2020年4月25日土曜日

江戸頒暦研究の基礎資料、頒暦概観 (1) 年頭

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前回までは、「太陰太陽暦とはどういうものであるか」について説明した。あわせて、所謂「旧暦2033年問題」についても説明した。
今回からは、江戸時代の「頒暦」(一般向けに頒布・販売された仮名暦)がどういうものだったか見ていく。

江戸の頒暦を研究するにあたっての基礎資料としては、暦法書、実際に頒布された頒暦暦面等であろう。この項では、それらの資料へのアクセス方法を記載しておく。
また、本題(暦の計算方法の研究)に入る前に、頒暦(仮名暦)とはどういったものだったかを概観する。


江戸の頒暦研究のための資料類

参照すべき暦法書は、下記あたりだろう。なんでも、インターネットで参照できて、便利なかぎりだ。

文書名 内容 リンク
貞享暦 貞享暦 [保井算哲(渋川春海)]
貞享暦の暦法書・暦理
公文書館
国立天文台
貞享解 [西村遠里]
貞享暦の暦法を、民間の暦学者である西村遠里が解説したもの。
国立天文台
授時解 [西村遠里]
貞享暦の元ネタである元朝の授時の暦法を、
民間の暦学者である西村遠里が解説したもの。
国立天文台
宝暦暦 暦法新書[宝暦] [土御門泰邦]
宝暦暦の暦法書・暦理
「貞享暦」の焼き直し。
公文書館
国会図書館
暦法新書[宝暦]続録 [土御門泰邦]
1771年より施行された修正宝暦暦の暦法
佐々木長秀(吉田秀長)らによる。
公文書館
国立天文台
寛政暦 暦法新書[寛政] [高橋至時, 山路徳風, 吉田秀升]
寛政暦の暦法書。
宝暦暦の暦法書である「暦法新書」と名前がかぶっていて、ややこしい。
公文書館
国会図書館
国立天文台
寛政暦五星法続録 [渋川景佑, 山路諧孝, 足立信頭, 吉田秀茂, 他]
暦法新書では、日月のみケプラーモデル、五惑星は周転円モデルであったが、
五惑星のケプラーモデルの暦法
(頒暦では五惑星は表示されないので、頒暦研究上はあまり参照しない)
公文書館
国会図書館
国立天文台
寛政暦書 [渋川景佑, 山路諧孝, 足立信頭, 吉田秀茂, 他]
寛政暦の暦理
公文書館
国会図書館
国立天文台
寛政暦書続録 [渋川景佑]
寛政暦五星法続録の暦理
公文書館
国会図書館
国立天文台
暦象考成後編 [Ignaz Kögler]
寛政暦の元ネタとなった清朝の時憲暦の暦法。
ドイツ人イエズス会士 Ignaz Kögler によって書かれた。
国立天文台
天保暦 新法暦書 [渋川景佑, 足立信頭]
天保暦の暦法書
公文書館
国会図書館
国立天文台
新法暦書続編 [渋川景佑, 足立信行]
天保暦の暦理を説明した解説編
公文書館
国会図書館
国立天文台
新法暦書表 [渋川景佑, 足立信行]
あらかじめ計算済の数表を表引きすることによって天保暦の暦算を行うことができるようにしたもの。
公文書館
国会図書館
国立天文台
新巧暦書 [足立信頭, 渋川景佑]
天保暦の元ネタであるラランデ暦書の漢文訳。
(高橋至時らによる)
word-to-word の翻訳ではなく、伝統的な暦書のスタイルにリライトしている。
国立天文台

「公文書館」=「国立公文書館デジタルアーカイブ」
「国会図書館」=「国会図書館デジタルコレクション」
「国立天文台」=「国立天文台三鷹図書館デジタル資料」


私は、主に、「国立公文書館デジタルアーカイブ」「国会図書館デジタルコレクション」「国立天文台三鷹図書館貴重資料のデジタル化資料」から、資料を読んでいる。

国立天文台資料は、スキャンの解像度があまりよくないし、「誰かが書写したものかな」という感じで誤写があったりするものもある。国立公文書館・国会図書館のものの方が見やすい。

特に、公式暦法書の類については、国立公文書館蔵のものは、内閣文庫コレクションに属するものであり、幕府の紅葉山文庫から継承されたものと思われるので、おそらく、暦法書ができたときに幕府に納本された、いわば「原本」というべきものではないかと想像している。汚れのない美本が多く、おすすめ。

ただし、私の環境だけかもしれないが、国立公文書館デジタルアーカイブの書類をブラウザで PDF 形式で参照すると黒が飛んで文字が見えない(CMYK の 4 原色画像データの CMY(青赤黄)は見えているけど K(黒)が見えていない感じ)。JPEG で見るか、PDF をダウンロードして Adobe Reader で見るとちゃんと見える。私と同じようになった方は、そういった対処を試してみられたい。

 

