2020年5月4日月曜日

頒暦概観 (2) 暦月記事、暦日記事

日別記事

今回は、頒暦の本体部分、日別記事を概観する。

日別記事には、下記の4種類が存在する(名前は、勝手に命名)。
  1. 暦月記事
    • 暦月一日の暦日記事の前(右)に記載される。
    • 記載される内容は、月名(○月)、月の大小、月干支、 月の二十八宿、暦月一日の二十八宿、暦月一日の七曜。
  2. 暦日記事
    • 毎日記載される。
    • 記載される内容は、日名(○日)、日干支、十二直、日の納音、該当日に配当される雑節・選日・暦注下段。
  3. 節気記事
    • 二十四節気が配当される日の暦日記事の後(左)に記載される。
    • 記載される内容は、節気名(××○月節/中)、節気の時刻、日の出/日の入で昼夜をわけたときの昼/夜の時間、明六ツ/暮六ツで昼夜をわけたときの昼/夜の時間。
  4. 日月食記事
    • 日食・月食が発生する日の暦日記事の後(左)に記載される。節気記事とかぶる場合、節気記事の後(左)。
    • 日月食記事での記載内容は、詳しくは別途説明するが、
      • 初虧(かけはじめ)の時刻・方向角
      • 食甚(食の最大)の時刻・方向角・食分
      • 復円(かけおわり)の時刻・方向角
      • 初虧~復円の間に日月の出入りがあるとき(帯食のとき)、出入の時刻・出入時の食分
      といった情報が記載される。「食分」とは、かけの程度、「方向角」とは、日輪・月輪のかけている箇所の方向を示す情報である。
    • 基本的に京都から見たときの食の情報が記載されるが、「西国」・「東国」についての情報が記載されることがある。

    天明六[1786]年宝暦暦の例

    暦月記事

    暦月記事は、正月、正月以外、閏月、で若干フォーマットが異なっている。サンプルとしてあげた天明六[1786]年暦の場合、こんな感じ:
    • 正月小  建庚寅 心宿値月 心宿月曜値朔日
    • 二月大  建辛卯 尾宿   尾火よう
    • 閏十月大 随節用之     觜火よう
    つまり、
    • [月名][大小] 建[月干支] [月二十八宿]宿値月 [朔日二十八宿]宿[朔日七曜]曜値朔日
    • [月名][大小] 建[月干支] [月二十八宿]宿   [朔日二十八宿][朔日七曜]よう
    • [月名][大小] 随節用之            [朔日二十八宿][朔日七曜]よう
    というフォーマットになっている。正月と正月以外はフォーマットが違うだけで、記載情報量は同じ。閏月は、月干支・月二十八宿が記載されない。

    月名・月大小

    月名と月大小(大=30日か、小=29日か)は説明不要だろう。
    いわずもがなながら念のため。年初の月は「一月」ではなく「正月」、正月と二月の間の閏月も「閏一月」ではなく「閏正月」なので、そこは留意されたい。

    月干支

    月干支は、月干支 = (西暦年 * 12 + 月 + 13) mod 60、または、月干支 = (年十干 * 12 + 月 + 1) mod 60 で求めることができる。
    ただし、十干は、甲=0, 乙=1, …, 癸=9 とし、月は、正月=1, 二月=2, …, 十二月=12 とする。干支は、甲子=0, 乙丑=1, …, 癸亥=59 とする。
    年干支・日干支は仮名表記されるが、なぜか月干支は漢字表記。

    月十二支は、必ず、正月=寅、二月=卯、三月=辰、四月=巳、五月=午、六月=未、七月=申、八月=酉、九月=戌、十月=亥、十一月=子、十二月=丑、となる。
    • 正月が寅から始まるのは不思議かもしれないが、子、卯、午、酉が方位ではそれぞれ北、東、南、西にあたることと、十一月・二月・五月・八月が、冬至・春分・夏至・秋分の本月にあたることを思い起こされたい。北→冬至、東→春分、南→夏至、西→秋分という配置になっているわけだ。
      古来、中国・日本の暦においては冬至を起点に考えることになっているが、正月を「人正」(人の正月)、十一月すなわち冬至月を「天正」(天の正月)といったりする。月十二支は、人正ではなく天正を起点としているわけだ。人正のちょい前の冬至、すなわち前年冬至を「天正冬至(てんせいとうじ)」と呼ぶ。天正冬至は作暦の出発点になる。
    「建庚寅」等と記載されている「建」は、「をざす(尾指す)」と訓ずる。そもそも月の十二支は、北斗七星の柄杓の柄がどちらを指しているかで決まるものだったらしい。子の方(=北、下)を指す月は「子月」、午の方(=南、上)を指す月は「午月」。が、単純に子丑寅卯…を繰り返すだけになり、北斗七星との関係性はなくなってしまった。それでも「建寅月、寅に建(をざ)す月」という言葉だけ残っている。
    という話なのだとすれば、「建寅」と十二支に「建」をつけるのはよいが、十干は何も関係ないので、「建庚寅」と干支に「建」をつけるのはおかしな話なのだが、まあまあ細かいことは気にせずに。

    月二十八宿

    月二十八宿は、永久に「角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫」を繰り返す。月二十八宿 = (西暦年 * 12 + 月 + 19) mod 28, または、月二十八宿 = (年二十八宿 * 12 + 月 + 19) mod 28 として求めることが出来る(角=0)。

    月干支・月二十八宿は、閏月には配当されず、「随節用之(節ニ随ヒ之ヲ用ウ)」とだけ表記される。月干支・月二十八宿は、暦月記事に表示されているのだが、本来的には、節月(立春正月節~啓蟄二月節前日を正月、啓蟄二月節~清明三月節前日を二月、…とする太陽暦)に配当されるものなのだと思われる。節月に閏月はないから、閏月に配当される月干支・月二十八宿はない。「随節用之」、つまり、節月に従ってこれを使えと記載されているのだろう。

    日二十八宿・七曜

    日二十八宿、七曜は、具注暦(朝廷等に納入される漢字の暦)では毎日記載されるが、頒暦(仮名暦)では簡略化され、各月一日の二十八宿・七曜のみが暦月記事に記載される。

    日二十八宿は、日の修正ユリウス日 (MJD: グレゴリオ暦 1858年11月17日 0:00 UTC を第0日とする通日) から計算するなら
    日二十八宿 = (MJD + 20) mod 28
    として求めることが出来る。(角宿 = 0)

