前回から、天保暦の日食法について説明している。前回は、視差を考慮しない(つまり、地球面上の観測者の位置を考慮せず、地心から見たときのものとして日食を観測したときの)食甚時刻「食甚用時」を算出した。
このあたりまでは、寛政暦の日食法や、寛政暦・天保暦の月食法と変わりばえがしなかったが、今回説明する箇所は、今までとまったく別の考え方で計算されている。
これはなぜかというと、天保暦の日食法においては、地球が真球ではなく、赤道方向が膨らんだ回転楕円体であることを考慮しているからである。このためには、寛政暦の日食法の延長で計算するのは難しく、全く新たな計算方法によっているのである。
矮立円地(地球回転楕円体)
[推日食用数]
北極高三十五度零一分
地球大半径一百七十八
地球小半径一百七十七
地球大径率一千零零五萬六千四百九十七(以地球小半径為一率、地球大半径為二率、半径為三率、求得四率為地球大径率。即地球小半径為一千萬之比例数也)
地球小半径を以って一率と為し、地球大半径、二率と為し、半径、三率と為し、求めて得る四率、地球大径率と為す。即ち地球小半径一千萬と為すの比例数なり。
矮立円地赤道距天頂三十四度八十五分八十三秒三十三微(以地球大径率為一率、半径為二率、北極高度之正切線為三率、求得四率為正切線、検表得矮立円地赤道距天頂)
地球大径率を以って一率と為し、半径、二率と為し、北極高度の正切線、三率と為し、求めて得る四率、正切線と為し、表を検じ矮立円地赤道距天頂を得。
地半径赤道交角三十四度七十零分七十二秒二十二微(以地球大径率為一率、半径為二率、矮立円地赤道距天頂之正切線為三率、求得四率為正切線、検表得地半径赤道交角)
地球大径率を以って一率と為し、半径、二率と為し、矮立円地赤道距天頂の正切線、三率と為し、求めて得る四率、正切線と為し、表を検じ地半径赤道交角を得。
地半径一千零零三萬八千二百五十六(以地半径赤道交角之正弦為一率、矮立円地赤道距天頂之正弦為二率、半径為三率、求得四率為地半径。即極下地半径為一千萬之比例数也)
地半径赤道交角の正弦を以って一率と為し、矮立円地赤道距天頂の正弦、二率と為し、半径、三率と為し、求めて得る四率、地半径と為す。即ち極下地半径一千萬と為すの比例数なり。
東西原数八百二十五萬二千零二十四(以半径為一率、矮立円地赤道距天頂之余弦為二率、地球大径率為三率、求得四率為東西原数。即簡平楕円大半径)
半径を以って一率と為し、矮立円地赤道距天頂の余弦、二率と為し、地球大径率、三率と為し、求めて得る四率、東西原数と為す。即ち簡平楕円大半径。
[推各方日食用数]
江戸矮立円地赤道距天頂三十五度五十二分二十三秒
江戸地半径赤道交角三十五度三十七分零三秒
江戸地半径一千零零三萬七千三百三十六
江戸東西原数八百一十八萬四千八百七十八
江戸里差一百一十三分
江戸太陰地半径差減数二十八微
長崎矮立円地赤道距天頂三十二度六十二分八十八秒
長崎地半径赤道交角三十二度四十八分二十四秒
長崎地半径一千零零四萬零一百零七
長崎東西原数八百四十六萬九千三百九十五
長崎里差一百六十一分三十四秒
長崎太陰地半径差加数一秒六十七微
\[ \begin{align}
\text{地球大半径} &= 178 \\
\text{地球小半径} &= 177 \\
\text{地球大径率} &= 1.0056497 &(= 178 / 177) \\
\text{矮立円地赤道距天頂} &= \tan^{-1} { \tan(\text{北極高度}) \over \text{地球大径率}} \\
\text{地半径赤道交角} &= \tan^{-1} { \tan(\text{矮立円地赤道距天頂}) \over \text{地球大径率}} \\
\text{地半径} &= { \sin(\text{矮立円地赤道距天頂}) \over \sin(\text{地半径赤道交角})} \\
\text{東西原数} &= \text{地球大径率} \cos(\text{矮立円地赤道距天頂}) \\
\end{align} \]
地点 | 京都 | 江戸 | 長崎 |
---|---|---|---|
地点緯度(北極高度) | 35°.01 | 35°.6756 | 32°.7756 |
地点経度 | 0° | +4°.0680 | -5°.808333 |
矮立円地赤道距天頂 | 34°.858333 | 35°.5223 | 32°.6288 |
地半径赤道交角 | 34°.707222 | 35°.3703 | 32°.4824 |
地半径 | 1.0038256 | 1.0037336 | 1.0040107 |
東西原数 | 0.8252024 | 0.8184878 | 0.8469395 |
里差 | 0 | +0.0113 日 |
-0.016134 日 |
太陰地半径差加数 | 0 | -0°.000028 | +0°.000167 |
