今回は、それ以前、貞享暦・宝暦暦の日月食記事について説明する。貞享暦の日月食記事は記載方針が未だ定まっていない感じで、正直、整理して説明し切れる自信もないのだが、わからないならわからないなりにわかっているところをちょろちょろと書いていくことになるので、ご容赦願いたい。その貞享暦のカオティックな状況から、少しずつ、寛政暦・天保暦の日月食記事の書きぶりに近づいていくことになる。
貞享暦・宝暦暦の位置角表示(簡易黄道北極方向角)
なにから話し始めていいのか、ちょっと悩ましいが、とりあえず、寛政暦・天保暦と大きく違う位置角の表示方法から話し始める。なお、寛政暦の当初二年(寛政十(1798)~寛政十一(1799)年)は、この貞享暦・宝暦暦の位置角表示により記載されていた。
寛政暦・天保暦での位置角(光っている天体の中心から、隠蔽する天体の中心に向かう方向(※)。すなわち、最もかけが大きい方向)は、天頂方向を上として、上下左右十六方位で示されていた。
(※) 月食の場合; 光っている天体=月、隠蔽する天体=地球影、日食の場合: 光っている天体=太陽、隠蔽する天体=月
しかし、寛政暦・天保暦で「上の方」とか「右と下の間」とか書かれているのを見ると「テキトーに書いてやがんな」と思うかも知れないが、この「天頂方向を上とする方位角」は、実は膨大な計算の結果、算出されたものなのである。
(※) 月食の場合; 光っている天体=月、隠蔽する天体=地球影、日食の場合: 光っている天体=太陽、隠蔽する天体=月
しかし、寛政暦・天保暦で「上の方」とか「右と下の間」とか書かれているのを見ると「テキトーに書いてやがんな」と思うかも知れないが、この「天頂方向を上とする方位角」は、実は膨大な計算の結果、算出されたものなのである。
前回記した上の図では、月が右から左へ動いている。つまり、月が通る道すなわち白道をヨコとして、白道北極が上、白道上を月が西(右)から東(左)に動いている図だと考えることができる。白道北極を上とする方向角は、月と地球影との位置関係から求めることが出来るだろう。これを黄道北極を上とする方向角に変換するには、黄道と白道の傾斜角を加減すればよい。
月朔では月と太陽の黄経が等しくなり、月望では月と地球影の黄経が等しくなる。が、大抵の場合、日月食にならないのは、黄緯が等しくならないからだ。黄道は地球の公転面が天球を切ってできる大円であり、太陽中心に考えれば、常に地球は黄道上を通って公転し、地球中心に考えれば、太陽は常に黄道上を通る。よって、太陽の黄緯は
0° である(その 180° 裏側の地球影の黄緯も 0°)。月朔・月望時に、月の黄緯が 0°
に近ければ、日月食が起きる。
月の公転面は地球の公転面から 5°
ほど傾斜している。月は地球のまわりを公転する間に、最も南にある時は、黄緯 =
南緯
5°、そこから黄道面を南から北に突き抜けるところで黄緯=0°になり、最も北にある時は、黄緯
= 北緯
5°、そこから黄道面を北から南に突き抜けるところで黄緯=0°になる。この月が黄道面を突き抜けるところを昇降点(南→北:
昇交点、北→南:
降交点)という。日月食は、この月の昇降点付近で起きる。昇降点付近では、黄道と白道は
5° 傾斜している。
日月食が昇交点付近で起きている場合、「白道北極を上とする図」を
5°時計回りに回せば、「黄道北極を上とする図」になる。日月食が降交点付近の場合、逆に
5° 反時計回りに回せばよい。
これをさらに、「赤道北極を上とする図」に変換したい。春分(黄道が赤道と
23.4°傾斜しており、赤道の南から北に突き抜ける)では、「黄道北極を上とする図」を
23.4° 時計回りに回せば「赤道北極を上とする図」になり、秋分では逆に 23.4°
反時計回りにすればよい。冬至・夏至では、黄道・赤道は平行なので、回転させなくてよい。
そして、これを「天頂を上とする図」にすることにより、天頂を上とする位置角を求めることができる。6:00頃、18:00頃には、天の赤道は地平線と
90°- 地点緯度(京都の緯度を 北緯 35.01°
とするなら、54.99°)傾いている。なので、6:00頃は「赤道北極を上とする図」を反時計回りに
54.99°、18:00頃は時計回りに 54.99°
傾ければよく、南中時には、天の赤道と地平線は平行なので回転させなくてよい。天の赤道と地平線との傾きは、初虧・食甚・復円それぞれ時刻が異なるから角度も異なる。
以上、定性的な説明をするだけで、かなり面倒な計算なのは想像できるだろう。実際の計算ではこれを定量的に計算していくことになる。
貞享暦・宝暦暦では、このように複雑な計算が必要な天頂を上とする位置角ではなく、黄道北極を北とする位置角、それも定性的・簡易的に求めた位置角で記載している。
- 貞享暦 巻五
- 「求日食所起」
-
食在陽暦初起西南甚於正南復於東南。食在陰暦初起西北甚於正北復於東北。食八分已上、初起正西復於正東。三分已下、陽暦交前、初起正南復於東南、交後、初起西南復於正南。陰暦交前、初起正北復於東北、交後、初起西北復於正北(此據午地而諭之)。
- 食、陽暦に在って、西南より初起し正南に甚しく東南に復す。食、陰暦に在って、西北より初起し正北に甚しく東北に復す。食八分已上、正西より初起し正東に復す。三分已下、陽暦交前、正南より初起し東南に復し、交後、西南より初起し正南に復す。陰暦交前、正北より初起し東北に復し、交後、西北より初起し正北に復す(これ、午地に據って之を諭ず)。
- 「求月食所起」
- 食在陽暦初起東北甚於正北復於西北。食在陰暦初起東南甚於正南復於西南。既者、初起正東復於正西。三分已下、陽暦交前、初起正北復於西北、交後、初起東北復於正北。陰暦交前、初起正南復於西南、交後、初起東南復於正南(此據午地而諭之)。
