2020年10月11日日曜日

天保暦の暦法 (5) 日躔 (5) 頒暦との突合

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前回までのところで、天保暦の日躔(太陽に関する暦法)の説明をひととおり終えた。これにより、天保暦の頒暦のうち、日躔に基づき計算する箇所との突合が可能となった。よって、今回は、頒暦の以下の事項について、算出結果と頒暦に記載されている内容との突合を行う。

  1. 節気記事における昼夜刻(日出より日の入迄、六より六迄)
  2. 二十四節気の日時
  3. 土用の日時
  4. 半夏生(はんげしゃう)の配当日

雑節「半夏生」の配当日については、頒暦上、時刻が記載されておらず日付のみなので、算出結果とずれることなどなく、貞享暦~寛政暦のところでは、特段、突合の対象として取り上げなかった(ちなみにいうと、算出した日付と頒暦記載の日付はすべて合致していた)。

天保暦においては、「定気法における半夏生の配当日付の算出方法」が、暦法書上どこにも明記がないこともあって、本項ではことさらに取り上げて突合を行うこととする。


節気記事の昼夜刻

日出分、晨分が計算できるようになったところで、頒暦の節気記事に掲載されている昼夜刻「日出より日の入迄」「六より六迄」との突合が可能になる。

平気の暦である寛政暦では、律儀に「平気の節気における日出分、晨分」をもとにしていたので、春秋分の「日出より日の入迄」が昼夜等分「昼五十刻 夜五十刻」にならなかったり、その他いろいろとイレギュラーな動きを見せていたが、定気の暦である天保暦ではそのようなことはない。

厳密な話をするのであれば、頒暦の節気記事の昼夜刻は年によって異なりうるが、結果的には暦法が変わらない限り毎年同じ値となっている。
平気ベースで昼夜刻を表示する場合、平均黄経と真黄経の対応関係は、近点黄経によって変わってくるため、節気記事の昼夜刻は、年によって相違しえた(が、寛政暦の施行期間中においては、頒暦の表示レベルでは結果としては変わらない)。
定気ベースで昼夜刻を表示する天保暦では、そういう意味での年ごとの差違は発生しない。日出分・晨分は太陽の真黄経(および地点緯度と黄道傾斜角)からすべて一意に定まるのであり、定気ベースで昼夜刻を記載するのであれば、そういう点においては原理的に毎年同じ昼夜刻になるはずなのである。
しかし、寛政暦と異なり、天保暦は黄道傾斜角(黄赤大距)の永年減少、および、黄道傾斜角の章動があるとしているので、そういう意味では年によって節気記事の昼夜刻が異なって来うる。……が、以前記載したとおり、黄赤大距(黄道傾斜角)を真面目に計算しても、固定値 23°.45 としても、節気記事の昼夜刻には影響を与えず、毎年同じ値に結局なっている。

「日出より日の入迄」は、昼刻を \(100_\text{刻} - 100_\text{刻/日} \times 2 \times \text{日出分} \)、夜刻を \(100_\text{刻/日} \times 2 \times \text{日出分} \) 、
「六より六迄」は、昼刻を \(100_\text{刻} - (100_\text{刻/日} \times 2 \times \text{晨分} \)、夜刻を \(100_\text{刻/日} \times 2 \times \text{晨分} \) 、
として、すべて 1/4刻単位で四捨五入したものとして表示される。
「○.00刻」「○.25刻」「○.50刻」「○.75刻」は、それぞれ、「○刻」「○刻余」「○刻半」「○刻半余」と表示される。

頒暦に記載されている昼夜刻は下記のとおり。すべて上記の式で算出したものに合致する。平気ベースの寛政暦とは異なり、定気ベースなので「日出より日の入迄」は、冬至から見たときと、夏至からみたときとで、昼夜を反転して対称である(「六より六迄」は、そうはならないが)。

