本日、立夏。
ただし、季節の話題について書こうというわけではない。「春過ぎて、夏来にけらし」の「けらし」は、過去助動詞連体形「ける」のルが省略されたものに「らし」がついたものであるが、
「けるらし」のルが、なぜ省略されて、「けらし」となるのか、という話である。
終止形接続の助動詞での「る」省略
終止形接続の助動詞が、上一段・ラ変につく時、なぜか「る」が省略されているように見えることがある。「見らし」「有らし」「見らむ」「有らむ」「見べし」等。
過去の助動詞「けり」も *ki-ari > keri であろうから、ラ変動詞と同様、「けるらし」であるところ「けらし」となる。
これはなぜか。
「る」の省略と見るのか、むしろ「見らし」が本来の形で他の動詞との類推で「見るらし」が生まれたのか。
- 仮説1: 動詞語根 + urashi
-
*kak-urashi > kakurashi 書くらし, *ida-urashi > idurashi
出づらし、に対して、
*mii-urashi > *mii-rashi > mirashi 見らし, *mii-r-urashi > mirurashi 見るらし、と
*aa-urashi > *aa-rashi > arashi 有らし, *aa-r-urashi > arurashi 有るらし、と
長母音と短母音の連接にあたり、短母音をドロップした異型と、子音 r が介入した異型とがあったと考える。 - 仮説2: 連体形 + ashi
-
*kakuu-r-ashi > kakurashi 書くらし, *iduuru-ashi > idurashi
出づらし,
*miiru-ashi > mirashi 見らし, *aaru-ashi > arashi 有らし、となったとするもの。 - 仮説3: 音便
-
中古における「有ンめり」「有ンなり」と同様の事象が上代においてもあったとするもの。
「見ッらし」「見ンべし」のような。
仮説1 も、「動詞語根につく」というのが結構気持ち悪い。あと「うらし」って何だ? という疑問。
まあ、常識的な線で、仮説3(または、音便というより、単に「る」の省略)ということでいいんじゃないでしょうか。
過去の助動詞「き」
「けらし」は、「き」+「有り」+「らし」でしょうが、今度は過去の助動詞「き」について。「き」の活用形「せ、○、き、し、しか、○」は、かなり変則的。
未然形「せ」は、si-a, 已然形「しか」は、本編で書いたように「しく(ク語法)」+「得」の古形未然形「あ」。
で、突然奇妙なのが、終止形「き」。
おそらく、過去の助動詞に「き」「し」二種類あったのが、区別を失った結果、形容詞の活用と紛らわしくない形で相補的に残ったものだろう。
「き」は、おそらく「来」、「し」は「去る」(※) であって、
- 「過去にこういうことがあって現在に至る」 = 現在につながる過去 = 「き」
- 「こういうことがあったが、過去へと過ぎ去る」 = 現在につながらない過去 = 「し」
(※) し (si) から、他自四段B型で自動詞を派生すると「去り (*siar-i > *saari > sari)」になる。
「為(す)」の未然形で、*si-a > se となったのに「せり」とならないのは不審かもしれないが、動詞語根のなかに ia がある siar-i と、動詞と後接助動詞との間に ia がある未然形 (si am-u > siamu > semu せむ) とでは話が違うのだろう。
「し」は「為(す)」そのものであっても不思議はないと思う。
「去る」の他動詞なので「去らせる」の意味。
「去らせる」→「終わらせる」→「やり遂げる」→「やる」というように意味が広がったと考えればよい。
現代語「やる」で、「遣る(行かせる)」を本義として、「物事を前に進める」→「執り行う」の意味になっているのも参照。
そう考えると、「来(く)」「為(す)」「往ぬ」と、短母音 i で終わる単音節動詞3つ (元々は単音節だった「往ぬ」を含めて) が、すべて、往来に関する語であるというのは興味深い。
- 「来(ki)」 = 話者の近くに移動する。
- 「す(si 去らせる)」 = 話者から遠くに移動させる。
- 「往ぬ (ini)」 = どことも知れぬところへ移動する。
だとすると、指示代名詞「ここ」「そこ」「いづこ」ともつながっているように思われるのは、ちょっとこじつけだろうか。
「来、す、往ぬ」と「こそあど」の関係、気になりますね。
返信削除ぜんぜん関係ないかもしれないけど、関係ありそうな気もする。