天保暦の日食法の目玉、地球を真球ではなく、回転楕円体として扱うための諸定数である。
地点経緯度によって定まる値であり、天保暦が扱う地点は、京都、江戸(東国)、長崎(西国)のみであるため、あらかじめ計算して、定数として示されている。
地球回転楕円体のことを新法暦書は「矮立円地」と呼んでいるようである。「背がやや低い(極方向が短い)立体の円形であるところの地球」という意味であろうか。
天保暦(新法暦書)においては、というか多分「ラランデ暦書においては」なのだろうが、地球回転楕円体は、小半径(極方向)を 177、大半径(赤道方向)を 178 の比としている。扁平率 \(f = \dfrac{\text{大半径} - \text{小半径}}{\text{大半径}}\) として示すならば、扁平率 \(f = 1/178\) となる。現在、地球回転楕円体の扁平率は \(f = 1/300\) ほどと考えられており、それと比べると、やや扁平すぎるようである。
-
新法暦書続編巻十三『日食数理一』「地球矮立円」によれば、
奈端以為其形矮立円、如蔓菁根、而南北両極下匾壓、其径短小於赤道下地之径。其比例、如六百八十八与六百九十二、又如一百二十九与一百三十。葛西尼謂卵円、而赤道下地之径、短於両極下地之径。此二士論説久之未決。享保之末、婆求児毛伯爾等、分於赤道下前後与北極下前後之両処、測太陰地半径差、検出両数不相等、互有差較。因算定中距太陰地半径差、在北極下則為五十六分五十六秒(通之百分度、為九十四分八十八秒八十九微)、在赤道下則為五十七分一十四秒小余八(通之百分度、為九十五分四十一秒一十一微。今、新法所定之太陰地半径差諸数、詳前月離数理、太陰地半径差篇)。終決定地体之矮立円象、而不真円、随地上南北一度之里程。亦因地各異矣。乃北極下之一度長于赤道下之一度、為四百三十八丈許。由此、以奈端之説為勝、仍定其大小半径、為如一百七十八与一百七十七。
とある。扁平率 1/178 は、北極圏のラップランドと、赤道に近いエクアドルの双方による測量で、地球が極方向に扁平な回転楕円体であることを決定した 1734~1735 のフランス科学アカデミーによる測地遠征によるもののようである。
奈端 [ニュートン Isaac Newton] 以って其の形を矮立円と為し、蔓菁根 [かぶ] の如くして、南北両極下は匾壓 [押しつぶしたように平たい]、其の径、赤道下地の径より短小なり。其の比例、六百八十八と六百九十二の如く、また、一百二十九と一百三十の如し。葛西尼 [ジャック・カッシーニ Jacques Cassini] 卵円にして、赤道下地の径、両極下地の径より短しと謂ふ。此の二士の論説、これを久しくして未だ決せず。享保の末 [1735]、婆求児 [ブーゲ Pierre Bouguer ?]・毛伯爾 [モーペルテュイ Pierre-Louis Moreau de Maupertuis ?] 等、赤道下前後と北極下前後の両処に分かれ、太陰地半径差を測り、両数相等しからず互に差較有るを検出す。…(中略)…、終に地体の矮立円象にして真円ならざるを決定す。…(中略)…、此に由り、奈端の説を以って勝と為し、よって其の大小半径を定め、一百七十八と一百七十七の如しと為す。
さて、ここで、地球を上図における楕円とする。観測地点を P, 地心を O, 北極点を N, 観測地点 P と同経度の赤道上の点を E とする。また、楕円の小半径 ON を半径とし、地心 O を中心とする正円を描く。P に対応する(P と同経度・同緯度)の正円上の点を Q とする。また、P と同緯度の地軸 ON 上の点を R とする。地球楕円の小半径 ON = 1、大半径 OE = 地球大径率 = 178/177 = 1.0056497 とする。
地点 P の緯度(北極高度)とはどういう値であろうか。これは、地点 P における楕円の接線が P にとっての地平線であり、図の上方が赤道北極(北極星)方向であるわけだが、この接線(地平線)と赤道北極方向線とがなす角が P の緯度(北極高度)であるわけである。これは、P における楕円面への法線(P の地平線に垂直な線。P にとっての鉛直線)と赤道面との交点を O' とするとき、∠EO'P と同一である。
- P にかかる地球の重力は、真の地心 O に向かってかかるのだが、一方で外側(図の左方)にむかって遠心力がかかるため、重力と遠心力を合成すると、P にいる人は、重力が O' に向かってかかるように感じるのだ。
矮立円地赤道距天頂
さて、ここで「矮立円地赤道距天頂」を求めよう。矮立円地赤道距天頂とは何かというと、地球回転楕円体上の点 P に対応する真球上の点 Q にとっての「北極高度」であると言うことが出来よう。Q における正円に対する接線が Q にとっての地平線であり、これと図の上方、赤道北極(北極星)方向とがなす角である。これは、∠EOQ と等しい。「赤道距天頂」というネーミングなのは 赤道 OE からの、Q にとっての天頂方向 OQ の離角であるからである。