    七曜は、我々がよく知る七曜と全く同じ。日月火水木金土。配当の計算方法も、まったく同じなので、計算方法は省略する。
    七曜が日常的に用いられるようになったのは明治以降 (※) なので、その頃、西洋から入ってきたものと思う方もおられるかも知れないが、平安時代に弘法大師空海が唐から持って帰ってきた「宿曜経」に記載されており、以来、具注暦・仮名暦にずっと記載されてきたものである。もともと古代バビロニアあたりでできたものが、片や、エジプト・ユダヤを通じ、キリスト教に入ってヨーロッパに広まり、片や、インドに伝えられて、仏教を通じ、中国や日本に伝えられたのである。
    • (※) おそらく、明治 9 [1876] 年 3 月 12 日 太政官達 第 27 号
      「従前一六日休暇ノ處来ル四月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候條此旨相達候事。但土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルベキ事」
      (従前、一・六日休暇のところ、来る四月より、日曜日を以って休暇と定められさうらふ條、此の旨、相達しさうらふこと。ただし、土曜日は正午十二時より休暇たるべきこと)
      から七曜が日常生活に用いられるようになったと思われる。もともと明治新政府では一・六日(毎月 1, 6, 11, 16, 21, 26 日)を休暇としていたのだが、キリスト教徒であるお雇い外国人等が日曜日に休みたがったので、土曜半ドン・日曜休暇に改めた。公立学校の休暇も当然これによったし、民間でも役所の休暇に合わせて日曜に休みをとる習慣が少しずつ広まっていった。
    渋川景佑が作成した「安政三[1856]年萬国普通暦」(天保暦・グレゴリオ暦・ユリウス暦の対照表)の序文を見ると、
    従来世俗ニ吾月日ヲ用テ彼ノ月日ヲ探索スル法アリ。皆、其大汎ヲ知ル者ニシテ、確実ヲ得難シ。正式ニ依テ求得者ニ比レバ時トシテハ一二日ヲ謬ル者アリ。
    因テ想吾某月合朔ハ天正冬至後第幾朔タルヲ知レバ(仮令バ吾十二月朔冬至後一十日以内ニ在レバ吾正月朔ハ彼正月下旬ニアルベシ。如シ、一十日以外ニアレバ吾十二月朔ハ彼正月初旬或ハ中旬ニアルベシ)、其幾何朔数ヲ用ヒ、航海暦ニ因テ彼ノ合朔ヲ求メ、随テ本日七値ヲ査ストキハ、俱ニ同曜日を得(彼合朔時分二時五十六分三以上にアレバ次日ヲ取リ、以下ニ在レバ本日ヲ取ル)。漸ヲ以テ前後ヘ此彼日次ヲ計レバ此月日ハ彼月日ノ幾月幾日ナルヲ知得ベシ。
    「和暦と西暦とどの日とどの日が同じ日かを知ろうとすれば、朔で合わせればいいはず、航海暦で 2:56.3 (正午を0時とする時刻だから、普通の時刻にすれば、14:56.3) 以降なら翌日、以前なら本日のはず (グリニッジ時と、京都時との時差が 9時間3分7 として)。実際、それで曜日を見るとばっちり合っている」と言っていて、七曜は西暦との突合に便利だったようだ。

    暦日記事


    いよいよ、暦中の太宗を占める暦日記事。記載される位置によって「上段」「中段」「下段」と三段に分けて呼ばれるが、正直、どこまでが上段で、どこまでが中段なのか、今いち理解できていない。仮に以下のように考えておく。
    • 上段: 日付
    • 中段: 日干支、十二直、日納音
    • 下段: 雑節、選日、暦注下段・雑注
    上記、天明六[1786]年暦の正月六日を例にすると、
    |六日|かのとのい ひらく|金|せつぶん|大みゃう 天おん ぢう日 がくもんはじめよし|
    と記載されており、
    • 上段: 日付「六日」
    • 中段: 日干支「かのとのい」、十二直「ひらく」、日納音「金」
    • 下段: 雑節「せつぶん」、暦注下段「大みゃう 天おん ぢう日」・雑注「がくもんはじめよし」
     が表示されている。

    日付

    「日付」は、「○日」と記載されるのだが、正月三箇日以外は「日」の字がただの斜め線にしか見えない。
    「廾」「卅」等を見慣れない人もいらっしゃるかも知れない。「二十」「三十」である。

    日干支

    日干支は、(MJD + 50) mod 60 で求めることが出来る(甲子 = 0)。仮名表記は年干支のところで説明したとおり。
    正月一日、二日、三日は、ちゃんと「ひのえむま」「ひのとのひつじ」「つちのえさる」と読めるが、四日以降は「つちのとのとり」「かのえいぬ」「かのとのい」と書いているつもりなのだと思うが、どう見ても「つちののとり」「かのーいぬ」「かののい」にしか読めない。

    十二直

    十二直は、「たつ」「のぞく」「みつ」「たいら」「さだん」「とる」「やぶる」「あやぶ」「なる」「おさん」「ひらく」「とづ」(建除満平定執破危成収開閉)が表記される。
    • 「収(おさん)」は、2020.4.11 現在の Wikipedia 「十二直」を見ると「納」と記載されているが、具注暦などを見ると「収」のようである (※)。通俗的書籍だと「永暦雑書天文大成綱目」(vide. p. 23) のように「納」と記載されているものも確かにあるが、これは仮名暦の「おさん」から逆に漢字を宛てたのではないか。漢字表記するときは「収」とするのが正しいと思われる。下記は、宝暦暦改暦を主導した土御門(安倍)泰邦が具注暦的なフォーマットで作成した「宝暦五年気朔暦」(国立天文台三鷹図書館デジタル化資料)の例である。「収」と記載されていることがわかる。
      • (※) 中国語版 Wikipedia 「建除十二神」でも「收」(収)となっている。


