2021年8月1日日曜日

頒暦日月食記事との突合(天保暦)

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前回までで、天保暦における月食・日食の計算方法の説明が完了した。

今回は、記載した算出方法によって計算したものを、実際の天保暦の頒暦の記載と突合する。

記載日・時刻

食記事を記載する日、時刻表記については、宝暦暦後期・寛政暦におけるものと同様で、月食は、日出を一日の境界として、望/食甚が所属する日に食記事を記載する。

時刻は不定時法で表記し、
午前は「今暁九時」「今暁八時」「今暁七時」「明六時」「朝五時」「朝四時」、
午後は「昼九時」「昼八時」「夕七時」「暮六時」「夜五時」「夜四時」、
そして「時」の 1/10 を分として「○時○分」のように表記される。月食において夜半24:00~翌日の日の出までの時刻を表記するとき、「翌暁九時」「翌暁八時」「翌暁七時」「翌明六時」などのような表記となる。

ただし、「今暁」「昼」などのプレフィックスをつけないと午前なのか午後なのかがまったくわからない節気・土用の時刻表示と異なり、「月食なら夜、日食なら昼」ということがわかっているので、プレフィックスを省略することがある。

嘉永四(1851)年あたりまでは、月食において、つけないと今朝なのか夕方なのか翌朝なのかがわかりづらい七時・六時あたりは「今暁七時」「明六時」「夕七時」のようにプレフィックスをつけたようだが、それ以外はついていない。日食では、つけなくても「明六時~夕七時」の範囲でしかありえず多義性がないため、まったくプレフィックスをつけなかった。

嘉永五(1852)年以降は、ひとつめの時刻(初虧時刻または出帯時刻)では必ずプレフィックスをつけるようになり、ふたつめ以降も、七時・六時・五時や、昼九時など、つけた方がわかりやすそうなところにはプレフィックスをつけたようだ。ただし、直前の時刻と同じ「時」である場合は、プレフィックスはつけない。

「分」は四捨五入して表記される。節気・土用の時刻表記では、

  • 天保暦改暦当初二年(1844~1845)、四捨五入したら「時」が繰り上がってしまうとき、繰り上げず、切り捨てる。例えば、「明六時9.80分」を「朝五時」などとはせず、「明六時九分」とする。
  • それ以降は、四捨五入で「時」が繰り上がる場合でも、気にせず繰り上げるようになった。ただし、四捨五入して「時」を繰り上げると日が変わってしまうとき(夜四時9.5分 → 翌日の今暁九時になってしまうとき)は、切り捨てて「夜四時九分」とする。

となっていた。前者の方は、日月食では実例がない。後者の方は、そもそも、月食で夜半 24:00 は記載日の閾値ではない(日の出が記載日の閾値である)ので、特に意識なく切り上げる。ただし、その場合でも、実際は翌日ではなく当日の時刻であるので、「翌暁九時」ではなく「夜九時」と表記している。

食分

食甚食分は、0.5分単位に四捨五入され、「○分」「○分半」のように表記される。10分以上のときは「皆既」。四捨五入して 1分に満たない(0.75分未満)のときは「一分にみたず」となる。四捨五入すると10分となるが実際は10分未満(9.75分以上)のときは「九分半余」。

出入帯時の食分については、寛政暦では食甚食分同様に 0.5分単位に四捨五入され、「○分」は「○分ばかり」、「○分半」は「○分余」と記載されていた(3.75~4.25分が「四分ばかり」、4.25~4.75分が「四分余」)。天保暦では、どうやら、「○分弱」を「○分ばかり」、「○分強」を「○分余」としたようで、3.50~4.00分が「四分ばかり」、4.00~4.50分が「四分余」であるようだ。「○分ばかり」「○分余」の語感としては、この方が直感的かも知れない。

方向角

方向角は、寛政暦同様「下の方」「下の左」「左と下の間」「左の下」「左の方」「左の上」「上と左の間」「上の左」「上の方」「上の右」「上と右の間」「右の上」「右の方」「右の下」「右と下の間」「したの右」の十六方位で示される。

寛政暦の頒暦では使用されているものの、暦法新書(寛政)の条文上は、この十六方位は示されていなかったが、天保暦の新法暦書では、条文上も「下方・下偏左・左方下方の間・左偏下・左方・左偏上・上方左方の間・上偏左・上方・上偏右・上方右方の間・右偏上・右方・右偏下・右方下方の間・下偏右」として、この十六方位が示されている。

