2020年5月16日土曜日

頒暦概観 (4) 日月食記事(寛政暦・天保暦)


前回までで、頒暦記載情報のうち、暦月記事・暦日記事・節気記事の説明が終わった。残すは日月食記事のみ。頒暦における日月食記事について話す前に、まず、今の暦(暦要項)で日月食がどんな感じで記載されているのか見てみよう。
下記は、令和三(2021)年の暦要項での、5月26日皆既月食の記事である。

「日本では全国で皆既食が見られる。ただし、北海道西部、東北地方西部、中部地方西部、西日本では月出帯食となる。各地における状況は次のとおりである。 」
地名 月の出 食の始め 皆既の始め 食の最大 皆既の終り 食の終り
中央標準時 位置角 食分 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角 食分 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角
那覇 19時07.3分 202度 0.348

20時09.4分 61度 20時18.7分 250度 1.015 20時28.0分 80度 21時52.8分 299度
福岡 19時11.8分 196度 0.412

20時09.4分 53度 20時18.7分 243度 1.015 20時28.0分 72度 21時52.8分 291度
京都 18時52.7分 188度 0.127

20時09.4分 49度 20時18.7分 239度 1.015 20時28.0分 68度 21時52.8分 286度
東京 18時37.5分 ----- ---- 18時44.6分 185度 20時09.4分 47度 20時18.7分 236度 1.015 20時28.0分 66度 21時52.8分 283度
仙台 18時39.5分 ----- ---- 18時44.6分 182度 20時09.4分 44度 20時18.7分 234度 1.015 20時28.0分 63度 21時52.8分 281度
札幌 18時51.4分 179度 0.107

20時09.4分 40度 20時18.7分 230度 1.015 20時28.0分 59度 21時52.8分 278度




「食の始め」「皆既の始め」「食の最大」「皆既の終り」「食の終り」それぞれのタイミングにおける時刻・位置角が表記され、また、「食の最大」のところには食分が表示される。また、この食は出帯食(月が出る前に食が始まるため、欠けながら月が出る)となる地方があるため、各地の「月の出」の時刻が記載され、また、出帯食となる地方の場合は、月の出における位置角・食分も表記されている。かけ始めの時、これらの地方ではまだ月が出ていないため、かけ始めを見ることが出来ないため、「食の始め」は記載されない。同様に「皆既の始め」「食の最大」「皆既の終り」「食の終り」も、月の出前、月の入り後で観測できない場合は記載されない。

月食というのは、地球が太陽に照らされれれば太陽の反対側に地球の影が出来るわけだが、その影のなかに月が入る現象だ。月と地球影の位置関係が時間につれて変わっていくなかで、
  • 「食の始め」「食の終り」は、ぎりぎり月と地球影が重なっているかいないかのところ、つまり、月が地球影に外接している時であり、
  • 「皆既の始め」「皆既の終り」は、ぎりぎり月が地球影内にすっぽり入っていて、ちょっとでも動くと月が地球影からはみ出してしまいそうなところ、つまり、月が地球影に内接している時、
  • そして「食の最大」は、月がもっとも地球影に近づくところ、皆既だと「近づく」というのがぴんと来ないかもしれないが、地球影の中心と月輪の中心との距離が最も小さくなる時と考えてもらいたい。


「位置角」 というのは何かというと、月輪の中心から地球影の中心に向かって伸ばした線(上図の赤い矢印)の方向である。「食の始め」「食の終り」では、月輪の中心から見てかけ始める箇所の方向である。そして、この方向は、「上」(この図における上ではなく、天頂方向)を 0° として、反時計回りに計った角度として記載されている。
  • ただし、暦要項の記載においては、「皆既の始め」「皆既の終り」のみは、180°反対方向で、地球影の中心から月輪の中心に向かって伸ばした線の方向として定義している。月輪から見て最後までかけ残った箇所・最初に光を生じる箇所の方向となるように定義しているのである。
  •  「位置角」と違い、一貫して「月輪の中心から地球影の中心に伸ばした線の方向」として定義する場合、「天頂方向角」という。

「食分」は、「すべてかけている = 1(以上)」、「まったくかけていない = 0(以下)」ということになるが、どういう数字なのかというと、上図のABの長さの、月の直径に対する比である(M: 月の中心、S: 地球影の中心)。
AB = MB + AS - MS であり、MB, AS はそれぞれ、月の半径、地球影の半径であるので、
\[ \text{食分} = {{\text{月の半径} + \text{地球影の半径} - \text{月中心と地球影中心の間の距離}} \over {2 × \text{月の半径}}} \]
ということになる。

上記の表では、「食の始め/終り」「皆既の始め/終り」の食分が記載されていない。
月と地球影が外接する「食の始め/終り」時は、「月中心と地球影中心の間の距離 = 月の半径 + 地球影の半径」であり食分はゼロ、月が地球影に内接する「皆既の始め/終り」時は、「月中心と地球影中心の間の距離 = 地球影の半径 - 月の半径」であり食分は 1 となり、書くまでもないのだ。

上記は、月食を例として説明したが日食でも、「光る天体 = 月、隠ぺいする天体 = 地球影」だったのが「光る天体 = 太陽、隠ぺいする天体 = 月」となるだけで、基本は変わらない。

さて、江戸時代の頒暦ではどうなっていたか。
享和三(1803)年の寛政暦、十二月月食「月帯そく四分 翌とらの八刻左の下よりかけはじめうの五刻左と下の間に甚しくうの八刻二分ばかりかけながら入」
地名 食の始め 皆既の始め 食の最大 皆既の終り 食の終り 月の入り
時刻 位置角 時刻 位置角 時刻 位置角 食分 時刻 位置角 時刻 位置角 時刻 位置角 食分
京都 翌とらの八刻 左の下 ----- --- うの五刻 左と下の間 四分 ----- --- ----- --- うの八刻 ? 二分ばかり
基本的には、現在の暦要項での食記事と同じ情報が記載されていることがわかる。ただし、
  • 基本的には京都での情報しか記載されない(西国(長崎)、東国(江戸)の情報が一部記載されることがある)。
  • 皆既の始め/終りに関する情報は記載されない。上記は皆既食ではないので記載されないのは当然だが、皆既食の場合でも記載されない。暦法上、計算式は準備されていたが、頒暦の記載上は用いられなかった。
  • 月の出入り時の位置角は記載されない。これも暦法上は計算式があったが、頒暦の記載では用いられなかった。
月の出前/月の入り後で観測できないものは記載されないというのは暦要項と同様である。
頒暦と暦要項とで基本的には同じ情報が記載されているというのは、江戸時代の頒暦等の後継が戦前の本暦/略本暦であり、その後継が戦後の暦要項であることを考えると、ある意味当然か。

