2021年1月9日土曜日

頒暦日月食記事との突合 (貞享暦初期)

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前回までのところで、貞享暦における日月食の暦算について説明してきたわけだが、そこで算出したものと、実際の頒暦に記載されている日月食記事との突合を行う。

貞享暦初期は、日月食記事の文言のフォーマットがまだ固まっていない、というかフリーフォーマットで書いているように思われ固めようという意思があるのかどうかもよくわからない。後半になると、だんだん記載フォーマットが固まってくる。

今回は、前半の記載フォーマットが固まっていない時期、貞享二(1685)年暦~正徳六(享保元 1716)年暦について。

後の時代の日月食記事は「初虧→食甚→復末」パターン、つまり、「○の○刻×の方よりかけはじめ、○の○刻×の方に甚しく、○の○刻×の方におはる」のように、初虧の時刻と方向角を書き、食甚の時刻と方向角を書き、復末の時刻と方向角を書く、という記載パターンとなる。

が、初期の日月食記事では「時刻→方向角」パターンが多い。戌の時に東からかけはじめ、亥の時に西にかけおわるとき、「いぬいの時東の方よりかけはじめ西の方におはる」のような形となる。
とはいえ、後のスタイルに近い「初虧→復末」パターン(「初虧→食甚→復末」パターンと基本的に同じだが食甚文言がない)も見られる。復末時刻が「明朝」の場合や、初虧~復末が三時辰以上にまたがるとき、このパターンになりやすい。また、食甚文言がある「初虧→食甚→復末」パターンもないわけではない。

時刻は、辰刻表示(ex. 「戌の二刻」)ではなく、時辰のみ(いぬの時)で表示されている。その際、初虧時刻が八刻、復末時刻が初刻であるとき、その時辰において食が起こっている時間がとても短いので、その場合、初虧時刻は次の時辰からかけはじめたことに、復末時刻は前の時辰にかけおわったことにしているようだ。例えば、辰八刻からかけはじめ、午初刻にかけおわるとき、辰八刻は巳時に、午初刻も巳時にして、時刻表示としては「みの時」となる。

また、月食記事において、時刻が晨分(夜明け。日出の2.5刻前)以降の場合、「明朝」「あくるあさ」「○日の朝」等と記載しているようだ。入帯食で月入時刻を「明朝」とするものもあるが、月食時の月入時刻(イコール日出時刻)が「明朝」なのは当たり前であって、それで時刻を表示したことになるのかは疑問。

基本は辰刻表示の時刻ではなく、時辰単位の時刻表示なのだが、なぜだか知らないがまれに辰刻表示も散見される。また、「寅の下刻」などの表現も見られる。寅時(3:00~5:00)の前半(寅初。3:00~4:00)を「寅の上刻」、後半(寅正。4:00~5:00)を「寅の下刻」としたものか。

食分は、基本的にすべて整数単位の切捨て。1分未満(切り捨てるとゼロになる)は不食扱い(不記載)のようだ。ただし、1分以上でも不記載となっているものもある。完全な切捨てでもないようで、「八捨九入」、つまり、端数が .90分以上なら切り上げているように思われる。

宝暦暦初期(宝暦十三(1763)年九月日食を不記載とする失態を犯す前)では「3 分未満は不記載」という内規があったらしいが、貞享暦では 3 分未満でも記載した例は見られる。

食分は、初期は「○ふん」とかな書き、元禄三(1690)年暦から「〇分」と漢字書きになる。皆既の場合、この時期は「皆つくる」と「既」がかな書きだった。

  • 言わずもがなだが、「つくる」は、「つきず、つきたり、つく、つくる時、つくれば、つきよ」と活用する上二段活用動詞の連体形である(というより、連体形と終止形が語形統合した終止連体形というべきか)。現代語でいうところの「尽きる」。

文言は、「○の○刻×の方よりかけはじめ」「○の○刻×の方に甚(※)」「○の○刻×の方におはる」「○の○刻◇分ばかりかけながら出」「○の○刻◇分ばかりかけながら入」のようなかたちに統一されるまで、いろいろ揺れている。

  • (※) 食甚文言の「に甚」は、さらに後には「に甚しく」となる

方向角の記載方法も、のちには「北の方」「西北の方」のように記載文言が固まるが、この時期では「正北」「北方」「きたの方」「西北方」「西北」「にしきたの方」「いぬいの方」などのように表記が揺れている。