22.5° 単位の四捨五入により、360° の方向角が、十六方位に変換される。

地方食表示

地方食表示については、基本は寛政暦と同じである。

寛政暦では、東国・西国の場所は、暦法上明示されておらず、経緯度もはっきりとはわからないので、結果の数値から帰納するしかなかったが、それでも、概ね「東国は江戸、西国は長崎」であろうとの想像はついた。

天保暦では、新法暦書の条文上、江戸・長崎の経緯度が示されているので、「東国は江戸、西国は長崎」であることがはっきりしている。

地方食で表示される文言は、下記のとおり(以前記載したものの再掲)。寛政暦で実例がなかった出帯E1, 出帯F, 入帯D は、天保暦で実例がある。寛政暦では、計算上は実例となるものがあるのだが、地方食文言が記載されていなかった入帯F が、天保暦では記載さされている。
出帯 西国 / 東国
通常食 見甚出帯 見甚出帯
(皆既)
不甚出帯
(皆既)
不甚出帯 不甚出帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚出帯 F - C D
見甚出帯(皆既) E2 - - E1
不甚出帯(皆既) - -
不甚出帯 G H
不甚出帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -


入帯 西国 / 東国
通常食 見甚入帯 見甚入帯
(皆既)
不甚入帯
(皆既)
不甚入帯 不甚入帯
(小食)
不見/無食

通常食 - A B
見甚入帯 F - C D
見甚入帯(皆既) E2 - - E1 
不甚入帯(皆既) - -
不甚入帯 G H
不甚入帯(小食) -(見へがたかるべし)
不見/無食 I -


分類 記載文言 寛政暦実例 天保暦実例
出帯A 西国にてはかけながら出べし ×1828/九月日食 1859/正月月食
出帯B 西国にては見へがたかるべし 1823/六月日食 -
出帯C ? 西国にては皆既て出べし ? - -
出帯D 西国にては甚しきを見ざるべし ×1807/十月月食
×1813/正月月食
×1831/七月月食
×1832/閏十一月月食
1869/七月日食
出帯E1 西国にては[出時食分]かけながら出 - 1855/九月食
出帯E2 東国にては[出時食分]かけながら出 - -
出帯F 東国にては出てかけはじむべし - 1861/十一月月食
1873/四月月食
出帯G 東国にては深く西国にては浅かるべし 1839/八月日食 1856/三月月食
1867/二月月食
出帯H [東国にては深く]西国にては見へがたかるべし 1801/八月月食 1850/七月日食
1854/五月日食
出帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
東国にては[食〇分]……
1827/四月月食
1834/五月月食
1851/十二月月食
入帯A 東国にてはかけながら入べし ×1798/四月月食
1815/五月月食
-
入帯B 東国にては見へがたかるべし - -
入帯C ? 東国にては皆既て入べし ? - -
入帯D 西国にては[入時食分]かけながら入べし - 1850/正月日食
入帯E1 東国にては[出時食分]かけながら入 - -
入帯E2 西国にては[出時食分]かけながら入 1833/十一月月食 -
入帯F 西国にては復して入べし ×1816/十月月食
1854/九月月食
入帯G [食分]東国にては浅く西国にては深かるべし 1805/六月月食 1847/二月月食
1858/正月月食
入帯H 食分西国にては深く東国にては見へがたかるべし 1814/十一月月食 -
入帯I 月(帯)そく 京都にては見へず
西国にては[食〇分]……
1830/七月月食
1837/九月月食
1844/十月月食
1857/八月日食
1868/七月日食

出入帯I において、寛政暦の初期では、東国/西国における出入帯時刻が記載されないことがあったが、天保暦ではすべて記載されている。

頒暦との突合

下記に、頒暦の日月食記事とを突合したものと、当方で計算したものとの比較を示す。

当方での計算結果で、例えば

明六2.05[上偏左40.679]初→明六2.96[1.57分 上偏左42.818]入→朝五2.17[14.37分 左偏下41.371]甚→朝四2.29[右偏下39.764]復

と記載しているとき、

時点 時刻 方向角 食分
初虧 明六時2.05分 上偏左40°.679 -
入帯 明六時2.96分 上偏左42°.818 1.57分
食甚 朝五時2.17分
左偏下41°.371 14.37分(皆既)
復円 朝四時2.29分 右偏下39°.764 -