- 食、陽暦に在って、東北より初起し正北に甚しく西北に復す。食、陰暦に在って、東南より初起し正南に甚しく西南に復す。既は、正東より初起し正西に復す。三分已下、陽暦交前、正北より初起し西北に復し、交後、東北より初起し正北に復す。陰暦交前、正南より初起し西南に復し、交後、東南より初起し正南に復す(これ、午地に據って之を諭ず)。
表にまとめれば下記のような感じである。日食と月食とで
180°逆の方角になっていることがわかる。日食では太陽の中心から見て月の中心の方角、月食では月の中心から見て太陽の反対点(地球影)の方角であり、向きが逆になるのだ。
日食 |
大食
(八分以上)
|
中程度 |
小食
(三分以下)
|
---|---|---|---|
陽暦交前
|
(初)西→(甚)×→(復)東 | (初)西南→(甚)南→(復)東南 | (初)南→(甚)×→(復)東南 |
陽暦交後 | (初)西南→(甚)×→(復)南 | ||
陰暦交前 | (初)西北→(甚)北→(復)東北 | (初)北→(甚)×→(復)東北 | |
陰暦交後 | (初)西北→(甚)×→(復)北 |
月食 | 皆既食 | 中程度 |
小食
(三分以下)
|
---|---|---|---|
陽暦交前
|
(初)東→(甚)×→(復)西 | (初)東北→(甚)北→(復)西北 | (初)北→(甚)×→(復)西北 |
陽暦交後 | (初)東北→(甚)×→(復)北 | ||
陰暦交前 | (初)東南→(甚)南→(復)西南 | (初)南→(甚)×→(復)西南 | |
陰暦交後 | (初)東南→(甚)×→(復)南 |
「陽暦」とは月が黄道の南側にあることを言い、「陰暦」とは月が黄道の北側にあることを言う。「交前」「交後」とは、日月食が起きるのが月の昇降点通過の前なのか後なのかを言う。昇交点前(月はまだ黄道の南)の日月食は「陽暦交前」、昇交点後(月が黄道の北に移る)の日月食は「陰暦交後」、降交点前の日月食は「陰暦交前」、降交点後の日月食は「陽暦交後」となる。
昇交点前(陽暦交前)の月食について、皆既食の場合、中程度の食分の場合、三分以下の小食の場合について下図に示してみた。皆既食の場合、概ね東からかけはじめ概ね西にかけ終わっている。中程度の食分の場合、概ね北東からかけはじめ食甚時は北がかけていて概ね北西にかけ終わっている。そして、小食の場合、北東か北かどちらかというと北ぐらいの角度でかけはじめ食甚時は北がかけていて北西か北かどちらかというと北西ぐらいの角度でかけ終わっている。昇交点後(陰暦交後)、降交点前(陰暦交前)、降交点後(陽暦交後)も、月が地球影の南か北か、月のコース(白道)が東あがりか東さがりかが異なるが似たような図になる。これをまとめると先ほどの表になるわけである。
食甚位置角は、中程度の食の場合記載されるが、皆既月食・八分以上の日食・三分以下の小さい食の場合、記載されない。
全部かけていて「かけている方角」というのがあるわけではない皆既月食は、寛政暦・天保暦でも食甚位置角を記載しない。
八分以上の日食は「かけている方角」があるので記載してもよさそうなものだが記載しなかった。寛政暦でも記載しないことがあった。月と地球影とでは地球影の方がずっと大きいが、太陽と月とでは見かけの大きさがほぼ等しい。よって、月中心と太陽中心の距離が極めて近くないと、八分以上の日食、「皆既に近いが皆既ではない日食」にはならず、その場合、計算による予想がわずかに外れただけで位置角が大きくずれてしまう。貞享暦・宝暦暦で表示するとすれば、陽暦(月が南側)の場合「南」、陰暦(月が北側)の場合「北」と記載することになろうが、「皆既に近いが皆既ではない日食」の食甚は昇降点ごく近くとなり、昇降点の前なのか後なのかの予想が外れれば南北が相違してしまう。よって、記載しないのが無難である。
三分以下の日月食で食甚位置角を表示しないのは、初虧位置角・復円位置角のどちらかと記載上同一となるため、記載を省略しているのであろう。
全部かけていて「かけている方角」というのがあるわけではない皆既月食は、寛政暦・天保暦でも食甚位置角を記載しない。
八分以上の日食は「かけている方角」があるので記載してもよさそうなものだが記載しなかった。寛政暦でも記載しないことがあった。月と地球影とでは地球影の方がずっと大きいが、太陽と月とでは見かけの大きさがほぼ等しい。よって、月中心と太陽中心の距離が極めて近くないと、八分以上の日食、「皆既に近いが皆既ではない日食」にはならず、その場合、計算による予想がわずかに外れただけで位置角が大きくずれてしまう。貞享暦・宝暦暦で表示するとすれば、陽暦(月が南側)の場合「南」、陰暦(月が北側)の場合「北」と記載することになろうが、「皆既に近いが皆既ではない日食」の食甚は昇降点ごく近くとなり、昇降点の前なのか後なのかの予想が外れれば南北が相違してしまう。よって、記載しないのが無難である。
三分以下の日月食で食甚位置角を表示しないのは、初虧位置角・復円位置角のどちらかと記載上同一となるため、記載を省略しているのであろう。
暦法書「貞享暦」の「求日食所起」「求月食所起」に「これ、午地に拠って之を諭ず」と記載されているのは、「南中時(つまり天の赤道と地平線との傾きがないものとして考えることができる)に起きたものとして東西南北を記載する」といっているのだ。しかし、それにしても天の赤道と天の黄道との傾きはあるのに無視しているので、ちゃんとした東西南北にはなっていない気がするが、当時、暦の日月食記事を読んだ人は、この表示で理解できたのだろうか。
