Kupchik (2011) を眺めていたところ、Kupchik が上代東国語 (海外の上代日本語研究家が言うところの Eastern Old Japanese (EOJ)) と、上代中央語 (Western Old Japanese (WOJ)) の語形差異として、清濁異同をいちいち挙げているのに目がついた。
例えば、「坂」を「佐賀サガ (20/4402)」、「咲けども」を「佐家登母サケトモ (20/4323)」 のような類である。
確かに上代東国歌謡で清濁仮名の異同が多いのは気がついていたのだが、清濁混用の万葉仮名は多いし、中古に入って平仮名・片仮名が出来れば清濁は書き分けられなくなるし、表記の問題ではあっても、東国語の音韻の問題ではなかろうと考えるのが通常だ。
とはいえ、言われて見ると、あらためて興味を覚え、念のため調べてみることにした。
結果を予め言っておくと、やはり音韻の問題ではなく表記の問題であろうというのが結論になる。
Kupchik (2011) は一律、「賀」をガ、「伎」をキ甲、「氣」をケ乙……の仮名として、これらを中央語であれば、カ・ギ甲・ゲ乙……となるような語の表記に用いている場合(20/4402「佐賀 坂(さか)」、14/3449「許伎久見由 漕ぎ来見ゆ」、14/3357「奈氣可牟 嘆(なげ)かむ」) を EOJ と WOJ の差異として挙げている。
が、こういうためには、中央語 (WOJ) において、「賀」を清音カ、「伎」を濁音ギ甲、「氣」を濁音ゲ乙に使っていないということが前提となる。
で、どうかというと、中央語 (WOJ) においても、「賀」を清音カ、「伎」を濁音ギ甲、「氣」を濁音ゲ乙に使うことはままあるのである。
- 20/4453(大伴家持) 「美礼杼安賀奴香母 見れど飽かぬかも」
- 05/0804(山上憶良) 「多尓伎利物知提 手握(たにぎ)り持ちて」
- 17/3973(大伴池主) 「奈氣可布和賀勢 嘆(なげ)かふ我が背」
屋名池 (2011) は、万葉集(一字一音仮名表記の5, 15, 17, 18, 20巻)・仏足石歌のうち、東国歌謡他の怪しい例を除去したうえで、清音10例以上、濁音5例以上使用されている字を清濁兼用仮名と同定している。結果は下記の通り。
- 賀(カガ)、伎岐(キギ甲)、氣(ケゲ乙)、蘇(ソゾ甲)、都(ツヅ)、弖提(テデ)、等登(トド乙)、波(ハバ)、比(ヒビ甲)、幣敝(ヘベ甲)、倍(ヘベ乙)、保(ホボ)
上記のなかでも、清濁混用が特定の語彙に偏っているような印象があるものもある (※) のだが、とりあえず上記を上代中央語における清濁兼用仮名として是認することとする。
- ※ 「伎」をギ甲と読むのは「和伎毛故」など「我妹(わぎも)」の例がやけに多い (濤岡 (1994))
「波」「等」「登」を濁音に使うのは、条件法の場合(「有らば」「有れば」「有れども」) のケースが多い気がする、等
上記の基準を東国歌謡に当てはめるとどうなるかというと、結局、清濁異例はほとんどなくなってしまう。
特に、14巻の東歌ではそれが顕著で、あきらかな清濁異例はほぼない。
1件存在するのは、14/3567「妹は真愛し(伊毛婆麻可奈之)」で、濁音専用字「婆」をハに用いている。清濁用字異例であろうと想定できるが、東国語では本当に「バ」と発音していた可能性もなくはない。
- 14/3567「置きて行かば 妹はま愛し 持ちて行く 梓の弓の 弓束にもがも 於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛」