北極高度を \(\phi\)、矮立円地赤道距天頂を \(\phi^\prime\) とする。また、地球大径率を \(r\) とする。
正円は、楕円を、図のタテ方向の縮尺は変えずに、図のヨコ方向に \(1/r\)
に縮めたものである。よって、P, Q
において、楕円/正円の接線と、図の上方とがなす角 \(\phi\), \(\phi^\prime\)
とは、
\(\tan \phi^\prime = \dfrac{1}{r} \tan \phi\)
という関係にある。よって、
\(\text{矮立円地赤道距天頂}
= \tan^{-1} \dfrac{\tan(\text{北極高度})}{\text{地球大径率}} \)
である。
地半径赤道交角
さて、次は「地半径赤道交角」。「地半径] (地点 P の地心 O からの距離) OP
と、赤道 OE との交角であり、図で言えば ∠EOP である。
\[ \begin{align}
\tan(\text{地半径赤道交角})
&= \tan(\angle \mathrm{EOP}) \\
&= \tan(\angle \mathrm{RPO})
\\
&= {\mathrm{OR} \over \mathrm{PR}} \\
&= {\mathrm{OR}
\over r \mathrm{QR}} \\
&= {\tan(\angle \mathrm{RQO}) \over r} \\
&=
{\tan(\angle \mathrm{EOQ}) \over r} \\
&=
{\tan(\text{矮立円地赤道距天頂}) \over r}
\end{align} \]
として求めることが出来る。
緯度の現在的な用語でいうならば、北極高度は「地理緯度」 geographic latitude, 矮立円地赤道距天頂は「更成緯度」 reduced latitude, 地半径赤道交角は「地心緯度」 geocentric latitude に相当する。北極高度は、「地理緯度」というより「天文緯度」 astronomical latitude であるというのが正確ではあろうが、地球が質量分布の均質な回転楕円体なのだと近似するのであれば両者は同じなので、ここではその差を無視する。
地半径
「地半径」は、地点 P の地心 O からの距離 OP。⊿OPQ について考え、OQ = 正円半径
1, ∠QPO = 地半径赤道交角, ∠OQP = 180° - ∠RQO = 180° -
矮立円地赤道距天頂。正弦定理により、
\[ \begin{align}
{\mathrm{OP}
\over \sin(\angle \mathrm{OQP})} &= {\mathrm{OQ} \over \sin(\angle
\mathrm{QPO})} \\
{\mathrm{OP} \over \sin(180° -
\text{矮立円地赤道距天頂})} &= {1 \over \sin(\text{地半径赤道交角})} \\
\mathrm{OP}
&= {\sin(\text{矮立円地赤道距天頂}) \over \sin(\text{地半径赤道交角})}
\end{align}
\]
として求めることが出来る。
ただし、この式は、緯度がゼロ(赤道上)の観測地点について計算するとゼロ除算となってしまう。京都・江戸・長崎について計算出来ればいいのでそんな計算はしないし、赤道上における「地半径」は自明に「地球大径率」であるのでどうでもいいのだが、気になるようであれば
\[
\begin{align}
\mathrm{OP} &= \sqrt{\mathrm{OR}^2 + \mathrm{RP}^2}
\\
&= \sqrt{\sin^2 \phi^\prime + r^2 \cos^2 \phi^\prime} \\
&=
\sqrt{1 + (r^2 - 1) \cos^2 \phi^\prime} \\
&= \sqrt{1 +
((\text{地球大径率})^2 - 1) \cos^2(\text{矮立円地赤道距天頂})}
\end{align}
\]
等にリライトした方がいいのかも。
東西原数
「東西原数」は、地点 P の地軸からの距離 RP である。これは、
\[
\begin{align}
\mathrm{RP} &= r\, \mathrm{RQ} \\
&= r\,
\mathrm{OQ} \cos(\angle \mathrm{RQO}) \\
&= \text{地球大径率}
\cos(\text{矮立円地赤道距天頂}) & \because
\mathrm{OQ}=\text{地球小半径}=1
\end{align} \]
として求められる。
あとは、「里差」「太陰地半径差加数」が残っている。
里差