また、実際の頒暦をデジタル参照できるものとして、下記が利用できる。

ウェブサイト「ザ・ランス」に「江戸時代暦復元プロジェクト」として、須賀隆氏(→ 須賀隆のウェブサイト suchowan's Home Page)が作成した江戸時代の頒暦 (HTML形式) 、および、古暦帖等へのリンクが各年ごとに一覧化されたものが掲載されている。「○○年の頒暦を見たい」というときに便利。
  • ただし、須賀氏のHTML形式の暦は、実際の頒暦と突合が完了しているものではなく、突合するためのたたき台として作成されたもの(2020年4月5日現在)であるため、実際の頒暦と合っているとは限らない。

頒暦は、貞享二(1685)年に改暦されて以降のものはどこかしらですべて参照できるが、それ以前、宣明暦法で各地の暦師がそれぞれに作っていたころのものは、あったりなかったりする。また、仮名暦ではない真名暦として「具注暦」(「気朔暦」と呼ばれることもある)や、「七曜暦」(※) などがあるが、一般頒布されるものではないので、暦が残っている年はかなり限られるようだ。国立天文台三鷹図書館デジタル資料「附暦本類」に、頒暦に混ざっていくつか掲載されており、参照することが出来る。

  • (※) 「七曜」といっても曜日とは関係がない。節気(つまり太陽の運行)や朔弦望(つまり月の運行)が記載されている「気朔暦」に対し、五惑星(木星、火星、土星、金星、水星)の運行も記載されている暦である。天文方によって作暦され朝廷に納入されていた。

江戸時代の暦については、上記を参照することになるが、太陰太陽暦は、明治時代に移行措置として、新暦と併記された期間のものが存在する。これが、今言うところの「旧暦」の直接のご先祖ということになるのだが、この期間の暦を参照するには、下記が利用できる。

  • 国立天文台暦計算室「暦要項」PDF版一覧
    • 戦前の日本の公式暦である「本暦」を参照するのに用いることが出来る。国会図書館のデジタルコレクションでも収蔵されているものがあるようだが、今一つ検索するのによいキーワードがなく(「太陽暦/明治暦」「神宮司庁」などで検索するとひっかかってくるものはあるが)、上記の暦要項一覧で探すのが手っ取り早い。
  • 国会図書館デジタルコレクション「略本暦」
    • おなじく、戦前の日本の公式暦だが、より一般向けの「略本暦」である。こちらは、国立天文台暦計算室では掲載していないが、国会図書館デジタルコレクションで「略本暦」のキーワードで検索すると大体ひっかかる。


頒暦概観(年頭)

江戸時代の頒暦、つまり、一般に販売・頒布される仮名暦がどういうものか、ざっと見てゆく。

これは、天明六(1786)年の伊勢暦だ。

表題部

最初の行には、「伊勢度会郡山田 箕曲主水」と、頒暦の発行者が記載されている。
次の行には、「天明六年ひのえむまの宝暦甲戌元暦 牛宿値年 凡三百八十四日」と、(1) 元号表記の紀年「天明六年」、(2) 年の干支「丙午」、(3) 暦名「宝暦甲戌元暦」、(4) 年の二十八宿「牛宿」、(5) 一年の日数(閏年で13ヶ月あるので、384日)、が記載されている。

(1) 元号表記の紀年

これについて、説明は不要だろう。

なお、暦は前年のうちに作暦され、頒布・販売されるものだから、「〇〇元年」と記載された暦はありえない。作られた段階では改元前だからである。前の元号が継続しているものとして記載される。そして、改元が年末近くの場合、「〇〇二年」についても、新元号対応が間に合わず、前の元号で表記される。

また、巻末部に発行年が記載されているのだが、そこは発行した当年を記載しているわけなので、改元当年に発行された「〇〇二年」暦の発行年は「〇〇元年」と表記される。しかし、ここも、改元が年末近くの場合は新元号対応が間に合わず、前の元号で表記される。
下記は、各元号で、どの年から新元号が使われているかを示したものである。

元号 新元号開始
(表題部)
新元号開始
(発行年)
改元年月日
1684 貞享 2 1 天和4年二月21日(1684/4/5)
1688 元禄 2 2 貞享5年九月30日(1688/10/23)
1704 宝永 2 1 元禄17年三月13日(1704/4/16)
1711 正徳 2 1 宝永8年四月25日(1711/6/11)
1716 享保 2 1 正徳6年六月22日(1716/8/9)
1736 元文 2 1 享保21年四月28日(1736/6/7)
1741 寛保 2 1 元文6年二月27日(1741/4/12)
1744 延享 2 1 寛保4年二月21日(1744/4/3)
1748 寛延 2 1 延享5年七月12日(1748/8/5)
1751 宝暦 3 2 寛延4年十月27日(1751/12/14)
1764 明和 2 1 宝暦14年六月2日(1764/6/30)
1772 安永 3 2 明和9年十一月16日(1772/12/10)
1781 天明 2 1 安永10年四月2日(1781/4/25)
1789 寛政 2 1 天明9年正月25日(1789/2/19)
1801 享和 2 1 寛政13年二月5日(1801/3/19)
1804 文化 2 1 享和4年二月11日(1804/3/22)
1818 文政 2 1 文化15年四月22日(1818/5/26)
1830 天保 3 2 文政13年十二月10日(1831/1/23)
1844 弘化 3 2 天保15年十二月2日(1845/1/9)
1848 嘉永 2 1 弘化5年二月28日(1848/4/1)
1854 安政 3 2 嘉永7年十一月27日(1855/1/15)
1860 万延 2 1 安政7年三月18日(1860/4/8)
1861 文久 2 1 万延2年二月19日(1861/3/29)
1864 元治 2 1 文久4年二月20日(1864/3/27)
1865 慶応 2 1 元治2年四月7日(1865/5/1)
1868 明治 2 1 明治元年九月8日(1868/10/23)