帯食は、情報量がかなり貧弱なものが見られる。ほとんど「帯食があるんだなあ」程度しかわからないぐらいの。

出帯月食は「とりの時」、出帯日食は「うの時」から書き始める例が多い。夏冬の食だと月出(イコール日入)・日出は、必ずしも酉時、卯時ではないが、それでも「とりの時」「うの時」なので、単に出帯月食・出帯日食を意味する決まり文句だと考えた方がよさそう。

地方によって出入時刻がずれるので、帯食の見え方が異なりうる。「東国」「西国」での見え方に関する注記が散見されるが、おそらく、この時期においては特定の地域をイメージして記載しているものではないように思われる。
食甚の見えない出帯食(食の最後の方だけが見えている)のとき、「西国にては不見」とあるが、これは「十分に西に行けば、食がおわってから日月が出るので不見になる」、つまり、単に食甚の見えない出帯食であることを意味しているだけのようだ。
また、食甚が見える入帯食(食の最後の方だけが入後で見えない)のとき、「西国にては復して入べし」とあり、これも「十分に西に行けば、食がおわってから日月が沈むようになるので、入帯食ではない通常食になる」、つまり、食甚が見える入帯食であることを意味しているだけのようだ。

 

さて、では、貞享暦初期の頒暦記載の日月食記事と、計算結果とを比較してみよう。

計算結果で、
「丑0.46初→寅0.61甚[11.85分]→(寅5.01晨)→寅6.17復→寅7.51入[0.22分], 東→×→西」
などと記載しているのは、
「丑の0.46刻にかけはじめ、寅の0.61刻に食甚(食甚食分は 11.85分(皆既))、寅の5.01刻が晨分(夜明け)、寅の6.17刻にかけおわり、寅の7.51刻に月入(入時食分は 0.22分)。方向角は、初虧では東、食甚では "記載せず"、復末では西」
であることを意味する。

突合の結果を、

  • 赤字: 食分・時刻・方向角などの算出値が不一致のもの、または、不一致の懸念があるもの
  • 青字: 記載情報量に過不足があるもの
  • 黒字: 文言表記が不一致。その他コメント

で記した。ただし、黒字の「文言表記が不一致」は、この時期あまりにも多いので、目に付くポイントだけを記した。

頒暦記載の日月食記事において、表題部(「月そく」「日帯そく」等の文言と食甚食分を記載)と、ボディー部とをコロンで区切って表記した。享保三(1718)年暦あたりから「表題部は一行書きで大書、ボディー部は二行書き」になるのだが、実のところ、この時期はすべて一行書きなので、表題部とボディー部との違いははっきりしていないし、表題部とボディー部という概念があったのかどうかも定かではない。後の時代、表題部に書かれるような情報が書かれている部分を表題部としただけなので、あまり気にしないでおいていただきたい。