であることを意味する。

東国、京都、西国、それぞれでの算出結果を記載したが、いずれの地域でも帯食ではなく、地方食文言が記載されないことが明らかな場合、京都のみの記載とし、東国・西国での計算結果は省略した。

時刻・食分・方向角などの数値が頒暦と合わない場合、赤字で注記した。天保暦では、施行期間が長くないというのもあるにせよ、「数値が合わない」という例があまりなく、優秀。

「二分余」とあるべきところ「二分ばかり」となっている例が 3 例あるのは、「数値が合わない」というより、「ばかり」と「余」の使い分けが徹底されていないと見るべきか。それを除くと、「数値が合わない」というのは、1869年十二月月食の初虧方向角、下偏左33°.645 を「左と下の間」としている、この一件のみ。下偏左11°.25~33°.75 が「下の左」、下偏左33°.75~45°と左偏下33°.75~45°が「左と下の間」なので、下偏左33°.645 は「下の左」であるべきである。


年月日 頒暦の月食記事 突合結果
1844年
10月
16
月帯そく: 京都にては見へず西国にては明六時二分上と左の間よりかけはじめ六時三分二分ばかりかけながら入 (西国) 明六2.05[上偏左40.679]初→明六2.96[1.57分 上偏左42.818]入→朝五2.17[14.37分 左偏下41.371]甚→朝四2.29[右偏下39.764]復
  • 1.57分で、1.75~2.25分を「二分ばかり」とする。宝暦暦後期~寛政暦式の出入時食分だと「一分余」となるべきところ。
    1.50~2.00分を「二分ばかり」とする天保暦式なのだろう。
1845年
4月
17
月そく皆既: 四時六分左と下の間よりかけはじめ九時七分甚しく八時八分右と下の間におはる (京都) 夜四5.56[左偏下39.830]初→翌暁九6.81[10.90分 下偏左7.881]甚→翌暁八8.06[下偏右38.120]復
1847年
2月
16
月帯そく: 明六時上の方よりかけはじめ六時二分二分ばかりかけながら入食分東国にては浅く西国にては深かるべし (京都) 明六0.45[上偏右3.480]初→明六2.25[1.77分 上偏右15.346]入→明六5.20[2.97分 上偏右37.814]甚→明六9.94[右偏上19.811]復
(東国) 明六1.67[上偏右3.287]初→明六2.22[0.61分 上偏右6.722]入→明六6.41[2.97分 上偏右37.080]甚→朝五1.15[右偏上21.121]復
(西国) 暁七8.28[上偏右4.783]初→明六2.31[2.79分 上偏右31.008]入→明六3.42[2.97分 上偏右39.893]甚→明六8.17[右偏上16.932]復
  • 「東国にては浅く西国にては深かるべし」文言の前に「食分」がついている。天保暦の他の例では「食分」なし。
  • 単に「六時」だと今朝の「明六時」なのか、夕方の「暮六時」なのか、翌朝の「翌明六時」なのか、区別つかないので「明六時」
1847年
8月
15
月そく四分半: 四時二分下の左よりかけはじめ四時九分甚しく九時五分下の方におはる (京都) 夜四2.29[下偏左30.965]初→夜四8.56[4.31分 下偏左12.263]甚→翌暁九4.83[下偏右4.014]復
  • 食甚方向角が、初虧方向角「下の左」と同表記となるため、記載されていない。
1848年
2月
16
月帯そく: 今暁七時三分上と左の間よりかけはじめ明六時三分皆既て入 (京都) 暁七2.90[左偏上40.684]初→明六2.57[15.94分 上偏右14.366]入→明六3.00[16.11分 上偏右37.297]甚→朝五1.83[右偏下26.948]復
(東国) 暁七4.40[左偏上40.916]初→明六2.54[14.16分 上偏左22.437]入→明六4.23[16.10分 上偏右36.517]甚→朝五3.07[右偏下25.030]復
(西国) 暁七0.75[左偏上41.401]初→明六1.24[16.10分 上偏右39.462]甚→明六2.61[14.70分 右偏下3.149]入→朝五0.07[右偏下30.658]復
  • 1855年九月月食で、食甚が見えない皆既出帯のとき、「月帯そく皆既」と表題部食分を記載しているが、この皆既入帯では表題部食分を記載していない。
    入帯と出帯の違いなのか、1848年と1855年の時期の違いなのか。
1849年
7月
17
月そく六分: 九時五分上の左よりかけはじめ八時三分上と右の間に甚しく七時二分右の下におはる (京都) 翌暁九5.13[上偏左14.958]初→翌暁八3.37[5.80分 右偏上39.075]甚→翌暁七1.61[右偏下19.211]復