節気 日出より日の入迄 六より六迄
冬至十一月中 40.25/59.75 45.75/54.25
小寒十二月節 大雪十一月節 40.50/59.50 46.00/54.00
大寒十二月中 小雪十月中 41.75/58.25 47.00/53.00
立春正月節 立冬十月節 43.50/56.50 48.75/51.25
雨水正月中 霜降九月中 45.50/54.50 50.50/49.50
啓蟄二月節 寒露九月節 47.75/52.25 52.75/47.25
春分二月中 秋分八月中 50.00/50.00 55.00/45.00
清明三月節 白露八月節 52.25/47.75 57.50/42.50
穀雨三月中 処暑七月中 54.50/45.50 59.75/40.25
立夏四月節 立秋七月節 56.50/43.50 62.00/38.00
小満四月中 大暑六月中 58.25/41.75 64.00/36.00
芒種五月節 小暑六月節 59.50/40.50 65.25/34.75
夏至五月中 59.75/40.25 65.75/34.25


不定時法の時刻

天保暦の頒暦において、時刻は不定時法の時分表示で記載されているが、天保暦の暦法書である「新法暦書」には、この算出方法がどこにも記載されていない。貞享暦・宝暦暦・寛政暦においても、頒暦に記載されているのは十二時制の辰刻であるにも関わらず、暦法書に記載されているのは二十四時制の辰刻表示の計算方法であった。基本的に暦法書は、具注暦などを作成するのに必要なことが書いてあるのであって、一般販売向けの頒暦(仮名暦)だけに必要なことは書いていなかったんだろうと思われる。

不定時法の時分表示の計算式はどこにもないが、天保暦の暦理解説書である「新法暦書続編」巻四「鼓鐘時分」に一応は説明が書いてあるのでその辺も参考にしつつ、私が行っている計算式を示すと、
(真太陽時の時刻を \(t\) とする(単位は「日」。\(0 \leqq t \lt 1\))
\[ \begin{cases}
\text{晨分前の場合 } &(0 \leqq t \lt \text{晨分}): & \text{時分} = 3 \dfrac{t}{\text{晨分}} \\
\text{昼の場合 } &(\text{晨分} \leqq t \lt 1 - \text{晨分}): & \text{時分} = 6 + 3 \dfrac{t - 0.5}{0.5 - \text{晨分}} \\
\text{昏分後の場合 } &(1 - \text{晨分} \leqq t \lt 1): & \text{時分} = 12 + 3 \dfrac{t - 1}{\text{晨分}}
\end{cases} \]

\(0 \leqq \text{時分} \lt 12\) になるはずであり、時分の整数部 0~11 をそれぞれ、「今暁九時」「今暁八時」「今暁七時」「明六時」「朝五時」「朝四時」「昼九時」「昼八時」「夕七時」「暮六時」「夜五時」「夜四時」とする。

時分の小数部は、原則、小数第一位までに四捨五入して、小数部 .1~.9 をそれぞれ「一分」~「九分」として、「○時○分」という時分表示とする(小数部 .0 は、単に「○時」とする)。
ただし、小数部が .95 以上のとき(つまり四捨五入すると整数部が繰上がるとき)、

  • 天保十五(弘化元 1844)~天保十六(弘化二 1845)年:
    • すべて整数部を繰上げず、小数第一位までに切り捨てて、○.9、つまり「○時九分」とする。
  • 弘化三(1846)年以降:
    • 原則、普通に四捨五入して整数部を繰上げる。
    • ただし、節気・土用の時刻において時分が 11.95 以上であって、繰上げると 12(翌日の 0)、つまり翌日の「今暁九時」になってしまう場合、小数第一位までに切り捨てて 11.9 「夜四時九分」とする。
    • さらに、月食記事に関する時刻において時分が 11.95 以上の場合、 小数第一位までに切り捨てて 11.9 「夜四時九分」とするのではなく、普通に四捨五入して整数部を繰り上げて 12.0 とする。その場合(翌日ではなく当日の時刻であるため)、「翌暁九時」(翌日の今暁九時)とはせず、「夜九時」と表記する。

であったようだ。このあたりは、「頒暦概観 節気記事」の項でも書いたのでそちらを参照されたい。

この計算をするにあたって「晨分」を求める必要があるわけだが、「いつ時点の晨分?」つまり「どのような太陽の赤緯(延いてはどのような太陽の黄経)に基づいて計算した晨分?」という問題はあるだろう。

基本的には、求めたい時刻の太陽の実行(真黄経)に基づき赤緯、晨分を求めたものということでよさそうに思われる。つまり、節気記事においては、節気がターゲットとする黄経(15° の倍数の黄経)に基づき赤緯を算出し晨分を算出する、ということでよさそうだ。一方、土用・日月食での不定時法時刻算出にあたっての晨分についてはそこまで明確なものがあるわけではないが、「求めたい時刻の太陽の実行(真黄経)に基づき晨分を求める」という基本的な考えで計算して悪いことはなさそうである。

節気日時の頒暦との突合

定気用時(真太陽時の定気日時)が算出でき、晨分が算出でき、不定時法の時刻が算出できるようになった。ということで、いよいよ、算出した節気日時と頒暦との突合が可能となる。……が、実際に突合してみると盛大に合わない!

