2021年5月9日日曜日

頒暦日月食記事との突合(寛政暦)

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前回までのところで、寛政暦における日月食の算出方法の説明を終えた。

今回は、記載した算出方法によって計算したものを、実際の寛政暦の頒暦の記載と突合する。


記載日・時刻

食記事を記載する日、時刻表記については、宝暦暦後期におけるものと同様。

月食は、日出を一日の境界として、望/食甚が所属する日に食記事を記載する。明け方の月食において、食甚が見える入帯食(望/食甚は日出前)の場合、前日に食記事を記載し、食甚が見えない入帯食(望/食甚は日出後)の場合、当日に食記事を記載することになる。明け方ごろの時刻(寅刻、卯刻)の場合、当日早朝(3:00~7:00)の場合と、夜半24:00を過ぎて翌日早朝(27:00~31:00)の場合があることになるが、前者は単に「とら」「う」、後者は「翌とら」「翌う」と表記される。刻数は四捨五入される。

ふたつの時刻(ex.出時刻→食甚時刻)が時間的に近接していて、辰刻表示したときに同一となる場合、後者は「ほどなく」と時刻表示される。

食分

食甚食分は、0.5分単位に四捨五入され、「○分」「○分半」のように表記される。10分以上のときは「皆既」。四捨五入して 1分に満たない(0.75分未満)のときは「一分にみたず」となる。寛政暦では実例がないが天保暦で例があるので、四捨五入すると10分となるが実際は10分未満(9.75分以上)のときは「九分半余」であろう。

出入帯時の食分は、同様に 0.5分単位に四捨五入され、「○分」は「○分ばかり」、「○分半」は「○分余」と記載される。10分以上は「皆既て」(みなつきて)。四捨五入して1分に満たなければ(0.75分未満なら)「わづかに」となる。9.75分以上の場合の実例がないのでよくわからないが、「九分半余」ですかね。 

文化四(1807)年暦までは、食分密法を用いた方が頒暦の月食記事との一致度が高くなる。具体的には、享和四(文化元 1804)年六月月食、文化四(1807)年十月月食において、差違が出てくる。

方向角

貞享暦・宝暦暦からもっとも変わった点の一つが方向角だろう。貞享暦・宝暦暦では定性的に東西南北で記載されていた。寛政暦でも改暦初年(寛政十(1798)年)のみは、貞享暦・宝暦暦と同様の方向角で記載されていたが、寛政十二(1800)年暦以降は、きちんと定量的に計算された上下左右の方向で記載されている(寛政十一(1799)年は食がなかった)。

上下左右の方向角は、十六方位で記載されていて、上方(天頂方向)から反時計回りに「上の方」「上の左」「上と左の間」「左の上」「左の方」「左の下」「左と下の間」「下の左」「下の方」「下の右」「右と下の間」「右の下」「右の方」「右の上」「上と右の間」「上の右」、そして、「上の方」に戻る。

大体は、22.5° 単位の四捨五入、つまり、-11.25°~11.25° → 0°(上の方)、11.25°~33.75° → 22.5°(上の左)……、のようにして十六方位に丸めればいいのだが、初期(具体的には、1800年3月, 8月月食、1802年2月月食)においては、不等分割した方が頒暦の表示にあうようだ。上下左右と45°斜め方向の八方位は 20° の幅、それ以外は 25° の幅とする。よって、-10°~10° → 0°(上の方)、10°~35° → 22.5°(上の左)、35°~55° → 45°(上と左の間)……、のようにする。

下記の表において、「突合結果」欄に当方で計算した食の算出結果を記載しているが、そこでの方向角は、「上偏左」「左偏上」「左偏下」「下偏左」「下偏右」「右偏下」「右偏上」「上偏右」と記載して(「上偏左」は、「上のやや左より」の意味)、上下左右四方位からの離角を 0°~45° の値で付記しておいた。0°~360° の方向角で書いてもいいのだが、「157.3°」などと書いても、「……え~と、それってどっち向き?」となりそうだったので。それよりは「下偏左22.7°」などと記載した方が「下の左」などの十六方位表記との対応関係がわかりやすそうだったので。

「上偏左0°~45°」を例にあげると、等分割の場合、0°~11.25°は「上の方」、11.25°~33.75°は「上の左」、33.75°~45°は「上と左の間」となる。不等分割の場合、0°~10°は「上の方」、10°~35°は「上の左」、35°~45°は「上と左の間」となる。

八分以上の食分の大きい日食の場合、食甚時の方向角が表記されないことがある(貞享暦・宝暦暦でも表記されていなかった)。1800年四月日食、1802年八月日食では表記されたが、1824年六月日食では表記されておらず、この間で方針変更があったようである。

地方食表示

貞享暦・宝暦暦の食記事で、「西国」について記載されることがあり、どうやらそれは、京都から 2.5刻の時差がある場所のようであった。

寛政暦では「東国」「西国」が現れる。貞享暦・宝暦暦の「西国」はどこのことやらよくわからなかった。寛政暦でも、暦法上に明記されているわけではないので、わからないっちゃわからないのだが、暦法上に明記されている天保暦と同様、「東国 = 江戸」「西国 = 長崎」と考えてよさそうである。

東国(江戸)、西国(長崎)の経緯度がわからない。とりあえず、試行錯誤の結果、頒暦の食記事の記載と合うように下記であるとして計算した。そもそも、東国・西国の数値的情報(時刻、食分等)が記載される例が多くなく、これで正しいと言える自信は全くない。なお、経度は京都を基準子午線とする経度である(グリニッジを基準子午線とするのがグローバルスタンダードになったのは、明治になってから)。

