2021年1月30日土曜日

頒暦日月食記事との突合(宝暦暦・修正宝暦暦)

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前回説明した宝暦暦・修正宝暦暦の日月食法に基づき、食を計算し、頒暦に掲載されている日月食記事との突合を行う。

貞享暦末期、宝暦三(1753)年暦から、時刻の刻数を四捨五入するようになっていたが、宝暦暦では食分も四捨五入するようになった。初期は整数単位の四捨五入、最終的には 0.5分単位の四捨五入となる。どうも、月食と日食とで 0.5分単位の四捨五入となった時期が異なるようで、月食では安永五(1776)年暦以降、日食では遅くとも明和四(1767)年暦には 0.5分単位となっていたようだ。ただし、「ここまでは整数単位、これ以降は0.5分単位」とすぱっと切り替わらず、整数単位になったり0.5分単位になったり。

四捨五入で切り上げた結果、10分となる場合、「皆既」となる。それを「皆既」とするのが妥当かどうかは疑問だが。

最大食分(食甚が見えれば食甚食分、見えなければ出入時食分)が 3分未満だと不記載になったようである。
しかしこれが、宝暦十三(1763)年九月日食において問題となった。宝暦暦法では 2.61分の予測であり不記載となったのだが、実際は 7分ほどの日食だった。 以降は、小さい食でも記載する方針に変わり、また、宝暦暦の暦法改訂が進められ、明和八(1771)年暦から適用となる(明和の修暦)。

食甚食分が小さい場合でも記載されるようになったことから、明和四(1767)年六月月食の 0.38分を「五十秒」、安永四(1775)年閏十二月日食の 0.19分を「一分にみたず」のように表記する例が見られるようになる。

また、直接関係するのかどうかわからないが、宝暦十三年九月日食問題以降、西国の出入時食分が記載されなくなる。唯一、西国の記載があるのが 天明九(寛政元 1789)年四月月食で、「西国にては見へがたかるべし」。西国の出入食分は記載されなかったが、京都で見える食が西国で見えないとき、それは注記されたようだ。

寛政七(1795)年暦から、出入時食分「○分半ばかり」を「○分余」と記載するようになる。なぜか日食では表題部の食甚食分についても「○分半」を「○分余」と記載していて奇妙。

月食が記載される日は、月出(=日入)~月入(=翌日の日出)までの期間に起こる食については、仮に夜半24:00過ぎの食であっても翌日ではなく当日に記載されていた。が、天明六(1786)年暦から、望/食甚が日出以降の場合、初虧が日出前であっても、前日の食ではなく、当日の食として記載されるようになった。
つまりは、天明五(1785)年暦までは「日出から翌日の日出までを一日とし、初虧時刻が所属する日に記載する」、天明六(1786)年暦以降は「日出から翌日の日出までを一日とし、定望/食甚時刻が所属する日に記載する」。

  • 定望時刻なのか食甚時刻なのかは、貞享暦・宝暦暦・修正宝暦暦においては原理的に同一時刻であるので問として意味をなさない。寛政暦・天保暦では定望時刻と食甚時刻は相違しうるが、両者の間に日出があって所属日が異なるような実例がないため、どちらか判断がつかない。

この結果、某日の月食というとき、某日の日入から翌日の日出までの間に起こる月食だけでなく、某日の日出直前あたりに欠けはじめる食甚の見えない食ということもありうるようになった。これにより寅卯時は、夜半24:00を過ぎた27:00~31:00のケースと、早朝 3:00~7:00のケースがありうるようになり、両者の区別をつけるために、27:00~31:00のケースの場合、「翌とらの○刻」「翌うの○刻」と表記される。