下記のグラフは、算出した節気日時と頒暦記載日時との時間差をプロットしたものである。縦軸の単位は「時」。時間差が ±0.05 未満なら、分(1/10時)単位に四捨五入したときに、頒暦記載日時と一致することになる。


明治二(1869)年以降は、一件(明治三(1870)年の冬至である)に異常値(+0.10 ほど)があるものの、-0.05~+0.05 の範囲内に収まっているようだが、それ以前はからっきし合わない。

特に問題なのは、慶応四(明治元 1868)年の大暑六月中で、 頒暦にあるのは「六月四日の今暁九時」。しかし計算によれば六月三日の夜四時9.74分になり、「日付をまたがる切り上げはしない」という原則に従えば、「六月三日の夜四時九分」となるべきもの。中気の日付が変わってしまうわけだ。幸いにして、三日/四日であり、暦月をまたがるわけではないから置閏には影響しないが。

ここで、新法暦書続編巻一掲載の序文にヒントがある。

本編、専以造暦為緊要、固不載係測験者。是以当造暦則総不用小均而可也(即小均者、除日躔初均之外、並、月離太陰平行加差、黄道緯度及地半径差諸小均之類、是也)。蓋、此小均、非測験可以得者、而特得之算理与重力之理者、故於寰宇総論篇。先列普通究理説、次挙星学究理論、以示其大略耳。
本編、専ら造暦を以って緊要と為し、固より測験に係る者を載せず。是を以って造暦に当って則ち総じて小均を用ゐずして可なり(即ち小均は、日躔初均を除くの外、並びに、月離太陰平行加差、黄道緯度及び地半径差の諸小均の類、是なり)。蓋し、此の小均、測験、以って得べき者に非ずして、特得の算理と重力の理は、寰宇総論篇に故づく。先に普通の究理説を列し、次に星学究理の論を挙ぐ、以って其の大略を示すのみ。

各種均数のうち、小さいものは作暦には使わない(ので、その暦理の概略を述べるのみで詳述はしない)と言っている。そして、小さい均数とは、

  • 日躔のうち、初均(中心差)以外
  • 太陰平行加差(月の平行(平均黄経)の二次項、すなわち、月の平均角速度の永年変化)
  • 月の黄道緯度、地半径差の小均(まだ、月離の暦算について説明してないので、これについては別途)

であり、これらは作暦には用いないと言っているのである。

節気について関係してくるのは一つ目。太陽の実行(真黄経)を計算するにあたり、どうやら、初均(中心差)は計算に入れたが、一均(章動)、二均・三均・四均(木星・金星・月による摂動)は計算に入れなかったらしい。

では、平行(平均黄経)に初均(中心差)だけを加減して実行(真黄経)を算出し、節気日時を計算してみよう。先ほどと同じく、頒暦表示日時との時間差をグラフにプロットする。


先ほどとは逆に、明治二(1869)年以降は合わなくなるが、それ以前は、基本的に ±0.05 の範囲内にほぼ収まっており、頒暦と合致していることがわかる。慶応四(明治元 1868)年の大暑六月中も、六月四日の今暁九時0.157分、四捨五入すれば今暁九時ちょうどとなり、頒暦と合致する。

つまり、どうやら「慶応四(明治元 1868)年暦までは、初均のみで計算。明治二(1869)年暦以降は、一均~四均すべて勘案して計算」だったのではないかと思われる。明治二(1869)年暦から、幕府天文方から明治新政府の星学局に編暦主体が移行されており、その際、作暦方針が変わったのではなかろうか。