- 西国 京都 東国
寛政十(1798)
~天保四(1833)年暦
経度: 西経 5.75°
緯度: 北緯 32.78°
経度: ±0°
緯度: 北緯 35.01°
経度: 東経 4°
緯度: 北緯 35.01°
天保五(1834)
~天保十四(1843)年暦
経度: 西経 5.75°
緯度: 北緯 35.01°
同上 同上
(ご参考) 天保暦
経度: 西経 5.808333°
緯度: 北緯 32.7756°
同上 経度: 西経 4.068°
緯度: 北緯 35.6756°

地方食で表示される文言は、下記のとおり(以前記載したものの再掲)。

表上、オレンジのものは、地方側(横軸)を西国として判定し、水色のものは東国として判定する。

出帯 西国 / 東国
通常食 見甚出帯 見甚出帯
(皆既)
不甚出帯
(皆既)
不甚出帯 不甚出帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚出帯 F - C D
見甚出帯(皆既) E2 - - E1
不甚出帯(皆既) - -
不甚出帯 G H
不甚出帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -


入帯 西国 / 東国
通常食 見甚入帯 見甚入帯
(皆既)
不甚入帯
(皆既)
不甚入帯 不甚入帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚入帯 F - C D
見甚入帯(皆既) E2 - - E1 
不甚入帯(皆既) - -
不甚入帯 G H
不甚入帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -


分類 記載文言 寛政暦実例 天保暦実例
出帯A 西国にてはかけながら出べし ×1828/九月日食 1859/正月月食
出帯B 西国にては見へがたかるべし 1823/六月日食 -
出帯C ? 西国にては皆既て出べし ? - -
出帯D 西国にては甚しきを見ざるべし ×1807/十月月食
×1813/正月月食
×1831/七月月食
×1832/閏十一月月食
1869/七月日食
出帯E1 西国にては[出時食分]かけながら出 - 1855/九月食
出帯E2 東国にては[出時食分]かけながら出 - -
出帯F 東国にては出てかけはじむべし - 1861/十一月月食
1873/四月月食
出帯G 東国にては深く西国にては浅かるべし 1839/八月日食 1856/三月月食
1867/二月月食
出帯H [東国にては深く]西国にては見へがたかるべし 1801/八月月食 1850/七月日食
1854/五月日食
出帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
東国にては[食〇分]……
1827/四月月食
1834/五月月食
1851/十二月月食
入帯A 東国にてはかけながら入べし ×1798/四月月食
1815/五月月食
-
入帯B 東国にては見へがたかるべし - -
入帯C ? 東国にては皆既て入べし ? - -
入帯D 西国にては[入時食分]かけながら入べし - 1850/正月日食
入帯E1 東国にては[出時食分]かけながら入 - -
入帯E2 西国にては[出時食分]かけながら入 1833/十一月月食 -
入帯F 西国にては復して入べし ×1816/十月月食
1854/九月月食
入帯G [食分]東国にては浅く西国にては深かるべし 1805/六月月食 1847/二月月食
1858/正月月食
入帯H 食分西国にては深く東国にては見へがたかるべし 1814/十一月月食 -
入帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
西国にては[食〇分]……
1830/七月月食
1837/九月月食
1844/十月月食
1857/八月日食
1868/七月日食

京都では見えない食の場合、「京都にては見へず西国/東国にては……」と表記され、その際、時刻は西国/東国における地方時となる。が、1827年/四月月食、1830年/七月月食では、出入時刻が記載されていない。1834年五月月食、1837年九月月食では、記載されるようになった。

頒暦との突合

下記に、頒暦の日月食記事とを突合したものと、当方で計算したものとの比較を示す。

当方での計算結果で、例えば

卯3.92[右偏上34.082]初→卯4.89[0.94分 右偏上27.702]入→卯7.64[2.23分 右偏上7.244]甚→辰3.03[右偏下18.005]復

と記載しているとき、

時点時刻方向角食分
初虧卯3.92刻右偏上34.082°-
入帯卯4.89刻右偏上27.702°0.94分
食甚卯7.64刻
右偏上7.244°2.23分
復円辰3.03刻右偏下18.005°-

であることを意味する。

東国、京都、西国、それぞれでの算出結果を記載したが、いずれの地域でも帯食ではなく、地方食文言が記載されないことが明らかな場合、京都のみの記載とし、東国・西国での計算結果は省略した。

時刻・食分・方向角などの数値が頒暦と合わない場合、赤字で注記した。合わないにしても、四捨五入閾値ぎりぎりみたいなことがすべてで、算出結果と頒暦記載との一致度が、貞享暦・宝暦暦から向上している感がある。