これを見ると、どうやら、改元年で新元号対応が間に合うかどうかは、改元が九月までか十月以降かが閾になっているようだ。九月三十日に改元した「元禄」については、貞享五/元禄元年に発行した元禄二年暦は、巻末発行年を旧元号「貞享五年」で表記し、表題部の紀年を新元号「元禄二年」で表記している。このあたりが閾値ぎりぎりラインであるらしい。

元禄二(1689)年暦の巻末部。「元禄元年出」ではなく「貞享五年出」と表記されている。

暦面の巻末部を掲載したので、ついでに述べておく。
頒暦の巻末には「立表測景定節気者(表を立て景を測り節気を定むるもの)」、つまり、日時計を立てて影の長さをはかり二十四節気を定めました、という詞書を書くのが定例である。
実際は、暦法を定めるときはともかく、毎年の暦の作成は計算により求めているのであって、「日時計を立てて影を測っている」というのはフィクションなのだが。
寛政暦まではこの詞書を記載していたが、天保暦以降は馬鹿馬鹿しくなったようで記載されなくなった。
なお、元禄八(1695)年暦までは「立表測定節気者」と記載されていたようである(「晷」は、音よみキ。「ひかげ」等と訓ずる字)。


梅田(2010)によると、頒暦の発行は下記のような流れで進む。

  • ①[天文方]推算・置閏朔算出、暦草稿作成→
  • ②[土御門家]→[幸徳井家]暦草稿に暦注・吉凶附→[土御門家]→
  • ③[天文方]校閲、写本暦稿作成 →
  • ④[幸徳井家]写本暦稿 →
  • ⑤[大経師]写本暦彫刻 →
  • ⑥[天文方]写本暦校正、各地に配布 →
  • ⑦[各地暦師・暦問屋]地方暦作成 →
  • ⑧[天文方]地方暦校合 →
  • ⑨[各地暦師・暦問屋]地方暦発行
    (町奉行所・所司代などの経由機関を除く。)

幕府によって暦統一が行われる前、宣明暦の暦法に従って各地で独自の仮名暦が発行されていた。京の大経師・院経師が発行する京暦、奈良の陰陽師による南都暦、伊勢の暦師が発行し伊勢神宮の御師たちによって頒布される伊勢暦、仮名暦の老舗であり三島の暦師によって発行される三島暦、会津諏訪神社の神官によって頒布される会津暦、江戸の暦問屋によって発行される江戸暦などである。

貞享暦以降、幕府によって暦統一が図られた。統一された暦の原本が作成され、もともと独自の暦を発行していた各地暦師・暦問屋に写本配布され、各地暦師・暦問屋は、配布された写本の内容を版におこして暦を刷り、頒布・販売する。各地方暦は、フォーマット(サイズ感とかフォントとか、冊子・蛇腹折りの折り暦・巻物などの形態とか)では多少のオリジナリティーを出すことができるが、内容としてはどの暦も全く同一のものとなる。

「天文方が作暦」「陰陽寮長官(陰陽頭おんみょうのかみ)である土御門家の指揮のもと、陰陽寮次官(陰陽助おんみょうのすけ)の幸徳井家が暦注・吉凶をつける」「京暦の暦師であった京の大経師が暦の原版を彫り、写本を刷る」のような役割分担で、統一暦原本を作っていた。

  • 「大経師」とは、もともとは、朝廷で入用の仏教経典の巻物装丁を行っていた職人である。同じく巻物形式であった具注暦(庶民向けの仮名暦でない、朝廷に納入される漢字の暦)の装丁も行なっており、その縁で、仮名暦(京暦)の一般向け販売も行うようになったのである。朝廷向けの経典装丁を行っていたのが「大経師」、上皇(院)向けの経典装丁を行っていたのが「院経師」。ともに、京暦を発行していた。

そして、木場(1983)によると、旧南都陰陽師吉川家文書: 嘉永七年『暦掛り記録』によって、毎年、下記のようなタイムスケジュールで暦が作られていたことがわかる。

  • 五月中二新暦願出ル
  • 七八月中二御写本暦頂戴
  • 九月中二校合改差出ス
  • 十月十一月中旬迄校合相済
  • 十二月朔日御奉行所様江暦献上
  • 十一月中二御殿向献暦差出ス

七~八月に写本を受け取る、九月中に地方暦の校正刷を提出する、十月~十一月に天文方による校正が終わり、十一月~十二月あたりに大名・奉行所などの主要なところに暦を献上し、おそらくその後、一般に頒布・販売、という流れだったようだ。

とすると、十月以降改元された場合、改元対応未済なのもうなずける。校正刷提出期限が九月なのだから、「九月までの改元は織り込んで作成しろ、十月以降の改元は反映しなくてよい」というルールだったのではないかと思われる。