- なお、少ないながら中央語にも、「婆」をハとする例あり。
17/4006(大伴家持)「吉民婆安礼騰母 君はあれども」
14/3575 「美夜自呂の すかへに立てる(須可敝尓多弖流) かほが花 な咲き出でそね こめて偲はむ」で、「すかへ」が「背向(そが)ひ」の東国訛りだとすると、清音専用字「可」をガに用いている清濁異例である。が、「洲処辺」などの別の解釈もありうるし、「背向(そが)ひ」の濁音ガは連濁的なものだと考えれば連濁せず清音「そかひ」として実現する可能性もあったかも知れない。
もう1件は、14/3553「あじかまの 可家の港に 入る潮の こてたずくもが(許弖多受久毛可) 入りて寝まくも」。願望モガだとすると、清音専用字「可」をガに用いているので異例である。なお、この歌の管見の解釈については、以前の記事「かなるましずみ」を参照されたい。
14/3541「あずへから 駒の行このす(古麻能由胡能須) 危はとも 人妻子ろを まゆかせらふも」に、「胡」を清音コ甲に使用した例がある(「由胡」を「行く」連体形東国語語形「行こ」とする)が、これは清濁異例とはしない。
屋名池 (2011) では、「胡」を清濁兼用仮名ともしないが、濁音専用仮名ともしていないからである。おそらく「濁音5例以上」の条件を満たさなかったのだろう。
「胡」は東国歌謡では14/3536「安加胡麻 (赤駒あかご甲ま)」等、ゴ甲に用いられることが多いようだし、中央語歌謡でも同様のようだが 05/0802(山上憶良)「胡藤母意母保由 子(こ)ども思ほゆ」のように清音仮名使用例もある。
20巻の防人歌ではいくらかの異同例がある。
- 加可: カ→ガ
- 20/4327(遠江)「畫尓可伎等良無 伊豆麻母加 絵に描き取らむ 暇(いつま)もが」
- 20/4338(駿河)「牟良自加已蘇乃 牟良自が磯の」
- 20/4343(駿河)「和加美 我が妻(み)」
- 20/4352(上総)「波可礼加由加牟 剥がれ (?) か行かむ」
- 20/4378(下野)「阿母志々可 多麻乃須我多波 母父(あもしし)が玉の姿は」
- 20/4386(下総)「和加々都乃 我が門(かづ)の」「於母加古比須々 母(おも)が恋ひすす」
- 20/4387(下総)「他加枳奴 誰が来ぬ」
- 20/4388(下総)「以弊乃母加 枳世之己呂母尓 家の妹(も)が着せし衣に」
- 20/4390(下総)「以母加去々里波 妹が心は」
- 20/4391(下総)「阿加古比 贖乞(あがこ)ひ/吾が恋ひ」
- なお、少ないながら中央語にもガの例あり。
05/0867(吉田宜)「枳美可由伎 氣那我久奈理奴 君が行き 日長く成りぬ」
20/4308(大伴家持)「安麻乃可波 あまのがは」 cf. 18/4126 (大伴家持)「安麻能我波 あまのがは」 - 須: ス→ズ
- 20/4337(駿河)「毛能波須 物言はず」
- 20/4364(常陸)「伊波須 言はず」
- 20/4372(常陸)「可閇理美須 顧(かへり)みず」
- 20/4384(下総)「之良須母 知らずも」
- なお、少ないながら中央語にもズの例あり。
18/4113(大伴家持)「於毛我波利世須 面変はりせず」 - 枳: キ甲→ギ
- 20/4384(下総)「之麻加枳乎 島影(しまかぎ)を」「己枳尓之 漕ぎ去し」
- 20/4386(下総)「以都母等夜奈枳 五本柳(いつもとやなぎ)」
- 20/4390(下総)「久留尓久枳作之 柩(くる)に釘(くぎ)刺し」
- なお、少ないながら中央語にもギ甲の例あり。
07/1207(右件歌者古集中出)「許枳将渡等 漕ぎ渡らむと」 - 己: コ乙→ゴ乙?