さて、以降、実際の頒暦でどのように日食・月食が記載されているのかを見ていくことになるが、正直、貞享暦の初期は記載方法が定まらずかなりカオティックな状況となっており、その後、少しずつ記載方法がシステマティックになっていく。そういう意味では、後のものの方が説明がしやすいので、時を遡り、寛政暦・天保暦についてまず話をし、その後、宝暦暦、貞享暦について述べたい。

寛政暦・天保暦の日月食記事

全体の構成

以降、暦法書での記載に従い、「食の始め」を「初虧(読み方は多分ショキ)」、「食の最大」を「食甚」、「食の終り」を「復円」と記載する (※)。
初虧・食甚・復円は、出前・入り後で見えない場合は記載されないので、見えるか見えないかで下記のような感じで表記がわかれる。
種別 初虧 食甚 復円 文言種類 文言
出帯食
(食甚見えない)
× ×
表題部
出文言
復円文言
{月帯そく | 日帯そく}
(出時刻) {(出時食分) かけながら | 皆既て} 出
(復円時刻) (復円位置角) におはる
出帯食
(食甚見える)
×
表題部
出文言
食甚文言
復円文言
{月帯そく | 日帯そく} (食甚食分)
(出時刻) {(出時食分) かけながら | 皆既て} 出
(食甚時刻) [(食甚位置角) に] 甚しく
(復円時刻) (復円位置角) におはる
通常食
表題部
初虧文言
食甚文言
復円文言
{月そく | 日そく} (食甚食分)
(初虧時刻) (初虧位置角) よりかけはじめ
(食甚時刻) [(食甚位置角) に] 甚しく
(復円時刻) (復円位置角) におはる
入帯食
(食甚見える)
×
表題部
初虧文言
食甚文言
入文言
{月帯そく | 日帯そく} (食甚食分)
(初虧時刻) (初虧位置角) よりかけはじめ
(食甚時刻) [(食甚位置角) に] 甚しく
(入時刻) {(入時食分) かけながら | 皆既て} 入
入帯食
(食甚見えない)
× × 表題部
初虧文言
入文言
{月帯そく | 日帯そく}
(初虧時刻) (初虧位置角) よりかけはじめ
(入時刻) {(入時食分) かけながら | 皆既て}入
  • (2022/3/3 追記) 1970年まで、暦要項でも「初虧」「食甚」「復円」と書いていたようですね。国立天文台暦計算室のページに読み方も書いてありました。「初虧」は「ショキ」で正解。

表題部

表題部は、日月食記事行の上部に一行で大書され、その他の文言は、表題部の下に二行書き(一行で収まれば一行書き)で記載される。
帯食の場合、出帯(かけながら出る)・入帯(かけながら入る)にかかわらず「日帯そく」「月帯そく」と記載され、帯食でない場合「日そく」「月そく」と記載される。(「日食/月食」とか「日しょく/月しょく」とかではなく「そく」)
食甚が見える場合には食甚食分が「○分」「皆既」などとして表題部に記載される。なお、天保暦においては、食甚が見えない食であっても、出時食分が皆既のとき(食甚を過ぎて、皆既の終りまでの間に出る場合)、表題部に「皆既」と記載される。一方、なぜか入時食分が皆既のときは表題部に「皆既」は記載されないようだ。
  • 寛政暦 皆既入帯 天保八(1837)年三月月食「月帯そく とらの三刻左の上よりかけはじめうの二刻皆既て入」
  • 寛政暦 皆既出帯 天保十二(1841)年六月月食「月帯そく とりの八刻皆既て出いぬの七刻右の上におはる」
  • 天保暦 皆既入帯 弘化五(嘉永元 1848)年二月月食「月帯そく 今暁七時三分上と左の間よりかけはじめ明六時三分皆既て入」
  • 天保暦 皆既出帯 安政二(1855)年九月月食「月帯そく皆既 夕七時七分皆つきて出暮六時三分上と右の間におはる。西国にては六分余かけながら出」
  • 天保暦 皆既出帯 文久二(1862)年十月月食「月帯そく皆既 夕七時七分皆既て出暮六時六分上と右の間におはる」
食甚が見えない皆既出帯・皆既入帯は寛政暦・天保暦の期間中に上記の例がすべてなので、どこまで一般化していい話なのかわからないが。皆既出帯か皆既入帯かで扱いが変わるというより、1848年から1855年までの間で扱いを変えたということなのかも知れない。

表題部の食甚食分の表示方法

ここで、表題部の食甚食分の表示方法についても併せて述べる。
暦要項では、0(無食)~1(皆既) と、月/太陽の直径を 1 とする長さで食分が表記されていたが、頒暦での食分表示は、月/太陽の直径を 10 とする長さで「○分」と表記される。10 以上はすべて「皆既」と記載される。
食分は、0.5分単位で四捨五入される。3.75分以上4.25分未満は「四分」、4.25分以上4.75分未満は「四分半」といった感じである。
9.75分以上10分未満は「九分半余」、0.75分未満は「一分にみたず」と記載される。
  • 嘉永五(1852)年十一月日食「日そく九分半余 朝四時七分右の上よりかけはじめ昼九時五分甚しく八時三分左の上におはる」
  • 嘉永七(安政元 1854)年九月月食「月帯そく一分にみたず 翌明六時右の上よりかけはじめ六時二分甚しく六時三分かけながら入。西国にては復して入べし」
ここで述べているのは、表題部の食甚食分の表示だが、出入時の食分の表示形式はまた異なるところもあるので、それはその時に。

