2020年4月18日土曜日

旧暦2033年問題について

前項で述べた内容をおさらいする。

  • 中国暦の流れを汲む太陰太陽暦の閏月は、無中気月におく。これは、平均して毎月1日程度月末にむかってずれていく月中の中気が、月末まで到達すると翌月初に突き抜ける。突き抜けたところに生ずる中気を含まない月(前月末に中気があり、翌月初にその次の中気があるが、当月自体には中気がない月)に閏月を置くということである。
  • しかし、二十四節気の配当に定気法を用いる場合、一旦月初に突き抜けた中気がまた月末に戻り、また月初に突き抜け、といった、月末月初の間で「行きつ戻りつ」を起こすことがある。その場合、下記の課題が発生する。
    • 複数の無中気月が発生し、閏月とすべきはそのなかの一つだけなので、どの無中気月を閏月とするか決定するルールが必要となる。
    • 平気法や、定気法でも、中気が月末月初間で「行きつ戻りつ」していない場合は、すべての中気が本月に属するが、定気法で中気が月末月初間で「行きつ戻りつ」している場合は、すべての中気を本月に属させることは出来ない。具体的には、閏月前の月初中気・閏月後の月末中気は本月に属さない。
  • 天保暦ルールでは、二至二分(冬至・春分・夏至・秋分)が本月(十一月・二月・五月・八月)になるように閏月を選定する。具体的には、二至二分だけをひろって見ていったときに、月末→月初に突き抜けている区間のなかの無中気月を閏月とすることにより、二至二分を本月に属させることが出来る。

旧暦2033年問題についてググってこのページにたどりついた方で、上記のまとめを見てなんの話をしてるんだか全くぴんと来ない場合は、ぜひ前項「天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール」にさかのぼって読んでから、このページに戻ってきてほしい。

旧暦2033年問題

天保暦ルール「二至二分を本月に属させるように閏月を選べ」を満足させることができない年が存在する。1844年から天保暦が施行されて以降はじめて、このようなケースが2033年に発生する。これを俗に「旧暦2033年問題」と呼んでいる。2033年の旧暦にどういうことが起きるのか、以下に述べよう。

下記 2033年の中気の配当を見てほしい。中気の「行きつ戻りつ」が発生している。そして、橙色の二至二分を追っていくと、二至二分だけを見ても「行きつ戻りつ」しているのだ。夏至→秋分で月末→月初に突き抜けるが、秋分→冬至で月末に引っ込み、冬至→春分でふたたび月初に突き抜ける。

こうなると、どんな置閏をしようと、二至二分のすべてを本月に属させることはできない。
「二至二分だけをひろって見ていったときに、月末→月初に突き抜けている区間のなかの無中気月を閏月とする」といっても、二至二分が月末→月初に突き抜けている区間が、夏至→秋分、冬至→春分、の 2 箇所ある。

夏至→秋分の間の無中気月 (仮8月) に閏月を置くと、冬至は閏月後の月末中気となり本月に属さない(仮8月を閏七月とすれば、冬至のある仮11月は十月となり、冬至の本月十一月とならない)。
冬至→春分の間の無中気月 (仮12月、または、仮2月) に閏月を置くと、秋分は閏月前の月初中気となり本月に属さない(秋分のある仮9月は九月となり、秋分の本月八月とならない)。

そして、かりに秋分をあきらめて冬至を本月に属させることにした場合、仮12月と仮2月は「秋分は本月に属さないが、冬至を本月に属させることが出来る」という点で、まったく同格であり、 どちらとも選ぶことが出来ない。

2033年の中気の推移
2033年 旧暦

「二至二分を本月に属させる」ルールは、これで閏月を決定できる年もそれなりにある。1851, 1870, 1965, 1984 に複数の無中気月が発生する年があったが、すべて、天保暦ルールで閏月を決定できた。今まではこれで用が済んできた。しかし、あらゆるパターンで成立するものではなかった。

暦月 3 ヶ月は、全部が大の月だとすれば、最長 90日。一方、近点に近い冬場の期間では、秋分日~冬至日、冬至日~春分日が 90日未満(88日、89日ぐらい)になることは十分ありうる。とすれば、一旦月初に突き抜けた二至二分が月末に戻ってしまうこともありうることになる。中気が「行きつ戻りつ」するなかで、二至二分が「行きつ戻りつ」しない保証などどこにもなかったのである。

 

2033年において、仮12月と仮2月はどちらも同格で、どちらとも選べなかったが、「どちらも同格であり、どちらとも選べない」というもののもう一つの例。

2147年は、二至二分を追っていけば、「冬至までは月末、冬至→春分で月初に突き抜け、それ以降は月初」という姿になっており、二至二分をすべて本月に属させることが出来る年だ。冬至→春分の間の無中気月を閏月とすればよいのであるが、冬至→大寒間の仮12月と、雨水→春分間の仮2月の二つがある。どちらをとっても、二至二分を本月に属させることが出来るのであり、どちらとも選べない。

2147年の中気の推移
2147年旧暦

このように、複数同格のケースの処理法を決めていないのも、天保暦置閏法のもうひとつの問題である。

旧暦2033年問題をめぐるよくある誤解

旧暦2033年問題は、「天保暦を、本来想定していた期間を超えて継続使用したため、経年劣化によって生じたもの」という理解をされる方がある。その理解はあまり正しくない。これは、全パターンを考慮して十分に練り上げられた仕様ではなかったために、いつ顕在化してもおかしくなかった天保暦制定当初からの仕様バグなのだ。

しかし、天保暦の制定者、渋川景佑らを責める気にはあまりなれない。タイムマシーンで過去に遡ってこのバグを彼らに指摘しても、「ふーんなるほどねえ。まあ、でも当面これで行けそうだからこれで行きましょ」というだけかも知れない。置閏ルールを天保暦の暦法書である「新法暦書」ではなく、解説編である「新法暦書続編」(※) にしか書いていないところに彼らの思考が透けて見えている気がする。要するに暦法で決めているのは「無中気月に閏月を置く」ことだけであって、「どの無中気月を選択するか」は施行細則、または、幕府天文方の内輪でのベストプラクティスなのだ。それがうまく行かなければ、その時考えればいいのである。

旧暦2033年問題の不幸は、「そうなったらそれはその時考えればいいや」が、幕府天文方はいなくなり、明治期の旧暦併記も終わり、「旧暦」を公的に管理する人が誰もいなくなったときに「それ」が起き、「それを考えるべき人、決める権利を持った人が誰もいない」というところにある。