- (2021.9.27 追記) ふと思ったのですが、月の模様を考えるとこの記載方法でも欠けの方向がわかったのかも知れません。月の餅つきをしている兎は、ざっくり言って、東を下にした図になっています。兎は月面の北にあって、西を頭、東を足にしており、臼は南にあります。黄道面に対し、月の自転軸はわずかに(1.5°ほど)傾いていますが、大きくないので無視していいでしょう。これを知っていれば、「東から欠けはじめ、西に欠け終わる」と言われたとき、「兎の足元方向から欠けはじめて、頭上方向に欠け終わるのだな」と理解することが出来ます。まあ、おそらく、頒暦を持つ一般の人がこういうことを知っていたとは思わないので、やっぱりこの表示方法で理解できたとは思いませんが。そもそも日食では使えない方法ですし。
頒暦上、「東の方」「東北の方」等として記載される。
現在は、西欧語の northeast, southwest
等の訳語として「北東」「南西」などというのが通常だが、もともとの日本語では「東北」「西南」といっていた。「東北地方」「東南アジア」「都の西北」「西南戦争」等。
貞享暦初期の日月食記事(通常食)
貞享暦初期には、表題部に記載される食甚食分以外の食甚情報は記載されなかったようだ。また、時刻も辰刻表示ではなく、時辰のみの表示となる。
「時刻→位置角」タイプの通常食記事
貞享暦初期、宝永八(正徳元 1711)年あたりまでで目に付くのは、「初虧時刻→初虧位置角→復円時刻→復円位置角」の順ではなく、「初虧時刻→復円時刻→初虧位置角→復円位置角」の順で表記されるタイプである。「みむまの時西北より初東北終」とは、「みの時西北の方よりかけはじめ、むまの時東北の方におはる」ことを意味する。
はっきりとはわからないが、初虧時刻が「○の八刻」の場合、食発生時間のうち「○の時」である時間が非常に短いことになるので、次の時辰から始まったことにしているように思われる。元禄六(1693)年十二月月食の初虧時刻は「とりの八刻」と算出されるが「いぬい(戌~亥)の時」としており、また、元禄十四(1701)年七月月食の初虧時刻は「いぬの八刻」で「いね(亥~子)の時」となっている。
また、例が少ないのでそれ以上にはっきりしないが、同様に復円時刻が「○の初刻」の場合、前の時辰におわったことにしているようだ。元禄三(1690)年八月日食は、初虧時刻「たつの八刻」復円時刻「むまの初刻」であるが、「みの時」、すなわち、巳時にはじまり巳時におわるとしている。
初期は、原則「時刻→位置角」タイプで、この「初虧→復円」タイプになるのは、
が、元禄八(1695)年では、そのどちらにも該当しないが「初虧→復円」タイプとなる。
正徳四(1714)年以降は、原則こちらのタイプに移行したらしい。
- 貞享五(元禄元 1688)年四月日食「日そく五ふん みむまの時西北より初東北終」
- 貞享五(元禄元 1688)年九月月食「月そく六ふん いぬいの時ひがしきたの方より初にしきたの方に復」
- 元禄三(1690)年八月日食「日そく四分 みの時にしきたの方より初ひがしきたの方に復す」
- 元禄三(1690)年八月月食「月そく四分 いねの時ひがしみなみより初にしみなみの方に復」
- 元禄六(1693)年十二月月食「月そく四分 いぬいの時ひがしきたよりかけ初きたの方に復す」
- 元禄十(1697)年三月日食「日そく五分 みの時西北の方にかけ初め東北の方に復す」
- 元禄十四(1701)年七月月食「月そく四分 いねの時東北よりかけ初め西北に復す」
- 宝永六(1709)年八月日食「日そく四分 たつみの時西南の方よりかけそめ東南の方に復す」
- 宝永七(1710)年十二月月食「月そく皆つくる いぬいねの時東の方よりかけ西の方に復す」
- 宝永八(正徳元 1711)年六月月食「月そく皆つくる うしとらの時東の方よりかけ西の方に復す」
- 宝永八(正徳元 1711)年十二月月食「月そく四分 とらうの時東北の方よりかけ西北の方に復す」
「初虧→復円」タイプの通常食記事
一方で、後の時代の記載スタイルにもつながるような「初虧時刻→初虧位置角→復円時刻→復円位置角」の順で記載されるものも並行して存在する。初期は、原則「時刻→位置角」タイプで、この「初虧→復円」タイプになるのは、
-
復円時刻表示が「明朝(あくる朝)」。
どうやら時刻が翌日の明六ツ以降の場合、「明朝」と表記したようだ。 -
初虧~復円が三時にまたがる。
元禄四(1691)年十二月月食「い・ね・うし」等。
ただし、宝永七(1710)年十二月月食は三時にまたがる(いぬ・い・ね)が、「時刻→位置角」タイプで「いぬいねの時東の方よりかけ西の方に復す」と記載されている。
が、元禄八(1695)年では、そのどちらにも該当しないが「初虧→復円」タイプとなる。
正徳四(1714)年以降は、原則こちらのタイプに移行したらしい。
正徳六(享保元 1716)年以降は、時刻表示が辰刻表示になったようだ。
下記のような、両タイプのハイブリッドスタイルも存在する。「とらうの時」と言っていて、「時刻→位置角タイプ」かと思いきや、復円情報で「明朝西北の方に復す」と復円時刻が再度「明朝」として表示されている。
- 貞享二(1685)年五月月食「月そく皆つくる うしの時東方より初明朝西方に復」
- 元禄二(1689)年二月月食「月そく皆つくる うしの時ひがしの方より初あくる朝にしの方に復」
- 元禄四(1691)年十二月月食「月そく七分 いの時ひがしみなみの方より初うしの時までにしみなみの方復」
- 元禄八(1695)年四月月食「月そく四分 いぬの時北方より初いの時西北の方におはる」
- 元禄八(1695)年十月月食「月そく五分 うしの時東南方より初とらの時西南方におはる」