この食分の表示単位「分」は、全体を 10 とするうちの 1 を意味する単位であるから、「ぶ」と読みたくなるところだが、どうやら「ふん」らしい。暦法書では「日食分秒」「月食分秒」などと記載されている数値であり、「秒」の上位単位ならば「ふん」であろう。また、貞享暦の初期、「ふん」とかな書きされている。
  • 貞享五(元禄元 1688)年三月月食「月そく六ふん うしの時よりあくるあさまで東南方より初西南方に復」
一方で、明治十四年以降の本暦において、それまでは0.5分単位で四捨五入表示されていた食分が、0.1分単位で四捨五入表示されるようになり、そこでは「○分○厘」と記載されている。「厘」の上位単位ならば、それは「ぶ」であろう。
  • 明治十四(1881)年12月6日月食「月食九分七厘 午前〇時四十七分上ノ左ヨリ虧ハジメ二時二十七分右ノ上ニ甚シク四時八分右ト下ノ間ニヲハル」
    • これを見ると、明治で新暦になっても、日月食記事は、江戸頒暦の時と基本的には同じフォーマットで記載されていることがわかる。明治二十年以降、現在の暦要項と同じく、表形式になったが、それでも、食分や位置角の表示形式は相変わらずだった。
幕府天文方は「ふん」のつもりで書いていたかもしれないが、世間じゃみんな「ぶ」と読んでいたんじゃなかろうか。そして、明治期にその世間の認識に合わせて記載するようになったのではないかと想像する。

初虧・食甚・復円文言

[初虧文言] (初虧時刻) (初虧位置角) よりかけはじめ
[食甚文言] (食甚時刻) [(食甚位置角) に] 甚しく
[復円文言] (復円時刻) (復円位置角) におはる

それぞれ、時刻と位置角が記載される。皆既食の場合は食甚位置角が記載されず、単に「(食甚時刻) 甚しく」と記載される。皆既のときでも、食甚位置角は定義可能・計算可能で暦要項では記載しているが、見た目としては全部かけていて「かけている方向」というのがあるわけではないから頒暦では記載されていない。

また、初虧位置角と食甚位置角が記載上同一になる場合・食甚位置角と復円位置角が記載上同一になる場合(非常に浅い食の場合、そういうことが起こりやすい)は、後ろの方の位置角は記載が省略される。
  • 嘉永七(安政元 1854)年九月月食「月帯そく一分にみたず 翌明六時右の上よりかけはじめ六時二分甚しく六時三分かけながら入。西国にては復して入べし」
先ほど、「一分にみたず」の例としてあげたものだが食甚位置角が表記されていない。「翌明六時右の上よりかけはじめ、六時二分右の上に甚しく」となるべきところなのだが、初虧位置角「右の上」と食甚位置角が同一なので記載が省略されているのだ。

なお、「甚しく」の読みは「はなはだしく」と思われる。そして、どうでもよいが「終わる」の歴史的仮名遣いは「をはる」である。

位置角表示

天頂方向を「上」として、十六方位(22.5° を単位として四捨五入)で表記される。暦要項での位置角(天頂方向を 0° として、反時計回り)と対照して記載すると下記のとおりである。

位置角 文言
上の方
22.5° 上の左
45° 上と左の間
67.5° 左の上
90° 左の方
112.5° 左の下
135° 左と下の間
157.5° 下の左
位置角 文言
180° 下の方
202.5° 下の右
225° 右と下の間
247.5° 右の下
270° 右の方
292.5° 右の上
315° 上と右の間
337.5° 上の右
ただし寛政暦の初期(享和二(1802)年ぐらいまで?)は、22.5°単位で四捨五入ではなく、下記のように(縦横斜め八方位は 20°幅、その他八方位は 25°幅) した方が頒暦の表示に合うように思われるが、そのように計算した証拠はない。
位置角 文言
350~10° 上の方
10~35° 上の左
35~55° 上と左の間
55~80° 左の上
80~100° 左の方
100~125° 左の下
125~145° 左と下の間
145~170° 下の左
位置角 文言
170~190° 下の方
190~215° 下の右
215~235° 右と下の間
235~260° 右の下
260~280° 右の方
280~305° 右の上
305~325° 上と右の間
325~350° 上の右

寛政暦、文政七(1824)年六月日食で、食甚位置角が記載されていない(記載されていれば「上と左の間に」であったはず)。
  • 文政七(1824)年六月日食「日そく八分半 うの五刻上の右よりかけはじめたつの一刻[×上と左の間に]甚しくたつの五刻左と下の間におはる」
孤例なのでなんとも言えないが、理由を想像するに、日輪半径と月輪半径がほぼ等しいので、日食では「皆既ではないが皆既に近い」食では太陽中心と月中心とが非常に近い位置にある。
  • 月食では月半径より地球影半径の方がずっと大きいので、「皆既ではないが皆既に近い」食では地球影中心と月中心との間は、そこそこ距離がある。
太陽中心と月中心とが非常に近い位置にあるということは、わずかな計算のずれで位置角が大きく違ってくるということである。寛政十二(1800)年四月日食、享和二(1802)年八月日食は、九分の日食となっており、かなり皆既に近い食であった。もしかして、ここで食甚位置角の予報を外したのではないだろうか。
そして、その後、皆既ではない大きい日食では食甚位置角を記載しない方が無難だということで、記載をやめてしまったのではないだろうか。
  • 皆既食の場合は、そもそも食甚位置角を記載しない。
なお、貞享暦・宝暦暦では簡易な位置角表記をしていたが、日食八分以上では食甚位置角を表記しなかった。それに倣えば、八分以上では表記しなかったのではないだろうか。