  • (※) 天保暦の暦法書である「新法暦書」と、その暦理解説書である「新法暦書続編」とは、そのタイトルのネーミングから受ける印象とは相違して、全然違う位置づけの文書であることを注記しておきたい。
    「新法暦書」は、幕府天文方メンバーが編者となり、朝廷における改暦の責任者である陰陽頭(おんみょうのかみ)土御門晴親が「校閲」となっている。つまり、「陰陽頭がこの文書の責任者として内容をチェックした」とした形式となっていて、また、陰陽頭土御門晴雄(晴親の子。改暦作業中に晴親が急逝したため)が天皇に奏上して裁可を受けた旨の前文を付している。
    一方、「新法暦書続編」は、幕府天文方メンバーが編者となっているのは同様だが、陰陽頭土御門晴雄が「閲覧」となっている。陰陽頭は「読んだ」が「内容をチェックした」わけではないというわけである。また、前文も天文方の渋川景佑が付している。つまり、天皇に奏上・裁可を受ける対象の文書ではないため、幕府天文方が全面的に文責を負っている文書なのだ。
    暦法書「新法暦書」は天皇の裁可を得る対象の公的・法的文書であり、暦理解説書「新法暦書続編」は、暦法を解説するためにまとめたものであって、幕府・朝廷に献本はされたであろうが、法的効果を持つ文書ではない。文書の位置づけに大きな相違があるわけである。

もうひとつ、旧暦2033年問題に関しての誤解として「2033年は、天保暦の暦法が破綻する。どうにもこうにも作暦できなくなる」というものがある。
そんなことはない。三つの無中気月のうち、どれを閏月にするかを決めかねて困っているだけで、とにかくどれかを閏月に決めてしまえば問題なく作暦できる。
たしかにその結果、秋分か冬至かどちらかがその本月に属さなくなるがだからと言ってなにか困るわけではない。どのみち、二至二分以外の中気は本月に属さなくてもそれでよしとしているわけで、二至二分が本月に属さなかったからといって何も困らない。「二至二分を本月に」というのは、所詮「二至二分が本月に属していた方が暦の見栄えが若干いいから、どれを選んでもいいなら見栄えの良い方を選んでおこう」というだけのルールなのである。

上記と似た誤解として「2033年に天保暦の暦法が破綻するから、それ以降の年は旧暦が作暦できなくなる」と思っておられる方もいるようだ。そういうわけではなく、2034 年二月以降は(次に同種の問題がおきる年までは)まったく問題なく作暦できる。仮八月(2033 年七月の翌月)、仮十二月、仮二月のどれを閏月にしようか決められずに困っているわけだが、どれが閏月だろうが、2034年仮三月は、2034年二月であることが確定なので、それ以降は、なんの問題もない。あくまで、2033 年七月と 2034 年二月の間にある 7 ヶ月間だけの問題である。

あと、「旧暦2033年問題は、定気法を採用した以上避けられない問題だ。これを根本的に解決するには、寛政暦以前の平気法に戻すしかない」という誤解もある。
たしかに平気法では起こらない問題ではあるのだが、定気法でこの問題を起こさない方法がないわけではない。「二至二分を本月に属させるような閏月を選定せよ」という天保暦の選定ルールがよろしくなかっただけのことであり、そのルールを改めれば定気法でも問題ない。後述するように、清朝の時憲暦、および、その流れを汲む現代中国の太陰太陽暦(農暦)は定気法を採用しているが、置閏ルールが異なるので、この問題は起こさない。

暦文協見解

旧暦2033年問題は、「誰も決める権利を持っていない」という状況下、旧暦や旧暦月日をもとに算出する六曜(大安・仏滅等の)が混乱することが危惧されたが、暦に関係する研究者やカレンダー出版業界等によって構成される「日本カレンダー暦文化振興協会」(暦文協) によって、2015年8月、「2033年旧暦閏月問題の見解」が出されたことで一応の落ち着きを見せたのではないかと思われる。

暦文協とて決める権利をもっているわけではなかろうが、そもそも誰も大したこだわりを持っているわけでもない、とにかくどれかの無中気月を閏月に決めたいだけ、そして、自分が少数派になりたくないだけ、なのであり、誰かが「これ」と言ってくれれば、皆、右に習えするのではなかろうか。

 暦文協見解の内容は、暦文協のページで見ていただきたいが、結論を引用すると下記のとおりである。

  • [筆者注 2033年については] 複数ある閏月候補の内、閏11月 [筆者注 仮12月] を推奨する
    • 伝統的な太陰太陽暦では冬至が重視されてきた。ゆえに冬至を尊重し、その当月に11月が配置されることが望ましい。
    • 出版済み万年暦のほとんど全てが閏11月を採用しており、それらに訂正の必要がなく、社会的混乱を回避できる。
    • 議論の俎上にあがった有力な置閏ルールが全て閏11月を支持しており、今ここで置閏ルールを決定せずとも推奨できる
  • 置閏ルールについては検討を継続する
    • 西暦2033年に閏11月を選択しただけでは置閏ルールを特定できない。
    • 定気法を使う場合、
      今回、閏正月を採用しない→西暦2147年は閏11月となる
      今回、閏7月を採用しない →西暦2223年は閏9月となる。
      ルールを決めないことによる混乱は、さらに遠い将来まで起こらない。
    • 置閏ルールの得失についての分析結果の発表は今回が初めてであり、これをベースに広く意見を求めるという手順が望ましいと判断した。


おすすめ置閏ルール

置閏ルールについては継続検討とのことだが、当ブログでのおすすめ案を書いておく。

13の置閏ルール案について、さまざまな評価軸で、暦文協見解は比較している。そのなかで、私が重要だと思う評価軸は下記である。

  • 「2033年は閏11月とするのが推奨」としているのだから、2033年では閏11月を選択するようなルールでなくてはならない。
  • 無矛盾性
    天保暦ルールのように、決定不可能なケースがあってはならず、どのような年においても閏月決定可能なルールでなくてはならない。
  • 既存との整合性
    過去の暦であろうと未来の暦であろうと、天保暦ルールで問題なく置閏できるような年の暦では、天保暦ルールと新ルールとで同じ結果が得られねばならない。
    • 既存との整合性がない新ルールを設けるのだとすると、それは実質的に暦の改定である。新ルールは、天保暦ルールのバグフィックスにとどめるべきであって、非互換な仕様変更は真にやむをえないのでない限り慎むべきだろう。非互換な仕様変更をつっこむと、有権的に暦法を決められる機関がないなかでは保守派と改革派の分裂を招くだけだ。
  • 決定論的
    事前に結果が予見可能なルールでなくてはならない(「都度判断」「くじ引き」等はだめ)。