1850年
12月
17
月そく五分: 九時二分上の左よりかけはじめ九時八分上と右の間に甚しく八時四分右の方におはる (京都) 翌暁九2.33[上偏左23.478]初→翌暁九7.91[4.77分 右偏上43.696]甚→翌暁八3.50[右偏下5.682]復
1851年
12月
16
月帯そく: 京都にては見へず東国にては夕七時七分二分余かけながら出七時八分上の右におはる (東国) 昼九8.38[左偏下17.931]初→昼八8.26[16.74分 上偏左41.492]甚→夕七6.98[2.15分 上偏右32.012]出→夕七8.14[上偏右31.281]復
1852年
5月
15
月そく皆既: 夜四時左の方よりかけはじめ九時三分甚しく八時六分右の下におはる (京都) 夜五9.76[左偏下9.735]初→翌暁九2.89[15.14分 上偏右4.317]甚→翌暁八6.01[右偏下16.631]復
  • ここから、ひとつめの時刻(初虧時刻の夜四時)にはプレフィックスを必ずつけるようになる。
1852年
11月
16
月そく六分半: 夜五時四分下の方よりかけはじめ四時一分右と下の間に甚しく四時八分右の下におはる (京都) 夜五4.13[下偏右8.945]初→夜四1.00[6.67分 右偏下34.871]甚→夜四7.87[右偏下13.905]復
1854年
4月
17
月そく二分半: 夜九時下の方よりかけはじめ九時六分甚しく八時二分下の右におはる (京都) 夜四9.63[下偏左9.003]初→翌暁九5.74[2.55分 下偏右7.780]甚→翌暁八1.85[下偏右26.174]復
  • 食甚方向角が、初虧方向角「下の方」と同表記となるため、記載されていない。 
  • 初虧時刻「夜四時9.63分」を分単位四捨五入し、(翌暁九時ではなく)「夜九時」とする。
1854年
9月
15
月帯そく一分にみたず: 翌明六時右の上よりかけはじめ六時二分甚しく六時三分かけながら入西国にては復して入べし (京都) 翌暁七9.71[右偏上25.124]初→翌明六2.08[0.58分 右偏上12.278]甚→翌明六2.91[0.51分 右偏上8.006]入→翌明六4.46[右偏下0.543]復
(東国) 翌明六1.00[右偏上26.527]初→翌明六2.85[0.54分 右偏上17.059]入→翌明六3.38[0.57分 右偏上13.954]甚→翌明六5.76[右偏上1.327]復
(西国) 翌暁七8.08[右偏上22.021]初→翌明六0.41[0.58分 右偏上8.815]甚→翌明六2.78[右偏下4.252]復
  • 寛政暦では記載されなかった入帯F「西国にては復して入べし」が、天保暦では記載される例。
  • 初虧「翌暁七時9.71分」を、分単位四捨五入した結果「時」が繰り上がり、「翌明六時」となる。
  • 入帯食分が表記されていない。0.51分なので「六時三分わづかにかけながら入」とあるべきところ。
    食甚食分「一分にみたず」で、それと入帯食分「わづかに」とに重複感があるため記載していないのだろうか。
  • 食甚方向角が、初虧方向角「右の上」と同表記となるため、記載されていない。
1855年
9月
15
月帯そく皆既: 夕七時七分皆つきて出暮六時三分上と右の間におはる西国にては六分余かけながら出 (京都) 昼八5.12[左偏下3.122]初→夕七3.84[14.69分 上偏左25.788]甚→夕七7.25[10.498分 上偏右33.035]出→暮六2.59[右偏上42.583]復
(東国) 昼八6.51[左偏下4.697]初→夕七5.24[14.70分 上偏左26.241]甚→夕七7.21[12.95分 上偏右18.853]出→暮六4.02[右偏上42.160]復
(西国) 昼八3.10[左偏下1.548]初→夕七1.75[14.67分 上偏左26.074]甚→夕七7.32[6.27分 上偏右41.063]出→暮六0.42[右偏上44.203]復
  • 「皆既て出」ではなく「皆つきて出」
  • 食甚が見えない食だが、出帯食分が皆既であるので、「月帯そく皆既」と表題部食分を表記している。
1856年
3月
16
月帯そく: 夕七時八分六分余かけながら出暮六時三分上の左におはる東国にては深く西国にては浅かるべし (京都) 昼八9.25[下偏左44.919]初→夕七5.67[7.02分 左偏上8.545]甚→夕七7.61[6.21分 左偏上30.882]出→暮六3.10[上偏左23.734]復