- 20/4325(遠江)「佐々己弖由加牟 捧ごて行かむ」
「捧げ乙て」の東海訛り「捧ご乙て」と想定。本当に「ささこ乙て」であった可能性もなくはない。 - 知: チ→ヂ
- 20/4368(常陸)「麻可知之自奴伎 真梶(まかぢ)しじ貫き」
- なお、少ないながら中央語にもヂの例あり。
15/3728(中臣宅守)「奈良能於保知波 奈良の大路(おほぢ)は」 - 遅: ヂ→チ
- 20/4353(上総)「伊倍其登母遅弖 家言持ちて」
- 布: フ→ブ
- 20/4402(信濃)「知波夜布留 ちはやぶる」
- 枕言葉「ちはやぶる」は「ちはやふる」と発音された可能性がなくはないが、中央語での書記例、17/4011「知波夜夫流(「夫」は濁音専用仮名)」、02/0101「千磐破」などを見ると、やはり少なくとも中央語においては「ちはやぶる」であったと考えられる。
「ちはやふる」は、競技かるた漫画のタイトルだけってことで。 - 非: ヒ乙→ビ
- 20/4348(上総)「多非乃加里保尓 旅(たび)の仮廬に」
- なお、「旅」を清音主体で清濁兼用の仮名「比」で、「多比」と表記した例は、防人歌 20/4343(駿河)、20/4416(武蔵) にあるとともに、中央語でも、07/1234(古集)、18/4128(大伴池主)などにある。これを踏まえて、一般にイ段の甲乙を書きわけない (おそらく発音上の区別もなかった) 防人歌において、「非」をビの表記に使用したものか。
下総の例が目立つが、下総の防人歌の分量がそもそも多いからかも知れない。
- ただし、「枳」については、完全に下総の防人歌書記者の用字上の好みなんじゃないかという気がする…。
他には、機能語 (主格・属格助詞ガ、打消助動詞ズ) の例が多いことにも気づく。
機能語と言えば、清濁兼用仮名なので清濁異例としては挙げていないが、条件法のバ・ド・ドモを清音主体清濁兼用仮名の波・等などで表記した例も多い。
- 20/4344(駿河)「和例久礼等 吾来れど」
- 20/4351(上総)「伊努礼等母 寝(いの甲)れども」
- 20/4353(上総)「比尓々々布氣等 日に日に吹けど」
- 20/4375(下野)「美礼波 見れば」
- 20/4378(下野)「須具波由氣等毛 過ぐは行けども」
- 20/4379(下野)「和可例奈波 別れなば」
- 20/4387「保々麻例等 ほほまれど」
- 20/4388(下総)「多妣等弊等 旅と言へど」
- ex. 14/3364或本「比可波 引かば」、14/3539「安夜抱可等 危ほかど」、等。
未然形・已然形の後の「ハ」「トモ」は濁音を明示しなくても濁音に決まっている。
「ガ」「ズ」はちょっと微妙で、「君が袖振る」と「君か袖振る」は違うだろうし、「菜摘ます」と「菜摘まず」も違うだろうが、少なくとも上記に清濁異例として挙がっているようなケースでは文脈でわかるようなケースだろうと思われる。
少なくとも、自立語の清濁を書きわけなかった時のように書記者が思っても見なかったような誤読をされるとか、そもそも文意が取れないとかいうことは少ないと思われる。
ゆえに、このようなケースでは清濁を書きわけないことが多々あったのではないかと思われる。
以上、まとめると、
- 中央語歌謡でも清濁仮名を書きわけないことは多々あった。
- 14巻東歌で清濁仮名混用はあるが、中央語歌謡でも一般的だったレベルを超えていない。
- 20巻防人歌では、清濁仮名混用のレベルがあがっているが、そのほとんどは中央語歌謡でも皆無だったわけではないものである。
こういうことを書くにはもう少し検証してから書かないといけないかも知れないが、印象論で言うと、中央語における万葉仮名の清濁兼用使用は、山上憶良、大伴池主、大伴家持が多い感じがする。
山上憶良は、筑前守在任時、太宰帥大伴旅人と親交があり、酒宴などで歌の贈答があったことが万葉集巻5に見える。その場には、旅人の子、家持・書持らがいた。