検討された13の案のうち、上記を満たすのは下記の2つのみ。

  • #3  「天保暦+冬至優先案」
    • 前後の冬至・二至・二至二分を含む月の間隔が中12・6・3か月の四半期区間の最初の無中気月
  • #7 「前後閏月平均案」
    • 通常は天保暦置閏法により、天保暦置閏法で決定不能の場合のみ、確定している前後の閏月の中間にもっとも近い無中気月
    • ただし、無矛盾であるためには、「前後の閏月の中間にもっとも近い無中気月」が二つあった場合、どちらを選択するかのルールが必要

この2つのうち、私がおすすめしたいのは #3 「天保暦+冬至優先案」である。ルールがすっきりしていて実装するのも比較的ラク。

#7 「前後閏月平均案」は、あまりお勧めしない。
「通常は天保暦置閏法により、天保暦置閏法で決定不能の場合のみ、~~」という既存との整合性のとり方がちょっとズルいし、決定不能のときのルール「前後の閏月の中間にもっとも近い無中気月」というのが、もとの天保暦ルールと全く異質なルールで、とってつけた感がある。
そして何より実装が面倒くさそう。前後の閏月を見なくてはいけないので、作暦時に見渡さなければいけない範囲が広い。自分で朔・中気を計算して作暦するのならいいが、暦要項から朔・中気を拾って作暦することを考えると、「後の閏月」って、来年の分の作暦する時に、多分まだ、その次の閏年分の暦要項、出てないですよね。

というわけで、「天保暦+冬至優先案」(前後の冬至・二至・二至二分を含む月の間隔が中12・6・3か月の四半期区間の最初の無中気月)で置閏する手順を説明する。

「天保暦+冬至優先案」による閏月決定の手順

「天保暦+冬至優先案」は、天保暦ルール(冬至・春分・夏至・秋分をその本月に属させる)について、優先度を決めているのに等しい。二至二分のすべてをその本月に属させることが出来ない場合、「冬至 > 夏至 > 春分・秋分」の優先度で本月に属させるものを決める。

  • 2033年の場合、仮8月(閏七月)は秋分を本月に属させるが冬至を本月に属させることができない。仮12月(閏十一月)、仮2月(閏正月) は、冬至を本月に属させるが秋分を本月に属させることが出来ない。冬至の方が優先なので、仮8月(閏七月)はボツである。
  • 優先度を決めているだけなわけだから、天保暦ルールで決定できるケース、つまり、冬至・春分・夏至・秋分すべてをその本月に属させることができるケース は、当然に天保暦ルールと同じ結論を出す。すなわち、既存との整合性が保たれている。

以下、冬至日を含む暦月を「冬至月」と呼ぶ(「夏至日を含む暦月を夏至月」等、以下同。)

1.置閏すべき年の決定

冬至を本月に属させるのが第一優先であり、いついかなる時も冬至月は十一月でなくてはならない。これは下記のことを意味する。

  • 前年冬至月の13ヶ月後(中12ヶ月)に当年冬至月が到来する場合(※)、その間に閏月がある(閏月を置かないと、前年・当年冬至月のどちらかが十一月にならなくなる)
    [(※) 前年冬至月後第13暦月の朔日 ≦ 当年冬至日]
    • → この区間の閏月を決定するため、下記2.に進む
  • 前年冬至月の12ヶ月後(中11ヶ月)に当年冬至月が到来する場合(※)、その間に閏月はない(閏月を置くと、前年・当年冬至月のどちらかが十一月にならなくなる)
    [(※) 当年冬至日 < 前年冬至月後第13暦月の朔日]
    • 前年冬至月~当年冬至月の間の月は、前年冬至月が十一月であるとして、順に、十二月、正月、、、と単純に月名を決めてよい。
    • 途中の春分・夏至・秋分が本月に属さないことも、もしかしたらあるかも知れないが、そうなったらそれはやむを得ない (※)。二至二分以外の中気が本月に属さないこともあるかも知れないが、それは気にしない。
      • (※) 閏月を置く期間については、どこに閏月を置くかの自由度があり多少救いようがあるのだが、閏月を置かない期間は、自由度が全くないので救いようがないのだ。
  • 当年冬至月が、前年冬至月の11ヶ月後になったり、14ヶ月後になったりすることはあり得ない。11ヶ月は短すぎ、14ヶ月は長すぎる。


2.置閏すべき半期の決定

1. からここに推移してきたのだとすると、前年冬至月~当年冬至月の間に閏月を置かなければならず、そして、前年冬至月の 13 暦月後に当年冬至月があるはず。夏至を本月に属させるのが第二優先であるから、夏至月が五月となるように閏月を置かねばならない。これは下記のことを意味する。

  • 前年冬至月の7ヶ月後(中6ヶ月)に夏至月、その6ヶ月後(中5ヶ月)に当年冬至月が到来する場合(※)、前年冬至月~夏至月の間に閏月がある(そうしないと、夏至月が五月にならない)
    [(※) 前年冬至月後第7暦月の朔日 ≦ 夏至日]
    • 夏至月~当年冬至月の間は閏月がない。夏至月が五月であるとして、順に単純に月名を決めてよい。途中の秋分が本月に属さないことも、もしかしたらあるかも知れないが、そうなったらそれはやむを得ない。二至二分以外の中気が本月に属さないこともあるかも知れないが、それは気にしない。
    • → 前年冬至月~夏至月の区間の閏月を決定するため、下記3.に進む
  • 前年冬至月の6ヶ月後(中5ヶ月)に夏至月、その7ヶ月後(中6ヶ月)に当年冬至月が到来する場合(※)、夏至月~当年冬至月の間に閏月がある(そうしないと、夏至月が五月にならない)
    [(※) 夏至日 < 前年冬至月後第7暦月の朔日]
    • 前年冬至月~夏至月の間は閏月がない。前年冬至月が十一月であるとして、順に単純に月名を決めてよい。途中の春分が本月に属さないことも、もしかしたらあるかも知れないが、そうなったらそれはやむを得ない。二至二分以外の中気が本月に属さないこともあるかも知れないが、それは気にしない。
    • → 夏至月~当年冬至月の区間の閏月を決定するため、下記3.に進む
  • 「8ヶ月後 + 5ヶ月後」や「5ヶ月後 + 8ヶ月後」になったりはしない。「5ヶ月後」はあり得なくないが、「8ヶ月後」は長すぎる。