「里差」は、矮立円地には何も関係がないが、地方の日食計算に関する定数「推各方日食用数」に、矮立円地関連の定数と一緒に記載されているから、ついでに言及しておこう。とは言っても、既に、天保暦月離の月出入時刻算出のところでも登場したし、月食法の地方食計算でも使用するから今更ではある。京都と地方(江戸、長崎)との間の時差である。
地点経度を、京都との経度差で表すとき、\(\text{里差} = \dfrac{1_\text{日}}{360°} \text{地点経度}\) として計算することが出来る。
太陰地半径差加数
最後に「太陰地半径差加数」。これは何かというと、地点緯度によって、地心からの距離(「地半径」)が異なるため、月の地平視差(地半径差)が異なる。このための調整値である。
地方日食の計算方法を記載した「推各方日食法」では、
置実朔太陰地半径差、加減各方太陰地半径差加減数、為各方実朔太陰地半径差、而用之。
実朔太陰地半径差を置き、各方太陰地半径差加減数を加減し、各方実朔太陰地半径差と為して、これを用う。
\[ \text{各方太陰地半径差} = \text{実朔太陰地半径差} + \text{各方太陰地半径差加数} \]
として、この値の使い方が書いてある。
この値は、定数を記載した「推各方日食用数」では「江戸太陰地半径差減数」「長崎太陰地半径差加数」とされ、計算法を記載した「推各方日食法」では「各方太陰地半径差加減数」とされる。このブログにおいては「太陰地半径差加数」とし、江戸の太陰地半径差加数は、マイナスの値をとることとした。なお、京都の太陰地半径差加減数が記載されていないのは、加減数を加えずに普通に計算した「実朔太陰地半径差」は、京都における地半径差であるからで、つまり、京都の太陰地半径差加減数はゼロである。
さて、月の地平視差「太陰地半径差」は、
\(\text{太陰地半径差} = \sin^{-1}
\dfrac{\text{地球の半径}}{\text{地球~月の距離}} \fallingdotseq
\dfrac{180°}{\pi} \dfrac{\text{地球の半径}}{\text{地球~月の距離}} \)
である。地球が回転楕円体であることを考慮するとき、上式の「地球の半径」のところを、地点
P の地心 O からの距離
OP、つまり「地半径」とすればよいだろう。太陰地半径差は、「地半径」に比例する値となるはずである。
天保暦月離によれば、中距太陰地半径差(月と地球との距離が平均距離であるときの月の地平視差)は、0°.952392
である。これは、京都における地平視差である。太陰地半径差は、「地半径」に比例する値となるはずなので、各地方の地半径差と、京都の地半径差との差、すなわち、「太陰地半径差加数」は、
\[
\begin{align}
\text{太陰地半径差加数} &= \text{各地方の地半径差} -
\text{京都の地半径差} \\
&= {\text{各地方の地半径} \over
\text{京都の地半径}} \text{京都の地半径差} - \text{京都の地半径差} \\
&=
{\text{各地方の地半径} - \text{京都の地半径} \over \text{京都の地半径}}
\text{京都の地半径差}
\end{align} \]
として計算できるだろう。各地方の太陰地半径差加数の算出にあたって、「京都の地半径差」を、京都における平均の地半径差である「中距太陰地半径差」であるものとして計算して、各地方の太陰地半径差加数を算出することができる。
しかし、そうして計算すると、江戸の地半径差加数は -0°.000058, 長崎は +0°.000192 となり、新法暦書に記載されている -0°.000028, +0°.000167 との差がそこそこある。矮立円地関連の他の定数も、新法暦書に記載されているものと式通りに算出したものとで若干の差があるのだが、「端数誤差かな」で済むぐらいの差。地半径差加数は、ちょっと誤差が大きすぎるように思い、不審。
誤差が大きいとはいっても、京都との地半径差と各地方の地半径差の差分であり、小さな値だから誤差が大きいように見えているだけなのかも知れない。結果としての地半径差としては、小数点以下第5位が異なるぐらいになり、出来上がりの値としては大きな誤差ではない。よくはわからないが、結論に影響が出るようなレベルの話ではないので、まあよかろう。
簡平の月
ここからしばらく、「簡平○○」というネーミングの値が続く。
この「簡平」が何を意味しているのか、ちゃんとわかっているわけではないのだが、とりあえず私が勝手に理解したものを言うと、おそらく「平面への射影」という意味なのではないかと想像している。