(東国) 夕七0.35[左偏下44.368]初→夕七6.75[7.02分 左偏上9.883]甚→夕七7.57[6.87分 左偏上19.748]出→暮六4.71[上偏左21.631]復
(西国) 昼八7.74[下偏左42.650]初→夕七4.21[7.01分 左偏上5.537]甚→夕七7.65[4.66分 左偏上41.680]出→暮六0.98[上偏左27.701]復
1858年
1月
15
月帯そく: 明六時一分左の下よりかけはじめ六時三分二分ばかりかけながら入東国にては浅く西国にては深かるべし (京都) 明六0.88[左偏下27.528]初→明六3.05[2.15分 左偏下41.352]入→明六5.96[3.30分 下偏左25.167]甚→朝五1.04[下偏右14.275]復
(東国) 明六2.14[左偏下28.640]初→明六3.04[0.99分 左偏下33.909]入→明六7.23[3.31分 下偏左23.548]甚→朝五2.33[下偏右16.543]復
(西国) 暁七9.10[左偏下24.839]初→明六3.05[3.11分 下偏左38.343]入→明六4.22[3.30分 下偏左28.497]甚→明六9.27[下偏右10.097]復
  • 2.15分であり、「二分余かけながら出」であるべき。
1858年
7月
16
月そく五分: 夜五時八分上と左の間よりかけはじめ四時六分上の右に甚しく九時四分右の上におはる (京都) 夜五8.06[上偏左44.951]初→夜四6.04[4.76分 上偏右15.710]甚→翌暁九4.03[右偏上11.282]復
1859年
1月
15
月そく皆既: 夕七時八分下の方よりかけはじめ暮六時七分甚しく夜五時六分上の右におはる西国にてはかけながら出べし (京都) 夕七8.37[下偏左3.822]初→暮六7.25[16.92分 右偏下7.274]甚→夜五6.16[上偏右17.480]復
(東国) 夕七9.78[下偏左3.858]初→暮六8.67[16.91分 右偏下8.273]甚→夜五7.55[上偏右20.240]復
(西国) 夕七6.24[下偏左2.780]初→夕七6.79[1.16分 下偏左2.134]出→暮六5.11[16.93分 右偏下4.814]甚→夜五4.08[上偏右12.592]復
1859年
7月
16
月そく皆既: 夜四時七分左の上よりかけはじめ八時甚しく七時三分下の右におはる (京都) 夜四7.17[左偏上17.705]初→翌暁九9.91[18.02分 左偏下42.538]甚→翌暁七2.64[下偏右22.128]復
1860年
6月
16
月そく四分半: 翌暁九時七分左の方よりかけはじめ八時六分左と下の間に甚しく七時四分下の左におはる (京都) 翌暁九7.14[左偏下11.150]初→翌暁八5.68[4.44分 左偏下36.865]甚→翌暁七4.21[下偏左24.084]復
1861年
11月
16
月帯そく二分: 夕七時六分一分ばかりかけながら出七時九分右の下に甚しく暮六時三分右の方におはる東国にては出てかけはじむべし (京都) 夕七4.72[下偏右26.838]初→夕七6.18[0.97分 下偏右36.224]出→夕七9.42[1.88分 右偏下31.832]甚→暮六3.47[右偏下1.719]復
(東国) 夕七6.34[下偏右27.927]初→暮六0.89[1.89分 右偏下31.132]甚→暮六4.84[右偏下1.314]復
(西国) 夕七2.24[下偏右26.090]初→夕七6.38[1.86分 右偏下35.238]出→夕七6.84[1.88分 右偏下31.931]甚→暮六1.26[右偏下1.323]復
1862年
10月
15
月帯そく皆既: 夕七時七分皆既て出暮六時六分上と右の間におはる (京都) 昼八5.79[下偏左41.238]初→夕七6.17[14.18分 右偏下39.685]甚→夕七6.52[14.13分 右偏下30.756]出→暮六5.61[上偏右43.979]復
(東国) 昼八7.35[下偏左39.259]初→夕七6.44[13.57分 下偏右19.809]出→夕七7.78[14.17分 右偏下38.768]甚→暮六6.97[上偏右43.902]復
(西国) 昼八3.47[下偏左43.571]初→夕七3.69[14.16分 右偏下40.151]甚→夕七6.68[11.61分 右偏上15.982]出→暮六3.45[上偏右43.054]復
  • 食甚が見えない食だが、出帯食分が皆既であるので、「月帯そく皆既」と表題部食分を表記している。
1863年
10月
15