月食記事

年月日 頒暦の月食記事 突合結果
1798年4月15 月そく皆既: うしの二刻東の方よりかけはじめとらの一刻甚しくとらの八刻西の方におはる (東国) 丑3.08[東]初→寅1.82[11.08分]甚→寅7.99[1.97分 右偏下10.349]入→卯0.57[西]復
(京都) 丑1.96[東]初→寅0.71[11.08分]甚→寅7.79[西]復
(西国) 丑0.37[東]初→丑7.45[11.08分]甚→寅6.19[西]復
  • 寛政暦初年の方向角は、貞享・宝暦暦式の簡易表示
  • 東国は入帯食だが、「東国にてはかけながら入べし」のような記載なし。1815年5月月食参照
1798年10月16 月そく六分半: いぬの四刻東南の方よりかけはじめいの二刻南の方に甚しくねの初刻西南の方におはる (京都) 戌4.55[東南]初→亥2.32[6.66分 南]甚→子0.10[西南]復
  • 寛政暦初年の方向角は、貞享・宝暦暦式の簡易表示
  • 初虧時刻 戌4.55刻を「いぬの五刻」ではなく「いぬの四刻」
1800年3月17 月そく五分半: ねの五刻下の左よりかけはじめうしの二刻下の方に甚しくうしの七刻下の右におはる (京都) 子4.59[下偏左19.391]初→丑1.54[5.62分 下偏右4.689]甚→丑6.83[下偏右34.693]復
  • 復円方向角 下偏右34.693 は、等分割(閾値 33.75)だと「右と下の間」であるべきだが「下の右」。不等分割(閾値 35)の方が合う。
1800年8月15 月帯そく: うの四刻右の上よりかけはじめうの五刻一分ばかりかけながら入見へがたかるべし (東国) 不見
(京都) 卯3.92[右偏上34.082]初→卯4.89[0.94分 右偏上27.702]入→卯7.64[2.23分 右偏上7.244]甚→辰3.03[右偏下18.005]復
(西国) 卯2.33[右偏上31.758]初→卯4.83[1.91分 右偏上13.810]入→卯6.05[2.23分 右偏上4.316]甚→辰1.44[右偏下21.653]復
  • 初虧方向角 右偏上34.082 は、等分割(閾値 33.75)だと「右と上の間」であるべきだが「右の上」。不等分割(閾値 35)の方が合う。
  • 京都での最大食分 0.94分で、1分未満のため「見へがたかるべし」
  • 東国では不見だが「東国にては見へがたかるべし」のような記載なし
1801年8月15 月帯そく: とりの四刻二分余かけながら出とりの五刻右の上におはる西国にては見へがたかるべし (東国) 未8.00[左偏下8.923]初→申7.18[16.40分 上偏左24.419]甚→酉4.26[5.10分 右偏上35.325]出→酉6.35[右偏上32.419]復
(京都) 未6.89[左偏下6.704]初→申6.07[16.40分 上偏左23.698]甚→酉4.26[2.39分 右偏上33.735]出→酉5.24[右偏上32.636]復
(西国) 不見
  • 東国・京都では食甚が見えない出帯食、西国では不見。
    「食分東国にては深く西国にては見へがたかるべし」とあるべきところだが、「(食分)東国にては深く」の文言なし
    (1814年11月月食参照)
1802年2月16 月そく四分半: とりの八刻左と下の間よりかけはじめいぬの五刻左の上に甚しくいの二刻上の左におはる (京都) 酉7.84[左偏下35.295]初→戌4.87[4.70分 左偏上10.236]甚→亥1.89[上偏左29.329]復
  • 食甚方向角 左偏上10.236 は、等分割(閾値 11.25)だと「左の方」であるべきだが「左の上」。不等分割(閾値 10)の方が合う。
1803年12月15 月帯そく四分: 翌とらの八刻左の下よりかけはじめうの五刻左と下の間に甚しくうの八刻二分ばかりかけながら入 (東国) 翌卯1.08[左偏下14.165]初→卯5.77[3.76分 下偏左35.089]甚→卯8.01[2.81分 下偏左12.769]入→辰2.13[下偏右7.700]復
(京都) 翌寅8.30[左偏下13.633]初→卯4.66[3.76分 下偏左36.091]甚→卯8.01[1.73分 下偏左4.209]入→辰1.02[下偏右6.193]復
(西国) 翌寅6.70[左偏下10.576]初→卯3.06[3.77分 下偏左39.566]甚→卯7.69[0.09分 下偏右1.771]入→卯7.75[下偏右2.193]復
  • 入食分 1.73分を「一分余」ではなく「二分ばかり」
1804年6月17 月そく九分: ねの八刻上の左よりかけはじめうしの六刻上と右の間に甚しくとらの四刻右の下におはる (京都) 子7.64[上偏左28.150]初→丑6.04[8.81分 右偏上39.589]甚→寅4.43[右偏下32.679]復
  • 食分密法を用いないと、食甚食分は、八分半(8.72分) となり頒暦の記載と合わない。
1804年12月15 月帯そく皆既: さるの八刻皆既て出とりの二刻甚しくいぬの一刻上の右におはる (東国) 申4.10[下偏左23.263]初→申8.13[10.02分 下偏左11.626]出→酉3.16[17.08分 右偏下18.097]甚→戌2.22[上偏右17.822]復
(京都) 申2.99[下偏左25.247]初→申8.13[12.74分 下偏左6.744]出→酉2.05[17.08分 右偏下19.259]甚→戌1.11[上偏右18.266]復
(西国) 申1.39[下偏左26.615]初→酉0.15[16.90分 下偏右44.388]出→酉0.45[17.08分 右偏下19.097]甚→酉7.85[上偏右16.744]復
1805年6月16 月帯そく: とらの四刻上と左りの間よりかけはじめとらの八刻八分ばかりかけながら入食分東国にては浅く西国にては深かるべし (東国) 寅5.24[上偏左42.556]初→寅7.91[5.68分 左偏上44.774]入→卯4.83[13.77分 左偏下18.578]甚→辰4.43[下偏右0.064]復
(京都) 寅4.13[上偏左44.425]初→寅7.91[7.95分 左偏上39.871]入→卯3.72[13.77分 左偏下19.627]甚→辰3.32[下偏右0.317]復
(西国) 寅2.53[左偏上44.422]初→寅8.29[11.64分 左偏上25.506]入→卯2.13[13.77分 左偏下19.242]甚→辰1.72[下偏左1.617]復