細かい話だが、食甚文言はもともと「甚」と記載されていたところ、宝暦十一(1761)あたりから「甚しく」になる。

 月食記事

年月日
頒暦の月食記事 突合結果
1755年
8月
15
月そく六分: とりの五刻東北の方よりかけはじめいぬの四刻北の方に甚いの二刻西北の方におはる 酉4.20出→酉5.29初→酉6.70西国出[0.67分]→戌4.49甚[6.46分]→亥2.31復, 東北→北→西北
  • 西国では出帯食だが、京都では通常食なので無視
1756年
12月
16
月帯そく: とりの一刻三分ばかりかけながら出とりの五刻西北の方におはる西国にては所見一分ばかり 未7.79初→申5.74甚[6.45分]→酉0.82出[3.30分, 西0.99分]→酉5.11復, 東北→北→西北
1757年
12月
15
月帯そく: とりの初刻六分ばかりかけながら出とりの四刻西の方におはる西国にては所見一分ばかり 未2.94初→申3.23甚[14.99分]→酉0.20出[5.78分, 西1.43分]→酉3.52復, 東→×→西
1758年
6月
16
月そく皆つくる: ねの八刻東の方よりかけはじめうしの七刻甚とらの五刻西の方におはる 子7.68初→丑6.55甚[11.98分]→寅5.43復, 東→×→西
  • 「皆既」ではなく「皆つくる」
1758年
12月
15
月帯そく: さるの八刻二分ばかりかけながら出とりの四刻南の方に甚いぬの一刻西南の方におはる西国にては所見五分ばかり 申4.71初→申8.03出[2.50分, 西4.89分]→酉3.73甚[6.35分]→戌1.36復, 東南→南→西南
  • 出時食分は 2.5022分であり、四捨五入なら「二分ばかり」でなく「三分ばかり」のはず。とはいえ、日入時刻の計算が多少違えば閾値を超えるぐらいの誤差であり、微妙
  • 食甚の見える帯食であり食甚文言もあるが、表題部に食甚食分の記載なし
1760年
10月
15
月帯そく: うの四刻東北の方よりかけはじめたつの初刻北の方に甚たつの三刻五分ばかりかけながら入べし西国にては所見三分ばかり 卯4.07初→辰0.11入[4.88分]→辰0.32甚[5.07分]→辰2.61西国入[2.92分]→辰6.54復, 東北→北→西北
  • 入時刻は「たつの初刻」のはずだが「たつの三刻」。日出時刻はもっとも遅い冬至であっても辰0.83刻以降にはなりえず、「たつの三刻」はおかしい。
    西国の入時刻(辰2.61刻)を誤記したものか。ただし、表示されている入時食分「五分」は、京都の入時食分 4.88分を表記しているようである。
  • 入時刻を「たつの三刻」としている結果、本来は食甚の見えない入帯食なのだが、食甚文言「たつの初刻北の方に甚」あり。ただし、なぜか表題部の食甚食分なし。
  • 「かけながら入」でなく「入べし」
1761年
10月
16
月食皆既: いぬの三刻東の方よりかけはじめいの二刻甚しくねの一刻西の方におはる 戌2.58初→亥1.84甚[14.39分]→子1.10復, 東→×→西
  • 「月そく」でなく「月食」
  • これ以降、「甚」でなく「甚しく」となる
1762年
9月
16
月帯そく七分: とらの四刻東南の方よりかけはじめうの三刻正南に甚しくうの七刻二分ばかりかけながら入べし西国にては復して入べし 寅3.55初→卯2.66甚[6.52分]→卯7.22入[2.13分]→辰0.43復→辰1.38西国入, 東南→南→西南
  • 「南の方に」でなく「正南に」
  • 「かけながら入」でなく「入べし」
1765年
正月
16
月そく皆既: いの一刻東の方よりかけはじめねの一刻甚しくうしの初刻西の方におはる 亥1.27初→子0.75甚[14.47分]→丑0.22復, 東→×→西
1765年
7月
14
月そく皆既: ねの三刻東の方よりかけはじめうしの二刻甚しくとらの二刻西の方におはる 子3.18初→丑2.41甚[14.95分]→寅1.63復, 東→×→西
1766年
正月
16
月そく五分: とらの一刻東北の方よりかけはじめとらの八刻北の方甚しくうの六刻西北の方におはる 寅0.93初→寅8.29甚[5.44分]→卯5.52復→卯6.13入[0.24分, 西0分], 東北→北→西北
  • 「北の方に甚しく」でなく「北の方甚しく」
  • 初虧復末時差の関係で、京都の月入は復末後だが 0.24分の入時食分
1767年
6月
16
月そく五十秒: うしの四刻北の方よりかけはじめうしの五刻甚しくうしの八刻西北の方におはる 丑4.53初→丑4.83甚[0.38分]→丑7.87復, 北→×→西北
  • 宝暦十三(1763)年九月日食を外した関係で、この年、明和四(1767)年暦より小食であっても掲載することになった。