元禄二年暦(九月三十日改元)で、発行年は旧元号「貞享五年」表記、表題部紀年は新元号「元禄二年」なのは、校正刷作成時点はまだ改元前なのだから発行年は旧元号表記でしかるべきであり、一方で、九月中の改元なので、校正により、表題部の翌年の紀年表記については、新元号表記するよう修正指示されたということではないか。

(2) 年干支

こちらもさほど説明の必要はないかもしれない。年干支は、\((\text{西暦年} - 4) \mod 60\) で算出できる(甲子=0 ... 癸亥=59)。仮名暦であるので、仮名表記している。

ここで、干支の仮名表記について。
十干「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」は、「きのえ」「きのと」「ひのえ」「ひのと」「つちのえ」「つちのと」「かのえ」「かのと」「みづのえ」「みづのと」、
十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」は、「ね」「うし」「とら」「う」「たつ」「み」「むま」「ひつじ」「さる」「とり」「いぬ」「い」、と表記される。

  • 「ひつじ」は、実際には濁点を使わないので「ひつし」なのだが、このブログにおいては、適宜、濁点・半濁点、捨て仮名(小さい「ゃゅょっ」)を補って記載する。

「うま」ではなく「むま」なので注意されたい。また、「猪」は歴史的仮名遣いでは「ゐ」と書くべき単語なのだが、歴史的仮名遣いに気をつかうようになったのは明治以降で、江戸時代には、それを気にするのは歌学者・国学者ぐらいのもの。「い」と表記している。

また、十干が「○のと」の場合、干支(十干十二支)は、「きのとのうし」というように、十干と十二支との間に「の」を挿入することとなっている。

なお、明治時代、新暦改暦後の公式暦として「本暦」「略本暦」があったが、干支は、本暦では漢字表記、略本暦では仮名表記であった。
仮名表記の略本暦において、「○のと」の場合の干支間「の」は挿入されず、「きのとうし」等のように表記している。
また、明治18[1885]年暦までは江戸時代と同じ「むま」「い」だったが、それ以降は、「うま」「ゐ」と表記されている。
なお、明治18年暦までの略本暦では「きのえ」でなく「きのへ」等と表記されている(それ以降は、ちゃんと「きのえ」)。私は、歴史的仮名遣いと違っていると違和感を感じる性質なので、大変気持ち悪い。なんで江戸時代は合っていたものを間違った方向に変更するのか。

  • ただし、明治18[1885]年暦は過渡的で、正月三ヶ日だけは明治19[1886]暦以降の様式で記載されているようだ(1/1「ひのえたつ」、1/3「つちのえうま」)。


明治十八[1885]年 略本暦(国会図書館デジタルコレクション蔵)
明治十九[1886]年 略本暦(国会図書館デジタルコレクション蔵)

江戸時代の暦では、年干支や日干支のうちの正月三ヶ日は、ちゃんと「きのえね」「きのとのうし」等と読めるような形で記載されているのだが、それ以外の日干支は、ほとんど「きのーね」「きののうし」ぐらいにしか読めない。江戸時代においても、「きのーね」に見えるところは、本当は「きのえね」と書いているのではなく、「きのへね」と書いているのかも。……そんなことはないか。

なお、現在の公式暦である「暦要項」には年干支や日干支は掲載されていないが、公的機関である国立天文台が編纂している「理科年表」(暦部)、および、それと内容的に同一の「暦象年表」には、当該年の年干支と、年初1月1日の日干支が掲載されている。
そして、そこにはふりがなが付されているが、「きのえね」「きのとのうし」のように、十干が「〇のと」の場合は「の」が付加されている。

また、十二支は「ね」「うし」「とら」「う」「たつ」「み」「うま」「ひつじ」「さる」「とり」「いぬ」「ゐ」である。亥は「い」ではなく「ゐ」。現代かなづかいに改定されてはいない。

  • 十二支の「亥」は「ゐ」だが、十干の「壬」「癸」は「みづのえ」「みづのと」ではなく「みずのえ」「みずのと」になっているので、歴史的かなづかいに統一されているわけでもないようだが。

つまり、十二支は明治19年暦以降のフォーマットだが、新暦改定後なくなっていた「十干が『〇のと』の場合、「の」を挿入」が復活しているようだ。
「暦象年表」の干支表示は、ウェブ版暦象年表でも確認することが出来る

まとめると、

  • 江戸時代の頒暦:
    「壬癸 = みづ」、「午 = むま」、「亥 = い」、「○のえ×× / ○のとの××」
  • ~明治十八の略本暦:
    「壬癸 = みづ」、「午 = むま」、「亥 = い」、「○のへ×× / ○のと××」
  • 明治十八の正月三箇日と明治十九~の略本暦:
    「壬癸 = みづ」、「午 = うま」、「亥 = ゐ」、「○のえ×× / ○のと××」
  • 現在の暦象年表:
    「壬癸 = みず」、「午 = うま」、「亥 = ゐ」、「○のえ×× / ○のとの××」


(3) 暦名

暦名が「貞享暦」「宝暦甲戌元暦」「寛政暦」「天保壬寅元暦」と表記される。
宝暦暦は暦法が制定された宝暦四[1754]甲戌の干支が、同じく、天保暦は暦法が制定された天保十三[1842]年壬寅の干支が名前についている。