3.置閏すべき四半期の決定

2. からここに推移してきたのだとすると、前の至月~後の至月の間に閏月を置かなければならず、そして、前の至月の 7 暦月後に後の至月があるはず。間の春秋分(冬至~夏至間の場合、春分、夏至~冬至間の場合、秋分)が本月に属するように閏月を置かねばならない。これは下記のことを意味する。

  • 前の至月の4ヶ月後(中3ヶ月)に分月、その3ヶ月後(中2ヶ月)に後の至月が到来する場合(※)、前の至月~分月の間に閏月がある(そうしないと、間の春秋分が本月に属さない)
    [(※) 前の至月後第4暦月の朔日 ≦ 春分/秋分日]
    • 分月~後の至月の間は閏月がない。分月が春秋分の本月(二月か八月)であるとして、順に単純に月名を決めてよい。二至二分以外の中気が本月に属さないこともあるかも知れないが、それは気にしない。
    • → 前の至月~分月の区間の閏月を決定するため、下記4.に進む
  • 前の至月の3ヶ月後(中2ヶ月)に分月、その4ヶ月後(中3ヶ月)に後の至月が到来する場合(※)、分月~後の至月の間に閏月がある(そうしないと、間の春秋分が本月に属さない)
    [(※) 春分/秋分日 < 前の至月後第4暦月の朔日]
    • 前の至月~分月の間は閏月がない。前の至月が冬夏至の本月(十一月か五月)であるとして、順に単純に月名を決めてよい。二至二分以外の中気が本月に属さないこともあるかも知れないが、それは気にしない。
    • → 分月~後の至月の区間の閏月を決定するため、下記4.に進む
  • 「5ヶ月後 + 2ヶ月後」や「2ヶ月後 + 5ヶ月後」になったりはしない。「2ヶ月後」はあり得なくないが、「5ヶ月後」は長すぎる。
判定条件
前年冬至月後第13暦月の朔日 ≦ 当年冬至日
YES NO
前年冬至月後第7暦月の朔日 ≦ 夏至日
YES NO
前年冬至月後第4暦月の朔日 ≦ 春分日 夏至月後第4暦月の朔日 ≦ 秋分日
(前年冬至月後第10暦月の朔日 ≦秋分日)
YES NO YES NO
前年冬至月~
春分前月
[4暦月]
閏月あり
→ 4. へ
[3暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(前年十一~正月)
[6暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(前年十一~四月)
[12暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(前年十一~十月)
春分月~
夏至前月
[3暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(二~四月)
[4暦月]
閏月あり
→ 4. へ
夏至月~
秋分前月
[6暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(五~十月)
[4暦月]
閏月あり
→ 4. へ
[3暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(五~七月)
秋分月~
冬至前月
[3暦月]
閏月なし。
順に単純に月名決定
(八~十月)
[4暦月]
閏月あり
→ 4. へ

  

4.置閏すべき月の決定

ここまで進んできたとすれば、以上の作業により、

  • 直前の冬至月の13ヶ月後(中12ヶ月)に、直後の冬至月が到来する。
  • 直前の至月の7ヶ月後(中6ヶ月)に、直後の至月が到来する。
  • 直前の二至二分月の4ヶ月後(中3ヶ月)に、直後の二至二分月が到来する。

のすべてを満たすような区間が特定されたことになる。

この区間のなかの無中気月を閏月とするので、それはつまり、

  1. 冬至だけを拾って見ていったとき、月末→月初に突き抜けている。
  2. 二至(冬至・夏至)だけを拾って見ていったとき、月末→月初に突き抜けている。
  3. 二至二分(冬至・春分・夏至・秋分) だけを拾って見ていったとき、月末→月初に突き抜けている。
  4. 中気が月末→月初に突き抜けている。

のすべてを満たす区間を閏月としているわけだ。 天保暦ルールでは、3., 4. だけだったところに、1., 2. の条件を加えているのである (※)。

  • (※) 3. 4. の条件だけだと無矛盾ではない(閏月を決定できない年がある)が、1. 2. の条件を加えると無矛盾(すべての年で閏月を決定できる)になるのはなぜか。
    3 中気間隔は 3 暦月より短くなりうるので、二至二分だけを拾って見ていったとき、月初→月末に戻ってしまうことがありうる。 一方、前年冬至から当年冬至までの 12 中気間隔(すなわち 1 冬至回帰年 ≒ 1 太陽年 365.24日)が、12 暦月(354日強)より短くなることはないので、冬至だけを拾って見ていったとき、月初→月末に戻ってしまうことは絶対にないのだ。なので、1. の条件まで立ち戻れば、必ず無矛盾になる。
  • ちなみに、1. の条件を加えずに、 2. 3. 4. の条件だけだとどうかというと、当面はそれでも問題は起きない。近点は冬至のちょい後ろぐらいなので、冬至~夏至の時間間隔は、半年(182.62日程度)よりやや短いが、大きく短くなることはない。これは、6 暦月(長くても 179日)より短くなることはない。しかし、数千年がたち、歳差や近点移動によって、近点が春分点付近にまで来ると、冬至~夏至の時間間隔は 178日ぐらいになりえる。ここまで来ると、二至(冬至・夏至)だけを追って見ていったときに、月初→月末に戻ってしまうことがあり得、1. の条件が必要になってくる。


ここで、

  • 直前の二至二分を「中気①」、
  • 続く中気を「中気②」「中気③」、
  • 直後の二至二分を「中気④」

と呼ぶこととする。

また、

  • 直前の二至二分月を「暦月A」、
  • 続く暦月を「暦月B」「暦月C」「暦月D」、
  • 直後の二至二分月を「暦月E」

と呼ぶこととする。

この区間、どこに閏月を置くかは
「中気②は、暦月C の月初か、暦月B の月末か」(※)
「中気③は、暦月D の月初か、暦月C の月末か」(※)

  • [(※) 直前の二至二分月後第2暦月(暦月C)の朔日 ≦ 中気②日 かそうでないか]
  • [(※) 直前の二至二分月後第3暦月(暦月D)の朔日 ≦ 中気③日 かそうでないか]

の組み合わせで、下記の4とおりが考えられる。

No. 暦月A 暦月B 暦月C 暦月D 暦月E
1     ①   閏   ②     ③     ④    
2     ①   閏   ②   ③   -   ④    
3     ①     ②   閏   ③     ④    
4     ①     ②     ③   閏   ④    

①~④は、中気①~④を意味している。

この区間において、二至二分が月末→月初に突き抜けているわけだから、直前の二至二分(中気①)は暦月 A の月末に、直後の二至二分(中気④)は暦月 E の月初にある。