  • 「上と左の間」ではなく「上と左りの間」
  • 「(食分)東国にては浅く西国にては深かるべし」の「食分」が付くパターン。1839年8月日食参照。
1807年4月15 月そく一分: うしの一刻上の方よりかけはじめうしの四刻上の右に甚しくうしの六刻上と右の間におはる (京都) 丑1.06[上偏左8.601]初→丑3.68[1.23分 上偏右19.530]甚→丑6.30[右偏上43.318]復
1807年10月16 月帯そく二分半: とりの初刻二分ばかりかけながら出とりの一刻右と下の間に甚しくとりの五刻右の下におはる (東国) 申6.77[下偏右12.455]初→酉0.45[1.69分 下偏右28.947]出→酉2.29[2.25分 右偏下44.450]甚→酉6.14[右偏下12.745]復
(京都) 申5.66[下偏右10.904]初→酉0.45[2.14分 下偏右37.687]出→酉1.18[2.2498分 下偏右44.432]甚→酉5.03[右偏下13.474]復
(西国) 申4.06[下偏右10.351]初→申7.92[2.25分 下偏右44.651]甚→酉0.75[2.01分 右偏下34.521]出→酉3.43[右偏下12.560]復
  • 食甚食分 2.2498分であり、頒暦の「二分半」(閾値 2.25分) とは惜しい誤差。
    食分密法を用いないと、2.23分となり、密法を用いた方が一致度が高い。
  • 西国では食甚の見えない出帯食だが、記載なし(寛政暦ではすべて記載なし)
1808年9月15 月帯そく皆既: とりの一刻皆既て出いぬの一刻上と右の間におはる (東国) 申2.65[左偏下42.072]初→酉1.15[13.95分 下偏右0.369]出→酉2.36[14.94分 下偏右42.188]甚→戌2.07[右偏上35.657]復
(京都) 申1.54[左偏下40.048]初→酉1.15[14.93分 下偏右36.939]出→酉1.25[14.94分 下偏右41.222]甚→戌0.96[右偏上35.581]復
(西国) 未8.28[左偏下38.662]初→申7.99[14.94分 下偏右41.694]甚→酉1.4[13.11分 右偏上4.479]出→酉7.70[右偏上37.578]復
  • 西国では食甚の見えない出帯食だが、記載なし
1809年9月15 月帯そく八分半: とりの二刻六分余かけながら出とりの五刻上と左の間に甚しくいぬの三刻上の右におはる (東国) 申7.54[左偏下3.749]初→酉1.93[4.76分 左偏上8.563]出→酉5.89[8.36分 上偏左41.253]甚→戌4.24[上偏右16.004]復
(京都) 申6.43[左偏下2.566]初→酉1.93[6.32分 左偏上17.641]出→酉4.78[8.36分 上偏左40.849]甚→戌3.13[上偏右15.547]復
(西国) 申4.83[左偏下2.688]初→酉2.11[7.96分 左偏上34.683]出→酉3.18[8.36分 上偏左42.243]甚→戌1.53[上偏右12.757]復
1812年7月16 月そく皆既: いの五刻左の下よりかけはじめねの四刻甚しくうしの三刻右と下の間におはる (京都) 亥4.84[左偏下11.860]初→子3.99[18.25分 上偏右14.077]甚→丑3.14[右偏下40.363]復
1813年1月15 月帯そく六分半: とりの二刻六分余かけながら出ほどなく右の下に甚しくいぬの初刻右の上におはる (東国) 申5.87[下偏右14.188]初→酉1.63[5.69分 右偏下42.316]出→酉3.52[6.53分 右偏下20.576]甚→戌1.17[右偏上31.012]復
(京都) 申4.76[下偏右12.724]初→酉1.63[6.34分 右偏下30.580]出→酉2.41[6.53分 右偏下21.310]甚→戌0.06[右偏上30.955]復
(西国) 申3.16[下偏右12.361]初→酉0.81[6.53分 右偏下20.452]甚→酉1.84[6.24分 右偏下8.077]出→酉6.79[右偏上32.936]復
  • 西国では食甚の見えない出帯食だが、記載なし(寛政暦ではすべて記載なし)
1814年11月16 月帯そく: うの八刻上の右よりかけはじめたつの一刻一分余かけながら入食分西国にては深く東国にては見へがたかるべし (東国) 辰0.73[0.00分 上偏右11.668]入→辰0.93[上偏右12.514]初→辰5.85[4.84分 右偏上43.667]甚→巳2.45[右偏上12.659]復
(京都) 卯8.15[上偏右14.065]初→辰0.73[1.47分 上偏右18.541]入→辰4.74[4.84分 右偏上41.556]甚→巳1.33[右偏上9.870]復
(西国) 卯6.55[上偏右18.149]初→辰0.32[3.08分 上偏右30.079]入→辰3.15[4.84分 右偏上36.901]甚→辰8.07[右偏上4.516]復
1815年5月15 月そく皆既: うしの一刻左の下よりかけはじめとらの初刻甚しくとらの七刻下の右におはる東国にてはかけながら入べし (東国) 丑2.33[左偏下11.139]初→寅1.2[10.09分 下偏左34.067]甚→寅7.58[1.64分 下偏右15.179]入→卯0.07[下偏右16.906]復
(京都) 丑1.22[左偏下14.574]初→寅0.09[10.09分 下偏左31.638]甚→寅7.29[下偏右18.472]復
(西国) 子7.96[左偏下19.072]初→丑6.83[10.09分 下偏左29.377]甚→寅5.69[下偏右19.049]復
1815年11月16 月そく皆既: いぬの五刻左と下の間よりかけはじめいの四刻甚しくねの三刻右の方におはる (京都) 戌4.75[下偏左40.613]初→亥3.97[16.83分 左偏上39.087]甚→子3.19[右偏上10.663]復
  • 復円方向角 右偏上10.663 は、不等分割(閾値 10)「右の上」より、等分割(閾値 11.25)「右の方」の方が合う。以降、すべて、等分割の方が頒暦と合致する。
1816年10月17 月帯そく七分: 翌とらの五刻上と左の間よりかけはじめうの三刻左の下に甚しくたつの初刻わづかにかけながら入 (東国) 翌寅5.90[左偏上36.043]初→卯3.77[6.82分 左偏下19.441]甚→辰0.48[1.98分 下偏左19.339]入→辰1.64[下偏左11.826]復