貞享・寛政に年干支がつかず、宝暦・天保に年干支がついているのは、「宝暦」は唐で、「天保」は南北朝の北斉・後梁で使用例のある元号であるのに対し、貞享・寛政は中国での使用例がない元号であるため、単に「貞享暦」「寛政暦」だけで名前被りの恐れがないためであろう。

  • 「天保暦」は実際に中国で同名の暦があった(南北朝の北斉で、551~577年使用)。

どうやら、新暦は、「まず暦法が勅許される」「その後、暦名が下賜される」という流れであったらしく、暦名が下賜される前後で表示方法が変わる。

貞享暦

  • 貞享二[1685]年は、単に「暦」と表示。
  • 貞享三[1686]年は、単に「暦」とした上で、表題部の最後に下賜された暦名「貞享暦」を表示
  • 貞享四[1687]年以降は、暦名に「貞享暦」

宝暦暦

  • 宝暦五[1755]年は、「新暦」と表示。
  • 宝暦六[1756]年は、単に「暦」とした上で、表題部の最後に下賜された暦名「宝暦甲戌元暦」を表示
  • 宝暦七[1757]年以降は、暦名に「宝暦甲戌元暦」

寛政暦では、ちょっと流れが簡略化され、

  • 寛政十[1798]年は、「新暦」と表示。
  • 寛政十一[1799]年以降は、暦名に「寛政暦」と表示

天保暦では、暦法の勅許と、暦名下賜をいっぺんにやってしまったらしい。

  •  天保十五年[1844]の天保暦採用以降、いきなり、暦名に「天保壬寅元暦」と表示。


表題表記 備考
1685 貞享二年きのとのうしの暦 凡三百五十四ヶ日 貞享暦初年
1686 貞享三年ひのえとらの暦 凡三百八十四ヶ日 貞享暦 貞享暦二年目
1687~ 貞享四年ひのとのうの貞享暦 井宿値年 凡三百五十五日 貞享暦三年目以降
1755 宝暦五年きのとのいの新暦 尾宿値年 凡三百五十四日 宝暦暦初年
1756 宝暦六年ひのえねの暦 箕宿値年 凡三百八十四日 宝暦甲戌元暦 宝暦暦二年目
1757~ 宝暦七年ひのとのうしの宝暦甲戌元暦 斗宿値年 凡三百五十五日 宝暦暦三年目以降
1798 寛政十年つちのえむまの新暦 参宿値年 凡三百五十四日 寛政暦初年
1799~ 寛政十一年つちのとのひつじの寛政暦 井宿値年 凡三百五十四日 寛政暦二年目以降
1844
~1872
天保十五年きのえたつの天保壬寅元暦 虛宿値年 凡三百五十五日 天保暦


(4) 年の二十八宿

「○宿値年」と表記される(私は「○シュクチネン」と読み、「○宿にあたる年」と訓んでいますが、正しいかどうかは知りません)。

二十八宿は、永久に「角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫」を循環する。年二十八宿は、(西暦年 + 14) mod 28 で算出でき、あまりゼロが「角」である。
貞享暦当初(貞享二年・三年)は年二十八宿が表示されなかったようだ。

  • 「氐(テイ)」は、JIS第1水準・第2水準に含まれない文字なので注意。「低」「抵」「底」とか、旁ではよく見かけるんですけどね。


(5) 年内の日数

「凡〇〇日」と表記される。貞享暦開始当初(貞享二年・三年)は「凡○○ヶ日」と表記されたようだ。 「凡」は、私は「およそ」と読んでますが、正しいかどうかは知りません (※)。
古暦帖で貞享三(1686)年の伊勢暦を見ると
「凢三百八十亖ヶ日」となかなか見慣れない感じで書いてある。「凡三百八十四ヶ日」なのだが、「亖」なんて漢字あるんですね。なお、このブログでは旧字体・異体字・変体仮名等は、勝手に新字体・正字・正仮名に変えて記載するので、ご容赦されたい。

  • (※) コメントで、康永5(1346)年のかな暦(書写暦)の最初に 「康永五年のこよみ ひのへいぬのとし すへて三百八十三日」との記載があり、「すべて」と読むのがよいのではないかという情報をいただきました。ありがとうございました。


題詞

暦頭に題詞(勝手に命名)がつくことがある。改暦時に書かれるのが代表的な例であるが、それ以外にもトピックがあれば記載されることがある。表題一行目の発行者名の前についたり、表題一行目と二行目の間についたり、または、冊子形式の暦の場合、表紙に書かれたりするようだ。

題詞 備考
貞享二
[1685]年
貞観以降用宣明暦既及数百年推歩与天差方今停旧暦頒新暦於天下因改正而刊行焉
貞享元年きのえね十二月大卅日せつぶん

(貞観以降宣明暦ヲ用ヰ既ニ数百年ニ及ビ、推歩ト天ト差アリ。方今、旧暦ヲ停メ新暦ヲ天下ニ頒ツ。因ッテ、改正シテ刊行ス)
貞享暦改暦
貞享三
 [1686]年
貞享元年止旧暦用新暦十月二十九日
詔賜名曰貞享暦

