前回は、宝暦暦について駆け足で説明を行った。今回からは寛政暦。寛政暦はさすがに駆け足というわけにはいかない。
今回は、寛政暦の簡単な歴史と、日躔の入り口あたり(平均黄経と平気節気)の計算。また、寛政暦で用いられる数学について、若干の説明。
寛政暦の概要
最新の天文学の知識を取り入れた暦の採用は、八代将軍徳川吉宗が強く望みながら宝暦改暦のときには頓挫してしまった。が、幕府として吉宗の遺志を果たそうと挑戦を続けていた。
修正宝暦暦を起案した吉田秀長の子、吉田靫負秀升(よしだ ゆげい
ひでのり)、宝暦改暦の際、改暦手伝として参加していた暦学者山路主住(やまじ
ぬしずみ)の孫で志願して天文方に参加した山路才助徳風(やまじ さいすけ
よしつぐ)らは、崇禎暦書(※)を基にした改暦を行おうと準備を進めていた。
- (※) イエズス会士アダム・シャール(湯若望)が明朝の崇禎帝の命に応じて著わした新暦案。明の滅亡により採用されることはなかったのだが、その焼き直し版「西洋新法暦書」が時憲暦(第一期)の暦法書となっている
が、宝暦改暦の際、朝廷方の土御門家にしてやられた苦い経験から、土御門家の追随を絶対に許さない圧倒的に高度な暦法が必要とされていた。土御門家がどんな暦学者をブレーンに集めてこようが、絶対に勝てる暦法が必要だったのである。国内の民間の暦学者の間でも既に研究が進んでいた崇禎暦書では、それには不足だった。
そこで白羽の矢が立ったのが、大阪で活動していた麻田剛立学派であった。麻田剛立(あさだ
ごうりゅう。綾部妥彰(あやべ
やすあき))は、もとは九州の杵築藩(大分県杵築市)の儒者の家の出であるが、幼少時から医学・暦学等に興味を持ち独学で研究を進めていた。30歳のとき、宝暦暦が予報を外していた宝暦十三(1763)年九月日食も正しく予報していたとのことである。医学の腕を買われて藩主の侍医も務めるが、宮仕えは性に合わなかったようで、安永元(1772)年、侍医を辞して大坂に出、開業医を務めながら暦学研究に没頭することとなる。古今の暦の定数を比較勘案してその経時変化を推算した消長法を考案したり、また、ケプラーの第三法則(惑星の公転周期の二乗は、軌道長半径の三乗に比例する)を独立に発見したとも言われる(独立に発見したのか、ケプラーの法則をどこかで聞いたものなのかは議論の余地がある)。
既に民間の暦学者として名を上げていた麻田のもとには多くの弟子が集まった。なかでも高弟とされるのは、大坂城定番同心を務める下級幕臣、高橋作左衛門至時(たかはし
さくざえもん よしとき)と、大坂の質屋の大店の主人、十一屋五郎兵衛(といちや
ごろべえ)こと間重富(はざま
しげとみ)であった。高橋至時は数学の才に優れる「理論屋」、間重富は豊富な財力と建築工作の才を生かして観測器械を作り揃え天体観測を行う「観測屋」として能力を発揮する。
麻田学派は、アダム・シャールの西洋新法暦書の暦法を中国の暦学家、何国宗、梅穀成が整理した暦学書「暦象考成」(時憲暦(第2期)の暦法)をもとに暦学研究を行っていたが、清朝の欽天監を務めていたイエズス会士
Ignaz
Kögler(戴進賢)が著した「暦象考成後編」の入手に成功する。当時、日本に数部しか入ってきておらず桑名藩主松平忠和が保有していたのを、間が大枚をはたいて買い付けたのだ。「暦象考成後編」は、時憲暦(第3期)の暦法であり、清のばりばりの現行暦であった(中華民国でグレゴリオ暦に改暦するまで現用されていた)。
- 「暦象考成後編」というタイトルだが、「暦象考成」とは著者も異なり、別の書物である。
「暦象考成後編」は、ケプラーの楕円軌道理論に基づき記述された暦法を採用していた。麻田はこの書を一瞥すると、あまりにも高度な暦学理論に驚愕し、今までの自分の著作をすべて焼き捨てようとし、弟子たちが慌てて止めたと伝えられている。麻田学派では「暦象考成後編」の暦学理論の研究を進め、当時の日本における暦学研究のトップクラスを走ることとなった。