「何をどの平面に射影しているのか」という話だが、これは、太陽から地球と月を見たときに、地球輪に月を射影しているのである。太陽から地球と月を見たときの月の投影が落ちる地球上の点においては、地球上の観測者と月と太陽とが一直線になっているわけであり、その観測者は皆既日食(または金環日食)を見るはずである。日食が見える地球上の場所を計算するには、太陽から見た時の月の投影が、地球輪内のどこに落ちるかを計算すればいいのだ。
寛政暦(暦法新書(寛政))の日食法においては、月の視差を考慮することにより、観測者の位置によって異なる日食の見え方の違いを考慮していた。月の視差は、月の天頂距離が大きくなるほど大きく、また、常に下方に(天頂から離れる方向に)ずれる。つまり、観測者を中心に置いた座標系である地平座標系で物事を考えているわけである。
しかし、天保暦では、地球が真球ではなく回転楕円体であることを計算に入れることとした。こうなると、地平座標系で物事を考えることがかなり難しくなってくる。地球がちょっとややこしい形状の物体となったために、地球上にいる観測者を原点に物事を考えるのが煩雑になってくるのだ。そこで、太陽を原点にして、月、および地球上の観測者が、地球輪内のどこにいるのかを考えるようにしたということである。
月所在一小時両経斜距の正弦、月所在月距日実行の矢
推月所在一小時両経斜距之正弦及月距日実行之矢第五
求月所在一小時両経斜距之正弦「以半径為一率、一小時両経斜距之正弦為二率、実朔黄道緯度之余弦(如無実朔黄道緯度、則以一小時両経斜距之正弦為月所在一小時両経斜距之正弦)為三率、求得四率為月所在一小時両経斜距之正弦」
半径を以って一率と為し、一小時両経斜距の正弦、二率と為し、実朔黄道緯度の余弦(もし実朔黄道緯度無ければ、則ち一小時両経斜距の正弦を以って月所在一小時両経斜距の正弦と為す)三率と為し、求めて得る四率、月所在一小時両経斜距の正弦と為す。
求月所在一小時月距日実行之矢「以半径為一率、一小時月距日実行之矢為二率、実朔黄道緯度之余弦(如無実朔黄道緯度、則以一小時月距日実行之矢為月所在一小時月距日実行之矢)為三率、求得四率為月所在一小時月距日実行之矢」
半径を以って一率と為し、一小時月距日実行の矢、二率と為し、実朔黄道緯度の余弦(もし実朔黄道緯度無ければ、則ち一小時月距日実行の矢を以って月所在一小時月距日実行の矢と為す)三率と為し、求めて得る四率、月所在一小時月距日実行の矢と為す。
\[ \begin{align}
\text{月所在一小時両経斜距の正弦} &= \sin(\text{一小時両経斜距}) \cos(\text{実朔太陰黄道緯度}) \\
\text{月所在一小時月距日実行の矢} &= (1 - \cos(\text{一小時月距日実行})) \cos(\text{実朔太陰黄道緯度}) \\
\end{align} \]
と、上記には述べたが、「簡平○○」の値はまだ出て来ず「月所在○○」の値である。これらは一体、何の値なのか。
月の速度を意味する値として、「一小時両経斜距」(白道にそって測った角速度)がある。これは、地球から見たときの角速度なわけだが、今は、「太陽から見たときに月がどう動くのか」を考えたい。地球から見たときの角速度ではなく、月の実際の速度を知りたいのだ。
月の地球からの距離を 1 としよう。月が地球の周りを半径 1 の円を描いて「一小時両経斜距」の角速度で周回しているのであれば、月の実際の速度は、\(\sin(\text{一小時両経斜距})\) であると言える。しかし、これは、月の緯度がゼロの場合なのであって、月の緯度がゼロでない場合、月が描く円の半径は 1 よりも若干小さく, \(\cos(\text{実朔太陰黄道緯度})\) である (※)。とするのであれば、月の実際の速度は、\(\sin(\text{一小時両経斜距}) \cos(\text{実朔太陰黄道緯度})\)、つまり「月所在一小時両経斜距の正弦」だということになるのである。
-
(※) 本当は、\(\cos(\text{月の黄緯})\)
でなく、\(\cos(\text{月の白緯})\)、つまり、\(\cos(\text{食甚実緯})\)
で計算した方がいい気がするが、まあよかろう。
この後、「○○の正弦」というネーミングの値がいろいろ出てくる。これは
\(\sin(\text{○○})\)
のことだと理解しないほうがいい。角速度や角距離ではない「真の速度」「真の距離」(を、月~地球の距離を
1 としたり、または、地球の半径を 1
としたり、何に距離の基準を置くのかはいろいろだが、基準距離に対する比で表現したもの)の意味だと理解すべきである。長さ
\(l\) のものを、距離 \(d\)
だけ離れてみるとき、その視角を「なんとか角」と呼ぶのだとしよう。その場合、\(\dfrac{l}{d}\)
を「なんとか角の正弦」と呼ぶのである。
- 「○○の正弦」と書いてあって、本当に \(\sin(\text{○○})\) の意味のときも当然あるので注意が必要だが。
-
sin, cos