月帯そく九分半: 夕七時七分四分ばかりかけながら出暮六時三分上と左の間に甚しく夜五時上の方におはる (京都) 夕七4.00[左偏下15.663]初→夕七6.63[3.99分 左偏下8.789]出→暮六2.55[9.49分 左偏上38.214]甚→夜五0.40[上偏右6.188]復
(東国) 夕七5.56[左偏下16.628]初→夕七6.57[1.57分 左偏下14.252]出→暮六3.93[9.48分 左偏上38.007]甚→夜五1.75[上偏右6.896]復
(西国) 夕七1.62[左偏下15.112]初→夕七6.76[7.29分 左偏上3.811]出→暮六0.35[9.49分 左偏上37.528]甚→暮六8.30[上偏右4.093]復
1866年
8月
16
月そく皆既: 夜五時六分左の下よりかけはじめ四時六分甚しく九時六分右と下の間におはる (京都) 夜五6.22[左偏下30.519]初→夜四6.13[16.01分 下偏左3.026]甚→翌暁九6.04[下偏右43.403]復
1867年
2月
15
月帯そく: 夕七時七分七分余かけながら出暮六時三分上と右の間におはる東国にては深く西国にては浅かるべし (京都) 昼八8.85[下偏右13.891]初→夕七5.84[7.94分 右偏下17.350]甚→夕七7.41[7.41分 右偏上0.834]出→暮六3.44[右偏上37.060]復
(東国) 夕七0.09[下偏右14.193]初→夕七7.08[7.95分 右偏下17.907]甚→夕七7.36[7.93分 右偏下14.530]出→暮六4.94[右偏上35.726]復
(西国) 昼八7.08[下偏右14.497]初→夕七4.07[7.94分 右偏下15.498]甚→夕七7.49[5.60分 右偏上20.328]出→暮六1.30[右偏上39.981]復
1869年
6月
15
月そく五分半: 夜五時三分下の左よりかけはじめ四時三分下の方に甚しく九時二分右と下の間におはる (京都) 夜五3.12[下偏左21.131]初→夜四2.78[5.71分 下偏右8.453]甚→翌暁九2.44[下偏右35.024]復
1869年
12月
16
月そく皆既: 夜四時左と下の間よりかけはじめ四時八分甚しく九時七分右と下の間におはる (京都) 夜五9.55[下偏左33.645]初→夜四8.15[16.52分 上偏左24.265]甚→翌暁九6.748[右偏下36.128]復
  • 初虧方向角は「下の左」であるべき。閾値は下偏左33°.75 だから、微妙なライン。
1870年
11月
17
月帯そく七分: 翌暁七時二分左の上よりかけはじめ七時九分左と下の間に甚しく明六時四分三分余かけながら入 (京都) 翌暁七1.73[左偏上21.195]初→翌暁七8.66[6.76分 左偏下34.784]甚→翌明六3.78[3.43分 下偏左11.112]入→翌明六6.52[下偏右3.836]復
(東国) 翌暁七2.89[左偏上19.779]初→翌暁七9.79[6.76分 左偏下36.622]甚→翌明六3.76[4.81分 下偏左18.244]入→翌明六7.88[下偏右6.239]復
(西国) 翌暁七0.21[左偏上24.625]初→翌暁七7.24[6.76分 左偏下31.025]甚→翌明六3.75[1.46分 下偏左6.006]入→翌明六4.84[下偏左0.545]復
1871年
5月
15
月そく三分半: 夜五時一分左の上よりかけはじめ五時九分上の左に甚しく四時六分上の右におはる (京都) 夜五1.28[左偏上21.278]初→夜五8.66[3.37分 上偏左22.864]甚→夜四6.04[上偏右25.331]復
1873年
4月
16
月帯そく皆既: 夕七時七分二分余かけながら出暮六時六分甚しく夜五時八分上と右の間におはる東国にては出てかけはじむべし (京都) 夕七6.21[下偏左2.778]初→夕七7.20[2.39分 下偏左1.964]出→暮六5.90[14.41分 右偏下25.878]甚→夜五8.23[右偏上33.986]復
(東国) 夕七7.20[下偏左4.610]初→暮六7.61[14.40分 右偏下28.599]甚→夜四0.01[右偏上30.182]復
(西国) 夕七4.92[下偏右0.900]初→夕七7.25[5.52分 下偏右4.053]出→暮六3.74[14.42分 右偏下21.125]甚→夜五5.87[右偏上40.094]復
1873年
9月
16
月そく皆既: 夜四時七分左の上よりかけはじめ九時六分甚しく八時四分下の右におはる (京都) 夜四7.16[左偏上18.477]初→翌暁九5.73[14.17分 右偏上30.841]甚→翌暁八4.30[下偏右25.244]復