    0.38分を「五十秒」、つまり、0.50分としている。分単位四捨五入なら 0分になるべきなのだろうが、半分単位四捨五入にしたようだ。
  • 初虧時刻丑4.53刻を「うしの五刻」でなく「うしの四刻」
1768年
11月
15
月そく皆既: ねの初刻東の方よりかけはじめねの八刻甚しくうしの七刻西の方におはる 子0.21初→子7.61甚[14.07分]→丑6.67復, 東→×→西
1769年
11月
16
月帯そく: さるの八刻五分半ばかりかけながら出とりの四刻西北の方におはる 申0.03初→申6.54甚[6.71分]→申7.61出[5.50分, 西2.69分]→酉3.63復, 東北→北→西北
  • 食甚食分 5.50分を「五分半」。この時期の月食食分は、分単位四捨五入しているようなので、であれば「六分」であるべき。
  • 西国についての記載なし。宝暦十三(1763)年九月日食問題と関係しているのか、これ以降、西国についての記載はほぼなくなる。
1771年
9月
16
月そく五分: ねの四刻東南の方よりかけはじめうしの一刻南の方に甚しくとらの初刻西南の方におはる 子4.43初→丑1.41甚[5.11分]→寅0.27復, 東南→南→西南
1772年
3月
15
月そく皆既: いの八刻東の方よりかけはじめねの七刻甚しくうしの五刻西の方におはる 亥7.66初→子6.58甚[13.89分]→丑5.495復, 東→×→西
1772年
9月
15
月そく皆既: ねの五刻東の方よりかけはじめうしの六刻甚しくとらの六刻西の方におはる 子5.23初→丑5.57甚[13.62分]→寅5.91復, 東→×→西
1773年
3月
16
月帯そく: とりの六刻四分ばかりかけながら出いぬの初刻西南の方におはる 申5.04初→酉3.26甚[6.70分]→酉5.38出[4.33分, 西1.54分]→戌0.38復, 東南→南→西南
  • 出時刻酉5.38刻を「とりの五刻」でなく「とりの六刻」
1773年
8月
14
月そく八分: うしの二刻東北の方よりかけはじめとらの一刻北の方に甚しくとらの八刻西北の方におはる 丑1.95初→寅1.22甚[7.65分]→寅8.16復, 東北→北→西北
1775年
正月
16
月そく七分: いの七刻東北の方よりかけはじめねの五刻北の方に甚しくうしの四刻西北の方におはる 亥6.60初→子4.72甚[6.72分]→丑4.12復, 東北→北→西北
1775年
閏12月
15
月そく皆既: いの二刻東の方よりかけはじめねの三刻甚しくうしの三刻西の方におはる 亥2.47初→子2.76甚[14.90分]→丑3.05復, 東→×→西
1776年
12月
14
月そく六分半: ねの四刻東南の方よりかけはじめうしの三刻南の方に甚しくとらの一刻西南の方におはる 子4.30初→丑3.37甚[6.59分]→寅1.15復, 東南→南→西南
  • 食甚食分6.59分を「六分半」。このあたりから0.50分単位四捨五入するようになったようだ。
1777年
6月
16
月そく三分: いぬの五刻東北の方よりかけはじめいの三刻北の方に甚しくいの六刻西北の方におはる 戌5.09初→亥2.68甚[3.01分]→亥6.26復, 東北→北→西北
1779年
10月
16
月そく皆既: とらの一刻東の方よりかけはじめうの初刻甚しくうの八刻西の方におはる 寅1.09初→卯0.33甚[13.88分]→卯7.91復, 東→×→西
1780年
4月
15
月帯そく九分: とりの八刻三分半かけながら出いぬの四刻北の方に甚しくいの三刻西北の方におはる 酉5.32初→酉8.19出[3.56分, 西6.66分]→戌4.19甚[8.92分]→亥3.05復, 東北→北→西北
  • 「三分半ばかりかけながら出」でなく「三分半かけながら出」
1782年
2月
16
月帯そく: とりの五刻二分半ばかりかけながら出とりの八刻西南の方におはる 申5.42初→酉1.86甚[5.32分]→酉4.67出[2.64分, 西0.25分]→酉8.23復, 東南→南→西南
1782年
8月
15
月そく四分半: いの六刻東北の方よりかけはじめねの二刻北の方に甚しくうしの一刻西北の方におはる 亥5.96初→子2.31甚[4.30分]→丑0.76復, 東北→北→西北
1783年
2月
16
月帯そく皆既: とらの七刻東の方よりかけはじめうの四刻皆既て入 寅6.96初→卯4.50入[皆既]→卯6.42甚[14.72分]→卯7.00西国入[皆既]→辰5.88復, 東→×→西
  • 食甚の見えない帯食だが、皆既入帯なので表題部に「皆既」と記載している
  • 17日の日出直前の食甚の見えない入帯食を 16日に記載。1786年11月月食からは前日でなく当日に記載するようになるが、前日に記載する末例
1784年
7月
15