(京都) 翌寅4.79[左偏上36.420]初→卯2.66[6.82分 左偏下18.457]甚→辰0.48[0.08分 下偏左13.681]入→辰0.52[下偏左13.410]復
(西国) 翌寅3.19[左偏上39.607]初→卯1.06[6.82分 左偏下14.893]甚→卯7.26[下偏左17.516]復
  • 西国では帯食ではないが、「西国にては復して入べし」のような記載なし。寛政暦ではすべて記載なし。
1819年3月16 月そく皆既: いぬの五刻下の左よりかけはじめいの四刻甚しくねの四刻右の上におはる (京都) 戌4.99[下偏左11.280]初→亥4.39[17.42分 右偏下31.092]甚→子3.79[右偏上26.282]復
1819年8月16 月そく皆既: いの七刻左の方よりかけはじめねの六刻甚しくうしの五刻下の右におはる (京都) 亥6.81[左偏上9.524]初→子5.91[15.57分 上偏右38.661]甚→丑5.02[下偏右30.323]復
1820年2月17 月そく五分半: うしの五刻上と左の間よりかけはじめとらの三刻上の右に甚しくうの初刻右の上におはる (京都) 丑5.21[上偏左37.803]初→寅2.62[5.41分 上偏右18.944]甚→卯0.04[右偏上20.089]復
1822年12月16 月そく皆既: ねの六刻左の方よりかけはじめうしの五刻甚しくとらの四刻右と下の間におはる (京都) 子5.80[左偏下8.532]初→丑4.85[16.95分 下偏左33.897]甚→寅3.90[下偏右44.928]復
1823年12月16 月帯そく八分: さるの八刻五分余かけながら出とりの三刻左の上に甚しくいぬの一刻上の左におはる (東国) 申6.36[左偏下30.687]初→申8.14[3.51分 左偏下23.229]出→酉4.02[7.97分 左偏上17.158]甚→戌1.67[上偏左21.861]復
(京都) 申5.25[左偏下28.985]初→申8.14[5.37分 左偏下14.574]出→酉2.9[7.97分 左偏上18.234]甚→戌0.56[上偏左21.363]復
(西国) 申3.65[左偏下28.148]初→酉0.17[7.58分 左偏上4.169]出→酉1.31[7.97分 左偏上17.914]甚→酉7.30[上偏左22.779]復
1825年10月17 月そく二分: ねの六刻左と下の間よりかけはじめうしの一刻甚しくうしの四刻におはる (京都) 子5.63[左偏下41.760]初→丑0.81[1.83分 左偏下40.503]甚→丑4.33[下偏左34.936]復
1826年4月16 月そく皆既: いの七刻左の下よりかけはじめねの五刻甚しくうしの四刻右の方におはる (京都) 亥6.66[左偏下12.473]初→子5.48[14.20分 上偏左1.914]甚→丑4.29[右偏下7.101]復
1826年10月16 月そく皆既: ねの初刻左と下の間よりかけはじめねの八刻甚しくうしの八刻下の右におはる (京都) 子0.16[左偏下36.730]初→子8.16[14.45分 下偏左43.647]甚→丑7.82[下偏右11.852]復
1827年4月16 月帯そく: 京都にては見へず東国にては二分ばかりかけながら出いぬの初刻右の上におはる (東国) 申4.02[下偏右7.573]初→酉2.2[9.88分 右偏下22.411]甚→酉7.76[2.10分 右偏上30.641]出→戌0.38[右偏上33.517]復
(京都) 不見
(西国) 不見
  • 東国での出時刻が記載されていない
1827年9月15 月そく九分: ねの五刻上と左の間よりかけはじめうしの四刻右の上に甚しくとらの三刻右と下の間におはる (京都) 子5.52[上偏左34.983]初→丑4.01[8.84分 右偏上30.053]甚→寅2.50[右偏下38.541]復
  • 初虧時刻 子5.52刻を「ねの六刻」ではなく「ねの五刻」
1829年2月16 月そく三分半: いの四刻左の方よりかけはじめいの八刻上と左の間に甚しくねの五刻上の右におはる (京都) 亥3.51[左偏下0.180]初→亥8.18[3.28分 上偏左38.712]甚→子4.51[上偏右19.101]復
1830年2月15 月そく皆既: いぬの六刻下の左よりかけはじめいの六刻甚しくねの六刻右の上におはる (京都) 戌6.40[下偏左27.205]初→亥6.16[16.54分 左偏上40.912]甚→子5.92[右偏上12.187]復
1830年7月17 月帯そく: 京都にては見へず西国にてはうの二刻上の左よりかけはじめ二分余かけながら入 (東国)(京都) 不見
(西国) 卯1.75[上偏左19.224]初→卯2.75[2.48分 上偏左18.996]入→辰0.92[18.03分 左偏下15.571]甚→巳0.08[下偏右18.984]復
  • 西国での入時刻が記載されていない
1831年1月15 月そく七分: ねの五刻左と下の間よりかけはじめうしの三刻下の左に甚しくとらの一刻下の右におはる (京都) 子4.97[下偏左40.910]初→丑2.77[6.96分 下偏左21.246]甚→寅0.58[下偏右16.534]復
1831年7月16 月帯そく五分: とりの六刻五分ばかりかけながら出とりの八刻上と左の間に甚しくいぬの五刻上の方におはる (東国) 酉3.34[左偏上5.560]初→酉6.48[4.02分 左偏上29.182]出→戌0.39[5.02分 上偏左37.450]甚→戌5.77[上偏右12.844]復
(京都) 酉2.23[左偏上5.163]初→酉6.48[4.76分 左偏上39.408]出→酉7.61[5.02分 上偏左38.458]甚→戌4.66[上偏右11.086]復
(西国) 酉0.63[左偏上2.485]初→酉6.02[5.02分 上偏左41.847]甚→酉6.29[5.00分 上偏左38.904]出→戌3.07[上偏右6.774]復
  • 西国では食甚の見えない出帯食だが、記載なし(寛政暦ではすべて記載なし)
1832年閏11月16 月帯そく四分半: さるの八刻四分余かけながら出ほどなく上と左の間に甚しくとりの四刻上の左におはる (東国) 申4.10[左偏上1.462]初→申7.81[4.41分 左偏上25.290]出→酉0.65[4.72分 左偏上35.757]甚→酉5.53[上偏左17.786]復