初期の月食記事

年月日
頒暦の月食記事 突合結果
1685年
5月
15
月そく皆つくる: うしの時東方より初明朝西方に復 丑0.46初→寅0.61甚[11.85分]→(寅5.01晨)→寅6.17復→寅7.51入[0.22分], 東→×→西
  • 復末(寅6刻)が晨分後なので、「明朝」と記載されている。
  • 初虧復末時差の関係で、復末後の月入なのに 0.22分の入時食分があるが、無視されて通常食扱い。
  • 別行の日月食記事ではなく、暦日記事の中下段に表示
1685年
11月
15
月帯そく: 寅の下刻より十六日の朝まで於東国未既於西国皆既にして入 寅7.07初→(卯6.60晨)→辰0.56甚[14.64分]→辰0.76入[皆既]→辰7.79復, 東→×→西
  • 寅7刻を「寅の下刻」と記載。二十四時制の時辰「寅正」(4:00-5:00) の意味か。
  • 終時刻を「十六日の朝」とするのは「明朝」と同義だと思われるが、入帯食の終時刻(月入時刻=日出時刻)を「明朝」として時刻を表示したことになるのかは疑問。
  • 表題部に甚食分「皆つくる」の記載なし。
  • 「於東国未既於西国皆既にして入」。
    京都では皆既入帯だが、東国・西国とは?「十分に東に行けば未既入帯になる」というだけのことを言っているのか。
  • 別行の日月食記事ではなく、暦日記事の中下段に表示
1686年
4月
16
月そく: 月の出うしとらの方より初いぬの時北方八分いの時いぬいの方に復 酉8.04初→戌0.66出[0分]→戌7.66甚[7.98分]→亥4.20復, 東北→北→西北
  • 初虧復末時差の関係で、初虧後の月出だが、出時食分なし。その関係か、帯食扱されていないが、始時刻を「月の出」としている。
  • この時期では異例だが、食甚文言「いぬの時北方八分」あり。一方で、表題部に食甚食分「八分」の記載なし。
  • 方向角、東北・西北を「うしとら」「いぬい」表記。 
  • 貞享三年暦の古暦帖(国立国会図書館デジタルコレクション)では、「月の出」の箇所は文字がかすれているようで「月 出」に見える。文脈から推定し「月の出」とした。
1686年
10月
14
×
卯4.36初→辰0.52入[2.07分]→辰4.89甚[6.06分]→巳0.96復, 東南→南→西南
  • 入時食分 2.07分の食甚が見えない入帯食。記載があってもよさそうな気がするが、頒暦に記載なし。
1688年
3月
15
月そく六ふん: うしの時よりあくるあさまで東南方より初西南方に復 丑2.56初→寅0.48甚[6.34分]→(寅8.00晨)→寅8.20復, 東南→南→西南
  • 表題部の食甚食分「六分」の「ふん」かな書き
  • 晨分後の復末のため、終時刻を「あくるあさ」とする。
    ただし、終時刻が明朝の場合、「初虧→復末」パターンになるのが普通で、「時刻→方向角」パターンになるのは珍しい。
1688年
9月
16
月そく六ふん: いぬいの時ひがしきたの方より初にしきたの方に復 戌1.42初→戌6.62甚[6.29分]→亥4.72復, 東北→北→西北
  • 戌時に始まり亥時に終わるのを「いぬいの時」のように表記する初例
  • 方向角「ひがしきた」「にしきた」のかな書きパターン
1689年
2月
15
月そく皆つくる: うしの時ひがしの方より初あくる朝にしの方に復 丑1.05初→寅1.25甚[14.64分]→(卯0.53晨)→卯1.44復, 東→×→西
1690年
2月
14
月帯そく: 於東国不見於西国は月の入二分ばかり可現 卯2.15初→卯3.92入[0.81分, 西3.01分]→辰0.88甚[5.49分]→辰6.25復, 東北→北→西北
  • 「月帯そく」とだけいって、時刻も何も書いていないし、そもそも入帯食なのも明記してない。
    「西国は月の入二分ばかり可現」といっているので、京都でももちろん入帯食なのだろうが。
  •  「於東国不見」は十分に東に行けば不見といっているだけか。
  • 西国の「二分」は未詳。「西国は2.5刻時差」仮説で考えると 3.01分だが…
1690年
8月
16
月そく四分: いねの時ひがしみなみより初にしみなみの方に復 亥0.19初→亥6.99甚[4.59分]→子3.46復, 東南→南→西南
  • 初虧方向角は「ひがしみなみ」、復末方向角「にしみなみの方」で、フォーマット不統一
1691年
12月
16
月そく七分: いの時ひがしみなみの方より初うしの時までにしみなみの方復 亥7.12初→子4.65甚[7.38分]→丑2.94復, 東南→南→西南