無中気月を閏月とするのであるから、No. 1, No. 2は、暦月Bが閏月、No. 3は、暦月Cが閏月、No.4は、暦月Dが閏月となる。

No. 2は、暦月B, 暦月D のふたつの無中気月を持つが、「天保暦+冬至優先案」では「前後の冬至・二至・二至二分を含む月の間隔が中12・6・3か月の四半期区間の最初の無中気月」と言っているので、暦月Dでなく暦月B を閏月とすることになる (※)。暦月Dの方を選ぶとすると、2033年は、閏十一月(仮12月)でなく2034年閏正月(仮2月)を閏月とすることになってしまう。 

  • (※) 天保暦置閏法には、複数同格の場合の処理法を定めていない問題があった。この案では、「複数同格の場合は最早のものを選択」という処理法を定めているわけである。

No. 2のケースにおいては、中気③は閏月後の月末中気であり、本月に属さないことになるが、二至二分でもないし、気にしない。中気①~④は、このケースを除けばすべて本月に属する。


判定条件 直前の二至二分月後第 2 暦月(暦月 C)の朔日
≦ 直前の二至二分後の第 1 中気(中気②)日
YES NO
直前の二至二分月後第 3 暦月(暦月 D)の朔日
≦ 直前の二至二分後の第 2 中気(中気③)日
YES NO
暦月 A
(直前二至二分月)
二/五/八/十一月
二/五/八/十一月 二/五/八/十一月
暦月 B
閏二/五/八/十一月 三/六/九/十二月 三/六/九/十二月
暦月 C
三/六/九/十二月 閏三/六/九/十二月 四/七/十/正月
暦月 D
四/七/十/正月 四/七/十/正月 閏四/七/十/正月
暦月 E
(直後二至二分月)
五/八/十一/二月 五/八/十一/二月 五/八/十一/二月

(上表で「二/五/八/十一月」等と記載されているのは、直前二至二分(中気①)が「春分/夏至/秋分/冬至」であるとき、暦月 A~E が何月かを示している)

以上により、閏月決定完了。

ここまでロジックを追って来られた方は理解できると思うが、このロジックはありうる全パターンを網羅して場合分けされている。あらゆるケースで閏月を決定できる、つまり、無矛盾な閏月決定ロジックである。

ちなみに、この閏月決定ロジックは、貞享暦・宝暦暦・寛政暦のような平気法の暦の閏月決定ロジックとして用いても問題なく使える。無中気月をバイナリーサーチ的に探索するロジックとして機能するので、悪くないですよ。

時憲暦、中国農暦の置閏法

清朝の時憲暦は、日本の天保暦に先駆けて定気法を採用していた。また、現在、日本では「旧暦」は公的な管理がない暦となっており、旧暦2033年問題みたいな話があってもそれに有権的に対応する機関が存在しない状態にあるわけだが、中国では、春節(旧正月)が祝日になっているため、今でも太陰太陽暦が公的な管理を受けている(中国では太陰太陽暦のことを「農暦」と呼んでいるようだ)(※)。農暦は時憲暦の末裔であるので、これも定気法だ。

  • (※) 2017年に、農暦に関する規格「GB/T 33661-2017 農暦的編算和頒行 Calculation and promulgation of the Chinese calendar」が制定され、農暦の作暦方法が明文化されたようだ。

この暦では、旧暦2033年問題みたいなことは発生しないのだろうか。

結論としては発生しない。時憲暦の置閏ルールはシンプルで、いかなる年においても必ず問題なく閏月を選択できる。

冬至月を必ず十一月とする。よって、前年冬至月の12ヶ月後に当年冬至月が到来する場合、この間には閏月を置かない。前年冬至月の13ヶ月後に当年冬至月が到来する場合、この間の無中気月に閏月を置く。この間に無中気月が複数ある場合、前年冬至月後、最初の無中気月を閏月とする。

要するに、上記の「天保暦+冬至優先案」の 1. まではやって閏月を入れるべき年を決定し、あとは、無中気月を前から順番にシーケンシャルサーチで探索して閏月とすればよろしい。

  • 清史稿 巻48 時憲志四「康熙甲子元法中」
    求閏月「以前后両年有冬至之月為準。中積十三月者、以無中気之月、従前月置閏。一歳中両無中気者、置在前無中気之月為閏」
    前后両年の冬至有るの月を以って準と為す。中に十三月を積むは、無中気の月を以って、前月に従ひ閏を置く。一歳中に無中気を両するは、前に置在する無中気の月、閏と為す。
  • GB/T 33661-2017「農暦的編算和頒行」 4. 農暦的編排規則
    「4.3 包含節気冬至在内的農暦月為農暦十一月.」
    「4.4 若従某个農暦十一月開始到下一个農暦十一月(不含)之間有 13 个農暦月, 則需要置閏. 置閏規則為: 取其中最先出現的一个不含中気的農暦月為農暦閏月.」
    • 中国語は読めませんが、「冬至を含む農暦月を農暦十一月とする」「もし、ある農暦十一月から始めてある農暦十一月まで(片端入れ)の間に 13 農暦月があるとき、閏を置く必要がある。置閏ルールは: そのうち、もっとも先に出現する無中気の農暦月を農暦閏月とする」みたいな意味でしょう、多分。
    • 簡体字は打鍵するのが面倒なので、勝手に日本の漢字に変えました。

ちなみに、置閏ルールのほかの日本の旧暦と中国の農暦の相違点としては時制がある。いつからそうなったのか調べていないが、中国農暦の時制は 中国標準時 (CST, UTC+8) である。

  • 本当かどうかは知らないが、中国語版 wikipedia「時憲暦」によれば、民国三(1914)年から「北京地方時(東7:45.5)」(北京地方平均太陽時?)、民国十八(1929)年からは「中原標準時(東八区)」(= 現在の CST = GMT+8:00 であろう)であるらしい。なお、北京の経度は 116°23′ ほどなので、北京地方時は、GMT+7:45:30 ほどとなる。
    それ以前は時憲暦そのもので、北京地方真太陽時であったはず。民国元(1912)年からグレゴリオ暦が採用されているが、民国二(1913)年までの農暦は時憲暦の北京地方真太陽時のままで、民国三(1914)年からは北京地方平均太陽時とした、ということであろうか。

天保暦ルールと時憲暦ルールとで置閏結果に差が出ることは多くはないが、差が出ることは当然あり得る。例えば、二至二分だけを追って行ったとき、冬至・春分は月末にあり夏至で月初に突き抜けているとし、ただし、冬至〜春分間の中気(大寒か雨水)が一度月初に突き抜けていて春分では月末に戻っているとする。
天保暦ルールでは春分〜夏至間の無中気月が閏月だが、冬至〜春分間にも無中気月がありそれが冬至後最初の無中気月であるから、時憲暦ルールではそっちが閏月ということになる。