このようにして計算したとき、ほぼほぼは合うのだが、どうも完全には頒暦とは合わない。不一致は下記の 8 件。No. 8 明治三(1870)年冬至が異常値なのを除けば、いずれも四捨五入閾値との間の誤差は、最大でも 0.026分(0.0026時。1時 ≒ 2 hours = 7200 secs とすると、19sec 未満)。太陽の黄経は、一年365日で 360°、1日24時間で約 1°、24 min で約 \(1^\prime\)、24 sec で約 \(1^{\prime\prime}\) 動く。節気時刻の誤差が 19 sec 未満ということは、太陽の真黄経の算出誤差が \(1^{\prime\prime}\) 未満ということであり、非常に小さな誤差。どこかの値の端数処理などでこのぐらいの差は出てきそうな気がする。

「こう計算すればぴったり合う」というのが見つかればよかったのだが、そううまくもいかなかった。試みに、平行(太陽の平均黄経)、最高平行(太陽の遠地点平均黄経)、および、そこから算出した中心差を、すべて、\(1^{\prime\prime}\)(六十進角度秒)単位で四捨五入して計算したところ、下記の表の「算出値(秒単位四捨五入)」の値となった。8 件の相違だったものが、5 件の相違になり、多少マシだが。

No. 節気 頒暦 算出値 算出値
(秒単位四捨五入)
1 天保十五(弘化元 1844)年
小雪十月中
十月13日
昼九時六分
×昼九時七分
(6.505分)
×昼九時七分
(6.506分)
2 弘化三(1846)年
小満四月中
四月26日
夜五時
×暮六時九分
(9.484分)
〇夜五時
(暮六時9.507分)
3 弘化五(1848)年
立秋七月節
七月9日
暮六時六分
×暮六時五分
(5.496分)
〇暮六時六分
(5.512分)
4 嘉永五(1852)年
夏至五月中
五月4日
昼八時六分
×昼八時七分
(6.515分)
×昼八時七分
(6.515分)
5 嘉永七(1854)年
小雪十月中
十月3日
夜四時七分
×夜四時八分
(7.527分)
×夜四時八分
(7.527分)
6 安政五(1858)年
冬至十一月中
十一月18日
朝四時七分
×朝四時六分
(6.493分)
×朝四時六分
(6.480分)
7 明治三(1870)年
立冬十月節
十月14日
夜四時八分
×夜四時九分
(8.501分)
〇夜四時八分
(8.4997分)
8 明治三(1870)年
冬至十一月中
十一月1日
朝五時五分
×朝五時六分
(6.004分)
×朝五時六分
(6.003分)

基本的に、天正冬至と気策がわかればすべて決まる寛政暦までの二十四節気と異なり(それでも、消長法なども勘案すればそれなりに複雑なのだが)、初均(および、年によっては一均、二均、三均、四均)を求めて太陽の実行(真黄経)を求め、定気日時を求め、真黄経と黄道傾斜角から時差総(均時差)を求めて真太陽時に変換し、同じく真黄経と黄道傾斜角から晨分を求めて、不定時法の時分を求め……のようにして、はじめて天保暦の節気日時が求まるので、「頒暦記載日時と微妙にずれる」みたいなことが起きたとき、どうやったら合うようになるのかを探すのは、考慮すべきファクターがあまりにも多く、至難の業。

土用日時の頒暦との突合

以前、「頒暦概観 暦日記事」のところで、雑節を概観したときに、土用の算出方法について下記の通り記載した。

期間 社日の配当
貞享暦
~寛政暦
貞享二(1685)年
~天保十四(1843)年
各季節の季月節の(平気)日時に、土王策(平均太陽年 ÷ 30)を加えた日時
天保暦 天保十五(弘化元 1844)年
~慶応四(明治元 1868)年
各季節の季月節の(定気)日時に、土王策(平均太陽年 ÷ 30)を加えた日時
天保暦末期
~現在
明治二(1869)年
~現在
太陽の真黄経が、冬至起点 117°, 207°, 297°, 27°(春分起点 27°, 117°, 207°, 297°)となる日時

土用の計算は、新法暦書には下記のように記載されているのみであり、寛政暦までの平気における計算と記述上なんら変わるところがない。そういう意味では、定気の暦である天保暦における土用の算出方法は「よくわからない」としか言いようがない。実際の頒暦に記載されている日時から帰納して考えるより外ない。