  • 「うしの時にしみなみの方に復」とかでなく「うしの時までにしみなみの方復」は珍しい
1693年
6月
15
月帯食皆既とりの時: いぬの時に東方よりひかり生いの時西方に復す 酉4.20初→戌0.30出[7.90分, 西12.36分]→戌3.38甚[11.63分]→(戌5.27生還)→亥2.55復 東→×→西
  • 「月帯食皆既」と漢字がき。
  • 「とりの時」は単に出帯食を意味しているだけか。出時は実際は戌初刻。 
  • 「いぬの時に東方よりひかり生」は、生還(皆既の終り)を記載しているものか。
    生還時の方向角は暦法上記載はないが「東」であってもおかしくはない。
1693年
12月
16
月そく四分: いぬいの時ひがしきたよりかけ初きたの方に復す 酉8.25初→戌6.90甚[4.55分]→亥3.49復, 東北→北→西北
  • 初虧時刻は酉八刻だが、「初虧八刻は次時扱い」仮説に従い、戌時始まり扱い
  • 陽暦中程度の食のため。復末方向角は西北のはずだが「きたの方」。小食扱い?
1695年
4月
16
月そく四分: いぬの時北方より初いの時西北の方におはる 戌2.96初→戌7.21甚[4.36分]→亥5.01復, 東北→北→西北
  • 時刻→方向角パターン「いぬいの時北方より初西北の方におはる」ではなく、初虧→復末パターン
  • 陽暦中程度の食のため。初虧方向角は東北のはずだが「北方」。小食扱い?
1695年
10月
14
月そく五分: うしの時東南方より初とらの時西南方におはる 丑7.70初→寅4.77甚[5.48分]→卯3.56復, 東南→南→西南
  • 復末は卯三刻のはずだが「とらの時」
  • 時刻→方向角パターンではなく、初虧→復末パターン
1697年
9月
15
月そく六分: とらの時東北の方にかけ初め明朝西北の方に復す 寅2.80初→卯0.87甚[6.00分]→(卯4.77晨)→卯5.92復, 東北→北→西北
  • 時刻→方向角パターンではなく、初虧→復末パターン。復末が「明朝」のためか。
1699年
2月
14
月そく六分: とらうの時東北よりかけ初め明朝西北の方に復す 寅0.06初→寅5.83甚[6.38分]→(卯2.17晨)→卯4.61復, 東北→北→西北
  • 初虧方向角「東北」、復末方向角「西北の方」で不統一
1699年
8月
16
月そく七分: とりいぬの時南方よりかけ初め西南の方に終る 酉3.47初→酉5.11出[2.17分]→戌1.78甚[7.38分]→亥0.95復, 東南→南→西南
  • 食甚が見える出帯食だが、通常食扱いになっている
  • 初虧方向角は東南のはずだが「南方」
  • 復末時刻は亥初刻だが、「復末初刻は前の時扱い」仮説により、戌時終り扱い
1700年
正月
15
月帯そく六分半: とりの時西の方に復す西国にては不見 申0.03初→申7.36甚[14.19分]→酉2.78出[7.28分]→酉6.36復, 東→×→西
  • 表題部食分「六分半」は不審。食甚が見えない帯食で出入時食分を表示しているのだろうが、それでも「七分」のはず
  • 「西国にては不見」は、「十分に西に行けば不見」ということで、食甚が見えない出帯食のとき、表示したものか。
1700年
7月
15
月そく: いぬの時東の方にかけ初めいの時既ねの時西の方に復す 戌2.97初→亥0.50食既→亥3.23甚[13.43分]→子3.49復, 東→×→西
  • 「いの時既」は、食甚文言なのか、食既(皆既のはじめ)文言なのか。どちらにしてもこの時期記載されるのは異例
  • 表題部に食分表記なし。「いの時既」で皆既であることはわかるが。
1701年
7月
15
月そく四分: いねの時東北よりかけ初め西北に復す 戌8.10初→亥6.72甚[4.26分]→子3.17復, 東北→北→西北
  • 初虧時刻は戌八刻だが、「初虧八刻は次時扱い」仮説により亥時始まり。
1702年
6月
15
×
酉6.46初→酉7.38甚[0.70分]→戌0.61出[0.22分]→戌2.68復, 南→×→西南
  •   1 分未満の小さい食で無食扱い。
1702年
11月
16
月帯そく三分: とりの時西国にてはみゆべからず 未5.19初→申3.35甚[6.86分]→申7.61出[2.75分]→酉2.72復, 東北→北→西北
  • 出時食分 2.75分で「三分」は不審
  • 出時は申七刻だが「とりの時」は出帯食であることを意味しているだけだろう