月そく六分: いの五刻東南の方よりかけはじめねの三刻南の方に甚しくねの八刻西南の方におはる 亥5.13初→子3.17甚[5.749分]→子8.11復, 東南→南→西南
  • 食甚食分「五分半」であるべきところ「六分」。5.749分であり閾値ぎりぎりだが
1785年
12月
15
月そく五分: いぬの八刻東南の方よりかけはじめいの四刻南の方に甚しくねの三刻西南の方におはる 戌7.75初→亥4.42甚[4.95分]→子2.95復, 東南→南→西南
1786年
6月
16
月帯そく九分: いぬの初刻八分ばかりかけながら出いぬの一刻北の方に甚しくいの一刻西北の方におはる 酉2.22初→戌0.46出[8.24分]→戌1.38甚[9.39分]→戌0.46西国出[西7.40分]→亥0.53復, 東北→北→西北
  • 食甚食分9.39分であり、半分単位四捨五入なら「九分半」であるべき
1786年
11月
15
月帯そく: うの八刻東の方よりかけはじめたつの一刻一分半ばかりかけながら入 今暁卯8.18初→辰0.62入[1.56分, 西6.60分]→辰7.25甚[14.24分]→巳6.32復, 東→×→西
  • 15日の日出前の食甚が見えない月食を、14日ではなく15日に記載する初例
1787年
5月
15
月そく皆既: いの二刻東の方よりかけはじめねの二刻甚しくうしの二刻西の方におはる 亥2.11初→子2.01甚[10.97分]→丑1.90復, 東→×→西
1787年
11月
15
月そく七分: いの八刻東北の方よりかけはじめねの六刻北の方に甚しくうしの三刻西北の方におはる 亥7.55初→子5.73甚[6.87分]→丑2.90復, 東北→北→西北
1788年
5月
15
月そく二分: ねの初刻東南の方よりかけはじめねの六刻甚しくうしの初刻南の方におはる 子0.46初→子5.97甚[1.87分]→丑0.34復, 東南→×→南
1789年
4月
15
月帯そく: とりの八刻一分半ばかりかけながら出いぬの三刻西北の方におはる西国にては見へがたかるべし 酉1.32初→酉5.08甚[3.37分]→酉7.67出[1.57分, 西0分]→戌2.71復, 東北→北→西北
  • 宝暦十三年九月日食問題以降、西国について記載された唯一の例。
    初虧復末時差の関係で、西国では復末前の出だが出時食分ゼロであり「西国にては見へがたかるべし」と記載。
    おそらく、京都・西国の食分相違ぐらいでは記載せず見不見相違のみは記載したのではないか
1791年
3月
16
月そく七分半: ねの五刻東南の方よりかけはじめうしの三刻南の方に甚しくとらの一刻西南の方におはる 子5.10初→丑3.37甚[7.34分]→寅0.86復, 東南→南→西南
1793年
正月
16
月帯そく: うの六刻東北の方よりかけはじめ一分ばかりかけながら入見へがたかるべし 今暁卯5.64初→卯6.02入[1.01分, 西3.30分]→辰3.59甚[6.43分]→巳2.96復, 東北→北→西北
1793年
7月
15
月そく六分半: いの七刻東南の方よりかけはじめねの四刻南の方に甚しくうしの二刻西南の方におはる 亥7.20初→子4.08甚[6.36分]→丑2.17復, 東南→南→西南
1794年
正月
16
月帯そく: うの二刻東の方よりかけはじめうの七刻九分ばかりかけながら入 今暁卯1.58初→卯6.80入[9.10分, 西皆既]→辰1.85甚[14.66分]→巳2.12復, 東→×→西
1795年
6月
16
月帯そく四分: 翌とらの初刻東北の方よりかけはじめとらの七刻甚しくうの初刻二分余かけながら入 寅0.42初→寅6.88甚[3.96分]→卯0.48入[2.54分]→卯2.87復→卯2.98西国入[0.70分], 東北→北→西北
  • 食甚時方向角「北の方に」記載なし
  • 「二分半ばかり」と記載されていたものを「二分余」と記載するようになる
  • 「翌とら」と記載される初例
1796年
5月
15
月帯そく: いぬの一刻一分ばかりかけながら出いぬの六刻西南の方におはる見へがたかるべし 酉7.60初→戌0.79出[1.08分]→戌1.18甚[1.22分]→戌3.29西国出[0.47分]→戌6.10復, 南→×→西南
  • 食甚が見える帯食だが、表題部の食甚食分、食甚文言なし。入時と食甚時とで時刻「いぬの一刻」、食分「一分」が同じであるためか
1796年
11月
16
月そく四分半: いの七刻東北の方よりかけはじめねの三刻北の方に甚しくうしの初刻西北の方におはる 亥6.56初→子2.55甚[4.61分]→丑0.31復, 東北→北→西北
1797年
5月
15
月帯そく皆既: いぬの一刻二分余かけながら出いぬの七刻甚しくいの七刻西の方におはる 酉7.33初→戌0.67出[2.43分, 西6.03分]→戌6.96甚[10.36分]→亥6.59復, 東→×→西