出入文言・出入時食分

[出文言] (出時刻) {(出時食分) かけながら | 皆既て} 出
[入文言] (入時刻) {(入時食分) かけながら | 皆既て} 入

皆つきて
出入時食分は、食甚食分とは記載形式がやや異なっている。
食甚食分は、0.5分単位で四捨五入されていたが、1分単位で四捨五入する。ただし、四捨五入で切り捨てて「○分」にしたときは「○分強」の意味で「○分余」と記載し、四捨五入で切り上げて「○分」としたときは、「○分弱」の意味で「○分ばかり」と記載する。つまり、たとえば、3.5分以上4.0分未満のときは「四分ばかり」、4.0分以上4.5分未満のときは「四分余」とする。
結局、食甚食分と同様 0.5 分単位の記載とはなっているのだが、切れ目が食甚食分と異なっている (※)。
9.5分以上10分未満は実例がないのでどう記載するべきものなのかわからない。「十分ばかり」と書くのは変なので「九分半余」が適切だろうか。
10分以上は「皆既て」。なお、「皆既て」は、おそらく「みなつきて」と読む。安政二(1855)年九月月食で、なぜか「皆つきて」と仮名表記(変体仮名で「徒きて」)で記載されている例がある。
  • (※) 2020/08/23 追記: 天保暦については上記に記載したとおりなのだが、寛政暦については、出入時食分の切れ目を食甚食分と同じにした方が頒暦記載との一致度が高いことに気が付いた。つまり、3.75分以上4.25分未満を「四分ばかり」、4.25分以上4.75分未満を「四分余」とする。「四分余」は「四分半ばかり」の意味とするのである。

「ばかり/余」の使い分けが徹底されず、「余」とすべきところ「ばかり」としている例が散見されるのはご愛敬か。
  • 文化四(1807)年10月月食「月帯そく二分半 とりの初刻二分ばかりかけながら出とりの一刻右と下の間に甚しくとりの五刻右の下におはる」(出食分: 2.14分)
  • 天保十三(1842)年六月月食「月帯そく三分 いぬの初刻二分ばかりかけながら出いぬの二刻下の右に甚しくいぬの七刻右の下におはる」(出食分: 2.19分)
  • 嘉永三(1850)年七月日食「日帯そく 六時二分二分ばかりかけながら出六時四分下の右におはる東国にてハ深く西国にてハ見へがたかるべし」(出食分: 2.21分)
  • 嘉永七(安政元 1854)年五月日食「日帯そく 明六時二分二分ばかりかけながら出六時四分下の方におはる東国にてハ深く西国にてハ見へがたかるべし」(出食分: 2.26分)
  • 安政五(1858)年正月月食「月帯そく 明六時一分左の下よりかけはじめ六時三分二分ばかりかけながら入東国にてハ浅く西国にてハ深かるべし」(入食分: 2.15分)
書き並べてみると、全部「二分余」を「二分ばかり」とした例。なんか理由があるんだろうか。

「わづかに」

出入食分 0.5分未満については、
  • 文化十三(1816)年十月月食「月帯そく七分 翌とらの五刻上と左の間よりかけはじめうの三刻左の下に甚しくたつの初刻わづかにかけながら入」
とあって、「わづかに」と記載したものと思われる。しかし、下記の天保暦の例では(この食の例を出すのは三回目だが)「わづかに」は記載されず、単に「(入時刻) かけながら入」と記載されている。
  • 嘉永七(安政元 1854)年九月月食「月帯そく一分にみたず 翌明六時右の上よりかけはじめ六時二分甚しく六時三分かけながら入。西国にては復して入べし」
これも、入時食分は 0.49分なので「六時三分わづかにかけながら入」となっていてもよさそうな例なのだが、この例では、まったく入時食分が表記されていない。

どうやら、「食甚が見える食で、食甚食分と入時食分が等しいと見なされる場合、入時食分の記載は省略される」というルールがあったように見受けられ、食甚食分「一分にみたず (0.75分未満)」と入時食分「わづかに (0.5分未満)」は等しいと見なされたように思われる。寛政暦・天保暦では、ex. 食甚食分「四分(3.75~4.25分)」や「四分半(4.25~4.75分)」と、入時食分「四分ばかり(3.5~4.0分)」「四分余(4.0~4.5分)」は、端数処理の切れ目が異なるためか「等しいと見なされない」(※)。寛政暦・天保暦で、「食甚食分と入時食分が等しいと見なされる」のは、「一分にみたず/わづかに」のケースと「皆既/皆既て」のケースのようだ。「皆既/皆既て」の例は、寛政暦の例だが、
  • 天保四(1833)年十一月月食「月帯そく皆既 翌とらの七刻上の左よりかけはじめうの六刻甚しくたつの一刻月入。西国にては八分余かけながら入」
とあり、「たつの一刻皆既て入」であるはずのものだが、食甚食分が「皆既」なので「皆既て」は省略されるが、「たつの一刻入」ではなく「たつの一刻月入」と記載されるようだ。
  • (※) 貞享暦・宝暦暦あたりでは、出入時食分も、食甚食分と同じ切れ目で端数処理していたので、「等しいと見なされる」ケースがある。
また、食甚が見えない食でも「わづかに」は記載されないようだ。食甚が見えない食で、出入時食分が一分(?)未満の時、末尾に「見へがたかるべし」と記載される。「見へがたかるべし」の記載があるとき、いちいち「わづかに」というのも冗長と思われたようで、単に「かけながら出」「かけながら入」としたようである。実例としては、寛政暦で、かつ、京都ではなく西国の例だが、
  • 天保九(1838)年八月月食「月帯そく 京都にては見へず。西国にてはうの六刻上の方よりかけはじめほどなくかけながら入。見へがたかるべし」
なお、「見へがたかるべし」の基準は一分未満なので、0.5分以上1分未満のとき「一分ばかりかけながら入。見へがたかるべし」となることはある。

以上のような感じで、実のところ「わづかに」は文化十三(1816)年十月月食の一例しか記載例がない(※)。上記のようなルールで記載されるされないが決まっているのではなく、単に文化十三(1816)年十月月食で例外的に記載されているだけなのかも知れない。
  • (※) 貞享暦・宝暦暦に話を広げれば、貞享暦でもう一例だけある。享保十(1725)年九月日食「日帯そく一分半 とりの初刻北の方よりかけはじめとりの二刻甚とりの三刻わづかにかけながら入。見へがたかるべき蝕」とある。私の計算では、入時食分は 1.03分で、貞享暦では食分は分単位切捨なので「一分ばかりかけながら入」となりそうな例であるが。もしかしたら、なんらかの計算誤差で1分より小さい食分となり、その場合「わづかに」と記載されるのかも知れない。ほかに例のない孤例なのでなんとも言えないところ。