年月日 頒暦の日食記事 突合結果
1849年
2月
1
日そく九分半: 五時三分右の上よりかけはじめ四時甚しく四時八分左の上におはる (京都) 朝五3.31[右偏上23.153]初→朝四0.42[9.41分 下偏右9.150]甚→朝四8.18[左偏上14.013]復
  • 寛政暦後期と同様、食分が大きい(八分以上?)日食において、食甚時の方向角が記載されない。記載されておれば「四時下の方に甚しく」であったはず。
1850年
1月
1
日帯そく三分半: 七時一分下の左よりかけはじめ七時六分左の下に甚しく七時七分三分余かけながら入西国にては二分ばかりかけながら入るべし (京都) 夕七1.00[下偏左18.351]初→夕七5.90[3.65分 左偏下15.295]甚→夕七7.13[3.29分 左偏上3.903]入→暮六0.28[左偏上37.624]復
(東国) 夕七2.51[下偏左17.965]初→夕七7.12[3.74分 左偏下19.286]入→夕七7.32[3.75分 左偏下15.786]甚→暮六1.63[左偏上37.728]復
(西国) 昼八8.55[下偏左17.377]初→夕七3.77[3.80分 左偏下13.417]甚→夕七7.15[1.52分 左偏上31.598]入→夕七8.33[左偏上40.903]復
  • 「東国にては甚しきを見ざるべし」とかが、文言としては適切なように思うが、「西国にては二分ばかりかけながら入るべし」。
    1869年七月日食「西国にては甚しきを見ざるべし」参照。
1850年
7月
1
日帯そく: 六時二分二分ばかりかけながら出六時四分下の右におはる東国にては深く西国にては見へがたかるべし (京都) 暁七9.74[右偏上4.815]初→明六1.96[2.33分 右偏下31.926]甚→明六2.43[2.21分 右偏下41.489]出→明六4.17[下偏右20.927]復
(東国) 明六0.88[右偏上6.793]初→明六2.42[2.23分 右偏下17.774]出→明六3.09[2.48分 右偏下31.405]甚→明六5.41[下偏右20.099]復
  • 「二分余かけながら出」であるべき
1852年
11月
1
日そく九分半余: 朝四時七分右の上よりかけはじめ昼九時五分甚しく八時三分左の上におはる (京都) 朝四6.81[右偏上23.302]初→昼九4.86[9.95分 下偏左0.008]甚→昼八2.68[左偏上19.763]復
  • 食分が大きい日食なので、食甚時の方向角(「下の方」)が記載されない。
  • 一つ目の時刻(初虧の朝四時)にプレフィックスがつくようになる。「昼九時」にもプレフィックスをつけたようだ。
1854年
5月
1
日帯そく: 明六時二分二分ばかりかけながら出六時四分下の方におはる東国にては深く西国にては見へがたかるべし (京都) 暁七8.96[右偏下21.169]初→明六1.80[2.46分 下偏右31.090]甚→明六2.47[2.27分 下偏右17.826]出→明六4.34[下偏左8.943]復
(東国) 明六0.42[右偏下19.669]初→明六2.46[2.49分 下偏右39.265]出→明六2.89[2.58分 下偏右31.276]甚→明六5.52[下偏左9.960]復
  • 「二分余かけながら出」であるべき。
1856年
9月
1
日そく四分半: 朝四時九分上の方よりかけはじめ昼九時六分上の左に甚しく八時二分左の上におはる (京都) 朝四9.05[上偏右7.295]初→昼九5.65[4.56分 上偏左23.006]甚→昼八1.88[左偏上28.802]復
1857年
8月
1
日そく: 京都にては見へず西国にては食一分にみたず昼九時九分下の右よりかけはじめ八時一分下の方に甚しく八時三分下の左におはる (西国) 昼九8.83[下偏右24.149]初→昼八1.20[0.57分 下偏左3.674]甚→昼八3.42[下偏左27.188]復
1861年
6月
1
日そく三分: 朝四時右の上よりかけはじめ四時四分右の下に甚しく四時八分下の方におはる (京都) 朝五9.78[右偏上28.681]初→朝四3.82[2.91分 右偏下20.494]甚→朝四8.15[下偏左2.794]復
1862年
11月
1
日そく一分半: 昼八時二分右の上よりかけはじめ八時六分上と右の間に甚しく八時九分上の右におはる (京都) 昼八2.23[右偏上15.416]初→昼八5.70[1.41分 右偏上38.943]甚→昼八8.99[上偏右26.081]復
1864年
4月
1
日そく五分: 朝五時一分右の方よりかけはじめ五時五分右と下の間に甚しく四時下の左におはる (京都) 朝五1.41[右偏上8.721]初→朝五5.49[4.97分 下偏右37.699]甚→朝四0.01[下偏左26.681]復
1868年
7月
1
日そく: 京都にては見へず西国にては食一分にみたず昼九時八分下の左よりかけはじめ九時九分甚しく八時一分左と下の間におはる (西国) 昼九8.37[下偏左13.979]初→昼九9.47[0.22分 下偏左28.530]甚→昼八0.55[下偏左42.577]復
  • 食甚方向角が、初虧方向角「下の左」と同表記となるため、記載されていない。
1869年
7月
1
日帯そく四分半: 明六時二分四分余かけながら出六時三分左の上に甚しく六時六分左の下におはる西国にては甚しきを見ざるべし (京都) 明六0.12[上偏右1.333]初→明六2.43[4.40分 上偏左41.318]出→明六3.03[4.67分 左偏上30.600]甚→明六6.14[左偏下29.213]復
(東国) 明六1.25[上偏左0.430]初→明六2.42[2.61分 上偏左16.420]出→明六4.20[4.52分 左偏上30.074]甚→明六7.34[左偏下28.472]復
(西国) 暁七7.42[上偏右0.702]初→明六1.19[4.54分 左偏上30.482]甚→明六2.44[3.48分 左偏下3.547]出→明六4.18[左偏下28.909]復
  • 寛政暦では地方食文言が記載されなかった出帯D「西国にては甚しきを見ざるべし」の唯一の記載例。
1872年
5月
1
日そく七分半: 朝四時六分上と右の間よりかけはじめ昼九時三分甚しく九時九分上の方におはる (京都) 朝四6.03[右偏上39.165]初→昼九2.80[7.29分 右偏上36.662]甚→昼九9.46[上偏左0.983]復
  • 食甚方向角が、初虧方向角「上と右の間」と同表記となるため、記載されていない。