 

 日食記事

年月日
頒暦の月食記事 突合結果
1755年
2月
1
日帯そく: うの五刻二分ばかりかけながら出うの六刻東南の方におはる西国にては見ゑがたかるべし 寅4.87初→卯2.04[7.71分]甚→卯4.91[3.68分, 西0.18分]出→卯7.54復, 西南→南→東南
  • 「うの五刻四分ばかりかけながら出うの八刻東南の方におはる西国にては見へがたかるべし」となるべきところ。
    貞享暦法で計算すると「寅3.61初→卯0.83[8.12分]甚→卯4.96[3.07分]出→卯6.38復→卯7.46西国出」となり、比較的合う。ただし、
    そうだとすると、出時食分「二分ばかり」が相違しており、また、食甚時 8分以上の大食だから「東の方におはる」であるべき。
  • 「三分未満は不掲載」基準なのだとすると不掲載であるべき
1757年
7月
1
×
寅6.14初→卯1.43[1.15分]出→卯1.73[1.28分]甚→卯3.43復→卯3.93[0.28分]西国出, 西北→×→北
  • 三分未満食であり不掲載
1760年
5月
1
日帯そく: とりの六刻西の方よりかけはじめいぬの一刻五分ばかりかけながら入べし西国にては所見七分ばかり 酉6.21初→戌0.72[5.05分]入→戌2.62[8.44分]甚→戌3.22[7.38分]西国入→戌7.37復, 西→×→東
  • 「かけながら入」でなく「入べし」
1763年
9月
1
×
巳1.91初→巳5.85[2.61分]甚→巳8.31復, 西南→×→南
  • 三分未満食であり不掲載。実際は七分ほどの食であり問題となって明和の修暦へとつながる。試みに、修正宝暦暦・寛政暦・天保暦の暦法で計算するとそれぞれ、6.21分、7.32分、7.28分の食である。
    以降は、小食であっても全て掲載されるようになる。
1767年
1月
1
日そく二分半: ひつじの八刻南の方よりかけはじめさるの二刻甚しくさるの六刻東南の方におはる 未8.12初→申2.35[2.71分]甚→申6.37復, 南→×→東南
1768年
12月
1
日そく二分半: みの八刻西北の方よりかけはじめむまの四刻甚しくむまの六刻北の方におはる 巳7.80初→午3.85[2.23分]甚→午6.40復, 西北→×→北
  • 食甚食分2.23分であり、「二分」であるべきところ「二分半」。閾値 2.25分近くではある
1770年
5月
1
日そく皆既: みの五刻西の方よりかけはじめむまの一刻甚しくむまの六刻東の方におはる 巳4.76初→午1.31[9.82分]甚→午6.20復, 西→×→東
  • 食甚食分9.82分を、四捨五入で切り上げて「皆既」とする
1773年
3月
1
日そく三分半: ひつじの八刻西北の方よりかけはじめさるの三刻北の方に甚しくさるの八刻東北の方におはる 未7.81初→申3.11[3.52分]甚→申8.11復, 西北→北→東北
1774年
8月
1
日そく五分: みの初刻西南の方よりかけはじめみの五刻南の方に甚しくむまの一刻東南の方におはる 巳0.13初→巳4.70[4.96分]甚→午1.16復, 西南→南→東南
1775年
8月
1
日そく七分: ひつじの三刻西北の方よりかけはじめひつじの八刻北の方に甚しくさるの五刻東北の方におはる 未2.82初→未8.25[6.80分]甚→申5.34復, 西北→北→東北