日月食が配当される日

日月食記事が配当される日について、ここで述べる。
日食記事が配当される日については、特に論点はない。日食記事が記載されるのは太陽が見えている時(日の出~日の入り)であり、日食が起こる日に日食記事が記載されるというだけである。
月食記事は、満月が見えている時、すなわち夜であり、夜半0:00をまたがるので、どっちの日に配当するのか問題が起こる。

貞享暦・宝暦暦初期までは、夜半24:00以降の夜間の月食であっても「常に前日に配当」であった。
宝暦暦後期、天明六(1786)年あたりからルールが変わり、「日の出~翌日日の出までを一日として、月の望が所属する日」となったようである。旧ルールでないと配当日が合わない最後の例が天明三(1783)年二月月食、新ルールでないと合わない最初の例が天明六(1786)年十一月月食。
旧ルールと新ルールとで差が出るのは、日の出/月の入りのちょい前にかけはじめ、そのまま日の出/月の入りとなり、その後、月望/食甚となるようなケースで、旧ルールでは前日、新ルールでは当日に月食が配当されることになる。

旧ルールの方が、「某日の月食」は必ず「某日の日の入り/月の出から、その翌朝の日の出/月の入りまでの間におこった月食」を意味し、わかりやすい。
新ルールだと、「某日の月食」は、「某日夕方の日の入り/月の出から、その翌朝の日の出/月の入りまでの間におこった月食」だけでなく、「某日早朝の日の出/月の入りちょい前にかけ始め、食甚を見ることなく月の入りを迎えた月食」もありうることになり、正直、わかりやすいとは思えない。

じゃあ、なんでそんなルールに変更したのかを想像するに、宣明暦の頃からあったルールで「退弦望」というのがある。頒暦(仮名暦)では月の朔弦望は注されないが、具注暦などでは記載される。そして、上弦・望・下弦の時刻が、夜半0:00以降、日の出前の場合、前日に注する(その場合、「上弦」「望」「下弦」ではなく「退上弦」「退望」「退下弦」と記載される)。
つまり、具注暦で望が記載される日と、月食記事が記載される日が同一日になるようにした、ということではなかろうか。
たしかに、月食は満月のとき起こるものであるから、月食と満月とが別の日に記載されると気持ち悪いと言えば気持ち悪い。頒暦(仮名暦)では朔弦望が記載されないため、デメリットしか感じられないルール変更だが、具注暦も含めて考えれば意味のある変更だったのだろう。

日月食が記載される条件

寛政暦・天保暦においては「京都・西国(長崎)・東国(江戸)のいずれかの場所において、日月食が発生し日月が地平線より上にあって観測可能なこと」が条件である。
貞享暦・宝暦暦では、京都で発生・観測可能な食以外は記載されなかったし、「小さい食は記載しない」などとしていた時もあったが、寛政暦・天保暦ではどんなに小さい食であっても記載される。

ただし、唯一、文化二(1805)年十一月、京都・東国では見えず西国では入時食分が 0.37分の食甚が見えない月入帯食が記載されていない。
  • 記載されていれば、「月帯そく 京都にては見へず。西国にては、たつの初刻上の左よりかけはじめ(ほどなく)かけながら入。見へがたかるべし」のような感じだったはず
天保八(1837)年九月月食は、同様に京都・東国では見えず西国では食甚が見えない月入帯食で、文化二年十一月月食の 0.37分より小さい 0.05分の入時食分だったのだが、「月帯そく 京都にては見へず。西国にては、うの六刻上の方よりかけはじめほどなくかけながら入。見へがたかるべし」と記載されている。
文化二(1805)年十一月後、京都では見えず東国・西国では見える食の初例は、文政十(1827)年四月月食でありそれは記載されているので、文化二(1805)年から文政十(1827)年までの間に、京都では見えず西国/東国のみで見える食でも記載するようルール変更があったのかも知れない。

日月食の時刻表示(定時法)

基本的には、節気・土用の辰刻表示と同じものだが、「今暁」「今夜」などのプレフィックスはつけない。
ただし、宝暦暦末期以降、月食の配当日ルールが変更されたのに伴い、日の出前あたりの時刻については、「今夜夜半24:00を過ぎ、翌朝の日の出前の時間」のケースと、「今朝の日の出前の時間」のケースが生じることになり、「今夜夜半24:00を過ぎ、翌朝の日の出前の時間」のケースは「翌」をつけたようだ。
具体的には、寅卯時について、「翌とらの○刻」「翌うの○刻」と記載する。
「今朝の日の出前の時間」のケースは、何もつけず、単に「とらの○刻」「うの○刻」と記載する。

日月食の時刻表示(不定時法)

節気・土用では、「今暁九~七時」「明六時」「朝五~四時」、「昼九~八時」、「夕七時」、「暮六時」、「夜五~四時」と、「今暁」などのプレフィックスをつけていた。なにかつけないと「九時」といっても夜半の九時だか昼の九時だかわからないからであるが、日月食の場合、そんなこともない。日食であれば昼の九時でしかありえず、月食であれば夜半の九時でしかありえない。なので、プレフィックスは省略しようかという気にもなってくる。

不定時法において、日の出は明六時の約2.5刻後、日の入りは暮六時の約2.5刻前であるから、大体、日の出は明六時三分あたり、日の入りは夕七時七分あたりになる。
日食は、明六時三分~夕七時七分におこることになり、プレフィックスをまったくつけなくても多義性は発生しない(暦を読む人が誤解しないかどうかはまた別の問題だが)。
月食は、夕七時七分~翌日の明六時三分におこることになる。また、当日朝の明六時三分よりちょい前(今暁七時~明六時三分ぐらい?)でもありうるから、七時・六時は、今朝の今暁七時・明六時のケースと、夕七時・暮六時のケースと、翌朝の今暁七時・明六時のケースと三つの可能性がある。その他の時間については多義性がない。