(貞享元年、旧暦ヲ止メ新暦を用ウ。十月二十九日、詔シテ名ヲ賜ヒ、貞享暦ト曰フ)
貞享暦命名
享保十四
[1729]年
一年の節と中とは、暦中第一の要所にて、耕作・たねまき、或は、草木鳥獣に至る迄、節気をたがふべからず。然るに、暦の下段の中へ入交りて見へわかちがたし。二十四気の名、幷、時刻を別段に挙しるし、暦を開きて早速見へやすからしむ。又、昼夜の刻数は、古の暦に注せりといへども、中葉より断絶せり。是又、民間にしらしめんがため、旧例にしたがひて加へ入るものなり。
   渋川六蔵源則休    謹推数考定
   猪飼豊次郎源久一
付箋?
二十四節気を別行に記載するよう改定
元文五
[1740]年
世俗、一昼夜といふは、明ケ六時を一日の初とし、次の明六時迄を終とす。月食をしるす事も、俗習にしたがひ右の通り用ひ来れり。然れども、元より子丑寅卯の四時は、次の日の處分なるゆへ、今より後、此四時には翌の字を付て是をしらしむ。幷、二十四節土用も皆右のごとし。自今以後、此例にしたがふ也。重て断るに及ばず。
渋川六蔵源則休
猪飼豊治郎源久一 謹誌
時刻の表示方法の改定
宝暦五
[1755]年
貞享以降距数十年用暦其推歩与天差矣。今立表測景定気朔而治新暦以頒之於天下
一、歴面に、いむ日は多しといへども、吉日は、天しゃ・大みゃうの二ツのみにて、世俗の日取足がたかるべし。仍て今、天恩・母倉・月徳三ツの吉日を記して、知しむるものなり。
一、彼岸の中日は、昼夜等分にして天地の気均しき時なり。前暦の記する所、是に違へり。故に今よりその誤を糾し是を附出す。仍て、前暦の彼岸と、春は七日進み、秋は三日すゝむもの也。
一、昼夜を分つこと、世俗の時取、惑多し。仍て、一たび翌の字を附出すといへども、なを其まどい解がたし。故に、夜半より前を今夜と記し、夜半より後を今暁と記すもの也。
土御門従三位陰陽頭安倍泰邦
門人渋川図書天文生源光洪

(貞享以降数十年ヲ距テ暦ヲ用ヰ其ノ推歩ト天ト差アリ。今、立表測景シ気朔ヲ定メテ新暦ヲ治メ、以ッテ、之ヲ天下ニ頒ツ)
- 宝暦暦改暦
- 暦注下段に吉日「天おん」「母倉」「月とく」追加
- 彼岸の日取り変更
- 時刻の表示方法の改定
宝暦六
[1756]年
宝暦四年止旧暦用新暦十月十九日
詔賜名曰宝暦甲戌元暦
去年、新暦面に記し出す所の三ヶ条、自今、永く用てことなる事なし。重て断り示に及ばず。
土御門三位泰邦
門人渋川図書光洪

(宝暦四年、旧暦ヲ止メ新暦ヲ用ウ。十月十九日、詔シテ名ヲ賜ヒ、宝暦甲戌元暦ト曰フ)
宝暦暦命名
明和四
[1767]年
今まで頒行ふ所の暦、日月食三分以下はしるし来らず。此たび、
命ありて、浅食といへどもことごとく記さしむ。しかれども新暦しらべいまだおはらず。よりて今までの数にならふのみ。
(「ことごとく」の「ごと」は踊り字(くの字点))
付箋?
日月食表示基準の変更
明和五
[1768]年
宝暦の新暦、日月食三分以下はしるし来たらざるを、
命ありて浅食といへどもことごとくしるせり。しかれども新暦しらべいまだおはらず。しらべおはらば、更にのべ告て頒ち行わん。
(「ことごとく」の「ごと」は踊り字(くの字点))
日月食表示基準の変更
(前年に付箋?で表示されたものの再表示)
明和八
[1771]年
宝暦の新暦しらべなり、
命をうけたまはり、ことしより後は、しらべたる法数を用て頒ち行ふものなり。
明和の修暦(修正宝暦暦の施行)
寛政十
[1798]年
順天審象定作新暦
依例頒行四方遵用

(天ニ順ヒ象ヲ審ラメ、新暦ヲ定作ス。例ニ依リ頒行ス。四方遵用セヨ)
寛政暦改暦
寛政十一
[1799]年
寛政九年新暦成
十月
進奏
賜名寛政暦

(寛政九年、新暦成ル。十月進奏シ、名ヲ寛政暦ト賜フ)
寛政暦命名
天保十五
[1844]年
今まで頒ち行れし寛政暦は、違へる事のあるをもて、更に改暦の
命あり。遂に天保十三年新暦成に及び、
詔して名を天保壬寅元暦と賜ふ。
抑、元文五年庚申宝暦五年乙亥の暦にことわる如く、一昼夜を云は、今暁九時を始とし今夜九時を終とす。然れども、是まで頒ち行れし暦には、毎月節気・中気・土用・日月食の時刻をいふもの、皆昼夜を平等して記すが故、其時刻、時の鐘とまゝ遅速の違あり。今改る所は、四時日夜の長短に随ひ其時を量り記し、世俗に違ふ事なからしむ。今より後、此例に従ふ。
- 天保暦改暦・命名
- 時刻表示の改定(不定時法の採用)