少年期の家持は、経験を積んだ官人、壮年期に遣唐使の随員として入唐の経験があり、聖武天皇の侍講も務めたことがある知識人、著名な歌人である憶良の薫陶を受けたと思われる。
池主は、大伴氏一族(藤井 (2017) は家持の従兄弟と想定) であり家持との親交が厚く、家持が越中守であった時、越中掾を務めており、家持との歌の贈答も多々ある。
彼らの歌謡が納められた巻は一字一音表記方式で表記されていることが多い、上記に記載のとおり、清濁兼用仮名の使用が多い、などの特徴を持つ。
また、憶良の貧窮問答歌、防人歌の収集にあたった家持など、庶民への目線も共有しているように思われる。
万葉仮名の清濁は、実は根拠がよくわからないものもある。
「比」は、清濁兼用仮名ではあるが、清音ヒ甲に用いられることが多い。韻書等を見ると、卑履切 (pi) の音もある一方、房脂切 (bi) の音もある字。一方、「妣」は濁音ビ甲専用だが、こちらは卑履切 (pi) の音しかない。なぜ濁音ビ甲に使用するのかよくわからない。
「低」は、濁音デ専用仮名とされているが、清音主体清濁兼用の氐、弖と同音字、都奚切 (tei) であって、なぜ濁音字に使われるのかわからない。
さらには、長安音での音韻変化により、有声音の無声化が発生しており、それを受け入れた日本漢字音においても、呉音では濁音で読まれていたものを漢音では清音で読むということが発生している。
ex. 定ヂャウ→テイ、胡ゴ→コ(胡麻ゴマ~胡椒コセウ)、等。
憶良の万葉仮名用字は、時折バタ臭いというか、日本での慣例を離れて、長安音に引っ張られる時がある。
一般に、万葉仮名において、斉韻字 (Cei) は概ね甲類エ段に用いられる (計鶏陛、等) のだが、例外的に乙類エ段に用いられる字がある (閇米迷、等)。これは、中国音において、もともと斉韻は Cei だったのが、硬口蓋化して Ciei に発音されるようになったことに起因している。子音を硬口蓋化させない Cei だと乙類エ段に充てるのが適切だが、硬口蓋化させる Ciei だと甲類エ段に充てるのが適切。 古層の万葉仮名である閇米迷では乙類エ段用法が残存しているということである。
憶良も概ねこれに従っている(05/0803「古尓斯迦米夜母 子に如かめ乙やも」)のだが、05/0871「麻通良佐用比米 松浦佐用姫」と、モダンスタイルに、斉韻字「米」をメ甲に充てている用字があったりする。(東ヶ崎 (1993))
入唐経験のある憶良は、万葉仮名用字慣例の根拠のなさ・不統一性に、少々うんざりしていたのではないだろうか。なかでも万葉仮名の清濁書き分けについては、積極的に書き分けなくても実用上あまり問題もなく、撤廃したいと思っていたのではなかろうか。
「一字一音式」「清濁の書き分けをしない」というのは、上代の木簡資料でも同じ傾向が見られるようだ (犬飼 (2005))。
- 正倉院文書「之加毛与祢波/夜末多波多万波須阿良牟 しかも米は山田は給はずあらむ」
清濁を書きわけしないとすれば覚えなければいけない字の数も減る。濁音字は画数が多い (なんとなく、むしろ画数の多い字を濁音専用に使うというのが清濁書きわけの基準だったんじゃないかとさえ思う) ことも多く書写の手間も減る。
地方での勤務経験も多い憶良、家持、池主らは、こういった実務書記の実態も理解し、一字一音で清濁書きわけに拘らないプラクティカルな書記方式を実践していったのではなかろうか。
「止 ト」「里 ロ」など、古朝鮮音の万葉仮名を使うのも木簡資料の特徴の一つで、20/4390「去々里 こころ」などもそれが現れているものだと思われる。下総防人歌で多用される「枳 キギ」は、戸籍資料などの使用例が多いようで、下総の戸籍資料にも出てくるそうだ。
こういったことを考えると、防人歌書記は、木簡などに見られる実務書記をしていた階層が、実務書記のやり方で記載したものである可能性が高い。
巻14東歌も、中央から地方に派遣された実務官僚階級が書記したもの、巻20防人歌は、防人を引率する地方郡司層が、兵部少輔家持の命を受けて、防人兵士たちから募集・書記したものと想定すると、実務書記方式(清濁書きわけなし) によって書記されても不思議ではない。とくに防人歌は収集を指示したのが家持であることを考えると、清濁書きわけなしで集まってきたものの仮名遣いを矯正しようとも思わなかったはずである。