    「さだん」「あやぶ」「おさん」は、享保五[1720]年以降は、正月三箇日のみ「さだむ」「あやぶむ」「おさむ」と記載する。「さだん」「あやぶ」「おさん」は略記であり、太い行で記載される正月三箇日はフルで記載しているようだ。確かに、「あやぶ」なんて動詞は日本語に存在しませんからね。上記の元明六[1786]年の例でも、正月三日に「あやぶむ」が見られる。
    • 「さだむ」「あやぶむ」「おさむ」の初例は、それぞれ、享保五[1720]年正月三日、享保十一[1726]年正月三日、享保七[1722]年正月一日。
    • 言わずもがなだろうが、「さだむ」「おさむ」は、「さだめず、さだめて、さだむ、さだむる時、さだむれば、さだめよ」「おさめず、おさめて、おさむ、おさむる時、おさむれば、おさめよ」と活用する下二段動詞であろう。現代語の「さだめる」「おさめる」。 
    • なお、どうでもいいが、歴史的仮名遣いでは「平」は「たひら」であるべきである。


    十二直 = (日十二支 - 月十二支) mod 12
    として計算できる (たつ(建)= 0)。ただし、「月干支」の月は、暦月ではなく節月(立春正月節~啓蟄二月節前日を正月、啓蟄二月節~清明三月節前日を二月、……とする太陽暦)である。
    節月月末日(節気前日)→節月月初日(節気当日)のところでは、日干支も +1、月干支も +1 するので、十二直は変わらない。上記、天明六[1786]年の暦を見ると、正月六日せつぶん、正月七日立春の日の十二直は、ともに、「ひらく(開)」になっている。
    • 正月六日: 日十二支=亥(11), 月十二支=丑(1) (節月十二月 = 建丑月)。
      十二直 = (11 - 1) mod 12 = 開(10)
    • 正月七日: 日十二支=子(0), 月十二支=寅(2) (節月正月 = 建寅月)。
      十二直 = (0 - 2) mod 12 = 開(10) 

    日納音

    納音(なっちん)は、干支と対応している。下記の表に「海中金」「爐中火」等を記載しているが、頒暦に記載されるのは、単に「金」「火」だけである。
    日干支から求める日納音だけが頒暦に表示されるが、年干支・月干支から求める年納音・月納音も、概念としては存在し、干支と納音の対応は、日納音と同じである。
    暦注下段に三年に一度配当される「有卦」(「{火/金/土水/木}姓の人うけに入」という暦注があるが、ここで言う「火姓の人」等は、年納音が「火」である年生まれの人という意味らしい。その人たちが、十二年に一度のラッキータイムに突入する時を示す暦注。頒暦に年納音が表示されるわけではないが、自分が生まれた年の年干支を覚えていて、その年干支と同じ日干支を持つ日を探して、その日の日納音を見れば、自分が生まれた年の年納音がわかると言えばわかる。

    「木火土金水」だけの納音を計算するには、
    \[ \text{納音} = \left( \left[ {\text{干支} \over 2} \right] + \left( \left[ {\text{干支} \over 2} \right] \mod 3 \right) \right) \mod 5 \]
    とし、納音0~4 を、金, 水, 火, 土, 木 に宛てれば計算できる。(干支: 甲子(0)~癸亥(59)。[x] はガウス記号(x を超えない最大の整数))
    暦面上、正月三箇日は楷書体で読みやすいが、その他は「金」「水」の草書体が見慣れない方もいらっしゃるかも知れない。
    納音は二つの干支連続で同じものになるため、頒暦上も二行にまたがって一つの納音を記載する体裁となっている。

    干支納音
    甲子(0)乙丑(1)海中金
    丙寅(2)丁卯(3)爐中火
    戊辰(4)己巳(5)大林木
    庚午(6)辛未(7)路傍土
    壬申(8)癸酉(9)剣鋒金
    甲戌(10)乙亥(11)山頭火
    丙子(12)丁丑(13)澗下水
    戊寅(14)己卯(15)城頭土
    庚辰(16)辛巳(17)白蝋金
    壬午(18)癸未(19)楊柳木
    甲申(20)乙酉(21)井泉水
    丙戌(22)丁亥(23)屋上土
    戊子(24)己丑(25)霹靂火
    庚寅(26)辛卯(27)松柏木
    壬辰(28)癸巳(29)長流水
    干支納音
    甲午(30)乙未(31)沙中金
    丙申(32)丁酉(33)山下火
    戊戌(34)己亥(35)平地木
    庚子(36)辛丑(37)壁上土
    壬寅(38)癸卯(39)金箔金
    甲辰(40)乙巳(41)覆燈火
    丙午(42)丁未(43)天河水
    戊申(44)己酉(45)大駅土
    庚戌(46)辛亥(47)釵釧金
    壬子(48)癸丑(49)桑柘木
    甲寅(50)乙卯(51)大渓水
    丙辰(52)丁巳(53)砂中土
    戊午(54)己未(55)天上火
    庚申(56)辛酉(57)柘榴木
    壬戌(58)癸亥(59)大海水

    中下段

    下段に表示されるものとしては、雑節・選日・暦注下段・雑注(吉事注)などがある(これらの分類命名は、適宜勝手につけさせていただいた)。
    下段のなかでも、やや上のスペースがあって、このスペースを呼称する名前があるのかどうだか知らないのだが、とりあえずこのブログでは、中段と下段の間のスペースなので、中下段と呼ばせていただく。