新法暦書巻一 [推日躔用数]
土用策一十二日一七四七四一一三一七
[推日躔法]
求土用事「置四季之節気日分、加土用策、満紀法去之、為四季土用事日分。自初日甲子起算、得干支」
四季の節気日分を置き、土用策を加へ、満紀法これを去き、四季土用事日分と為す。初日甲子より起算し、干支を得。
\[ \begin{align}
\text{土用策} &= 12_\text{日}.1747411317 & (= \text{周歳} / 30) \\
\text{土用} &= \left\{ \begin{matrix} \text{清明三月節} \\ \text{小暑六月節} \\ \text{寒露九月節} \\ \text{小寒十二月節} \end{matrix} \right\} + \text{土用策} \\
\end{align} \]

 慶応四(明治元 1868)年までの土用は、下記の手順で計算すると概ね頒暦と合うように思われる。

  1. 四季の季月節気(清明三月節、小暑六月節、寒露九月節、小寒十二月節)の定気用時(定気日時に時差総を加味し、真太陽時としたもの)を算出する。
  2. 土用策 12日. 1747411317 を加算して、土用の日時とする。
  3. 土用の日時における晨分を算出し、不定時法時刻を算出する。

 明治二(1869)年暦以降、はっきりと算出方法が変わっている。それまでの計算方法と比べ、夏冬土用では 10時間ほど、春秋土用でも 1時間半ぐらい土用の日時がずれることになるので、頒暦記載の土用日時がはっきりと相違し如実に変化が見て取れる。

  1. 定気日時を算出したのと同様の方法で、太陽の実行(真黄経)が 117°, 207°, 297°, 27° となる日時を算出し、土用とする。真太陽時への変換も行う。
  2. 不定時法の変換にあたっては、土用における太陽の実行(117°, 207°, 297°, 27°)によって晨分を算出し、土用の不定時法時刻を算出する。

\[ \begin{align}
&\text{土用宮度} = \begin{cases}
\text{春土用} & 117° \\
\text{夏土用} & 207° \\
\text{秋土用} & 297° \\
\text{冬土用} & 27° \\
\end{cases} \\
&\text{本日黄道実行} \leqq \text{土用宮度} \lt \text{次日黄道実行} \text{ となるような本日について:} \\
&\text{土用時刻} = {\text{土用宮度} - \text{本日黄道実行} \over \text{次日黄道実行} - \text{本日黄道実行}} \\
&\text{土用日時} = \text{本日} + \text{土用時刻} \\
&\text{土用用時} = \text{土用日時} + \text{時差総}(@\text{土用日時})
\end{align} \] 

 土用の算出方法も、どうやら、頒暦の作暦主体が幕府天文方から明治新政府星学局に移行した際に変更されたようである。

という感じで計算したとき、土用もまた完璧には頒暦に合わない。相違するのは下記のとおり。

「算出値(秒単位四捨五入)」は、平行(太陽の平均黄経)、最高平行(太陽の遠地点平均黄経)、および、そこから算出した中心差を、すべて、\(1^{\prime\prime}\)(六十進角度秒)単位で四捨五入して計算した場合の値。明治五(1872)年夏土用は、秒単位四捨五入しない方がむしろ頒暦に合致するようだ。

No. 節気 頒暦 算出値 算出値
(秒単位四捨五入)
1 弘化二(1845)年
秋土用
九月21日
今暁九時一分
×今暁九時
(0.485分)
×今暁九時
(0.467分)
2 弘化四(1847)年
春土用
三月3日
夜四時四分
×夜四時五分
(4.511分)
×夜四時五分
(4.533分)
3 慶応三(1867)年
秋土用
九月24日
朝五時一分
×朝五時
(0.496分)
×朝五時
(0.485分)
4 明治五(1872)年
夏土用
六月14日
暮六時一分
○暮六時一分
(1.493分)
×暮六時二分
(1.507分)


はんげしゃう(半夏生)の頒暦との突合

半夏生は、本来は七十二候のひとつ、夏至五月中の末候である。寛政暦までは七十二候の配当日時の算出方法が暦法に記載されていたのだが、天保暦では七十二候の配日を廃した (※)ため、配当日時の算出方法は記載されていない。さらに天保暦では定気法になったため、定気法における七十二候の配当日時の算出方法はどこにも記載されていない。 