  • 「西国にてはみゆべからず」は、食甚の見えない出帯食であることを意味しているだけだろう
1703年
11月
15
月帯そく: とりの時月の出すこしかくる 未0.50初→申0.85甚[14.73分]→申7.50出[3.51分]→酉1.20復, 東→×→西
  • 「月の出すこしかくる」の意味はわからない。出帯食分は3分だが……
  • 出時は申七刻だが「とりの時」は出帯食であることを意味しているだけだろう
1704年
5月
16
月そく九分: うしの時よりかけ初め明る朝かけながら入西国にては復して入べし 丑7.04初→(寅5.01晨)→寅5.36甚[8.94分]→寅7.51入[6.06分]→卯3.69復, 東北→北→西北
  • 「八捨九入」仮説により、食甚食分 8.94分が「九分」に
  • 「月帯そく」でなく「月そく」。「かけながら入」と言っているのに……
  • 入時刻が「明る朝」。これで時刻を表記したことになるのか疑問
  • 「西国にては復して入べし」は、食甚が見える入帯食であることを意味しているだけだろう
1704年
11月
15
月帯そく四分: とりの時西国にてはみへがたし 未6.79初→申5.86甚[6.20分]→申7.57出[4.61分]→酉3.46復, 東南→南→西南
  • 出時は申七刻だが「とりの時」は出帯食であることを意味しているだけだろう
  • 「西国にてはみへがたし」は、食甚の見えない出帯食であることを意味しているだけだろう
1706年
9月
15
月そく五分: とらの三刻東北の方にかけ初めとらの八刻北の方に甚うの六刻西北の方に復す 寅3.27初→寅8.26甚[5.88分]→卯6.30復, 東北→北→西北
  • この時期、「とらの三刻」等、辰刻表示の時刻となっているのは異例
  • この時期、食甚文言があるのは異例
1707年
9月
16
月そく皆つくる: とりの六刻東の方にかけはじめいの四刻西の方に復す 酉6.61初→戌5.77甚[14.55分]→亥4.94復, 東→×→西
  • 時刻→方向角パターンでなく、初虧→復末パターン
  • 辰刻表示の時刻
1708年
8月
16
月そく五分: とらの時かけそめ月入まで東国にてはあかつきしばらくの間みるべし 寅6.26初→卯4.87入[5.11分]→卯4.95甚[5.18分]→辰1.83復, 東南→南→西南
  • 入帯食なのに「月そく」
  • 「月入まで」という表記は珍しい
  • 「東国にてはあかつきしばらくの間みるべし」は何を意味しているのだろうか。不審
1710年
7月
15
月帯そく八分: とりいぬの時かけながら出西北の方に復す 酉1.17初→酉7.47出[7.05分]→酉8.19甚[7.82分]→戌7.34復, 東北→北→西北
  • 食甚食分 7.82分だが「八分」
  • 帯食で「とりいぬの時」のような始終時刻表記法は珍しい
1710年
12月
16
月そく皆つくる: いぬいねの時東の方よりかけ西の方に復す 戌5.84初→亥5.18甚[13.57分]→子4.51復, 東→×→西
  • 3 時辰にまたがる食で、「いぬいね(戌亥子)の時」のような表記法は珍しい
1711年
6月
14
月そく皆つくる: うしとらの時東の方よりかけ西の方に復す 丑0.89初→寅0.11甚[12.56分]→寅7.66復 東→×→西
1711年
12月
16
月そく四分: とらうの時東北の方よりかけ西北の方に復す 寅0.68初→寅7.73甚[4.68分]→卯4.43復, 東北→北→西北
1713年
5月
16
月帯そく三分: とらの時北の方よりかけそめうの時西国にて復して入べし 寅1.20初→寅4.87甚[3.44分]→寅7.63入[1.42分]→卯2.30復 東北→北→西北
  • 入時刻は寅七刻だが「うの時」であり不審
  • 「西国にて復して入べし」は食甚が見える入帯食であることを意味しているだけだろう
1714年
10月
15
月そく皆つくる: いの時東方よりかけそめねの時西方におはる 戌6.27初→亥5.39甚[14.34分]→子4.51復, 東→×→西
  • 初虧時刻は戌六刻だが「いの時」であり不審
  • 時刻→方向角パターンではなく、初虧→復末パターン
1715年
4月
16
月そく七分: いぬの時東南の方よりかけはじめいの時西南の方におはる 戌1.30初→亥0.71甚[7.24分]→亥7.47復, 東南→南→西南
  • 時刻→方向角パターンではなく、初虧→復末パターン