    中下段に記載されるのは雑節と選日であるが、貞享暦初期には、それ以外も掲載されることがあった。

    • 貞享暦の初期(元禄十三[1700]年あたりまで)は、下段暦注・雑注でも中下段に記載されることがあった。
    • 享保十三[1728]年までは、暦日記事とは別行の節気記事を設けていなかったため、節気も中下段に表示されていた(中下段に入りきらないほど長い文言の場合、下段に食い込んで記載されるため、「中下段に表示」というより「中下段から表示」という感じだが)。
    • 日月食も、初期は別行の日月食記事を設けておらず、中下段から表示されていた。
      月食は、貞享暦初年(貞享二(1685)年)は中下段記載、翌年以降は別行表示となっている。
      日食は、貞享暦以降、初の日食となる貞享五(元禄元 1688)年四月日食は中下段記載だった(※)が、その次の日食、元禄三(1690)年八月日食以降は別行表示である。
      • (※) 同じ年の月食(例えば、日食の前月の三月月食)は別行表示なので、奇妙ではあるが。
      •  貞享五(元禄元 1688)年四月日食は、別行ではなく中下段表示なのだが、そのかわりと言っちゃなんだが、なぜか上部欄外に注記が付されている。
        中下段に記載されている日食記事は「日そく五ふん みむまの時西北より初東北終」、つまり、巳の時 (10:00頃) 日輪の北西方向からかけ始めて、最大食分は5分であり、午の時 (12:00頃) 日輪の北東方向にかけ終わるという予測なのだが、欄外注記は下記のとおり(読解にはあまり自信がない。。。)
        「日食分はかりがたし。板に□△○かくのごとく穴をうがちをく。日の光をとをすれば常に其かたち皆圓也。食みの時にありて、日西北の方かくれば景 [かげ] 東南の方かくる。日北の方かくればかげ南の方かくる。むまの時、日東北の方かくれば、かげ西南の方かけて其食の分とかげと相同刻。これは見る事やすし。」
        要するに、日食が実際どれだけかけたのか観測したければ、ピンホールカメラを作って観測してね、と言っている。今でも、日食が起きるとなれば、天文台とかが言いそうな話ですね。
    貞享五(元禄元 1688)年四月日食 上部欄外注記
    貞享五(元禄元 1688)年暦
    • 節気記事(穀雨三月中)三月二十一日「三月中 みの二刻」が中下段表示されている。
    • 三月月食「月そく六ふん うしの時よりあくるあさまで東南方より初西南方に復」が別行表示されている一方、四月日食「日そく五ふん みむまの時西北より初東北終」は中下段表示される。
    • 「しゃく(赤口日)」「ぶく日(複日)」「大みゃう(大明日)」などの暦注下段が
      下段ではなく中下段に表示されている。

    以上のように初期にはいろいろと記載された中下段だが、頒暦の記載方法が安定してくると、中下段に記載されるのは、雑節・選日のみとなる。

    雑節

    雑節とは、下表のようなものである。
    雑節頒暦上の記載配当
    吉書始吉書始原則正月一日。一日に差し障りがあれば二日。
    節分せつぶん立春前日。
    八十八夜八十八や立春を第一日として数えて88日目。
    概ね立夏四月節の数日前あたり。
    二百十日二百十日立春を第一日として数えて210日目。
    概ね白露八月節の数日前あたり。
    彼岸の入り
    (春/秋)
    ひがんになる(※)春分/秋分の近辺。
    半夏生はんげしゃう夏至の十日後あたり。
    入梅入梅芒種五月節後の壬(みずのえ)日。
    社日(春/秋)社日春秋分に再近傍の戊(つちのえ)日。
    三伏初伏
    中伏
    末伏
    夏至後三番目の庚(かのえ)日。
    夏至後四番目の庚(かのえ)日。
    立秋後最初の庚(かのえ)日。
    土用(春/夏/秋/冬)どよう[時刻]に入清明三月節/小暑六月節/寒露九月節/小寒十二月節の十二日後あたり。
    (※) 元禄五(1692)年暦までは「ひがんに入」と記載されており、それ以降は「ひがんになる」に変更。「立春正月節 [時刻]に入」「どよう[時刻]に入」「十方くれに入」などのようにある期間の初日を示す場合は「○○に入」と記載されるのが普通なので、なぜ彼岸の場合「ひがんになる」としたのかはよくわからない。
    • 「彼岸に入る」というと、なんか、誰かお亡くなりになったように聞こえなくもないですね。それが理由なのかどうかは知りませんが。

    これらを「雑節」と呼ぶようになったのは、明治20(1887)年本暦にてこの用語が使われて以降のことではないかと思われるが、このブログではそれ以前においても、上記の暦注を雑節と総称する。
    雑節のうち、八十八夜・二百十日は、貞享暦初年(貞享二(1685)年)は記載されず、貞享三年以降記載されるようになった。
    日の吉凶を気にしなければ常に正月一日であり暦注としての意味がなくなった吉書始、吉凶暦注としての意味合いが強かった三伏は、太陽暦改暦とともに廃止された。また、宗教的な意味合いを持っていた社日は、第二次世界大戦後、廃止された。それ以外の雑節は、現在の暦要項に至るまで記載され続けている。

    (1) 吉書始

    吉書始(きっしょはじめ)とは、武家において、年初などの仕事始めの際の一発目の仕事として縁起の良い書類の閲覧を行うこととしていて、その行事。または転じて民間における書初めのことも指す。原則として正月一日であるが、一日が受死日(●)、十死日(十し)、日食にあたる場合、それを避け、正月二日としたようである。

    ここであわせて述べておくが、正月一日・二日には正月記事が下段に配当される。正月記事が配当される日には、下段に記載されるのはこれだけで、その他の暦注下段・雑注は記載されない。貞享暦初期は文言・配当が定まらなかったようであるが、以降は、固定的に下記の文言となった。
    • 正月一日: はがため くらびらき ひめはじめ きそはじめ ゆどのはじめ こしのりぞめ 万よし
      (歯固め、蔵開き、火水始め、着衣始め、湯殿始め、輿乗り初め、よろず吉)
    • 正月二日: 馬のりぞめ ふねのりぞめ 弓はじめ あきなひはじめ すきぞめ 万よし
      (馬乗り初め、船乗り初め、弓始め、商い始め、鋤初め、よろず吉)

    これも、受死日(●)、十死日(十し)、日食を避けるため、「一日・三日」に配当されたり、「二日・三日」に配当されたりする。ただし、吉書始にしても正月記事にしても、避ける日は1日だけで、最大、正月三日にずれこむことはあっても、四日以降にずれこむことはない。

    基本的に、避ける日が同じなので、「吉書始の日」=「正月一日記事が配当される日」である。ただし、元禄八(1695)年、なぜか、正月記事は普通に一日・二日に配当されているのに、吉書始は二日に配当されている。理由はよくわからない。

    正月三箇日中に、受死日(●)、十死日(十し)がともにある場合、例えば、節月正月は、受死日=戌日、十死日=酉日なので、正月一日酉・二日戌、正月二日酉・三日戌などのケースはそうなるのだが、この場合、受死日(●)を避ける方が優先で、十死日(十し)の日は避けない。

    また、 正月三箇日中に、受死日(●)が二回発生するケースがある。受死日は、節月十二月:酉日、節月正月:戌日なので、「酉日節分」→「戌日立春」が正月三箇日に発生すると、二日連続で受死日となる。明和九(安永元 1772)年がこのケースにあてはまる唯一の年で、正月一日・二日が受死日となるが、一日の方は避け、二日の方は避けていない。一日「●」、二日「吉書始 はがため…」、三日「馬のりぞめ…」と配当されている。