 

以上で、天保暦の日月食についての説明を終わる。

これで、江戸時代、幕府天文方によって作られた暦(貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦)について、書けることはひととおり書いた。

暦法に記載があるものの、五惑星の運行、恒星(二十八宿)などは、頒暦に影響がないので、調べていない。

また、頒暦にはあって、江戸時代の人気コンテンツだったと思われる暦注(日の吉凶)については、調べたいとは思ってはいるものの、これが難しい。配当方法について信頼できる文献がないものも多々あり、頒暦実物から帰納しないといけないのだが、頒暦の暦注を全部見るとなると作業量が膨大(暦注の配当を記載したデジタル資料がないので、 頒暦を一行一行見ていかないといけない)で、なかなか、作業を進めるのが難しいのである。

こつこつ進めれば、いずれ、調査結果を発表できるときも来るかもしれないが、いつになることやら、という感じ。

あと、貞享暦前の暦(宣明暦など)についても、多少調べてはいるので、そのあたりを書いてもいいかな……。まあ、気が向いたら。

ということで、このブログも、次に書きたいことが出てくるまではしばらく休止。

日本語や暦、その他についての雑想を、ぽつぽつ書くこともあるかもしれないし、ないかもしれない。暦について、続きが書ければ書くかもしれない、書かないかもしれない。日本語でも曆でもなく、シーズン3 が始まるかもしれないし、始まらないかも知れない。

マイペースでやっていきます。

 

……ああ、そうだ、忘れてた。

貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦について、python 3 で実装したものがあるので、コードと利用手引を公表しなきゃ。もろもろまとまったら公表します。


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