漢文の書き下しの文責は、当ブログの筆者。旧字体・変体仮名等の新字体・正仮名への変更、および、濁点・句読点の付加等、適宜、当ブログ筆者の文責において実施した。


天保十五[1844]年、天保暦改暦の際の題詞


題詞のもっとも典型的な例は、改暦・新暦の命名の告知記事である。寛政暦改暦の漢文は、なんかちょっとかっこいいですね。高橋至時とかのセンスでしょうか。

貞享暦改暦時に「貞享元年きのえね十二月大卅日せつぶん」と記載されている。これは、長年使い続けられて二十四節気が二日ほどずれていた宣明暦から改暦したことにより、宣明暦に従えば立春ではなかった貞享二年正月一日が、貞享暦に従えば立春ということになった。とすれば、貞享元年十二月三十日は、貞享元年甲子[1684]の宣明暦では「せつぶん」の表示がされていないのだが、実際は「せつぶん」ということになるので注意してね、という表示である。

その他、時刻表示方法の改定や、宝暦暦改暦の時の、暦注下段の新しい暦注の追加の告知等、暦を見る人が知っておいたほうがよい事項が告知される。

享保十四[1729]年、明和四[1767]年の題詞は、古暦帖などで実際の頒暦をウェブで見るときに、付いているものと付いていないものがあるように見受けられ、おそらく、印刷された暦面ではなく、付箋などにより付けられたものではないかと想像している。頒暦の実物を見ていないので今ひとつ定かではないが。

明和四、五[1767, 8]年の題詞は、宝暦十三[1763]年九月の日食の予想を外したことを起因として表示されたものである。1763年九月日食は、宝暦暦が予測する食分は 2.6分ほどであり、また、当時、3分未満の小さい食は、暦面上表記しないこととしていたため、記載されなかった。しかし、実際は7分ほどの比較的大きい日食であり、問題となったのである。
日月食は凶兆とされていたため縁起を担ぐような行事は避けたりするのだが、暦面上記載されず実際起きてしまうと、そういった事前対処が出来ず、サイアクなのである。「暦面上記載されて実際は起きない」はまだマシなのだが。

このため、「食の予測を正しくするためには暦法を改定しないといけないが、それはまだ間に合っていない。とりあえず、それまでの間は、小さい食でも全部表示するよ」との告知を題詞で行っているのである。おそらく、明和四年は暦の印刷に間に合わず付箋?でつけ、明和五年の暦の本紙に再度記載したのであろう。
暦法の修正作業は並行して進められ、佐々木長秀(吉田秀長)らによる修暦、「暦法新書続録」が成り、1771年から修正宝暦暦が施行された(明和の修暦)。

なお、1771年以降、明和の修暦や寛政暦・天保暦により、日月食予測が比較的正確になっても、「小さい食といえどもすべて表示する」 の方針は継続している。というか、そもそも宝暦暦での「3分未満は表示しない」ルール自体がナゾルールだ。どんなに小さかろうが表示すればいいではないか。貞享暦・宝暦暦あたりの日月食の精度は今ひとつなので、「小さい食が予測された時に、実際は食が起こらなかった」というケースが何度か続いたんですかね。

年の方位吉凶

暦本体で最初に出てくるのは、年の方位吉凶である。このブログで、あまり吉凶の暦注に深入りするつもりはないのだが、年の方位吉凶の説明は簡単に済みそうなので、ここで一通りを。

暦の上段に、方位神、方位、説明書きが記される。

まずは「大さい」「大しゃうぐん」「大おん」、
その左に、「三鏡宝珠形」と呼ばれる図柄、「としとくあきの方」、「金神」の三つが縦に並び、
その左に、「さいげう」「さいば」「さいせつ」「わうばん」「へうび」が記載される。

下には、方位図が書かれ、各方位吉凶がビジュアル的に示される。
上にリストアップされた方位吉凶が方位図内に記されるのだが、それ以外にも「きもん(鬼門)」が北東(艮)の方角に記載される。
方位図は、北が下になっている。

なお、ここでの方位は、十二支と、十干の内の八つ、八卦の内の四つを組み合わせた二十四方位である。
北から、時計回りに、

  • [北] 子、癸、丑、[北東] 艮、寅、甲、
  • [東] 卯、乙、辰、[南東] 巽、巳、丙、
  • [南] 午、丁、未、[南西] 坤、申、庚、
  • [西] 酉、辛、戌、[北西] 乾、亥、壬、

ほとんどのものは、上記のうち、十二支の方位しか使わない。
十干の方位を使うのは、「としとくあきの方」のみ。甲、丙、庚、壬の十干方位を使うが、たぶん、そう書いてもピンとこないのだろう、前後の十二支のものを使って、「とらうの間」「みむまの間」「さるとりの間」「いねの間」と表記される (※)。
十二支・十干以外の方位(艮、巽、坤、乾)を使うのは、「艮」に配当される「きもん」だけ。 