    正月三箇日中に、日食と、受死日(●)または十死日(十し)がともにあるケースでどちらが優先されるのかは、実例がないのでわからない。

    貞享暦初年、貞享二(1685)年、正月一日を避け二日に吉書始が配当されている。なぜか記載されていないので気づきづらいが、正月一日壬戌立春は受死日(●)である。

    受死日(●)、十死日(十し)は、大凶日であり、これが配当される日は他の暦注下段・雑注は配当されないが(貞享暦初期は必ずしもそうでもなかったりするが)、同様にというか反対に、大吉日であり、これが配当される日は他の暦注下段・雑注は配当されないという天赦日(天しゃ 万よし)がある。寛政十三(享和元 1801)年に、正月一日の天赦日を避けて吉書始・正月記事を配当したように見受けられる例がある。「縁起を担いで大凶日は正月行事を避ける」というのは理解できるが、「大吉日に正月行事を避ける」というのは道理が通らない。ほかの年では天赦日は避けられていないので、寛政十三年暦での配当誤りと考えるべきだろう。

    (2) 節分・八十八夜・二百十日

    立春をベースに配当される雑注である。それぞれ、立春の前日、立春を1日目として数えて88日目、210日目(立春の87日後、209日後)である。これらについて附言すべき点はさほどないが、一点だけ。
    貞享暦初年において、宣明暦と貞享暦とで立春の配当が異なり、宣明暦では立春でなかった正月一日が貞享暦では立春となり、前年の大晦日十二月三十日を「せつぶん」と題詞にて訂正していたケースを以前ご紹介した。

    それと似たケースなのだが、立春が前年末にあるケースにおいて、改暦の境目で旧暦か新暦かで立春の日がずれるとき、八十八夜・二百十日は、前年旧暦ベースで配当した立春の日から数えるのか、新暦ベースで前年末の立春日を計算し直してそこから数えるのか。

    結論としては、前年旧暦ベースで配当した立春の日から数えるようだ。前年に作成済の暦を見て立春日を確認しそこから数えるということだから、手で作暦している場合はある意味当然で何も悩むような話とは思えないかも知れないが、プログラムで自動計算する場合は、引っ掛かりがちなポイントかも知れないので注記しておく。
    具体的に発生したのは下記の2ケース。
    • 宝暦暦(修正宝暦暦)→寛政暦の改暦
      • 旧暦(宝暦暦)での立春
        • 寛政九(1797)年十二月19日 (グレゴリオ暦 1798/2/4)
      • 新暦(寛政暦)での立春
        • 寛政九(1797)年十二月20日 (グ暦 1798/2/5)
      • 寛政暦初年の八十八夜
        • 寛政十(1798)年三月17日(グ暦 5/2 = 2/4 の87日後)
      • 寛政暦初年の二百十日
        • 寛政十(1798)年七月21日(グ暦 9/1 = 2/4 の209日後)
    • 寛政暦→天保暦の改暦
      • 旧暦(寛政暦)での立春
        • 天保十四(1843)年十二月18日 (グ暦 1844/2/6)
      • 新暦(天保暦)での立春
        • 天保十四(1843)年十二月17日 (グ暦 1844/2/5)
      • 天保暦初年の八十八夜
        • 天保十五(1844)年三月16日(グ暦 5/3 = 2/6 の87日後)
      • 天保暦初年の二百十日
        • 天保十五(1844)年七月20日(グ暦 9/2 = 2/6 の209日後)

    なお、宝暦暦→寛政暦で立春がずれたのは、太陽の平均黄経の算出が精緻になった結果であり、寛政暦→天保暦で立春がずれたのは、平気→定気になったからである。

    (3) 彼岸

    彼岸の配当日は下記のような変遷を経ている。
    期間彼岸の配当
    宣明暦?~天和四(貞享元 1684)年(平気)春分日・秋分日の二日後
    (没日を抜いて数える)
    貞享暦貞享二(1685)年~宝暦四(1754)年(平気)春分日・秋分日の二日後
    宝暦暦・寛政暦宝暦五(1755)年~天保十四(1843)年(平気)春分日の五日前、秋分日の一日前
    天保暦~現在天保十五(弘化元 1844)年~(定気)春分日・秋分日の三日前

    彼岸(彼岸の入り)は、春秋に七日間行われる「彼岸会(ひがんゑ)」の初日である。仏教行事であって宗教的な意味を持つ雑節なのだが、戦後も生き残ったようだ。

    天保暦以降の「春分日・秋分日の三日前」は、春分・秋分日を彼岸の中日とするということだ。
    宝暦暦以降の「春分日の五日前・秋分日の一日前」も、定気春分は平気春分の約二日前、定気秋分は平気秋分の約二日後であるため、概ね、定気春分・定気秋分を彼岸の中日とすることを狙ったものである。宝暦暦改暦の際の題詞に「彼岸の中日は、昼夜等分にして天地の気均しき時なり。前暦の記する所、是に違へり。故に今よりその誤を糾し是を附出す。」と記載している。
    貞享暦までの「春分・秋分日の二日後」が何を意図したものなのかは、今ひとつ理解していない。春分・秋分日の五日後、七十二候の雷乃発声二月中次候、蟄虫坏戸八月中次候を彼岸の中日としているようにも思えるが、それがどういう意味を持つのかよくわからない。

    しかし、最初に述べたように、彼岸は仏教行事の日程なのだが、宝暦暦はそれを勝手に改定してしまったわけで、、、それっていいんだっけ? 天皇の勅許を得て改暦しているわけだからいいんですかね。そもそも彼岸会自体が平安時代、天皇の命令で始まったことだし。

    (宣明暦のところの「没日を抜いて数える」の「没日」は、話が長くなりそうなので、機会があれば別途)

    (4) 半夏生

    半夏生は、本来、七十二候のひとつであり、五月中末候、夏至の約十日後となる。七十二候は、平均して太陽年÷72 (365.2422日 ÷ 72 = 5.0728日) 間隔で配当されるため、夏至(五月中初候)の二つ後の候である半夏生五月中末候は、夏至の約十日後ということになるわけだ。
    頒暦では七十二候は記載されないが、「この日までに田植えを終える」等、農耕の日取りに使われたため、半夏生だけは特に記載されている。

    半夏生の配当は、配当日から配当ルールを想像するに、下記のような変遷を遂げたと思われる。途中、期間が飛んでいるところは、前後のルールで配当日に差が出ないので、前のルールの適用期間なのか後のルールの適用期間なのかはっきりしないところである。