- 元禄十(1697)年九月月食「月そく六分 とらの時東北の方にかけ初め明朝西北の方に復す」
- 宝永四(1707)年九月月食「月そく皆つくる とりの六刻東の方にかけはじめいの四刻西の方に復す」
- 正徳四(1714)年十月月食「月そく皆つくる いの時東方よりかけそめねの時西方におはる」
- 正徳五(1715)年四月月食「月そく七分 いぬの時東南の方よりかけはじめいの時西南の方におはる」
- 正徳六(享保元 1716)年三月日食「日そく五分 むまの一刻西南の方よりかけはじめひつじの二刻東南の方におはる」
下記のような、両タイプのハイブリッドスタイルも存在する。「とらうの時」と言っていて、「時刻→位置角タイプ」かと思いきや、復円情報で「明朝西北の方に復す」と復円時刻が再度「明朝」として表示されている。
- 元禄十二(1699)年二月月食「月そく六分 とらうの時東北よりかけ初め明朝西北の方に復す」
- 貞享五(元禄元 1688)年三月月食「月そく六ふん うしの時よりあくるあさまで東南方より初西南方に復」
「初虧→食甚→復円」タイプの通常食表示
これは、まったく後の時代の記載スタイルと同様のもの、先ほどの「初虧→復円」タイプに食甚情報も記載したものである。享保二(1717)年以降はこのタイプとなるが、それ以前も、なぜか時々散見される。
このタイプでは、時刻を辰刻表示したものが多い。享保二(1717)年八月月食では「初虧(うしの時)は時辰のみ、食甚・復円は時辰表示」となっているが、初虧の「うしの時」は「うしの初刻」を意味しているのかも知れない。享保三(1718)年二月では、なぜか、時辰が「子一刻」「丑初刻」「丑七刻」と漢字表記されている。
元禄十三(1700)年七月の皆既月食の食甚情報は「いの時甚」ではなく「いの時既」と独特なスタイルで記載されている。そしてなぜか表題部に食分「皆既(皆つくる)」が記載されていない。
貞享三(1686)年四月月食も独特なスタイル。表題部ではなく、「いぬの時北方八分」と食甚文言内に食甚食分が記載されている。初虧時刻が「月の出」と記載されているのも独特。貞享暦・宝暦暦の日月食暦法のところで説明する話にはなるが、貞享暦・宝暦暦では、初虧時刻~復円時刻内に出入があるにも関わらず、出入食分が計算上ゼロになってしまうことがあり、そのケースでは帯食ではない扱いとなるようだ。貞享三(1686)年四月月食では、月の出が初虧後だが、出時食分がゼロとなってしまうケースで、そのため、初虧時刻を「月の出」としたのかもしれない。なお、貞享三年暦の古暦帖(国立国会図書館デジタルコレクション)では、この部分がかすれているようで「月 出」となっているが、「月の出」と推定した。
- 貞享三(1686)年四月月食「月そく 月の出うしとらの方より初いぬの時北方八分いの時いぬいの方に復」
- 元禄四(1691)年二月日食「日そく四分 ひつじの初刻西南方よりかけひつじの四刻正南さるの初刻東南方に復」
- 元禄五(1692)年正月日食「日そく六分 むまの七刻西北方よりかけひつじの四刻正北に甚さるの一刻東北方に復」
- 元禄十三(1700)年七月月食「月そく いぬの時東の方にかけ初めいの時既ねの時西の方に復す」
- 宝永三(1706)年九月月食「月そく五分 とらの三刻東北の方にかけ初めとらの八刻北の方に甚うの六刻西北の方に復す」
- 享保二(1717)年八月月食「月そく六分 うしの時東南の方よりかけはじめうしの七刻南方に甚くとらの六刻西南の方におはる」
- 享保三(1718)年二月月食「月そく皆つくる 子一刻東方よりかけはじめ丑初刻甚丑七刻西の方に復す」
この時期の日月食記事は、文言の不統一が目立つ。
位置角表示「南の方」も、「正南」「南方」「みなみの方」、「東北の方」は、「東北」「東北方」「ひがしきたの方」「うしとらの方」など様々。
また、初虧文言(~よりかけはじめ)は「~より初」「~よりかけ初め」「~にかけ初め」「~よりかけそめ」「~よりかけ」等、復円文言(~におはる)は「~に復」「~に復す」等、食甚文言(~に甚しく)も「~に甚」「~に甚く」「~甚」等。
文言を統一しようという気がまったく見受けられない。
貞享暦初期(享保五(1720)年ぐらいまで)を過ぎると、初虧・復円文言は「~よりかけはじめ」「~におはる」に収束するが、それ以降もながらく、食甚文言は「~に甚」の表記であった。宝暦十一(1761)年あたりから「~に甚しく」になるが、以降もしばらく「~に甚」「~に甚しく」で揺れていた。
表題部の食甚食分「皆既」は、「皆つくる」と記載されていた。「皆既」の表記は享保十(1725)年から見られるが、それ以降も「皆つくる」は散見される。
- 言わずもがなだが、「つくる」は、「尽きず、尽きて、尽く、尽くる時、尽くれば、尽きよ」と活用する上二段動詞「尽く」の連体形(というか、終止形と連体形が統合した終止連体形というべきか)である。
貞享五(元禄元
1688)年までは、表題部の食甚食分は「○分」でなく「○ふん」と仮名書きされていた。
貞享暦初期の日月食記事(食甚が見えない出帯食)
「月帯そく○分 とりの時」「日帯そく○分
うの時」といった形式。月の出、日の出は、必ずしも酉時、卯時ではないのだが、全部「とりの時」「うの時」としたようだ。「月帯そく○分
とりの時」「日帯そく○分
うの時」が、出帯月食・出帯日食の決まりものの表記になっていたように思われる。
後には食甚が見えない帯食では表題部には食分を記さないが、この時期は、出入時食分(これは、食甚が見えない帯食においては、見ることができる最大食分となる)を表示していた。
位置角表示は、されたりされなかったり、されても大雑把だったり。元禄十四(1701)年正月日食、元禄十五(1702)年七月日食の「南の方かくる」は、陽暦(月が黄道の南)であることを意味しているのだろう。