幕府は、麻田に改暦の任に当たらせようとするが、麻田は高齢でもあり固辞。代わりに、高弟の高橋・間を推薦する。寛政七(1795)年、幕府は高橋・間に、江戸出府し改暦手伝の任にあたるよう命を下す。幕臣である高橋はその後、天文方に就任、町人の間も天文方同格で改暦に参画する。先任の天文方である吉田秀升・山路徳風とは時に喧々諤々の議論もあったようだが、「暦象考成後編」をもとにした改暦で議論がまとまる。中国・西洋の天文学を基にしたものでなく麻田剛立のオリジナル理論である麻田消長法の採用は、特に強い異論も受けたようであるが、高橋の説得により何とか暦法に加えることができた。
寛政八(1796)年八月、幕府は天文方に正式に改暦の命を下す。麻田学派からさらに一人、足立左内信頭(あだち
さない
のぶあきら)も高橋の補助として追加で天文方に任じられた。吉田・山路・高橋は朝廷との調整のため、京都に上る。宝暦改暦のときのようなすったもんだもなく、寛政九(1797)年十月、改暦宣下。名を「寛政暦」と賜る。
寛政十(1798)年暦より改暦され、題詞に
順天審象定作新暦
依例頒行四方遵用
(天ニ順ヒ象ヲ審ラメ、新暦ヲ定作ス。例ニ依リ頒行ス。四方遵用セヨ)
と記載された。駢儷体的な整った漢文で、改暦を成功させた高橋・間の誇らしさとかが感じられるようだ。また翌寛政十一(1799)年暦には、
寛政九年新暦成
十月
進奏
賜名寛政暦
(寛政九年、新暦成ル。十月進奏シ、名ヲ寛政暦ト賜フ)
と記載された。同年、麻田は改暦を見届け、66歳の生涯を閉じる。
ちなみに、改暦のため江戸出府してきて早々の高橋のもとに、入門し暦学・測量術を学びたいと下総の造り酒屋の隠居が来訪していた。後に地図(伊能図)の作成で有名になる伊能忠敬である。天文方就任前でもあり経済的に不如意であった貧乏役人、高橋至時の経済的サポートも行っていたようだ。
寛政暦は、寛政十(1798)年暦から天保十四(1843)年暦まで、46年間、施行された。
「暦法新書(寛政)」「寛政暦書」
寛政暦の暦法書である「暦法新書」(宝暦暦の暦法書「暦法新書」と同名)は下記のような構成である。観測結果との突合を記載する巻首上下のほかは、歩法(暦算法)を記載するのみで、暦算法の解説、暦理論等については記載されていない。
- 巻首上 総旨 京師測量
- 巻首下 武江測量
- 巻一 日躔歩法 恒星歩法 月離歩法 消長歩法
- 巻二 月食歩法
- 巻三 日食歩法
- 巻四 五星歩法 太陰凌犯歩法
- 巻五 割円八線表(自初度至二十一度 自六十八度至八十九度)
- 巻六 割円八線表(自二十二度至六十七度)
なお、暦法新書(寛政)の筆者表記では、
臣 吉田靫負 源秀升
臣 山路才助 平徳風 撰述
臣 高橋作左衛門 橘至時
正三位行陰陽頭安倍朝臣泰栄校正
となっている。暦法新書(宝暦)では、土御門泰邦が筆者の扱いになっていたが、暦法新書(寛政)では、吉田・山路・高橋が共同筆者扱で土御門泰栄は「校正」となり、貞享暦での関係に戻った。ただし、貞享暦で渋川春海は「天文生」、つまり、陰陽頭/天文博士である土御門氏のもとで天文を学ぶ学生という肩書であったが、単に「臣」、つまり「天皇に事える一臣下」という肩書になっており、こういった文書形式によって形式的に示していた「陰陽頭である土御門氏の配下で暦法の撰述を行っている」というフィクションが少しずつ弱められてきている。ちなみに天保暦では、これがさらに進み、暦法の撰述者は堂々と「天文方」という幕府の役名を肩書にして記載されている。
寛政暦の暦理解説書は、追って作成することが求められていたのだが遅れに遅れていた。後に天保暦の暦法の元ネタとなる「ラランデ暦書」の研究など優先すべき別課題が山ほどあり、激務がたたって高橋至時が文化元(1804)年に41歳の若さで亡くなってしまうのだ。麻田消長法の暦理を書こうと思っても参考になる理論はないので書けないといった問題もあった。最終的には、至時の次男で渋川家の跡取り養子となっていた渋川助左衛門景祐らによって全35巻の大部にまとめられることとなる。