    期間半夏生の配当
    貞享暦
    ~宝暦暦初期
    貞享二(1685)年
    ~安永六(1777)年
    夏至日の10日後
    宝暦暦末期
    ~寛政暦
    寛政二(1790)年
    ~天保十四(1843)年
    (平気)夏至日時に候策(平均太陽年÷72)× 2 を加算した日時が属する日
    天保暦当初天保十五( 弘化元 1844)年(定気)夏至日時に候策(平均太陽年÷72)× 2 を加算した日時が属する日
    天保暦~現在弘化五(嘉永元 1848)年
    ~現在
    太陽真黄経が冬至起点190°(春分起点100°)となる日時が属する日
    (夏至の時、太陽真黄経が冬至起点180°であり、そこから10°進んだ日)

    宣明暦までは、おそらく、「夏至日の10日後(ただし没日を抜いて数える)」であったと思われる。没日を抜いて数える場合、1790年以降であるような「(平気)夏至日時に候策(平均太陽年÷72)× 2 を加算した日時が属する日」とするのと実質ほぼ等価だと考えてよい。
    • 没日の詳しい説明は機会があれば別途したいが、なぜ等価と言えるのかをざっくり説明する。(宣明暦はそんな言葉は使っていないが)没日は太陽平均黄経が整数度となる瞬間を含まない日と言うことが出来る (※)。とすると「没日を抜いて数えて10日後」は、「太陽平均黄経が10°進む期間」と等価になり、つまり、平均太陽年÷36 の期間と等価である。 
      • (※) 1年365.2422日で360°太陽黄経は変化するので、1年のうち360日は太陽平均黄経が整数度となる瞬間を含む日であり、没日ではない。残り5.2422日(平均して約70日毎)が没日となる
    しかし、貞享暦では没日を廃止したので、単純に夏至日の10日後としている。
    1790年以降は、いわばもとに戻したのだ。これは、「太陽平均黄経が冬至起点190°となる日」というのと等価である。
    天保暦で定気法を採用したところで、当初は定気法と平気法のハイブリッドともいうべき不思議な配当方法だが、1848年あたりから純粋に定気法で計算するようになって、現在に至っている。

    (5) 入梅

    入梅は、芒種五月節後の最初の壬日に配当される。これは、中国の明の時代に書かれ、もっとも人口に膾炙した本草学書籍である、李時珍「本草綱目」巻五 水之一「梅雨水」に
    芒種後逢壬為入梅、小暑後逢壬為出梅。又以三月為迎梅雨、五月為送梅雨。

    芒種後、壬に逢って入梅と為し、小暑後壬に逢って出梅と為す。また、三月を以って迎梅雨と為し、五月を送梅雨と為す。
    と記載されているのに拠っているのだろう。
    実際の入梅の配当は下記のとおりと思われる。

    期間入梅の配当
    貞享暦初期貞享二(1685)年
    ~元文三(1738)年
    芒種五月節より後の最初の壬(みずのえ)日。
    (芒種当日が壬日なら、その十日後の壬日)
    貞享暦末期
    ~太陽暦初期
    元文五(1740)年
    ~明治八(1875)年
    芒種五月節以降の最初の壬(みずのえ)日。
    (芒種当日が壬日なら、芒種当日)
    太陽暦明治九(1876)年
    ~現在
    太陽真黄経が春分起点80°となる日時が属する日

    芒種当日が壬日である場合の取り扱いについて、1740年頃、扱いを変更したようだ。
    • (2021/02/28 追記) 渋川 佑賢「星学須知巻四」『入梅』に、
      元文三 [1738] 年六月重テ芒種本日壬日ノ時ハ、本日ニ記スベキ旨、命アリシ以来、芒種壬日ナレバ、即本日ニ記ス。
      とある。元文三年に上意によりルール変更が決まり、おそらく元文四 [1739] 年暦以降、新ルールとなったのであろう。
      なお、「星学須知」を書いた渋川佑賢は、天保暦をつくった渋川景佑の次男。書かれたのは 1850年頃だと思われるので、元文三(1738)年の同時代的な記録ではなく、その一世紀後に天文方のもとにあった記録をもとに記載されたと思われる。

    また、明治になって定義を大きく変更している。おそらく「梅雨入り」という気象学的な話に「壬日」というのはあまりにも非科学的に感じられたのだろう。
    芒種以降最初の壬日というのは、芒種の 0 ~ 9 日後であるから、ざっくり平均して芒種の 5 日後。芒種は太陽真黄経が春分起点 75° となる日時であり、その 5 日後は、ざっくり太陽真黄経が春分起点 80° ぐらいになる。と、いうことで、「太陽真黄経が春分起点 80° となる日」という入梅の「近代的な」定義が出来上がったのだろう。

    (6) 社日

    社日は春秋分に再近傍の戊(つちのえ)日である。


    期間社日の配当
    貞享暦
    ~太陽暦初期
    貞享二(1685)年
    ~明治七(1874)年
    春秋分に再近傍の戊(つちのえ)日。
    (春秋分が癸日であり5日前も5日後も戊日の場合、
    前の戊日)
    太陽暦
    ~戦前
    明治十四(1881)年
    ~昭和二十(1945)年
    春秋分に再近傍の戊(つちのえ)日。
    (春秋分が癸日であり5日前も5日後も戊日の場合、
    春秋分時刻が午前なら前の戊日、午後なら後の戊日)
    戦後~昭和二十二(1947)年~廃止

    春秋分が癸日であり、5 日前も 5 日後も戊日の場合の取り扱いを明治初期に変更している。この方が合理的だと思ったのだろうか。
    明治七(1874)年秋社が、癸日午後に秋分があって、前の戊日に配当されており、旧ルールに従っていることが明確な末例、
    明治十二(1879)年春社は、癸日午前に春分があって前の戊日に配当され、どちらのルールに従っているとも知れない例、
    明治十四(1881)年春社が、癸日午後に春分があって後の戊日に配当され、新ルールに従っていることが明確な初例である。

    (7) 三伏

    • 初伏: 夏至以降、第三庚日(夏至が庚日の場合、夏至日を第一庚日と勘定する)
    • 中伏: 夏至以降、第四庚日(夏至が庚日の場合、夏至日を第一庚日と勘定する)
    • 末伏: 立秋以降、第一庚日(立秋が庚日の場合、立秋日当日)