「西国では見えない」という情報が(文言は不統一ながら)基本的にすべて入っている。最初、真面目に受け取って「西国とはどこのことか。どのくらいの経度と考えれば食が見えなくなるか」を考えていたのだが、どうやら特定の場所を意味するわけではなく、食甚が見えない出帯食の場合、「十分に西に行けば」食が見えなくなるということを言っているだけ。つまり、「西国では見えない」というのは、「食甚が見えない出帯食である」と言っているに過ぎないようだ。
- 京都より東の地域では出入が京都より早く、西の地域では京都より遅い。
- 食甚が見えない出帯食(出時に復円近辺がちょっとだけ見える)では、出の早い東の地域では、出時により食甚に近い大きい食が見え、出の遅い西の地域では、出時により食甚から離れた小さい食しか見えないか、または、食が終わってから出て全く食が見えない。
- 食甚が見える出帯食(初虧のあたりがちょっとだけ見えない)では、出の早い東の地域では、出時に初虧により近い欠けが小さいところから見えはじめる、または帯食ではなく初虧からすべて見える一方、出の遅い西の地域では、出時に、初虧から遠いより食甚に近いところからやっと見え始める。
- 食甚が見えない入帯食(入時に初虧近辺がちょっとだけ見える)では、入りの早い東の地域では、入り前にさらに短時間しか見えなかったり食が始まる前に入りを迎えて全く見えなかったりし、入りの遅い西の地域では、より食甚に近いあたりまで食が見られることとなる。
- 食甚が見える入帯食(食の最後の方がちょっとだけ見えない)では、入りの早い東の地域では、食甚直後ぐらいに早々に入りを迎えるのに対し、入りの遅い西の地域では、復円に近いあたりまで食が見られるか、または、帯食ではなく復円まですべて見える。
元禄十六(1703)年十一月月食「月帯そく
とりの時月の出すこしかくる」は、ほかとちょっと違うフォーマット。なぜなのかはよくわからない。出時食分は記載されていないが、計算すると
3.51分ほどで「すこし」というほど小さい食でもない。
- 元禄十三(1700)年正月月食「月帯そく六分半 とりの時西の方に復す西国にては不見」
- 元禄十四(1701)年正月日食「日帯そく五分 うの時南の方かくる西国にては不可見」
- 元禄十五(1702)年七月日食「日帯そく七分 うの時南の方かくる西国にては不可現」
- 元禄十五(1702)年十一月月食「月帯そく三分 とりの時西国にてはみゆべからず」
- 元禄十六(1703)年十一月月食「月帯そく とりの時月の出すこしかくる」
- 元禄十七(宝永元 1704)年十一月月食「月帯そく四分 とりの時西国にてはみへがたし」
貞享暦初期の日月食記事(食甚が見えない入帯食)
実例が少なく、また、存在する二例も表記方法がばらばら。- 元禄三(1690)年二月月食「月帯そく 於東国不見於西国は月の入二分ばかり可現」
入時食分が表示されていない。京都での入時食分は計算すると
0.8分程度で、貞享暦で食分は切り捨てなので、表示されていれば「ゼロ分」だったはず?
そして、京都より東の地域ではそれより入時食分が小さくなるから「不見」だったかも。西国の入時食分が「二分ばかり」と算出されている以上、想定している西国の経度はあったはず。京都との時差を
2刻ぐらいと考えれば合いそうだが。。。
- 宝永五(1708)年八月月食「月そく五分 とらの時かけそめ月入まで東国にてはあかつきしばらくの間みるべし」
貞享暦初期の日月食記事(食甚が見える出帯食)
通常食扱いして記載しているものが目立つ。帯食扱いしているものもあり、基準がよくわからない。通常食扱いの場合、「とりいぬの時」「うたつの時」など、「時刻→位置角」タイプの記載がされている。位置角表示はされたりされなかったり。
元禄六(1693)年六月月食の「月帯食皆既とりの時」のとりの時は、おそらく月出時刻で、食甚が見えない出帯食の「とりの時」と同様、出帯食の決まり文句であろう。頒暦の日月食記事では「皆既の始め」「皆既の終り」の情報は記載されないのが通例だが、「いぬの時に東方よりひかり生」は皆既の終りを記載しているようだ。この食の出時食分は
7.90分ほどで皆既出帯というわけではない。普通に食甚情報を記載すればよかったと思うのだが。「月帯そく」ではなく「月帯食」と記載されている。
- 元禄六(1693)年六月月食「月帯食皆既とりの時 いぬの時に東方よりひかり生いの時西方に復す」
- 元禄十二(1699)年八月月食「月そく七分 とりいぬの時南方よりかけ初め西南の方に終る」
- 元禄十三(1700)年正月日食「日そく二分半 うたつの時見えがたし」
- 宝永七(1710)年七月月食「月帯そく八分 とりいぬの時かけながら出西北の方に復す」
- 正徳二(1712)年六月日食「日そく九分 とらうの時」
- 享保四(1719)年正月月食「月帯そく五分 とりの二刻四分半ばかりかけながら出とりの三刻南方に甚とりの七刻西南の方におはる。西国にては三分ばかりかけながら出べし」
貞享暦初期の日月食記事(食甚が見える入帯食)
元禄十七(宝永元
1704)年五月月食は「月そく九分」で、通常食扱いなのかと思いきや、「かけながら入」としている。奇妙。
月の入時刻を「○日の朝」と記載しているものがある。満月の月入が朝なのは当たり前であって、時刻を記載していることになっていない気がするが。通常食で、明六ツ以降を「明朝」と記載していたのに類似している。なお、享保四(1719)年七月月食「十五日の朝北の方に甚して入」は、食甚時刻が明六ツ以降(明朝)であり、食甚食分と記載上同食分(五分)の入時食分で月入する」ことを意味しているようだ。