なお、2033年においては、中国農暦ルールでも閏11月が選択される。

  • 中国農暦では、日本の旧暦のような「閏月が決定できない」という問題はないが、それにしても、2033年が置閏上ややこしい年であることには変わりがなく、まったく混乱がないわけではないようである。
    中国において、農暦の日付を知りたいというニーズの大半は「春節(旧正月)の日付を知りたい」であろうと思われる。そこで、本来的なルールの「冬至からまず十一月を定めて、そこから閏月を決める」ではなく、「立春等からまず正月を決める」という簡便法を用いることがあり、その際、2033年の置閏を誤る(2034年閏正月とする)ことがあるようだ。2033年を閏十一月とすると、2034年の雨水正月中が本月に属さず(上記で、パターン No. 2 の中気③が本月に属さないケースに該当)、正月基準で置閏すると間違いそうな年である。

時憲暦置閏ルールでは、冬至月が十一月になるようにはしているが、春分・夏至・秋分月が二月・五月・八月になることにはこだわっていない。天保暦置閏ルールを見た後に時憲暦置閏ルールを見ると「おおざっぱ過ぎない? そんなのでいいの?」という感想を持つ方がいらっしゃるかも知れない。

「無中気月を閏月とせよ」という大原則の本来的意義、「暦月と節月とのずれを半月以内におさめ、太陰暦と季節感とのずれを極力小さくする」から考えたとき、複数無中気月のうちのどれを閏月にしようが、本来的意義は達成できる。

複数無中気月が発生する期間は、中気が月末月初境界をうろちょろしている時期であり、月末月初境界を大きく離れることはない。いずれかの無中気月を閏月とすることにより、本月に属さない中気が発生するわけだが、なににせよ月末月初境界付近にあるのであり、1日、長くてもせいぜい 2日、本月からこぼれるだけのこと。

「無中気月を閏月とせよ」というルールは、暦月と節月が半月ずれているとき、つまり、中気が月末月初境界付近にあるときに閏月を入れるところにポイントがあったのであり、複数の無中気月が発生する期間は、ずっと中気が月末月初境界付近にあるのだから、どの月を閏月にしようが「暦月と節月とのずれを半月以内におさめる」という本来目的は十分達成できていることになる。なので極端な話をすれば、最初の無中気月と最後の無中気月の間の月であれば、有中気の月を閏月にしたって、いいといえばいい。

とはいえ伝統的にそうしてきたわけだから、無中気月を閏月にするわけだが、どの無中気月を閏月にしても一向に構わない。構わないのだけれど、なんらかの選定ルールは必要だからルールを設けているに過ぎない。「冬至とか二至二分とか関係なく、最初の無中気月を閏月にせよ」でも別に構わない。

以上のことから考えると、不必要に複雑な天保暦ルールよりシンプルな時憲暦ルールの方が妥当ではないか、天保暦ルールに問題があるのなら、時憲暦ルールに従うようにすればいいのではないかという考えもあろう(実際、暦文協見解でも、そのような置閏ルール案が案のひとつとなっている)。が、前に述べたとおり、私は既存との整合性も重視しており、天保暦ルールと異なる閏月を選択する可能性がある案は、当ブログでのおすすめ案とはしない。

冬至優先とすることについて

「天保暦+冬至優先案」では、冬至を本月十一月とすることを最優先とする。

中国・日本式の太陰太陽暦に馴染んでいると、どれかを優先させるとすれば冬至を優先させることにする、というのは、「まあ、そりゃそうだろうね」という極めて妥当な結論なのだが、本当にそういうことでよいのか、幕府天文方のなかにいた人の考えがわかる資料があったので見てみよう。

嘉永四(1851)年は、二中気月が仮 11 月と仮正月の 2 つあって、無中気月が仮 10 月・仮 12 月・仮 3 月の 3 つあり、平山ルールを適用することにより、閏月は仮 3 月(閏二月)に定まるのであった。

しかし、中国と日本とでは時制が異なるため、日本の天保暦と中国の時憲暦とでは若干様相が異なっていた。実は、中国時間ベースで作った暦に平山ルールを仮に適用していたとしたなら、旧暦 2033 年問題と同様の問題が発生していたはずなのである。

咸豊元(1851)年 時憲暦

「咸豊元(1851)年の時憲暦は、こんな感じだっただろう」というのを作ってみたので上に掲載する。二至二分だけを拾ってみたとき、秋分→冬至で月末→月初に突き抜けるが、冬至→1852年春分で月末に戻ってしまい、春分→夏至でまた月初に突き抜け、二至二分だけでも「行きつ戻りつ」している。秋分→霜降間の仮9月を閏月とすると、春分が閏月後の月末中気となり本月二月に所属せず、春分→穀雨間の仮3月を閏月とすると、冬至が閏月前の月初中気となり本月十一月に所属しない。

平山ルール(新法暦書続編巻四ルール)は、こういった場合にうまく行かなくなってしまうのだが、後述するように、時憲暦の置閏ルールでは、冬至を本月十一月に属させるが春分が本月二月になることにはこだわらないので、閏月は仮 9 月(閏八月)に一意に定まる。

天文方見習(当時。後に天文方)であった渋川祐賢(天保暦を作った渋川景佑の次男。寛政暦を作った高橋至時の孫)が著述した「星学須知」巻四にこれについて言及がある。

惟、地面円体にして、其居所、互に異なるに由るのみ。其理は姑く論ぜず。試に前に列する合朔及中気の本邦時刻を用ひ、法に依て漢土の時刻に変じ、之を本邦時刻の下に記す。是に由て咸豊元 [1851] 年の時憲暦と比校せば、自ら合否を知らん。其中気時刻に小差あるは、蓋、彼此用る所の太陽均数を異にするか、或は、最高年根に差ある故なり。請ふ、之を察せよ。

とし、時憲暦の朔・中気などの時刻が日本のものと異なっているのは、地球上の居場所が異なるために時差があるからだと正しく認識して、

又、彼此の両暦を熟視するに、互に一難事あり。本邦には、六月間に、一月両中気ある者二次、中気なき者三次あり。彼には、七月間に一月両中気ある者一次、中気なき者二次あり。彼は、必、春分は本月の仲春二月に在らず。退て孟春正月に在るならん。因て、漢土星官の意を推すに、本年九月を以て閏八月とせば、冬至は仲冬十一月に在るを得《? [脱文?] れども、明年春分は、仲春二月に在るを得 ?》ず。或は本年九月を以て閏八月と為さざれば、冬至は仲冬十一月にあるを得ず。又、明年春分は、仲春二月にあるを得る。而して、三月を以て閏二月とすべし。然ども、冬至仲冬十一月に在らざれば、春秋伝に所謂る「先王之正時也、履端於初、挙正於仲、帰邪於終」の意に悖るを以て、断じて最重の冬至を本月の仲冬十一月に在らしむるを主として、春分は、蓋、退て孟春正月に在らしむるならん。記して以て来年を俟つのみ。