初期、嘉永四(1851)年あたりまでは、プレフィックスの付加は最小限だったようだ。
日食では全く付加されない。月食では、
今暁七時 明六時 夕七時 暮六時 夜五時 夜四時 翌日の
今暁九時
翌日の
今暁八時
翌日の
今暁七時
翌日の
明六時
今暁七時 明六時 夕七時 ? ? 四時 九時 八時 七時 ?
「?」は実例がないので、わからないところ。
ただし、直前の時刻と同一時だとプレフィックスをつけない。たとえば、明六時→明六時二分の場合、どちらも六時なので後者は単に「六時二分」とする。

嘉永五(1852)年以降は、「食記事ひとつめの時刻はすべてプレフィックスを付加。ふたつめ以降の時刻については多義性のあるものなど付けたほうがいいものだけ付加」としていたようだ。直前の時刻と同一時だとプレフィックスをつけないのは同様。

日食の場合は、食記事ひとつめの時刻のプレフィックスは、すべて節気・土用のものと同様。ふたつめ以降の時刻では、午前→午後の変わり目の昼九時だけプレフィックスをつけたようである。

月食の場合は、食記事ひとつめ、ふたつめ以降それぞれ、下記のようであった。
# 今暁七時 明六時 夕七時 暮六時 夜五時 夜四時 翌日の
今暁九時
翌日の
今暁八時
翌日の
今暁七時
翌日の
明六時
ひとつめ ? 明六時 夕七時 ? 夜五時 夜四時 翌暁九時 ? 翌暁七時 翌明六時
ふたつめ以降 ? 暮六時 夜五時 四時 九時 八時 七時 明六時

なんとなく、嘉永四(1851)年以前のプレフィックス付加対象の「時」と、嘉永五(1852)年以降のふたつめでもプレフィックス付加する対象の「時」は似ている気がするので、マージして、さらに想像がつくところは補充して記載すると、
# 今暁七時 明六時 夕七時 暮六時 夜五時 夜四時 翌日の
今暁九時
翌日の
今暁八時
翌日の
今暁七時
翌日の
明六時
全部付加
(1852以降のひとつめ)
今暁七時 明六時 夕七時 暮六時 夜五時 夜四時 翌暁九時 翌暁八時 翌暁七時 翌明六時
要所のみ付加
(1851以前)
(1852以降のふたつめ以降)
今暁七時 明六時 夕七時 暮六時 夜五時 四時 九時 八時 七時 明六時
上表のような感じということでいいかなと思われる。

なお、節気・土用で、夜四時9.5分以降を四捨五入で切り上げると、翌日の今暁九時となり節気・土用の日付が変わってしまうため、切り捨てて「夜四時九分」にするということがあった。月食の場合、夜半24:00は別に配当日の閾値ではないので、夜四時9.5分以降であっても切り上げたようだ。その場合、「翌暁九時」ではなく「夜九時」としたらしい。
  • 嘉永七(1854)年四月月食「月そく二分半 夜九時下の方よりかけはじめ九時六分甚しく八時二分下の右におはる」

初虧時刻は夜四時9.64分ごろであり、これを「夜九時」(「翌暁九時」ではなく)に切り上げている。

位置角や食分が前後で記載上同一(または「同一と見做される」)場合、後者を省略するという例があったが、時刻についても同じような話があり、前後で記載上同一の場合、後者は「ほどなく」と記載される。天保暦では実例がないが、寛政暦での実例は下記のとおり。
  • 文化十(1813)年正月月食「月帯そく六分半 とりの二刻六分余かけながら出ほどなく右の下に甚しくいぬの初刻右の上におはる」
  • 天保三(1832)年閏十一月月食「帯そく四分半 さるの八刻四分余かけながら出ほどなく上と左の 間に甚しくとりの四刻上の左におはる」
  • 天保五(1834)年五月月食「月帯そく 京都にては見へず。東国にては、いぬの一刻一分余かけながら出ほどなく上の右におはる」
  • 天保八(1837)年九月月食「月帯そく 京都にては見へず。西国にては、うの六刻上の方よりかけはじめほどなくかけながら入。見へがたかるべし」
出時刻と食甚時刻が同一で、皆既食であるなどして食甚位置角も記載されない場合、食甚文言は情報量がなくなってしまうので、食甚文言自体記載されない。
  • 文化五(1803)年九月月食「月帯そく皆既 とりの一刻皆既て出いぬの一刻上と右の間におはる」
表題部に食甚食分「皆既」が記載されていることからわかるように食甚が見える出帯食なのだが、食甚文言が記載されていない。「ほどなく甚しく」と記載されるところなのだが、時刻は「ほどなく」、皆既食で食甚位置角も表示されないので、食甚文言自体が記載されていない。

地方食の表示

頒暦では、基本的に京都での食が記載されるが、京都と地方(西国=長崎、東国=江戸)とで食の見え方が異なるとき、それが注記される。すでに頒暦上の実例をあげるなかで何か所か出てきた。

月食は、基本的には地球上のどこからでも同じ月を見ているのだから同じ食が起きる。(地方時によって、その時刻を何時と呼ぶかは別として)同時にかけはじめ、同程度の食分となり、同時にかけおわる。ただし、その月が地平線上にあって見えるのか地平線下にあって見えないのかは場所によって異なる。つまり、食が見えるかどうか、また、帯食の状況が場所によって異なるのだ。

一方、日食はもう少し複雑で、日食というのは地球面上に月の影が落ちる現象なのだが、地球上にいる人は地球面上に落ちた月の影そのものを見ることは出来ないので、実際、自分が影のなかに入らないと「日食が起きた」ということにならない。そして、地球上の場所によって、影のなかに入るのか入らないのか、いつ影の中に入っていつ出るのかも違うし、影の中心部にいるか縁の方にいるかで食分も異なる。……ということにはなるのだが、京都・長崎・江戸は地球全体から見ればご近所同士なので大きく日食の見え方が異なるわけでもなく、頒暦上では月食と同様に帯食の状況等の相違を記載されるだけである。

