四(1775)年 時憲暦を模して作暦したもの



旧暦2033年問題


こんな感じで、複数の無中気月が発生する場合でも、「二至二分を本月に属させる」ルールにより、どの無中気月を閏月にするかを決定できる。
天保暦施行期間 (天保十五(1844)~明治五(1872)) においては、 上記の嘉永四(1851)年のほかに、明治三(1870)年で複数の無中気月が発生したが、このルールで閏月を決定できた。
その後しばらく、複数の無中気月が発生する年はなかったが、昭和四十(1965)年, 昭和五十九(1984)に発生し、そこでも閏月を定めることが出来た。
以下に、各年の中気の配置図を示すので、上に述べたような手順で閏月を確定できるのを確認してみて欲しい。

明治三(1870)年

昭和四十(1965)年
 
昭和四十(1965)年は、1965年仮10月が霜降・小雪がある2中気月で、1965年仮9月と、1966年仮4月が無中気月。前の無中気月の 7 ヶ月後に後の無中気月が来る。多分、これはありうるなかで最大限に長い無中気月間隔。

昭和五十九(1984)年
 
  • 余談だが、無中気月が複数発生し、平山(五)則により閏月を決定する必要があった年が、1775年、1813年、1832年、1851年、1870年、1965年、1984年と、すべて西暦年を 19で割ると 8 余る年なのは偶然ではない。「19 太陽年は、ほぼ 235 朔望月に等しい」
    \(19_\text{年} \times 365.2422_\text{日/年} \fallingdotseq 235_\text{ヶ月} \times 29.53059_\text{日/月}\)
    という興味深い一致があり、ある年において、冬場の中気が朔望月の月末月初境界付近に発生するなら、その 19年後もそうなる。よって、この手の現象が起こるのは 19年周期になるのだ(必ずしも中気が月初→月末に戻る二中気月が発生するわけではないので、19で割って 8 余るすべての年でこうなるわけではない)
  • なお、「19太陽年 ≒ 235朔望月」とは言っても少しずつ誤差が蓄積するので、そのうち 19年で割ったときの余りが異なる年にこの現象が起こることになる。1984年の次に起こるのは 2033年。19で割って 0 余る年。353 太陽年 (18×19年+11年) は、ほぼ 4366 朔望月に等しいので、「19で割って8余る」から 11 ずれて、「19で割って 0 余る」になる。2033 年以降は 3 百数十年の間、この手の現象が起きるのは、19で割って 0 余る年になり、2405 年以降は、0 から 11 ずれて、19 で割って 11 余る年になる。
 
1851年、1870年、1965年、1984年と、現在までのところは、すべて、天保暦の置閏ルールでうまく閏月を決定できていた。じゃあ、すべての年において問題なく閏月を決定できるルールか? 答えはノーだ。ご存じの人はご存じだろうが、「旧暦2033年問題」である。

これまた長くなりそうなので次項で説明する。

(なかなか、本題(江戸時代の暦の作暦方法)の話に入れない。。。)


[参照文献]
平山 清次(1933)「暦法及時法」恒星社 https://books.google.co.jp/books?id=88p29z44kzoC
土御門 晴親(校正)、渋川 景佑、足立 信頭(1842)「新法暦書」内閣文庫蔵 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F1000000000000029974
渋川 景佑、他(1846)「新法暦書続編」内閣文庫蔵 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F1000000000000029976

(私の環境だけかも知れませんが、国立公文書館デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp の文書をブラウザ内でPDF閲覧すると黒が飛んで文字が読めません。そうなった場合、JPEGで見るか、ダウンロードして Adobe Reader などで読んでください)

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