時憲暦では仮 9 月を閏月(閏八月)としていたために、冬至が本月十一月に属する一方、1852年春分が本月(仲春二月)とならず孟春正月となっていた。そして、「漢土星官の意を推」して、「断じて最重の冬至を本月の仲冬十一月に在らしむるを主」としたのだろうとしている。

おそらく、渋川祐賢を含む幕府天文方は、真の時憲暦の置閏ルール自体は知らなかったのだと思われる。幕府天文方は、出来上がった時憲暦の置閏を見て「二至二分を本月に属させよ」というルールを(「誤って」)帰納し、それを天保暦の置閏準則として新法暦書続編にも記載したのだろう。そして、祐賢は、咸豊元 [1851] 年の時憲暦の置閏を見て、

二至二分を本月に属させよ。
ただし、すべての二至二分を本月に属させることが出来ないとき、冬至を本月に属させることを優先せよ

という修正ルールを導きだしたように思われる。

が、この修正ルールが意味を持つ年は、2033 年まで出現しなかったわけで、せっかくの祐賢の発見も忘れ去られて、200年近くあとになって大騒ぎすることになってしまった。

  • (※) 祐賢自身は、この発見に大騒ぎすることはなかった。なぜなら、「二至二分を本月に属させよ」という置閏ルールは絶対的な規則ではなく、暦法書である「新法暦書」にも記載されていない単なる施行細則・慣行であったからである。それが問題となるケースが現実的に発生すれば然るべく対処すればいいだけであって、それ以上の問題ではなかった。そして、「すべての二至二分を本月に属させることが出来ないとき、冬至を本月に属させることを優先する」というのは、ごくごく当たり前の結論のように思われ、「修正ルール」だとも思わなかったであろう。

以上、(「天文方見習」である祐賢が、公式文書ではない著述に書いたものに如何ほど重きを置くかという問題はあるが)幕府天文方の構成員も「冬至優先」を妥当としていたひとつの証拠として記載した。

置閏ルール案 #3「天保暦+冬至優先案」では、「冬至 > 夏至 > 春秋分」の優先度としており、冬至を他の二至二分より優先させる妥当性は、上記に示したとおりあると言えるだろう (※)。
が、夏至を春秋分より優先させる理由は特段ない。閏月を置く場所を「年→半年→四半期」と、半分に絞っていくかたちにした方がロジックとしてすっきりするため、このようにしているまでである。
ちなみに、現在の夏至は中気間隔が長い遠点付近にあるため、「中気間隔が短いため、中気が月末月初境界を行きつ戻りつしている期間」のなかに入ることがない。よって、夏至がその本月五月に属さないような事態は数万年先までなく、当面は絶対に本月に属する。つまり、夏至と春秋分のどちらかを選ばなければいけないような事態にそもそもならない。

  • (※) 妥当だとは言えると思うが、当然・必然だとは思わない。
    旧暦2033年問題について書かれているものを見ると「冬至月を起点十一月として作暦するのだから、当然に冬至月は十一月となるはずだ」という議論を時々見るが、それは当たらないと思う。
    作暦において、節気は天正冬至(前年平気冬至)、朔弦望は天正経朔(天正冬至直前の平朔)を起点にしているが、それは、平気・平朔についてはそうだということであり、別に定気・定朔について冬至・十一月から計算し始める必然性はない。実際、推算稿などをみても、普通に年初(立春/雨水、正月)から計算し始めているように思われる(それ以前は、前年に計算したものがあるからだが)。「平気・平朔は、天正冬至・天正経朔を起点にしている」というのだって、原点ゼロをそこに置いているというだけのことであって、別に原点ゼロから計算し始めなければいけない義理はない。
    「冬至が本月に属することを最優先にすべきだ」というのは、気持ちの問題であって、理論的・技術的必然性はそこにはない。暦文協見解が「伝統的な太陰太陽暦では冬至が重視されてきた。ゆえに冬至を尊重し、その当月に11月が配置されることが望ましい」としているが、まさにその「気持ち」を表現していると思う。 
  • 一方で、「冬至月は必ず十一月」のような不動点がある方が実装しやすいという技術的要請はある(冬至月でなくてもいいが)。暦文協見解の置閏ルール案 #7「前後閏月平均案」の実装が面倒そうな理由のひとつが、必ずしも冬至月が十一月にならないこと。どうやって実装するかを考えたとき、夏至は必ず本月に属することを利用して、夏至月を不動点として計算するのがいいのかなあ。
    (はるか未来、近点遠点がずれたことを考えると、「夏至」でなく「遠点に再近傍の二分二至」とすべきかもしれない)

なお、「星学須知」中の「先王之正時也、履端於初、挙正於仲、帰邪於終」は、春秋左氏伝の文公元年伝に見える文章である。

於是閏三月。非礼也。先王之正時也、履端於始、挙正於中、帰餘於終。履端於始、序則不愆。挙正於中、民則不惑。帰餘於終、事則不悖。
ここに三月に閏す。礼に非ざるなり。先王の時を正すや、端を始に履み、正を中に挙げ、余を終に帰す。端を始に履めば、序則ち愆まらず。正を中に挙ぐれば、民則ち惑はず。餘を終に帰すれば、事則ち悖らず。

おそらく、これ自体は、歳中置閏(つまり、現在我々がなじみがある太陰太陽暦における置閏のように、月と中気の関係によって、年内のどこにでも閏月が置かれうる置閏法)が行われるようになったのを、伝統的な歳末置閏(閏月は十二月と翌年正月の間に置く)を是とする左氏伝著者が批判した文章だと思われる。なので、これが「冬至を優先すべし」という論の典拠になるのかは微妙。

とはいえ、「孔子が書いた『春秋』を孔子の弟子が注釈したもの」とされ、儒教の正典のひとつとして捉えられた春秋左氏伝に、現用している歳中置閏法を批判されても困ってしまうので、この文を「冬至を起点として、中気を基準とし、最後にずれがひと月分たまったところで閏月を置く」という歳中置閏法を述べたものだという解釈がなされる。これからすれば、冬至は揺るぐことのない基点と捉えることができる。おそらく、佑賢がこの文を引用した意図はそういうものであっただろう。