    頒暦の配当日を見る限り、上の定義で一貫しているようである。
    ただし、寛延三(1750)年、夏至日が庚日にあたるが、夏至: 五月19日庚申、初伏: 六月19日庚寅、中伏: 六月29日庚子と、夏至日を数えずに第三・第四庚日にあたる日を初伏・中伏としているようである。ほかの年はそういうことはないので、寛延三年暦の配当誤りと考えるべきか。

    (8) 土用

    「どよう[時刻]に入」と、日付だけでなく時刻も表示される。

    土用とは、そもそも何かというと、陰陽五行説において、五行「木火土金水」を季節に配当し、春:木用、夏:火用、秋:金用、冬:水用とするのだが、そうすると土用が余ってしまう。そこで、各季節の終わりをちょっとずつ切り取り、「季節の変わり目」という季節として土用に宛てる。

    各季節は、一年の 1/4 だが、一年の 1/20 を切り取ると、それぞれ 1/4 - 1/20 = 一年の 1/5 になる。
    土用は、各季節から切り取ってきた 1/20 * 4 = 一年の 1/5。
    ということで、木用・火用・土用・金用・水用それぞれに、一年の 1/5 ずつが割り当たっていることになる。

    春木用は立春正月節、夏火用は立夏四月節、秋金用は立秋七月節、冬水用は立冬十月節に始まる。
    春土用入り = 立夏四月節 - 太陽年 * 1/20 なのだが、清明三月節 = 立夏四月節 - 太陽年 * 1/12 であるので、春土用入り = 清明三月節 + 太陽年 * 1/30 となる。
    同様に、夏土用入り、秋土用入り、冬土用入りは、小暑六月節、寒露九月節、小寒十二月節の太陽年 * 1/30 後ということになる。

    清明三月節、小暑六月節、寒露九月節、小寒十二月節は、黄経にすると、冬至起点105°, 195°, 285°, 15° (春分起点 15°, 105°, 195°, 285°)に相当する。また、太陽年の 1/30 は、360° * 1/30 = 12° に相当するから、土用は太陽黄経で考えれば、冬至起点 117°, 207°, 297°, 27° (春分起点 27°, 117°, 207°, 297°)に相当することとなる。

    期間社日の配当
    貞享暦
    ~寛政暦
    貞享二(1685)年
    ~天保十四(1843)年
    各季節の季月節(※)の(平気)日時に、土王策(平均太陽年 ÷ 30)を加えた日時
    天保暦天保十五(弘化元 1844)年
    ~慶応四(明治元 1868)年
    各季節の季月節(※)の(定気)日時に、土王策(平均太陽年 ÷ 30)を加えた日時
    天保暦末期
    ~現在
    明治二(1869)年
    ~現在
    太陽の真黄経が、冬至起点 117°, 207°, 297°, 27°(春分起点 27°, 117°, 207°, 297°)となる日時
    (※) 春 = 正月~三月であり、孟春月 = 正月、仲春月 = 二月、季春月 = 三月。夏・秋・冬も以下同様で、季月とは、三月・六月・九月・十二月を意味することとなる。(「季」は、人名読みなどで「すえ」と読むように、末っ子を意味する漢字である)

    半夏生と話が似ていて、寛政暦までは平気ベースで算出され、天保暦で最初は定気・平気のハイブリッド的な計算、のちに純粋に定気ベースで算出されることになる。半夏生がとっとと完全定気ベースになったのに対し、土用が完全定気ベースになったのは明治になってからである。

    なお、あまりまだ調べが出来ていないのだが、貞享暦の初期は、土用入りだけでなく、土用明けが、「どようのおはり」として、立夏・立秋・立冬・立春前日に配当されたようだ。また、土用間日が「(どようの)ま日」として配当されているようだ。
    土用の期間中は、動土(土木工事)を避けることになっていて、とは言え、そのような日が約十八日間連続してあるのでは色々差し障りもある。そこで、土用期間中だが動土を行ってもよいという間日を設けているわけだ。

    選日

    選日は、すべて日干支ベースで配当される。

    選日頒暦上の表記配当日
    十方暮十方くれに入甲申(20)
    天一天上天一天上癸巳(29)
    八専始八せんのはじめ壬子(48)
    八専間日ま日癸丑(49)、丙辰(52)、戊午(54)、壬戌(58)
    八専終八せんのおはり癸亥(59)

    十干「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」は五行にすると「木木火火土土金金水水」に相当し、十二支「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」は「水土木木土火火土金金土水」に相当する。

    五行は「木生火、火生土、土生金、金生水、水生木(木を燃やすと火になり、火から土(灰)を生じ、土から金属が出土し、金属表面に水(結露)が生じ、水から木が育つ)」という相生関係(前のものが後のものを育む関係)と、
    「木克土、火克金、土克水、金克木、水克火(木の根は土を割り、火は金属を溶かし、土は水を堰き止め、金属(斧)は木を切り倒し、水は火を消す)」という相克関係(前のものが後のものを打ち滅ぼす関係)がある。

    日の干支の十干と十二支とが、相生関係なのか相克関係なのかで、専日・保日・儀日・制日・伐日のいずれにあたるのかが決まる。
    • 専: 日十干・日十二支の五行が同じでバランスが悪い日
    • 保: 「十干」生「十二支」→ 上に立つもの(十干)が下のもの(十二支)を大事にしている姿
    • 儀: 「十二支」生「十干」→ 下のものが上に立つものを盛り立てている姿
    • 制: 「十干」克「十二支」→ 上に立つものが下のものを威圧している姿
    • 伐: 「十二支」克「十干」→ 下のものが上に立つものに造反している姿

    八専は、バランスが悪く凶日である専日が集中して発生する十二日間(下図黄色)で、うち八日、専日があるので八専と呼ばれる。うち四日は専日ではないので、 間日である。
    十方暮(下図水色)は、「甲~癸」の10日間のなかでは、十干・十二支が喧嘩している制日・伐日が多い期間となっており、この区間も凶日とされる。