貞享二(1685)年十一月月食「於東国未既於西国皆既にして入」は、京都での入時食分は皆既なのだが、「十分に東に行けば皆既でない入時食分となる」と言っているだけのように思える。
また、元禄十七(宝永元
1704)年あたりまでの「西国にては復して入べし」は、「十分に西に行けば通常食になる」、つまり、食甚が見える入帯食であると言っているだけと解釈すべきように思われる。正徳三(1713)年以降は、ちゃんと西国の入時食分を計算し、ゼロなら「西国にては復して入べし」、そうでなければ「西国にては○分ばかりかけて入べし」としているように思われる。
貞享二(1685)年十一月月食「寅の下刻」、元禄十七(宝永元
1704)十一月日食「さるの初刻、さるの下刻」といった時刻表示がある。おそらく、二十四時制の時辰で「寅正」「申初」「申正」を意味しているのではないかと思われる。
- 貞享二(1685)年十一月月食「月帯そく 寅の下刻より十六日の朝まで於東国未既於西国皆既にして入」
- 元禄十七(宝永元 1704)年五月月食「月そく九分 うしの時よりかけ初め明る朝かけながら入。西国にては復して入べし」
- 元禄十七(宝永元 1704)十一月日食「日帯そく九分 さるの初刻西の方にかけ初めさるの下刻食甚日入半帯食。西国にては復して入べし」
- 正徳三(1713)年五月月食「月帯そく三分 とらの時北の方よりかけそめうの時西国にて復して入べし」
- 享保三(1718)年八月月食「月帯そく皆つくる 丑六刻東方よりかけ初寅六刻甚十六日の朝七分ばかりかけながら入る。西国にては二分ばかりかけて入べし」
- 享保四(1719)年正月日食「日帯そく三分 さるの五刻北方よりかけはじめとりの初刻甚二分半ばかりかけながら入る。西国にては復して入べし」
- 享保四(1719)年七月月食「月帯そく五分 とらの三刻東北の方よりかけはじめ十五日の朝北の方に甚して入。西国にては三分ばかりかけながら入べし」
貞享暦初期は、全体的に記載する情報を絞っていて、一行におさまるような長さの記事となっていた。次第に情報量をフルに記載するようになって一行にはおさまらなくなり、「表題部を上部に大書し、その他の文言は下に二行書き」という後につながるスタイルとなる。享保三(1718)年八月月食が二行書きの初例。一行書きのときは、表題部とそれ以外の境目もはっきりしない。
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享保五(1720)年以降の日月食記事
だいたい、享保五(1720)年あたりから、フォーマットとしては、寛政暦・天保暦で見られたような形式に定まってくる。
- 食甚が見えない出帯食
-
{月そく | 日そく}
(出時刻)(出時食分)かけながら出
(復円時刻)(復円位置角)におはる - 食甚が見える出帯食
-
{月そく | 日そく}(食甚食分)
(出時刻)(出時食分)かけながら出
(食甚時刻)[(食甚位置角)に]甚[しく]
(復円時刻)(復円位置角)におはる - 通常食
-
{月そく | 日そく}(食甚食分)
(初虧時刻)(初虧位置角)よりかけはじめ
(食甚時刻)[(食甚位置角)に]甚[しく]
(復円時刻)(復円位置角)におはる - 食甚が見える入帯食
-
{月そく | 日そく}(食甚食分)
(初虧時刻)(初虧位置角)よりかけはじめ
(食甚時刻)[(食甚位置角)に]甚[しく]
(入時刻)(入時食分)かけながら入 - 食甚が見えない入帯食
-
{月そく | 日そく}
(初虧時刻)(初虧位置角)よりかけはじめ
(入時刻)(入時食分)かけながら入
元文五年六月月食 |
貞享暦では、出入時刻の記載をしないケースが目立つ(記載していることもある)。宝暦暦では記載している。
フォーマットが定まったといっても、まだまだ、異例なフォーマットは皆無にはならない。元禄六(1693)年六月月食で、「皆既の終り」情報を記載しているものがあったが、同様の例が登場する。
- 元文五(1740)年六月月食「月帯そく皆つきて出 いぬの一刻光を生じいぬの七刻西の方におはる。西国にては所見七分ばかり」
- 「月帯そく皆つきて出」までが表題部となっている。おそらく「月帯そく皆既」が表題部で「(出時刻)皆つきて出……」と書くべきところなのだろうが、出時刻の記載を省略すると「皆既 皆つきて」となり重複感があるために「月帯そく皆つきて出」になったのではないだろうか。
日月食の記載条件
「京都において日月食が発生し、その日月食が見えること」であるが「小さい食は記載しない」というルールがあったようである。
宝暦十三(1763)年九月日食、実際は 7.33分の比較的大きい食であったが、宝暦暦による推算では 2.61分。そして、暦面上この食を記載していなかったことが大問題となった。このときの関係者(陰陽頭土御門泰邦・幕府天文方)の言い訳が「三分以下の食は暦に載せないことになっている」であった。
明和四(1767)年暦の題詞に
しかし、「三分以下不記載」ルールはずっとそうだったわけでもなく、三分以下であっても記載されていることがある。
明和三(1766)年までの最大食分(※) 三分以下のものをリストアップすると下記のようになる。
宝暦十三(1763)年九月日食、実際は 7.33分の比較的大きい食であったが、宝暦暦による推算では 2.61分。そして、暦面上この食を記載していなかったことが大問題となった。このときの関係者(陰陽頭土御門泰邦・幕府天文方)の言い訳が「三分以下の食は暦に載せないことになっている」であった。
明和四(1767)年暦の題詞に