下記の表で、地方食表示についてまとめる。
下記で「見甚出/入帯」「不甚出/入帯」は、それぞれ、食甚が見える出/入帯食、食甚が見えない出/入帯食を意味し、「(皆既)」は出入時食分が皆既であるもの、「(小食)」は出入時食分が一分未満であるものをいうとする。

表上、オレンジのものは、地方側(横軸)を西国として判定し、水色のものは東国として判定する。

出帯 西国 / 東国
通常食 見甚出帯 見甚出帯
(皆既)
不甚出帯
(皆既)
不甚出帯 不甚出帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚出帯 F - C D
見甚出帯(皆既) E2 - - E1
不甚出帯(皆既) - -
不甚出帯 G H
不甚出帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -

入帯 西国 / 東国
通常食 見甚入帯 見甚入帯
(皆既)
不甚入帯
(皆既)
不甚入帯 不甚入帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚入帯 F - C D
見甚入帯(皆既) E2 - - E1 
不甚入帯(皆既) - -
不甚入帯 G H
不甚入帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -

分類 記載文言 寛政暦実例 天保暦実例
出帯A 西国にてはかけながら出べし ×1828/九月日食 1859/正月月食
出帯B 西国にては見へがたかるべし 1823/六月日食 -
出帯C ? 西国にては皆既て出べし ? - -
出帯D 西国にては甚しきを見ざるべし ×1807/十月月食
×1813/正月月食
×1831/七月月食
×1832/閏十一月月食
1869/七月日食
出帯E1 西国にては[出時食分]かけながら出 - 1855/九月食
出帯E2 東国にては[出時食分]かけながら出 - -
出帯F 東国にては出てかけはじむべし - 1861/十一月月食
1873/四月月食
出帯G 東国にては深く西国にては浅かるべし 1839/八月日食 1856/三月月食
1867/二月月食
出帯H [東国にては深く]西国にては見へがたかるべし 1801/八月月食 1850/七月日食
1854/五月日食
出帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
東国にては[食〇分]……
1827/四月月食
1834/五月月食
1851/十二月月食
入帯A 東国にてはかけながら入べし ×1798/四月月食
1815/五月月食
-
入帯B 東国にては見へがたかるべし - -
入帯C ? 東国にては皆既て入べし ? - -
入帯D 西国にては[入時食分]かけながら入べし - 1850/正月日食
入帯E1 東国にては[出時食分]かけながら入 - -
入帯E2 西国にては[出時食分]かけながら入 1833/十一月月食 -
入帯F 西国にては復して入べし ×1803/十二月月食
×1816/十月月食
×1818/四月日食
1854/九月月食
入帯G [食分]東国にては浅く西国にては深かるべし 1805/六月月食 1847/二月月食
1858/正月月食
入帯H 食分西国にては深く東国にては見へがたかるべし 1814/十一月月食 -
入帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
西国にては[食〇分]……
×1805/十一月月食
1830/七月月食
1837/九月月食
1844/十月月食
1857/八月日食
1868/七月日食
どうでもいいことだが、毎度ながら一応指摘しておく。「見へず」「見へがたかるべし」等は、歴史的仮名遣いでは「見えず」「見えがたかるべし」である。

実例がないものもあるが、適宜、推定してこの表を作成している。特に パターン C は、出帯も入帯もまったく実例がないので、まったくの想像で「西国/東国にては皆既て出/入べし」とした。

寛政暦実例・天保暦実例で「×」と記載されているのは、記載条件は合致するので記載されてしかるべきだが、実際は地方食表示がされていないものである。

寛政暦の当初二年(寛政十(1798)~十一(1799)年)は、宝暦暦フォーマットで記載されているので、この寛政暦・天保暦フォーマットの地方食表示は全く記載されていない。

寛政暦では、D, F は記載されなかったようだ。

1828/九月日食で、出帯A「西国にてはかけながら出べし」が記載されていない。一応、私の計算では長崎の出帯食分は 0.1分(食甚が見える出帯)で、非常に小さいながら出帯ではあるのだが、ほとんど通常食に近い食。小さすぎる出帯だから通常食扱いしたのか、あるいは、彼らの計算では通常食だったのかも知れない。実は、寛政暦で江戸・長崎の経緯度は暦法上明記されておらず、私の方では推定して計算しているのだが、その推定が間違っているのかも。

I について、前述「日月食が記載される条件」でも述べたが、文化二(1805)年十一月月食では記載されていない(I が記載されないということは、そもそも日月食記事自体が発生しない)
I の記載フォーマットだが、まず西国・東国で計算した日月食記事文言を作成して、表題部はそのままに、表題部以外の文言の先頭に「京都にては見へず西国/東国にては」を加えたものである。なお、表題部に表示すべき食甚食分がある場合は、「京都にては見へず西国/東国にては食[食甚食分]」としたようだ。これに該当する唯一の例として、
  • 安政四(1857)年八月日食「日そく 京都にては見へず。西国にては食一分にみたず昼九時九分下の右よりかけはじめ八時一分下の方に甚しく八時三分下の左におはる」
    • この例は、江戸・京都で無食(地平線下で見えないとかでなく日食自体が発生しない)、長崎で日食あり(帯食でない通常食)の例。月食ではこういうことは起きず、日食ならではである。
がある。「一分にみたず」が西国の食甚食分である。