    甲子0
    乙丑1
    丙寅2
    丁卯3
    戊辰4
    己巳5
    庚午6
    辛未7
    壬申8
    癸酉9
    甲戌10
    乙亥11
    丙子12
    丁丑13
    戊寅14
    己卯15
    庚辰16
    辛巳17
    壬午18
    癸未19
    甲申20
    乙酉21
    丙戌22
    丁亥23
    戊子24
    己丑25
    庚寅26
    辛卯27
    壬辰28
    癸巳29
    甲午30
    乙未31
    丙申32
    丁酉33
    戊戌34
    己亥35
    庚子36
    辛丑37
    壬寅38
    癸卯39
    甲辰40
    乙巳41
    丙午42
    丁未43
    戊申44
    己酉45
    庚戌46
    辛亥47
    壬子48
    癸丑49
    甲寅50
    乙卯51
    丙辰52
    丁巳53
    戊午54
    己未55
    庚申56
    辛酉57
    壬戌58
    癸亥59

    十方暮の入りは記載するが終わりは記載されていない。十方暮の終わりは、天一天上と同日になるので、十方暮の終わりはわかると言えばわかる。が、当時の頒暦の読者層がそれを理解していたかどうかは知らない。

    暦注下段

    暦注下段の詳細は、まだ、調べが十分つけられていない(特に、貞享暦の初期)。
    ものの本などを見れば配当ルールがわかるものもあればそうでないものもあるが、配当ルールがわかるものでも、実際の頒暦を見ると、いろいろと一筋縄ではいかないものも多々あり…。
    正直、暦注系は、私の関心の中心ではないので、優先度を下げている。

    とりあえず、ここではラインナップのみ。

    受死日(●)、十死日(十し)、天赦日(天しゃ 万よし)、歳下食(さい下じき)、神吉日(神よし)、鬼宿日(きしく)、大明日(大みゃう[日])、天恩日(天おん)、母倉日(母倉)、月徳日(月とく)、五墓日(五む日)、大禍日(大くゎ)、凶会日(くゑ日)、帰忌日(きこ[日])、血忌日(ちいみ)、復日(ふく日)、重日(ぢう日)、天火日(天火)、狼藉日(らうじゃく)、滅門日(めつもん)、地火日(地火)、往亡日(わうまう)、時下食(下じき○の時)、有卦日([木/日/土水/金]姓の人うけに入)
    「大みゃう[日]」「きこ[日]」は、一年のうちの初回のみ「大みゃう日」「きこ日」と表記され、それ以外は「大みゃう」「きこ」と表記される。

    受死日(●)、十死日(十し)、天赦日(天しゃ 万よし)は、これが配当される日は、他の暦注は配当されない。節月六月甲午は受死日と天赦日がかぶるが受死日が優先される。
    ただし、往亡日・有卦日のみは、天赦日でも配当される。往亡日の場合、「天しゃ わうまう」となり、「万よし」が表示されない。

    天恩日・母倉日・月徳日は、宝暦暦から追加されたため、貞享暦では表示されない。

    上記のリストとは別に、貞享暦初期のみで配当されている坎日(かん日)、赤口日(しゃく)がある。

    また、 明治五年暦からは、かなり暦注の配当方法が変わっているように見受けられる。おそらく、土御門家・幸徳井家が暦の作成に関与しなくなったのではなかろうか。
    明治五年暦のみで見られる暦注として、「百事よし」「百事妨げなし」がある。ほかの暦注と併記されることはないようだ。「百事よし」は、大明・天恩・母倉・月徳の吉日のうち三つがかぶる日に配当されるように思えるが、それ以外にも配当されている日がある。「百事妨げなし」は、雑注も含め、記載すべき暦注がなにもない日の埋め草暦注なのではないかと想像しているのだが、よくわからない。
    何にせよ、明治五年暦からの暦注配当は、次の年から太陽暦に改暦されこの年だけしか使われなかった。明治六年天保暦も、実際は使われなかったものの作成はされたので、それを含めても二年しかデータがない。配当ルールを頒暦から推定するのはちょっとデータ不足。

    雑注(吉事注)

    「○○よし」の形式。複数併記する場合、「Aよし Bよし」ではなく、「ABよし」となる。貞享暦初期の配置順が定まらないときを除けば、下段に、暦注下段の下に記載される。ただし、暦注下段のうち時下食と有卦日のみは、雑注より下に記載される。

    がくもんはじめ、げんぷく、入学、よめとり、かどいで、いちたち、やたて、わたまし、くらたて、ものたち、ふねのり、かどたて、かまぬり、たねかし、あさまき、すすはらひ、つめとり、みそづくり、みそさけづくり、みそすづくり、たねまき、木こり、さびらき、むぎかり、田うへ、田かり、むぎまき、竹木こり、くさかり、正月ごとはじめ、井ほり

    ラインナップとしては上記のとおりだが、貞享暦初期にはこれ以外にも「むこよめとり」とか「ありき」とか見受けられ、ラインナップが異なっていたかも知れない。

    雑注の配当ルールは、正直お手上げ。ものの本とかに書いてある配当ルールは全くあてにならない場合が多い。実際、頒暦に配当されているものと突き合わせると全然合わないことが多々ある。なんとなく、「配当可能な日」というのだけ決めていて、そのなかからバランスなども勘案して、いい塩梅になるように幸徳井家の都度判断で配当していたのかも知れないという気もするが、私の理解が足りないだけで、実はちゃんとした配当ルールがあるのかも知れない。

    寛政暦・天保暦あたりをざらっと見る限り、下段に記載されるのは最大 5 件、うち雑注は最大 2 件で、それを超える場合、何かを省略してこの件数に収めたように見受けられる。
    (ただし、6 件配当されている日も皆無というわけではない)
    貞享暦では、あきらかにこれよりも記載上限数が少ない。おそらく、宝暦暦あたりで、三吉日が追加されたことにより配当暦注数が増え、記載上限を上げたのではないかと思われるが、調べ切れていない。

    下段について、ある程度調べてそのなかでわかったことも多々あるのだが、全般的な調べはまだまだ(今後続ける気力が私にあるかどうかも定かではない)なので、とりあえず今回は以上にとどめておくこととする。

    次回は、節気記事について。
    節気記事には時刻表示も含まれるので、頒暦における時刻表示についても併せて記載する。


    [参考文献]
    国立天文台暦計算室「暦Wiki/季節/雑節とは?」 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/B5A8C0E12FBBA8C0E1A4C8A4CFA1A9.html
    渋川 佑賢「星学須知」 国立天文台図書室デジタル化資料

    1 件のコメント:

    1. Your summary is really interesting. I also found something similar in 簠簋內傳.

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