今まて頒行ふ所の暦日月食三分以下はしるし来らず。此たび、と記載され、以降は小食であってもすべて記載することとなった。なお、宝暦十四(1764)~明和三(1766)年は三分以下の食は発生していない。明和四年正月日食 2.71分(日そく二分半)、明和四年六月月食 0.38分(月そく五十秒)が宝暦十三年日食事件後の初の三分以下食であった。
命ありて浅食といへどもことごとく記さしむ。しかれども新暦しらべいまだ
おはらず。よりて今までの数にならふのみ。
- 「五十秒」という食分表示はこれが唯一の例。その後は「一分にみたず」と記載されるようになる。1分 = 100秒の百進分秒であり、 0.5分(ゼロ分半)の意味なのであるが、「五十秒」って言われたって世間の人が読んでわからないんじゃないかと。
しかし、「三分以下不記載」ルールはずっとそうだったわけでもなく、三分以下であっても記載されていることがある。
明和三(1766)年までの最大食分(※) 三分以下のものをリストアップすると下記のようになる。
- (※) 食甚が見える場合、食甚食分。見えない場合、出入時食分。
日食 | 年月 | 最大食分 | 記載有無 |
---|---|---|---|
出帯(見甚) | 元禄十三(1700)年正月日食 | 2.97分 | ○ |
通常食 | 享保六(1721)年十一月日食 | 0.04分 | × |
入帯(見甚) |
享保十(1725)年九月日食 |
1.48分 | ○ |
通常食 | 延享二(1745)年三月日食 |
2.40分 |
○ |
入帯(不見甚) |
延享四(1747)年七月日食 |
2.04分 |
○ |
通常食 |
寛延四(宝暦元 1751)年五月日食 |
1.98分 |
× |
出帯(不見甚) |
宝暦四(1754)年閏二月日食 | 0.16分 | × |
出帯(見甚) | 宝暦七(1757)年七月日食 | 1.29分 | × |
通常食 | 宝暦十三(1763)年九月日食 | 2.61分 | × |
月食 | 年月 | 最大食分 | 記載有無 |
---|---|---|---|
入帯(不見甚) | 貞享三(1686)年十月月食 | 2.07分 | × |
入帯(不見甚) | 元禄三(1690)年二月月食 | 0.81分 | ○? |
出帯(不見甚) | 元禄十五(1702)年六月月食 | 0.22分 | × |
出帯(不見甚) | 元禄十五(1702)年十一月月食 | 2.75分 | ○ |
入帯(不見甚) | 元文三(1738)年十二月月食 | 2.30分 | ○ |
出帯(不見甚) | 寛延二(1749)年五月月食 | 0.62分 | × |
日食は、寛延四(宝暦元
1751)年以降と前とで傾向がかなり違う。前は、0.04分の極めて小さい食以外はすべて記載されており、以降は、三分以下はすべて不記載となっている。
月食は、寛延四(宝暦元 1751)年以降のものがない。初期の、貞享三(1686)年十月月食
2.07分が不記載、元禄三(1690)年二月月食
0.81分が記載、というのがかなり不審であるが、元禄三(1690)年二月月食が記載されているのが例外とみるべき
(※) で、2.2分ぐらいが記載有無の閾値なのかも知れない。
- (※) 元禄三(1690)年二月月食「月帯そく 於東国不見於西国は月の入二分ばかり可現」は、(京都では極小の食かも知れないが)「西国で二分ばかり見える」のが記載理由だったのかも。しかし、ほかにこういった記載をした例がなく、これだけ。
貞享暦の食分表示
貞享暦においては、食分は分単位で切捨のようである。ただし、端数が非常に大きい場合、切り上げなくもなかったようで、「切捨」というよりは「八捨九入」ぐらいの感じ。
ただし、宝永七(1710)年七月月食で、7.82分を「八分」にしていたりして必ずしも一貫しているわけではなさそう。ただし、私の貞享暦の食推算にそこまで自信を持っているわけではないので、実はちゃんと一貫したルールに基づき端数処理しているのかも知れない。
享保十六(1731)年十二月日食 9.95分、享保二十(1735)年九月日食
9.78分を「九分余」とした例がある。
また、「分単位」なのだが、「○分半」としたものが散見される。元禄十三(1700)年正月月食「六分半」(7.28分)、享保四(1719)年正月月食「四分半」(4.45分)、享保十三(1728)年正月月食「五分半」(5.91分)、享保十八(1733)年十月月食「六分半」(6.50分)。どういうときにそうするのかよくわからない。
寛政暦・天保暦では、食甚食分と出入時食分の表示方法が異なっていたが、貞享暦・宝暦暦ではそんなこともない。出入食分は「○分ばかり」と常に「ばかり」をつける。
宝暦暦の食分表示
宝暦暦では四捨五入になるが、分単位(3.5~4.5分→四分)の場合と、0.5分単位(3.75~4.25分→四分、4.25分~4.75分→四分半)の場合とがあるようだ。なんとなく、日食はすべて0.5分単位、月食は当初は分単位で、安永五(1776)年十二月月食の「六分半(6.59分)」を初例として以降は
0.5分単位、とするのがよさそうだが、それで全部合うわけでもない。
なお、宝暦暦では、四捨五入の結果、切りあがって10分になる場合には「皆既」とした。
- 明和七(1770)年五月日食「日そく皆既 みの五刻西の方よりかけはじめむまの一刻甚しくむまの六刻東の方におはる」(9.82分)
- 天明六(1786)年正月日食「日そく皆既 むまの一刻西の方よりかけはじめむまの六刻甚しくひつじの二刻東の方におはる」(9.96分)
寛政六(1794)年以降、すこし面白い表示形式が見られる。
- 寛政六(1794)年十二月日食「日そく九分余 たつの二刻西の方よりかけはじめたつの七刻甚しくみの四刻東の方におはる」