I で表示される時刻は、西国(長崎)・東国(江戸)における地方時である。
文政十(1827)年四月月食の出帯I, 文政十三(天保元 1830)年七月月食の入帯I において、出入時刻が記載されていない。なぜか、このあたりまでは地方食での出入時刻は記載されなかったようだ。下記の [×○の○刻] が実際には記載されていない出入時刻である。
  • 文政十(1827)年四月月食「月帯そく 京都にては見へず。東国にては、[×とりの八刻]二分ばかりかけながら出いぬの初刻右の上におはる」
  • 文政十三(天保元 1830)年七月月食「月帯そく 京都にては見へず。西国にては、うの二刻上の左よりかけはじめ[×うの三刻]二分余かけながら入」
この理由をちょっと考えてみる。
寛政暦の日月食の算出方法について述べるところで書くべき話(書けるのはいつになることやら)に踏み込むが、
天保暦では、暦法書(新法暦書)に各地の経緯度が明記されており、京都の経緯度を (0°, 北緯35.01°) とし、江戸を (東経4°.068, 北緯35°.6756), 長崎を (西経5°.808333, 北緯32°.7756) としている(経度は京都を基準子午線とする)。
一方、寛政暦では暦法書上、江戸・長崎の経緯度が記載されていない。私の方では、(東国・西国の日月食情報はかなり限られているため、合っている自信はあまりないが)暦面の記載に合うように、寛政暦で用いられている江戸・長崎の経緯度を下記のように推定した。
  • 天保三(1832)年暦まで: 江戸 (東経3°.6, 北緯35°.01), 長崎 (西経6°,北緯35°.01)
  • 天保四(1833)年暦以降: 江戸 (東経4°.0, 北緯35°.6756), 長崎 (西経6°,北緯32°.7756)
つまり、天保三(1833)年までは、江戸・長崎と京都との緯度差は無視し(これにより地方食の計算がかなり簡略化できる)、京都との時差を、江戸: +1刻、長崎: -1.6667刻として計算したのではないかと考えた。
初虧・食甚・復円の地方時は、京都で計算した時刻に時差を加減すれば求まるのでまあいいが、出入時刻は緯度差まで考えないと正確な値とは言えない。なので、緯度差を無視しているのに、地方食の出入時刻を記載するのは気が引けた、ということではないだろうか。

G, H について、文言のアタマに「食分」がついたりつかなかったりする。概ね「寛政暦は食分がつく。天保暦はつかない」という感じにも思えるが、寛政暦天保十(1839)年八月日食では「食分」がつかず、天保暦弘化四(1847)年二月月食では「食分」がつく。寛政暦寛政十三(享和元 1801)年八月月食では、「東国にては深く」がつかず、「西国にては見へがたかるべし」とのみ記載されている。

入帯D「西国にては[入時食分]かけながら入べし」は、出帯D「西国にては甚しきを見ざるべし」から考えれば「東国にては甚しきを見ざるべし」が適切なように思うが、唯一の実例である嘉永三(1850)年正月日食でこう記載されているので、しょうがない。

金環食

詳しくは、日月食の暦算の説明のところで(実際にそこまで到達するのはいつになることやら)の説明となるが、貞享暦・宝暦暦では原理的に金環食は発生しない。
金環食は、日輪半径が月輪半径より大きいとき、月輪が日輪のなかにすっぽり入るときに起きるが、貞享暦・宝暦暦では日輪半径 = 月輪半径として計算しているので、金環食は起きようがないのだ。
  • そういう意味では皆既日食すら起きない。「日輪半径 = 月輪半径」の場合、太陽中心と月中心との間の距離が完全なゼロにならないと皆既日食にならないが、そんなことは起きないので皆既日食にはならないのだ。ただし、宝暦暦で食分を四捨五入切り上げして 10分となるときに、「皆既」とした例はある。

寛政暦・天保暦では、地球~月、地球~太陽の距離に応じて、月輪半径・日輪半径をちゃんと計算するようになったので、金環日食も起きうるようになった。
寛政暦では、暦法上、金環日食の取り扱いが明記されていないが、天保暦の新法暦書では明記されている。
  • 新法暦書巻四「推日食法」 / 推食甚考真時定真時及食分第十二 / 求食分
  • 如太陽視半径大於太陰視半径而、無定真時両心視相距、則、日月両心相合、為重心食。又、定真時両心視相距小於両径較(太陽視半径内減太陰視半径則得)、則日月両心不相合而、殆近于重心食。是俱金環食也。其食分在一十分以内亦為全食。
  • もし、太陽視半径、太陰視半径より大にして、定真時両心視相距なければ、則ち、日月両心、相合ひ、重心食と為す。又、定真時両心視相距、両径較(太陽視半径、太陰視半径を内減し、則ち得)より小なれば、則ち、日月両心、相合はずして、殆ど重心食に近し。是、ともに金環食なり。その食分、一十分以内に在って、また、全食と為す。
つまり、太陽視半径 > 月視半径 であり、太陽中心と月中心間の距離がゼロであるか、または、太陽中心と月中心間の距離 ≦ 太陽視半径 - 太陰視半径 であるときは金環食であり、食分を計算したとき十分未満とはなるが「全食」とするということである。
  • \[ \text{日食の食分} = {{\text{太陽の半径} + \text{月の半径} - \text{太陽中心と月中心の間の距離}} \over {2 × \text{太陽の半径}}} × 10_\text{分} \]
    であるが、太陽の半径 > 月の半径であるなら(太陽中心と月中心間の距離がマイナスということもないので)、分母が分子より小さくなることはない、つまり、食分 > 10分になることはないことがわかる。つまり、金環食では食分は 10分にならない。

が、寛政暦・天保暦において、金環食が発生することはなかった(また、皆既日食も起きなかった)。
惜しいところでは、寛政暦、寛政十二(1800)年四月日食は、京都では金環に満たず九分食であったが、江戸では金環日食であった。が、京都での食しか頒暦上表記はされないので、金環食の実例とはならなかった。
  • 寛政暦法で算出するとそうなるのだが、国立天文台暦計算室の日月食等データベースによれば、寛政十二(1800)年四月日食は、実際は江戸でもわずかに金環日食にはならなかったようだ。房総半島とかだと全域が中心食帯に入っているが。とはいえ、江戸でもリングの一部がわずかに途切れているぐらいのほぼ金環だったかと。
また、天保十(1839)年八月日食は、食甚が見えない出帯食だったが、食甚が見えていれば金環日食であったはず。京都でなく江戸なら金環の食甚が見えたはずだが、京都での食しか頒暦上表記はされないので、金環食の実例とはならなかった。

おそらく、江戸時代に京都で見えた金環日食は、享保十五(1730)年六月日食だけと思われる。寛政暦法・天保暦法で算出すると金環日食として算出されるが、当時の貞享暦法では、金環の予測は出来なかった。

今回は、寛政暦・天保暦の日月食記事だけでおなかいっぱいなので、貞享暦・宝暦暦の日月食記事については次回

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