等の三角比は、長さの比なのだが、度分秒単位の角度はそうではない。度分秒単位の角度でなく長さの比で測った量だよ、というのが「○○の正弦」というネーミングの値である。なお、度分秒単位の角度は長さの比ではないが、ラジアン単位の角度は半径に対する円弧の長さの比なので長さの比である。
次に、「月所在一小時月距日実行の矢」である。「矢」とは「正矢」\(1 - \cos \theta\) のことであるが、これはなんの意味を持つ値なのか。
これは、「実朔時の月と比べて、実朔の 1 時間(一小時)後の月は、図のヨコ方向(太陽からの距離方向)にどれだけずれているか」という値である。
図の面は、黄道面と平行であるとし、図の右を X 軸、図の上を Y 軸とし、地心を原点
(0, 0) とし、図の右 (X軸方向) に太陽があるとする。実朔時点の月は、
\[
\left( \begin{array} \\ X \\ Y \end{array} \right) = \left( \begin{array} \\
\cos(\text{月緯度}) \\ 0 \end{array} \right) \]
の座標にある。一小時後の月は、
\[
\left( \begin{array} \\ X \\ Y \end{array} \right) = \left( \begin{array} \\
\cos(\text{一小時月距日実行}) \cos(\text{月緯度}) \\
\sin(\text{一小時月距日実行}) \cos(\text{月緯度}) \end{array} \right) \]
にあるであろう。とすれば、実朔の月と比べて、実朔の一小時後の月は、
\[
\cos(\text{月緯度}) - \cos(\text{一小時月距日実行}) \cos(\text{月緯度}) = (1 -
\cos(\text{一小時月距日実行})) \cos(\text{月緯度}) \]
だけ、太陽から遠ざかるようにヨコ方向にずれる。これが「月所在一小時月距日実行の矢」である。
一方、タテ方向にはどれだけずれたかと言えば、 \(\sin(\text{一小時月距日実行}) \cos(\text{月緯度})\) だけずれているわけである。いわば「月所在一小時月距日実行の正弦」ともいうべき値だが、「図の面を黄道面に平行」としていたところを、X軸を中心軸としてわずかに傾け、図の面が白道面に平行となるよう考えてやると、その図でのヨコ方向の一小時のずれは相変わらず「月所在一小時月距日実行の矢」で、タテ方向の一小時のずれは「月所在一小時両経斜距の正弦」であると考えることが出来る。
これらはすべて、月~地球間の距離を 1
として考えた長さだ。白道北極方向を上にして、太陽の方向から実朔近辺の地球と月を見たときに、月が
1 時間で
左から右に動く距離が「月所在一小時両経斜距の正弦」、前後方向に動く距離が「月所在一小時月距日実行の矢」である。
簡平地平高下差、簡平食甚実緯、簡平月所在一小時両経斜距の正弦
[推日食用数]
太陽地半径差二十三秒八十九微
推極下太陰地半径差、簡平地平高下差、食甚実緯、及両経斜距之正弦第六
求極下太陰地半径差「以地半径為一率、半径為二率、実朔太陰地半径差為三率、求得四率為極下太陰地半径差」
地半径を以って一率と為し、半径、二率と為し、実朔太陰地半径差、三率と為し、求めて得る四率、極下太陰地半径差と為す。
求簡平地平高下差線「以極下太陰地半径差為一率、太陽地半径差為二率、実朔黄道緯度之余弦為三率(如無実朔黄道緯度、則以半径為三率)、求得四率以減半径、為簡平地平高下差線」
極下太陰地半径差を以って一率と為し、太陽地半径差、二率と為し、実朔黄道緯度の余弦、三率と為し(もし実朔黄道緯度無ければ、則ち半径を以って三率と為す)、求めて得る四率、以って半径より減じ、簡平地平高下差線と為す。
求簡平地平高下差之正弦「以半径為一率、極下太陰地半径差之正弦為二率、簡平地平高下差線為三率、求得四率為簡平地平高下差之正弦」
半径を以って一率と為し、極下太陰地半径差の正弦、二率と為し、簡平地平高下差線、三率と為し、求めて得る四率、簡平地平高下差の正弦と為す。
求簡平食甚実緯之正弦「以簡平地平高下差之正弦為一率、半径為二率、食甚実緯之正弦為三率、求得四率為簡平食甚実緯之正弦(南北、与食甚実緯同。簡平食甚実緯之正弦、即為簡平地平高下差之正弦一千萬之比例数也。両経斜距之正弦亦同)」
簡平地平高下差の正弦を以って一率と為し、半径、二率と為し、食甚実緯の正弦、三率と為し、求めて得る四率、簡平食甚実緯の正弦と為す(南北、食甚実緯と同じ。簡平食甚実緯の正弦、即ち簡平地平高下差の正弦を一千萬と為すの比例数なり。両経斜距の正弦また同じ)
求簡平月所在一小時両経斜距之正弦「以簡平地平高下差之正弦為一率、半径為二率、月所在一小時両経斜距之正弦為三率、求得四率為簡平月所在一小時両経斜距之正弦」