- 寛政七(1795)年六月月食「月帯そく四分 翌とらの初刻東北の方よりかけはじめとらの七刻甚しくうの初刻二分余かけながら入」
寛政七(1795)年六月月食で入時食分2.54分を「二分余」としているわけだが、どうやらこれは、それまでの「二分半ばかり(2.25~2.75分)」と同じ意味らしい。寛政暦・天保暦の「二分ばかり(1.5~2.0分)」「二分余(2.0~2.5分)」と言葉遣いは同じになったが、意味は異なっていて、それ以前、0.5分単位で四捨五入している場合の「二分ばかり(1.75~2.25分)」「二分半ばかり(2.25~2.75分)」を「二分ばかり」「二分余」と表記だけ変更したものなのである。
そして、食甚食分についても、寛政六(1794)年十二月日食
9.36分を「九分半」ではなく「九分余」とした。これも、もとの「九分半」を表記だけ変更したものである。
寛政暦では、ここから、食甚食分については「○分余」を「○分半」に表記を戻し、出入時食分の「○分ばかり」「○分余」は意味を
0.25分ずらしたのだ。
日月食記事の時刻表示
初期の貞享暦において、辰刻表示でなく時辰のみの表示としたこと、明六ツ以降(日の出まで)の時刻を「明朝/あくる朝」等としたこと、月入帯食の入り時刻を「○日の朝」等としたことについては、すでに述べた。
節気・土用について、元文四(1739)年までは、23:00~24:00は「夜ねの○刻」と記載していた。日月食においては、享保十五(1730)年六月月食「夜ねの三刻」が初例で、それ以前は「夜」をつけなかった。月食では夜半24:00は記載日の閾値ではないので、23:00~24:00の子時と、24:00~25:00の子時とを区別する必要は薄かっただろう。
元文五(1740)以降、節気・土用では 0:00~6:00
の場合、前日に記載して「翌」をつけたが、月食ではそもそも24:00以降も前日の月食として記載していて、24:00以降の時刻でも「翌」をつけたりはしない。
寛政暦・天保暦の日月食のところですでに述べたとおり、宝暦暦末期、寛政六(1794)年以降、月食の記載日の基準がかわって「当日日の出~翌日日の出までの間に月望がある日」になり、「某日の月食」が「某日の月の出/日の入り以降、翌日の月の入り/日の出までに起きた月食」だけでなく、「某日早朝、日の出前にかけ初め、月望/食甚を見ることなく月が沈んだ」ケースもありうることになった。その場合、寅卯時は、当日早朝の寅卯時と当日夜半24:00を過ぎた寅卯時(翌日早朝の寅卯時)とを区別するため、後者には「翌」をつける。宝暦暦期間中では、寛政七(1795)年六月月食「翌とらの初刻」が見られる。
その他
寛政暦・天保暦で、最大食分が
1分未満の場合「見へがたかるべし」と記載していたが、1.25分未満ぐらいで「見へがたかるべし」としていたようだ。天明八(1788)年五月日食
1.24分で「見へがたかるべし」としている。
食甚が見える出帯食で、食甚食分と出時食分が記載上同一の場合、食甚が見えない出帯食扱いしたようだ。
- 宝暦三(1753)年九月月食「月帯そく とりの三刻五分ばかりかけながら出いぬの二刻西南の方におはる西国にては所見三分ばかり」(実際は、五分の食甚が見える)
- 寛政八(1796)年五月月食「月帯そく いぬの一刻一分ばかりかけながら出いぬの六刻西南の方におはる。見へがたかるべし」(実際は、一分の食甚が見える)
地方食表示
帯食時に、京都と西国(時差2.5刻?)との出入時食分の違いを記載していた。
- 西国では、不見(出前に食が終わる、入り後に食が始まる)の時:
- 「西国にては見へがたかるべし」
- 西国では食分ゼロ、または、小さい(0.75分未満ぐらい?)時:
- 「西国にては復して出/入べし」
- ただし、享保十(1725)年三月月食で、私の計算上の出時食分 1.05分で、「西国にては復して出べし」とした例あり。
-
「復して出べし」は西国で不見、「復して入べし」は西国で通常食となる。よって、出帯食の場合、西国の出時食分がゼロだと「西国にては見へがたかるべし」となるので、「西国にては復して出べし」となるのは、西国出時食分がゼロより大きいが小さい場合のみである。
- 京都では皆既出入ではないが、西国では皆既出入の場合:
- 「西国にては皆既て出/入べし」
- それ以外で、京都と西国の出入時食分が記載上異なる場合:
- 「西国にては(出入時食分)ばかりかけながら出/入べし」
-
「西国にては所見(出入時食分)ばかり」と記載したものもある。
寛延三(1750)年あたりから、地方食表示を記載しないものが散見されるようになり、宝暦十三(1763)年以降は全く記載しないようになった。ただし「西国にては見へがたかるべし」だけは記載されたようだ。
- 天明9(寛政元 1789)年四月月食に「月帯そく とりの八刻一分半ばかりかけながら出いぬの三刻西北の方におはる。西国にては見へがたかるべし」
西国は、京都との時差が 2.5刻(経度差にして
9°)の地点とした。特に根拠はなく、なるべく計算があうようにしようとするとそうなったということなのだが、京都の経度が東経135.75°ぐらいだとして、西国は東経126.75°の地点ということになる。ちょっとこれは西過ぎやしないかと思う。長崎はとうに過ぎ、五島列島も過ぎ、ソウル・済州島・沖縄本島より西、久米島あたりの経度である。中国(大都/北京)との時差がざっくり
5刻として、その中間点ぐらい、みたいな感じだったのであろうか。
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