(京都) 申2.99[左偏上3.484]初→申7.81[4.72分 左偏上36.710]出→申7.87[4.72分 左偏上37.226]甚→酉4.42[上偏左16.780]復
(西国) 申1.39[左偏上4.934]初→申6.27[4.72分 左偏上37.625]甚→申8.2[3.89分 上偏左35.850]出→酉2.82[上偏左17.254]復
  • 食甚食分は、食分密法を用いないと 四分半(4.72分)、用いると五分(4.87分) であり、用いない方が頒暦と合致する。
  • 西国では食甚の見えない出帯食だが、記載なし(寛政暦ではすべて記載なし)
1833年11月17 月帯そく皆既: 翌とらの七刻上の左よりかけはじめうの六刻甚しくたつの一刻月入西国にては八分余かけながら入 (東国) 翌寅8.00[上偏左19.896]初→卯7.23[16.68分 右偏上32.658]甚→辰0.73[13.67分 右偏下33.019]入→辰6.45[右偏下39.489]復
(京都) 翌寅6.89[上偏左19.228]初→卯6.12[16.68分 右偏上31.307]甚→辰0.73[11.10分 右偏下40.861]入→辰5.34[右偏下41.676]復
(西国) 翌寅5.29[上偏左15.804]初→卯4.52[16.68分 右偏上27.409]甚→辰0.32[8.26分 下偏右42.660]入→辰3.75[下偏右43.589]復
  • 「たつの一刻皆既て入」ではなく「たつの一刻月入」。食甚時の食分(皆既)と変わらず入帯することをいうか。
1834年5月15 月帯そく: 京都にては見へず東国にてはいぬの一刻一分余かけながら出ほどなく上の右におはる (東国) 申3.11[下偏左35.029]初→酉2.24[14.07分 左偏上24.975]甚→戌0.75[1.44分 上偏右17.471]出→戌1.36[上偏右19.578]復
(京都)(西国) 不見
  • 東国での出時刻が記載されるようになった
1836年9月15 月そく一分: いの三刻上と左の間よりかけはじめいの六刻上の左に甚しくいの八刻上の右におはる (京都) 亥3.29[上偏左38.063]初→亥5.63[0.83分 上偏左13.905]甚→亥7.98[上偏右13.524]復
1837年3月17 月帯そく: とらの三刻左の上よりかけはじめうの二刻皆既て入 (東国) 寅4.35[左偏上15.355]初→卯1.86[13.54分 左偏上3.089]入→卯3.74[16.40分 下偏左29.133]甚→辰3.13[右偏下36.609]復
(京都) 寅3.24[左偏上13.705]初→卯1.86[15.70分 左偏下20.555]入→卯2.63[16.40分 下偏左28.474]甚→辰2.02[右偏下36.877]復
(西国) 寅1.64[左偏上11.015]初→卯1.03[16.40分 下偏左27.307]甚→卯1.86[15.62分 下偏右15.486]入→辰0.43[右偏下36.995]復
  • 西国のみ食分が見える入帯食だが、いずれも皆既入帯であることには変わりがないので、特段の注記なし。
1837年9月15 月帯そく: 京都にては見へず西国にてはうの六刻上の方よりかけはじめほどなくかけながら入見へがたかるべし (東国)(京都) 不見
(西国) 卯5.71[上偏右4.083]初→卯5.73[0.06分 上偏右4.108]入→辰4.73[14.86分 右偏上14.345]甚→巳3.76[下偏右41.134]復
  • 「ほどなく」(つまり、初虧時刻「うの六刻と同時刻」)という表記ではあるが、西国での入時刻が記載されるようになった
  • 入食分の記載なし。0.06分であり、記載するなら「わづかにかけながら入」か
1838年8月15 月そく九分半: いの六刻左と下の間よりかけはじめねの四刻下の左に甚しくうしの二刻下の方におはる (京都) 亥5.63[左偏下34.054]初→子3.68[9.53分 下偏左25.999]甚→丑1.73[下偏右2.006]復
1840年1月15 月そく三分半: いの三刻右と下の間よりかけはじめいの七刻右の下に甚しくねの三刻におはる (京都) 亥2.74[下偏右39.169]初→亥7.17[3.34分 右偏下29.988]甚→子3.26[右偏下22.198]復
  • 食甚・復円の方向角が、どちらも「右の下」であるため、後者の方向角記載は省略されている。
1841年6月16 月帯そく: とりの八刻皆既て出いぬの七刻右の上におはる (東国) 酉0.04[左偏下41.257]初→酉7.78[16.63分 下偏左6.363]出→酉8.21[16.96分 下偏右31.178]甚→戌8.04[右偏上14.150]復
(京都) 申7.26[左偏下41.616]初→酉7.1[16.96分 下偏右32.387]甚→酉7.78[16.25分 右偏下7.596]出→戌6.93[右偏上16.441]復
(西国) 申5.67[左偏下41.904]初→酉5.5[16.96分 下偏右33.918]甚→酉7.78[12.99分 右偏上17.978]出→戌5.33[右偏上19.432]復
  • 東国のみ食分が見える出帯食だが、いずれも皆既出帯であることには変わりがないので、特段の注記なし。
1841年12月16 月そく八分: うしの初刻上と左の間よりかけはじめうしの六刻上と右の間に甚しくとらの四刻右の方におはる (京都) 丑0.02[上偏左39.312]初→丑6.05[8.10分 上偏右35.682]甚→寅3.75[右偏下5.158]復
1842年6月15 月帯そく三分: いぬの初刻二分ばかりかけながら出いぬの二刻下の右に甚しくいぬの七刻右の下におはる (東国) 酉7.24[下偏右2.859]初→戌0.02[1.23分 下偏右8.583]出→戌3.33[2.96分 下偏右29.916]甚→戌7.75[右偏下35.222]復
(京都) 酉6.13[下偏右4.077]初→戌0.02[2.18分 下偏右16.628]出→戌2.22[2.96分 下偏右31.620]甚→戌6.64[右偏下32.923]復
(西国) 酉4.53[下偏右5.636]初→戌0.02[2.90分 下偏右29.513]出→戌0.62[2.96分 下偏右33.842]甚→戌5.04[右偏下29.898]復