  • 左氏伝著者は、閏三月を置いていることを「非礼也」と批判しているわけだが、どうやらこれは左氏伝著者の勘違いらしい。
    文公元年に「二月,癸亥,日有食之」とありまた「四月,丁巳,葬我君僖公」とある。丁巳(48)日は、癸亥(59)日の49日後か109日後、つまり、2ヶ月弱か4ヶ月弱後である。日食が起こるのは朔日だろうから癸亥日を二月一日とすると、僖公を葬った四月丁巳日は閏月がないなら2~3ヶ月後ということになる。それだと「2ヶ月弱か4ヶ月弱後」には合致しないので、この間に閏月があり、四月丁巳は二月癸亥朔の109日後であるはずだというのが左氏伝著者の分析なのである。
    しかし、実際に日食が起きたのは文公元年(626 BC)の(先行ユリウス暦)2月3日癸亥のようで、この時期は冬至月(後世の十一月)が正月なので日食が起きた朔は三月(後世の正月)の朔と考えるべきである。「二月,癸亥,日有食之」を「三月」の誤記と考えるか、または、二月晦(月末)癸亥日に日食が起きたと考えるべきである(後世ほど朔弦望の計算が精緻ではないから、必ずしも日食が一日にならず、晦日や二日に起こってしまうこともあっただろう)。
    そうすると、閏月がないなら四月丁巳は日食が起きた癸亥日(二月末または三月初)の1~2ヶ月後ということになり、四月丁巳が癸亥日の49日後と考えれば計算にあう。つまりこの間に閏月はなかったのだ。


(おまけ) 暦文協「2033年旧暦閏月問題の見解」の置閏ルール案 No. 12「猪瀬前都知事案」について

暦文協「2033年旧暦閏月問題の見解」では、13 の置閏ルール案について比較検討しているが、そのなかで異彩を放っているのが、No. 12「猪瀬前都知事案」である。暦の話をしているときに「猪瀬前都知事」という名前が出てくるのもびっくりだが、2033年に閏八月を置くという案になっているのも異色だ。「無中気月を閏月とする」という大原則に従うのであれば、2033~2034年の期間の無中気月は仮8, 12, 2 月(閏月にするとすれば、閏七、十一、正月)のいずれかであって、「なんで閏八月?」という感を否めない。ちょっと不思議な感じを受けると思うので、解説しておこう。

これは、猪瀬直樹さんが旧暦 2033 年問題に興味を持ち、解決案を考えた、というわけではおそらくない。

2013 年 5 月 22 日、猪瀬都知事(当時)は、産業競争力会議にて「日本の標準時を 2 時間前倒しにしてはどうか」という提案を行った。JST = UTC+9:00 だが、UTC+11:00 にしようというのである。日本とニューヨークの間の時差は、冬時間は 10 時間、夏時間は 11 時間。ニューヨークと東アジア・オセアニアとの間には、主要な取引所がなく、ニューヨーク市場が閉じてから、オーストラリア・東京・香港などの市場が開くまで空白の時間がある。日本の標準時を早めて、もっとも早く開く市場にすれば、空白の時間がなくなり使い勝手の良い市場になる。東京の金融市場が活性化するだろうという提案である。

もちろん実現することはなかったのだが、仮にこれが実現していれば、旧暦作暦にも影響を及ぼす。旧暦暦月は「朔日にはじまり、朔前日におわる」ので、暦日境界(夜半 0:00)がいつなのかが作暦に影響しうる。もし、日本の標準時を UTC+11:00 にすれば JST (UTC+9:00) の 22:00~24:00 の間の中気・朔は所属する日が変わる。

そうすると、2033 年に旧暦 2033 年問題は起きなくなってしまうのだ。仮 9 月朔 9/23 が 9/24 にずれた結果、秋分 9/23 の所属月が仮9月から仮8月に、冬至 12/21 が 12/22 にずれ所属月が仮11月から仮12月に、雨水 2/18 が 2/19 にずれ所属月が仮正月から仮2月となり、仮8・12・2月は無中気月ではなくなる。そして、仮 9 月が唯一の無中気月となり、平山ルールなぞ持ち出すまでもなくなんの問題もなく作暦できる年となって、仮 9 月が閏八月となる。

もちろん、2033 年に起きなくなるだけで、根本的な問題が解決するわけではない。2147年には、UTC+9:00 でも UTC+11:00 でも同様の問題が起きるし、2204年は、UTC+9:00 だと特に問題がないが、UTC+11:00 だと逆に問題が発生する。

そういう意味で、No. 12 「猪瀬前都知事案」は、天保暦の置閏ルール問題の解決策とは言えない。問題を先送りすることは出来るが、解決はしてない。そして、そもそも、「日本の標準時を変更する」という提案に付随する結果なのであって、その提案が実現されない以上、単なる思考実験に過ぎない。猪瀬さんとしては、自分が意図したわけでもない旧暦2033年問題の解決案を「猪瀬前都知事案」と銘打たれて、それを取り上げて「問題の解決になってない!」と勝手にディスられても、知ったことではないという話だろうが。

以上。


「太陰太陽暦とはどういうものなのか」について説明してきたが、この話は一旦おわり。
次回
からは、江戸時代、幕府天文方が作成した暦法に基づき作られた「頒暦」(一般に頒布・販売される仮名暦)がどういうものだったかを見ていく。


[江戸頒暦の研究 総目次へ]

 

[参考文献]

国立天文台暦計算室(編)(2014)「旧暦2033年問題について」in「暦象年表2014」 http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2014.html

須賀 隆(2014)「コラム 旧暦2033年」in 「暦の大事典」朝倉書店, pp.407-409 http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/pcs/column2033.pdf

須賀 隆(2017)「2033 年問題はどのように知られてきたか」, 日本暦学会(24), pp.14-17 http://www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/pcs/year2033problem-history(3).pdf

一般社団法人日本カレンダー暦文化振興協会(編)(2015)「2033年旧暦閏月問題の見解」 https://www.rekibunkyo.or.jp/year2033problem.html

渋川 佑賢「星学須知」国立天文台三鷹図書室デジタル化資料版

新城 新藏 (1926)「東洋天文學史大綱: 内藤博士還曆記念論文集より」天界 6.67, pp.381-394
http://hdl.handle.net/2433/160576

斉藤 国治, 小沢 賢二 (1987)「春秋時代 (BC 722~479) の日食 その他天文記事の再検討」科学史研究 26.161, pp.24-36
https://doi.org/10.34336/jhsj.26.161_24

 

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