  • (※)「間」という字の草体が、私みたいな不慣れな人間にはちょっと読みづらい。。。


年の十二支により定まる方位吉凶

全部で八つ。下記の表で方位「子」ならば「ねの方」、「午」ならば「むまの方」と表示される。方位十二支のかな読みは、年干支・日干支での読み方と同じく、「ね・うし・とら・う・たつ・み・むま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」。

「大しゃうぐん」は、同じ方位が三年連続で凶方位となるため、「三年ふさがり」と呼ばれ、三年の初年・二年目・三年目で文言が変わる。二年目午年の場合、「ひつじのとしまで三年ふさがり」などと表記される。

方位神 表記 文言 子年 丑年 寅年 卯年 辰年 巳年 午年 未年 申年 酉年 戌年 亥年
大歳神 大さい 此方にむかひて万よし
但、木をきらず
大将軍 大しゃうぐん (1) ことしより三年ふさがり
(2) ○のとしまで三年ふさがり
(3) ことしまで三年ふさがり
太陰神 大おん 此方にむかひてさんをせず
歳刑神 さいげう
(※)
むかひてたねまかず
歳破神 さいば むかひてわたましせず
ふねのりはじめず
歳殺神 さいせつ 此方よりよめとらず
黄幡神 わうばん むかひて弓はじめよし
豹尾神 へうび むかひて大小べんせず
ちくるいもとめず

(※) 字音語の歴史的仮名遣いをとやかく言うのが適切かどうかはわからないが、「歳刑」ならば「さいぎゃう」が正しい。が、例によって、江戸時代、歴史的仮名遣いは誰も気にしていない。

年の十干により定まる方位吉凶

「としとくあきの方」「金神」の二つ。
ちなみに、「としとくあきの方」は、昨今全国的に流行りだした節分行事「恵方巻」でおなじみの「恵方」。

方位神 表記 甲年
己年
乙年
庚年
丙年
辛年
丁年
壬年
戊年
癸年
歳徳神 としとく あきの方
○○の間 万よし
とらうの間
(甲)
さるとりの間
(庚)
みむまの間
(丙)
いねの間
(壬)
みむまの間
(丙)
金神 ○○○
金神
○○○
むま ひつじ
さる とり
たつ
み (※)
ね うし とら
う むま ひつじ
とら う
いぬ い
ね うし
さる とり

(※) 貞享暦初年の、貞享二[1685]年だけは、「たつ / み」ではなく、「とら う / たつ み」としているようだ。

なお、上記の方位吉凶の配当は、いくつかの年をサンプルで確認して実際の暦との附合を確認してはいるが、全部の年をチェックし切れているわけではない。

記載される文言も貞享暦の初期はまだ定まっていない感じも見受けられる。これも全部見切れているわけではないが。例えば、「大さい」は、貞享暦初年の貞享二[1685]年暦では上記のとおり「此方にむかひて万よし 但、木をきらず」なのだが、次の二年、貞享三、四[1686, 7]年暦では「此方にむかひて木をきらず」になり、それ以降はまた元に戻っている。

「としとくあきの方」の上に描かれている「三鏡宝珠形」は、なんだか知らないが仮名暦には必ず入れることになっているようだ。「三鏡」は、もともとはこれも方位吉凶のひとつで、「天皇玉女、多願玉女、色星珠女」という三人の天女がいらっしゃるのでお騒がせすると祟りがある方角。仮名暦では三鏡の配当方位を記載したりは別にしないのだが、なぜか「三鏡宝珠形」を描くことになっている。

この絵が何を書いているのか今いちピンと来ないが、御簾のなかに台か高坏的なものがあって、その上に三つの宝珠だか鏡だかが載っていて、そしてその宝珠なり鏡なりの発するエネルギーによって火炎に包まれている絵らしい。

土公

下段の方位図の左には、「土公」が記載されている。毎年、固定文言で「土公 春はかま、夏はかど、秋は井、冬はには」と記載。

「土公」という神様が、春(正~三月)はかまど、夏(四~六月)は門、秋(七~九月)は井戸、冬(十~十二月)は庭におり、土公をお騒がせしないようにそのあたりの土を動かしてはいけないらしい。夏に門を建てたりしてはいけないとか、秋に井戸を掘っちゃだめとか。

月大小表

土公の左には、各月の大小(30日の月か、29日の月か)がサマライズして表記されている。月の大小は、後でそれぞれの月のところでも表示される。

上に、天明六[1786]年の暦をサンプルとして掲載しているが、この年は閏月がある年。月大小の表を見ると、閏十月が配置されていることがわかる。 

 

今回は表紙的なコーナーまでだったが、次回は、暦の本体、日別記事について概観する。

[江戸頒暦の研究 総目次へ]

[参照文献]

木場 明志 (1983)「近世南都陰陽師の活動」, 印度學佛教學研究 31(2), pp.731-734 https://doi.org/10.4259/ibk.31.731

梅田 千尋 (2010)「土御門家の家職と天文暦算」, 近世の天皇・朝廷研究 3, pp.3-15 http://hdl.handle.net/10959/3480

1 件のコメント:

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    康永5(1346)年のかな暦(書写暦)の最初に

    「康永五年のこよみ ひのへいぬのとし すへて三百八十三日」

    と書かれています。「凡」は「すべて」と読むのがよいのではないでしょうか。

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