 

日食記事

年月日 頒暦の月食記事 突合結果
1798年10月1 日そく四分半: みの初刻西北の方よりかけはじめみの四刻北の方に甚しくむまの初刻東北の方におはる (京都) 巳0.01[西北]初→巳4.27[4.39分 北]甚→午0.51[東北]復
  • 復円時刻 午0.51刻を「むまの一刻」ではなく「むまの初刻」
  • 寛政暦初年の方向角は、貞享・宝暦暦式の簡易表示
1800年4月1 日そく九分: たつの二刻右の上よりかけはじめたつの八刻下の右に甚しくみの五刻左の方におはる (東国) 辰3.26[右偏上17.845]初→巳0.55[金環9.52分 下偏右21.583]甚→巳6.92[左偏上4.634]復
(京都) 辰2.05[右偏上15.730]初→辰7.5[8.97分 下偏右16.663]甚→巳5.36[左偏下5.383]復
(西国) 辰0.05[右偏上16.692]初→辰5.23[8.51分 下偏右21.608]甚→巳2.80[左偏下19.191]復
  • 京都のみの記載であるため、表示されていないが、計算上、東国は金環食であったはず。
    実際は、東国(江戸)でも完全な金環にはならなかった模様。
1802年8月1 日そく九分: さるの二刻右の下よりかけはじめさるの八刻下の左に甚しくとりの四刻左の上におはる (東国) 申3.82[右偏下26.483]初→酉0.65[8.48分 下偏左22.285]甚→酉5.27[左偏上16.133]復
(京都) 申2.47[右偏下22.837]初→申7.81[8.76分 下偏左22.111]甚→酉4.22[左偏上17.407]復
(西国) 申0.83[右偏下18.105]初→申6.39[金環9.48分 下偏左35.728]甚→酉2.96[左偏上23.162]復
  • 京都のみの記載であるため、表示されていないが、計算上、西国は金環食であったはず。
    実際は、西国(長崎)でも完全な金環にはならなかった模様。
1808年10月1 日そく二分半: みの六刻上の方よりかけはじめむまの二刻上の左に甚しくむまの六刻上と左の間におはる (京都) 巳6.22[上偏右5.162]初→午1.71[2.65分 上偏左22.837]甚→午5.64[左偏上40.028]復
1810年3月1 日そく一分半: みの三刻右と下の間よりかけはじめみの七刻下の方に甚しくむまの二刻左と下の間におはる (京都) 巳3.19[右偏下43.314]初→巳6.52[1.53分 下偏右3.326]甚→午1.66[左偏下44.438]復
1814年6月1 日そく四分: さるの三刻下の方よりかけはじめさるの七刻左と下の間に甚しくとりの二刻左の方におはる (京都) 申3.31[下偏右2.237]初→申6.73[3.78分 左偏下41.913]甚→酉1.57[左偏上6.731]復
1815年6月1 日そく一分: うの七刻上の左よりかけはじめたつの初刻上と左の間に甚しくたつの二刻左の方におはる (京都) 卯6.90[上偏左25.073]初→辰0.38[1.05分 左偏上39.472]甚→辰2.28[左偏上10.563]復
  • 復円方向角 左偏上10.563 は、不等分割(閾値 10)「左の上」より、等分割(閾値 11.25)「左の方」の方が合う。以降、すべて、等分割の方が頒暦と合致する。
1817年4月1 日そく二分: さるの八刻下の左よりかけはじめとりの三刻左の下に甚しくとりの六刻左の上におはる (京都) 申8.27[下偏左33.633]初→酉3.12[2.12分 左偏下17.149]甚→酉6.04[左偏上15.239]復
1817年10月1 日そく三分: みの初刻右の上よりかけはじめみの三刻右の下に甚しくみの七刻下の方におはる (京都) 巳0.13[右偏上27.877]初→巳3.52[2.90分 右偏下22.200]甚→巳7.16[下偏右10.699]復
  • 食甚時刻 巳3.52刻を「みの四刻」ではなく「みの三刻」
1818年4月1 日帯そく四分: とりの二刻右と下の間よりかけはじめとりの六刻右の上に甚しくとりの七刻二分余かけながら入 (東国) 酉2.74[右偏下37.854]初→酉6.62[4.07分 右偏上20.496]甚→酉7.41[3.83分 右偏上37.672]入→戌1.83[上偏右10.829]復
(京都) 酉1.62[右偏下36.771]初→酉5.51[3.78分 右偏上19.095]甚→酉7.41[2.55分 上偏右34.958]入→戌0.72[上偏右14.658]復
(西国) 酉0.36[右偏下32.195]初→酉3.94[2.77分 右偏上14.853]甚→酉7.14[0.15分 上偏右28.110]入→酉7.24[上偏右27.085]復