初期の日食記事

年月日
頒暦の日食記事 突合結果
1688年
4月
1
日そく五ふん: みむまの時西北より初東北終 巳2.68初→巳7.03[5.52分]甚→午3.05復, 西北→北→東北
  • 「分」かな書き
  • 別行の日月食記事ではなく、暦日記事の中下段に表示。
    以前に書いたが、暦面上部欄外に「日食の食分を観察しようとするならピンホールカメラを作って観察してね」的な内容のコラム記事がなぜかあった。
1690年
8月
1
日そく四分: みの時にしきたの方より初ひがしきたの方に復す 辰8.19初→巳3.9[4.78分]甚→午0.07復, 西北→北→東北
  • 復末は午初刻。「復末初刻は前の時」仮説により、「みむまの時」ではなく「みの時」となる
1691年
2月
1
日そく四分: ひつじの初刻西南方よりかけひつじの四刻正南さるの初刻東南方に復 未0.59初→未4.46[3.90分]甚→申1.17復, 西南→南→東南
  • 初虧→食甚→復末パターン。この時期では珍しい
  • 時刻が辰刻表示
  • 「食分は八捨九入」仮説により、3.90分が「四分」
1692年
正月
1
日そく六分: むまの七刻西北方よりかけひつじの四刻正北に甚さるの一刻東北方に復 午7.33初→未4.30[6.02分]甚→申1.27復, 西北→北→東北
  • 初虧→食甚→復末パターン
  • 時刻が辰刻表示
1697年
3月
1
日そく五分: みの時西北の方にかけ初め東北の方に復す 巳1.55初→巳5.85[5.54分]甚→午1.83復, 西北→北→東北
  • 復末時刻が午一刻なのに「みの時」
1700年
正月
1
日そく二分半: うたつの時見えがたし 卯5.16初→卯6.71[1.73分]出→辰0.07[2.97分]甚→辰4.95復, 北→×→東北
  • 食甚食分2.97分で「二分半」。「半」がなんなのか不審
  • 出帯食だが、通常食扱い
  • 「見えがたし」が何を意味しているのか不審
1701年
正月
1
日帯そく五分: うの時南の方かくる西国にては不可見 卯0.17初→卯5.71[7.63分]甚→卯7.47[5.21分]出→辰2.92復, 西南→南→東南
  • 「うの時」は出帯食を意味する決まり文句であろう
  • 「西国にては不可見」は、食甚の見えない出帯食であることを意味する決まり文句であろう
  • この時期、食甚の見えない帯食の場合、出入時食分を表題部に記載している
  • 「南の方かくる」は、陽暦日食(月黄緯が南緯)であることを意味するか。食甚時の方向角は「南」だが、食甚の見えない帯食
1702年
7月
1
日帯そく七分: うの時南の方かくる西国にては不可現 寅1.83初→寅7.17[9.46分]甚→寅8.27[7.51分]出→卯4.18復, 西→×→東
  • 実際の出時は寅八刻だが、出帯食の決まり文句で「うの時」
  • 「西国にては不可現」は、食甚の見えない出帯食であることを意味する決まり文句であろう
  • 「南の方かくる」は、陽暦日食(月黄緯が南緯)であることを意味するか 。陽暦の八分以上食なので、食甚時の方向角を示すのであれば「南」とはなるだろうが、大食では表示しない例であるはずだし、食甚の見えない帯食
1704年
11月
1
日帯そく九分: さるの初刻西の方にかけ初めさるの下刻食甚日入半帯食西国にては復して入べし 申1.14初→申6.25[9.80分]甚→申7.94[6.57分]入→酉3.04, 西→×→東
  • 初虧→食甚→復末パターン
  • 「さるの初刻」「さるの下刻」は、二十四時制の時辰(申初3:00-4:00、申正4:00-5:00)を意味するものか
  • 「日入半帯食」は、食甚と同じく申正時に、かけながら入ることをいうか。
  • 「西国にては復して入べし」は、食甚の見える入帯食を意味する決まり文句か
1709年
8月
1
日そく四分: たつみの時西南の方よりかけそめ東南の方に復す 辰5.67初→巳1.65[4.28分]甚→巳5.15復, 西南→南→東南
1712年
6月
1
日そく九分: とらうの時 寅4.15初→寅7.61[5.73分]出→卯1.54[9.48分]甚→卯7.27末, 西→×→東
  • 出帯食だが、通常食扱い
  • 方向角を表示していない
1716年
3月
1
日そく五分: むまの一刻西南の方よりかけはじめひつじの二刻東南の方におはる 午1.05初→午5.42[5.68分]甚→未1.45復, 西南→南→東南
  • 復末は未1.45刻なので、「ひつじの一刻」のはず
  •  初虧→復末パターン


以上、比較してきたが、「まあまあ、概ねは合ってるのかもなあ」という感じ。それ以上のことは言えない。

次回は、享保二(1717)年暦以降の日月食記事との突合を行う。

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