1775年
閏12月
1
日そく一分にみたず: むまの六刻北の方よりかけはじめむまの七刻甚しくむまの八刻東北の方におはる 午6.34初→午7.28[0.19分]甚→午8.22復, 北→×→東北
  • 食甚食分0.19分を「一分にみたず」と表記
1784年
7月
1
日そく二分: たつの二刻北の方よりかけはじめたつの五刻甚しくみの一刻東北の方におはる 辰1.87初→辰4.58[2.28分]甚→巳0.88復, 北→×→東北
  • 食甚食分2.28分を「二分半」でなく「二分」
1785年
7月
1
日そく六分: たつの七刻西南の方よりかけはじめみの四刻南の方に甚しくむまの一刻東南の方におはる 辰7.48初→巳4.32[6.33分]甚→午1.16復, 西南→南→東南
  • 食甚食分6.33分を「六分半」でなく「六分」
1786年
正月
1
日そく皆既: むまの一刻西の方よりかけはじめむまの六刻甚しくひつじの二刻東の方におはる 午0.63初→午5.71[9.96分]甚→未2.45復, 西→×→東
  • 食甚食分9.96分を、四捨五入で切り上げて「皆既」とする
1788年
5月
1
日帯そく: とりの八刻西南の方よりかけはじめいぬの一刻所見一分ばかりかけながら入見へがたかるべし 酉7.91初→戌0.54[1.24分, 西4.48分]入→戌3.99[5.71分]甚→亥0.06復, 西南→南→東南
  • 「一分ばかりかけながら入」を「所見一分ばかりかけながら入」
1789年
10月
1
日そく六分: みの八刻西南の方よりかけはじめむまの四刻南の方に甚しくひつじの一刻東南の方におはる 巳7.96初→午4.29[6.24分]甚→未0.61復, 西南→南→東南
1794年
12月
1
日そく九分余: たつの二刻西の方よりかけはじめたつの七刻甚しくみの四刻東の方におはる 辰0.02出→辰2.14初→辰2.52[0.68分]西国出→辰7.34[9.39分]甚→巳4.20復, 西→×→東
  • 食甚食分「九分半」を「九分余」
  • 西国では出帯食だが、京都で通常食なので無視
1795年
12月
1
日帯そく: さるの三刻西南の方よりかけはじめさるの八刻一分余かけながら入見へがたかるべし 申2.76初→申7.13[2.07分]甚→申7.87[1.62分]入→酉1.24復→酉2.04[0.10分]西国入, 西南→×→南
  • 食甚が見える入帯食だが、表題部の食甚食分・食甚文言なし
  • 食甚時二分、入時一分半で「見へがたかるべし」は不審。
1796年
6月
1
日そく七分余: うの初刻西南の方よりかけはじめうの五刻南の方に甚しくたつの一刻東南の方におはる 寅7.71出→卯0.27初→卯1.88[2.56分]西国出→卯4.90[7.39分]甚→辰1.19復, 西南→南→東南
  • 食甚食分「七分半」を「七分余」

貞享暦と比べて、かなり記載方針が固まってきて、頒暦記載の文言と、計算から予想される文言とが一致するようになってきた。


以上で、宝暦暦・修正宝暦暦の日月食法の説明、おわり。次回は、寛政暦の月食法について。


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