  • (※) 頒暦(仮名暦)では、そもそも七十二候を掲載していなかったのであるが。
    江戸時代に真名暦(具注暦)が作られていたのかわからないが、作られていたとすれば七十二候も掲載されていたと思われる。
    具注暦が残っている年もあるようなので作られてはいたようだが、一般に出回るものではなく発行部数が少ないから残っているものが少ない。
    天保暦の期間中の具注暦は、検索してみるかぎり発見することが出来ず、七十二候の記載方法がどうだったかわからない。明治の新暦改暦後、略本暦に「配日しない七十二候の掲載」が見られることは、以前述べた

七十二候の配日を廃したとはいっても、雑節としての半夏生は配日しないといけないのだが、上記のような理由で、暦法書上、計算方法が記されていないから頒暦から演繹的に求める必要がある。時刻まで記載されている土用と異なり、日付しかわからないので、頒暦からわかる情報も限定的。

基本的には土用に準じて計算すればよさそう。土用は、慶応四(明治元 1868)年までと、明治二(1869)年までとで計算方法が違っていた。慶応四(明治元 1868)年までは定気の節気から土用策を加算して求める定気と平気のハイブリッド、明治二(1869)年以降は、太陽黄経が 117°, 207°, 297°, 27° となるときを土用とする純粋定気の計算方法であった。

半夏生について、定気と平気のハイブリッド計算をするなら下記のようになろう(土用と異なり、時刻はいらないので不定時法の算出をする必要はない)。

  1. 夏至五月中の定気用時(定気日時に時差総を加味し、真太陽時としたもの)を算出する。
  2. 候策 5日.0728088049(周歳/72)の 2 倍を加算して、半夏生の日時とする。

一方、純粋に定気法で計算するのであれば、太陽の実行(真黄経)が冬至起点 190° となる日時をもって半夏生とすることになろう(真太陽時への変換は行う)。

ハイブリッド式と純粋定気式とで日付が相違するのは下記のとおり。頒暦と一致するものを「○」とし、一致しないものを「×」とし朱書きする。

No. 節気 ハイブリッド式
純粋定気式
1 天保十五(弘化元 1844)年
○五月16日 ×五月17日
2 弘化五(嘉永元 1848)年 ×六月1日
○六月2日
3 嘉永五(1852)年 ×五月14日
○五月15日
4 安政三(1856)年 ×五月29日 ○六月1日
5 安政七(1860)年 ×五月13日 ○五月14日
6 文久四(元治元 1864)年 ×五月28日 ○五月29日
7 元治二(1865)年 ×閏五月9日 ○閏五月10日
8 慶応四(明治元 1868)年 ×五月12日 ○五月13日
9 明治二(1869)年 ×五月22日 ○五月23日
10 明治五(1872)年 ×五月26日 ○五月27日
11 明治六(1873)年(※) ×六月7日 ○六月8日
  • (※) 明治六(1873)年はグレゴリオ暦に改暦した年であり、この年の天保暦は作成されたものの使用されなかった。この表では使用はされなかったが作成された天保暦に基づき記載している。

これで見ると、天保暦の施行初年である天保十五(弘化元 1844)年のみはハイブリッド式で計算した方が合うが、それ以外はすべて純粋定気式で計算したほうが頒暦に合うようだ。

頒暦での配当日付しか情報がなく、それだけで判断してしまっていいのかはわからないが、土用では明治二年になるまでハイブリッド式で計算していたのに対し、半夏生は早々に純粋定気式に移行したということになる。不審ではあるが、土用は、一応(定気法における算出方法は明記されていないとは言え)新法暦書に算出式が記載されているのに対し、半夏生は全く記載がないので、どのように計算するかについて天文方の裁量の範囲が大きかったのかも知れない。

ちなみに、天保暦施行期間中(1844~1872)、純粋定気式で計算した半夏生の日付はすべて、グレゴリオ暦にすると7月2日である。


以上で天保暦の日躔の暦法の説明を終える。次回からは月離について。

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[参考文献]

渋川 景祐; 足立 信頭「新法暦書」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

渋川 景祐; 足立 信行「新法暦書続編」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

国立天文台暦計算室「暦Wiki: 雑節」
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B5A8C0E12FBBA8C0E1A4C8A4CFA1A9.html


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