簡平地平高下差の正弦を以って一率と為し、半径、二率と為し、月所在一小時両経斜距の正弦、三率と為し、求めて得る四率、簡平月所在一小時両経斜距の正弦と為す。
\[ \begin{align}
\text{太陽地半径差} &= 0°.002389 \\
\text{極下太陰地半径差} &= {\text{太陰地半径差}(@\text{実朔実日時}) \over \text{地半径}} \\
\text{簡平地平高下差線} &= 1 - {\text{太陽地半径差} \cos(\text{実朔太陰黄道緯度}) \over \text{極下太陰地半径差}} \\
\text{簡平地平高下差の正弦} &= \text{簡平地平高下差線} \sin(\text{極下太陰地半径差}) \\
\text{簡平食甚実緯の正弦} &= {\sin(\text{食甚実緯}) \over \text{簡平地平高下差の正弦}} \\
\text{簡平月所在一小時両経斜距の正弦} &= {\text{月所在一小時両経斜距の正弦} \over \text{簡平地平高下差の正弦}}
\end{align} \]
「簡平○○」の計算に入る。
まずは、「極下太陰地半径差」。これは簡単な話で、普通に計算した「太陰地半径差」は、京都における太陰地半径差である(太陰地半径差加減数で加減しているのなら、江戸・長崎等の太陰地半径差)。これに対し、「地半径」(地球小半径を 1 とする長さで測った、観測地点の地心からの距離)が 1 である地球上の点、すなわち、極点での太陰地半径差が「極下太陰地半径差」である。太陰地半径差の大きさは地半径に比例するから、京都での太陰地半径差を京都の地半径で割ってやれば、極点での太陰地半径差を求めることが出来る。
次に「簡平地平高下差線」。今、地球の小半径(極方向の半径)を 1
とする長さで測った、地球~月の距離を \(d_m\) とし、地球~太陽の距離を \(d_s\)
としよう。この時、極点における太陽、月の地半径差は、
\[ \begin{align}
\text{太陽地半径差}
&= \sin^{-1} {\text{地球小半径} \over \text{地球~太陽の距離}} = \sin^{-1}
{1 \over d_s} \fallingdotseq {180° \over \pi} {1 \over d_s} \\
\text{太陰地半径差}
&= \sin^{-1} {\text{地球小半径} \over \text{地球~月の距離}} = \sin^{-1}
{1 \over d_m} \fallingdotseq {180° \over \pi} {1 \over d_m}
\end{align}
\]
とするとき、「簡平地平高下差線」は何を計算しているのかといえば(太陰黄道緯度を
\(\beta_m\) とする)、
\[ \begin{align}
\text{簡平地平高下差線}
&= 1 - {\text{太陽地半径差} \cos \beta_m \over \text{極下太陰地半径差}}
\\
&= 1 - {{180° \over \pi} {1 \over d_s} \cos \beta_m \over {180°
\over \pi} {1 \over d_m}} \\
&= 1 - {d_m \cos \beta_m \over d_s}
\\
&= {d_s - d_m \cos \beta_m \over d_s}
\end{align} \]
である。\(d_m
\cos \beta_m\)
は、月~地球の間の距離を黄道面に沿って測った距離である。とすると、「簡平地平高下差線」は、「地球~太陽間の距離と地球~月間の距離との差分」の「地球~太陽間の距離」に対する比である。朔/日食において、月は太陽と地球の間にあるのだから、つまりこれは、「太陽~月間の距離」の「太陽~地球間の距離」に対する比である。
今、太陽 S から見て、地球 E と月 M を見ているとしよう。太陽から見える地球輪が、上図の左側に見える青い環であるとする。地球の北極が Pn、南極が Ps とする。月と同じあたりにあって、太陽から見ると地心 E とちょうど重なるような点を \(\mathrm{M}_0\) とする。\(\mathrm{M}_0\) は、月 M から黄道面に対して降ろした垂線の足である。また、太陽から見ると北極点 Pn とちょうど重なるような点を \(\mathrm{M}_1\) とする。