巻14東歌は、万葉集の中央語歌謡の書記レベル、すなわち、家持らが実践していた「当時の人が歌謡書記として違和感を覚えない程度の清濁書きわけに留め、積極的には書きわけない」というレベルに収まる範囲で清濁書きわけを行っているため、中央語基準と比較した時、清濁書きわけの異例がないということになる。
一方、巻20防人歌は、書記者の階層が異なり、また収集歌謡をまとめ編纂した家持の意向もあって、さらに清濁混用が進んでおり、中央語歌謡の書記レベルを超え、実務書記レベルの清濁混用がなされているのだろう。
以上、正書法研究・万葉集の文献学的研究には興味深いところもあるかもしれないとしても、私の興味関心である言語研究的にはあまり面白みのない結論となる。
本当に上代東国語の音韻特徴を表現しているものだったら面白いなと思ったんですけどね。
ギ、ズ、ビなど、狭母音字が多いように思ったので、20/4337「已蘇岐 急ぎ→急き: isogi > isogʲ >isokʲ」 のように、狭母音脱落によって音節末子音になった有声音が無声化する、みたいな仮説を準備してたんですけど。
でも、海外系の研究者は、国語学的なジョーシキから外れたところからぽこんと攻めてくるので結構好きです。
[参考文献]
Kupchik, John Everitt (2011) "A grammar of the eastern old Japanese dialects", Dissertation submitted to the graduate division of the university of Hawai'i in partian fulfillment of the requirements for the degree of doctor of philosophy in linguistics http://hdl.handle.net/10125/101739
屋名池 誠 (2011) 「仮名はなぜ清濁を書き分けなかったか」, 藝文研究 (101), 慶應義塾大学藝文学会, pp.22-62 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-01010001-0022
濤岡 由美 (1994) 「『万葉集』 九〇四~九〇六番歌の清濁表記について」, 学習院大学人文科学論集 (3), pp.89-110, 1994-09-30 http://hdl.handle.net/10959/1915
藤井 一二 (2017) 「大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)」, 中央公論新社, 2017-06-20 ISBN978-4121024411
犬飼 隆 (2005) 「木簡による日本語書記史【2011増訂版】」, 笠間書院, 2005-12-01 ISBN978-4305705686
東ヶ崎 祐一 (1997) 「万葉仮名「閇・米」について : 中古漢字音の音変遷に関連して」, 東北大学文学部日本語学科論集 (3), pp.61-70, 1993-09-30 http://ci.nii.ac.jp/naid/110004625897/
鈴木 慎吾 (2003) 「Web韻圖 ~廣韻檢索~」 http://suzukish.s252.xrea.com/search/inkyo/index.php
古屋 彰 (1974) 「万葉仮名: 文字史ノート」, 金沢大学法文学部論集 文学篇 (21), pp.45-77, 1974-03-25 http://hdl.handle.net/2297/40907
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