1821年2月1 日そく六分: さるの一刻下の左よりかけはじめさるの五刻左の方に甚しくとりの一刻上の左におはる (京都) 申1.11[下偏左16.069]初→申5.21[5.94分 左偏上2.200]甚→酉0.64[上偏左27.114]復
1823年6月1 日そく一分にみたず: さるの八刻上と右の間よりかけはじめとりの一刻甚しくとりの二刻上の右におはる西国にてハ見へがたかるべし (東国) 酉0.43[右偏上28.078]初→酉1.92[0.81分 上偏右36.064]甚→酉3.33[上偏右14.746]復
(京都) 申8.16[右偏上36.088]初→酉0.82[0.34分 上偏右36.378]甚→酉1.77[上偏右23.610]復
(西国) 無食
1824年6月1 日そく八分半: うの五刻上の右よりかけはじめたつの一刻甚しくたつの五刻左と下の間におはる (京都) 卯4.91[上偏右23.800]初→辰0.73[8.71分 左偏上36.779]甚→辰5.39[下偏左35.405]復
  • 八分以上の日食の場合(?) 食甚時の方向角が表示されないようになったようだ。
1828年9月1 日そく一分半: うの七刻右の上よりかけはじめたつの一刻右の方に甚しくたつの四刻右と下の間におはる (東国) 辰0.24[右偏上12.473]初→辰2.49[1.08分 右偏下10.496]甚→辰4.92[下偏右44.237]復
(京都) 卯7.22[右偏上15.530]初→辰1.27[1.32分 右偏下10.118]甚→辰3.85[下偏右42.132]復
(西国) 卯4.93[右偏上27.424]初→卯5.27[0.47分 右偏上23.756]出→卯7.84[2.25分 右偏下7.289]甚→辰2.68[下偏右35.403]復
  • 西国では出帯食だが「西国にてはかけながら出べし」のような記載なし。0.47分のわずかなかけであり、帯食でない扱い?
1829年9月1 日そく六分: たつの四刻上の方よりかけはじめみの二刻左の上に甚しくむまの初刻左の下におはる (京都) 辰4.19[上偏左6.358]初→巳1.81[6.16分 左偏上22.696]甚→午0.23[左偏下25.592]復
1833年6月1 日そく四分半: さるの六刻右の下よりかけはじめとりの二刻上と右の間に甚しくとりの五刻上の左におはる (京都) 申6.34[右偏下14.831]初→酉1.5[4.71分 上偏右43.661]甚→酉4.72[上偏左13.068]復
1839年8月1 日帯そく: うの三刻六分余かけながら出うの六刻下の方におはる東国にては深く西国にては浅かるべし (東国) 寅6.65[上偏右12.707]初→卯2.5[9.55分 左偏上33.333]甚→卯2.98[8.72分 下偏左23.874]出→卯7.12[下偏左9.461]復
(京都) 寅5.67[上偏右15.076]初→卯1.43[金環9.70分 上偏左42.647]甚→卯2.98[6.31分 下偏左12.052]出→卯5.92[下偏左9.331]復
(西国) 寅4.29[上偏右18.831]初→寅8.26[金環9.65分 右偏下3.272]甚→卯2.98[2.80分 下偏左9.428]出→卯4.26[下偏左9.021]復
  • 「(食分)東国にては深く西国にては浅かるべし」の「食分」が付かないパターン。1805年6月月食参照。
  • 食甚が見えない帯食のため記載されていないが、 計算上、京都・西国は金環食であったはず。
    実際は、東国(江戸)でも金環食であり、かつ、食甚が見える出帯食で、日出後すぐに金環が見えた模様。
1840年2月1 日そく五分: むまの六刻右の下よりかけはじめひつじの三刻右の上に甚しくひつじの八刻上の右におはる (京都) 午5.80[右偏下22.705]初→未2.68[5.26分 右偏上18.984]甚→未7.62[上偏右20.976]復
  • 食甚食分 5.26分を、「五分半」ではなく「五分」
1842年6月1 日そく七分半: さるの五刻右と下の間よりかけはじめとりの初刻左と下の間に甚しくとりの四刻左の上におはる (京都) 申4.58[下偏右34.886]初→酉0.39[7.54分 下偏左38.637]甚→酉4.18[左偏上20.786]復
1843年11月1 日そく七分: ひつじの五刻下の右よりかけはじめさるの一刻左の下に甚しくさるの六刻上と左の間におはる (京都) 未4.61[下偏右28.050]初→申1.43[6.78分 左偏下31.068]甚→申6.00[上偏左44.936]復

以上。

これにて、寛政暦の日月食法についての説明は終わり。

次回から、天保暦の日月食法について。まずは月食法から。


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