地球~太陽の距離は、\(d_s\), 地球 E~\(\mathrm{M}_0\) 間の距離が、\(d_m \cos \delta_m\)、太陽 S~\(\mathrm{M}_0\) 間の距離が\(d_s - d_m \cos \delta_m\) である。「簡平地平高下差線」は、\(\dfrac{\mathrm{SM}_0}{\mathrm{SE}}\) を意味する値だが、同時に、\(⊿\mathrm{SEP_n}\) と \(⊿\mathrm{SM_0M_1}\) は相似だから、\(\dfrac{\mathrm{M}_0\mathrm{M}_1}{\mathrm{EP_n}}\) を意味する値でもある。\(\mathrm{EP_n}\) は地球小半径なので、地球小半径の長さを 1 として測った、\(\mathrm{M}_0\mathrm{M}_1\) の長さ、「太陽から月を見るとき、月は地球輪のちょうどど真ん中にくる \(\mathrm{M}_0\) から、どの程度ずれていても地球輪の中にあることが出来るか」という長さである。
これを「簡平地平高下差線」と呼んでいるのはなぜか。地心 E から見れば、月 \(\mathrm{M}_0\) と太陽 S とは、まったく同一方向に見えるが、北極点 Pn から見ると、\(\angle \mathrm{SP_{n}M_{0}}\)、つまり、\(\angle \mathrm{M_{1}P_{n}M_{0}}\) の角距離をなすように見える。(地球~月~太陽の距離を縮めて書いているからそうは見えないかも知れないが)北極点 Pn では、月と太陽を地平線方向に見ているのであり、つまり、\(\angle \mathrm{M_{1}P_{n}M_{0}}\) は、月と太陽の地平視差の差分、つまり「地平高下差」なのである。つまりは、線分 \(\mathrm{M_{0}M_{1}}\) を地球から見たときの視角が「地平高下差」なのであるから、この線分を「地平高下差線」と呼んでもよかろうということである。そして「簡平」とついているのは、太陽から見たときに、ちょうどこの長さのものが地球輪上の地球小半径と同じ長さに射影されるのであり、月近辺における長さと、それを地球輪上に射影したときの長さとの換算レートとなるからである。
次に「簡平地平高下差の正弦」。これは「簡平地平高下差」に、\(\sin(\text{極下太陰地半径差})\)
を掛けたもの。
\[ \begin{align}
\text{簡平地平高下差} &=
{\mathrm{M_{0}M_{1}} \over \text{地球小半径}} \\
\sin(\text{極下太陰地半径差})
&= {\text{地球小半径} \over d_m} \\
\therefore
\text{簡平地平高下差の正弦} &= \text{簡平地平高下差}
\sin(\text{極下太陰地半径差}) \\
&= {\mathrm{M_{0}M_{1}} \over
d_m}
\end{align} \]
となる。これは、\(\sin(\angle
\mathrm{M_{1}P_{n}M_{0}})\)
であると言ってもよい。まさに「地平高下差の正弦」なのだ。そして、これは、「太陽から見て、地球小半径と同じ長さに射影される長さのもの(つまり、\(\mathrm{M_{0}M_{1}}\))は、地球から見たとき視角何度に見えるか、という換算レートでもある。
そして、この換算レートに基づき、地球からは「食甚実緯」「月所在一小時両経斜距」の角度量で見える長さのものを、太陽から見て地球輪に射影したとき、どれだけの大きさに見えるのかという値が「簡平食甚実緯の正弦」「簡平月所在一小時両経斜距の正弦」である。
日食時の地球と月を、太陽から見るとしよう。白道北極方向を上とする画角で地球と月をとらえ、地球の位置が動かないようカメラをパンしながら撮影しているとする。食甚用時において、月心は地心に最接近し、この時に月心は地心の真上または真下(どちらなのかは食甚実緯の南北による)にあり、その距離は(地球小半径を 1 とするとき)「簡平食甚実緯の正弦」である。そして、月は、左から右に、「簡平月所在一小時両経斜距の正弦」の速さで地球輪を通り過ぎてゆく。
食甚用時に地心(太陽から見て地球輪の中央)と月(地球に落ちた月の射影)とが最接近するのであって、観測者が地心にいるのであれば、その時刻が真の食甚なのだが、観測者は地心にいるわけではない。そして、地球の自転によって、地球輪上の観測者の位置も刻一刻と変化してゆく。観測者にとっての真の食甚時刻を知るためには、ともに地球輪上を動く観測者と月の双方を追いかけて、両者が最接近するときを求める必要があるのである。
今回で、地球輪上における月の動きは大体わかった。次回は、地球輪上の観測者の位置を示す「東西差」「南北差」の計算について。
[参考文献]
渋川 景祐; 足立 信頭「新法暦書」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵
渋川 景祐; 足立 信行「新法暦書続編」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵
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