- 巻一 暦理総論(天象 地体 暦元 黄赤道 経緯度)
- 巻二 日躔暦理一(日躔総論 子午線 北極高度 清蒙気差 地半径差 歳周及歳実)
- 巻三 日躔暦理二(用楕円面積為平行 楕円与平円之比例 楕円大小径之中率 楕円角度与面積相求 均数)
- 巻四 日躔暦理三(時差総 節気時刻 太陽出入及昼夜永短 晨昏実時)
- 巻五 月離暦理一(月離総論 平行度 本天面積随時不同 本天心距地及最高行随時不同 初均数)
- 巻六 月離暦理二(一平均 二平均 三平均)
- 巻七 月離暦理三(二均数 三均末均 正交実均及黄白大距 地半径差 晦朔弦望 隠見遅疾)
- 巻八 月食暦理一(交食総論(専論月食) 用日躔月離求実朔望 求太陰食限 用両経斜距求日月食甚時刻及両心実相距 求食甚太陰距二分弧与黄道交角 求食甚太陰距二分弧与赤道交角及太陰赤道経緯度 求日月距地(附太陰地半径差 太陽視半径 太陰視半径) 求影半径及影差 求初虧復円時刻(附食分) 求日月実径与地径之比例(附視半径))
-
- 巻九 月食暦理二(求初虧復円方位 求黄道赤経交角(即黄道交極圏角) 求初虧復円赤経高弧交角 求初虧復円黄道高弧交角 求初虧復円併径黄道交角(即緯差角) 求初虧復円併径交角(即定交角附方位))
- 巻十 月食暦理三(求帯食 求日出入時分 求帯食両心相距(附食分) 求帯食赤経高弧交角 求帯食黄道高弧交角 求帯食両心相距与黄道交角(即緯差角) 求帯食両心相距与高弧交角(即定交角附方位) 絵月食図)
- 巻十一 月食暦理四(求月食分密法(附方位変化之図))
- 巻十二 日食暦理一(太陽食限 白経高弧交角 高下差)
- 巻十三 日食暦理二(日食食甚真時及両心視相距(附方位))
- 巻十四 日食暦理三(日食初虧復円時刻(附方位) 定日食方位 日食帯食)
- 巻十五 恒星暦理(恒星総論 黄道歳差 恒星東行 七曜宿度 中星時刻(附 本邦測定赤道宿度 漢土測定赤道宿度 二十八宿星数及距星去極度 二十八宿星数赤道宿度及距極度 西士測定赤道宿度 本邦測定黄道宿度 漢土測定黄道宿度 西士測定黄道宿度)
- 巻十六 消長法原理一(消長法総論 歳周(附 本朝古暦算定歳周 漢土古暦算定歳周 西士測定歳周)
- 巻十七 消長法原理二(太陽距最卑(附 本朝古暦算定暦応 西士測定最高所在) 太陽倍両心差(附 本朝古暦算定最大盈縮差 西士測定倍両心差及最大均数) 黄赤大距(附 西士測定黄赤大距))
- 巻十八 消長法原理三(朔策(附 本朝古暦算定朔策 漢土古暦算定朔策 西士測定朔策 西士測定太陰距節気一周) 太陰距最高(附 本朝古暦算定転終 漢土古暦算定転終 西士測定朔策 西士測定太陰距最高一周) 太陰距正交(附 本朝古暦算定交終 漢土古暦算定交終 西士測定朔策 西士測定黄白交一周))
- 巻十九 儀象図一(測量台 簡天儀(同分図) 黄赤全儀(同分図) 圭表儀(同分図) 小表儀(同分図) 測午表儀(同分図) 子午線儀(同分図) 星鏡子午線儀(同分図) 垂揺球儀(同分図) 大輪垂揺球儀(同分図))
- 巻二十 儀象図二(蛮製地平経緯儀(同分図) 象限儀(同分図) 地平経緯儀(同分図) 蛮製観星鏡(同分図) 測食定方儀(同分図) 測食定分儀(同分図) 避眩鏡 蛮製寒暖儀(同分図) 蛮製験気儀(同分図))
- 巻二十一 儀象図三(璿璣玉衡 渾天儀 天地球儀 蛮製天地球儀 蛮製天体儀(同分図) 蛮製八分儀 蛮製平面懸儀 蛮製分度諸器 分度式)
- 巻二十二 儀象誌一(諸儀総論 測量台 簡天儀 黄赤全儀 圭表儀 小表儀 測午表儀)
- 巻二十三 儀象誌二(子午線儀 星鏡子午線儀 垂揺球儀 大輪垂揺球儀 蛮製地平経緯儀 象限儀 地平経緯儀)
- 巻二十四 儀象誌三(蛮製観星鏡 測食定方儀 測食定分儀 避眩鏡 蛮製寒暖儀 蛮製験気儀)
- 巻二十五 儀象誌四(璿璣玉衡 渾天儀 天地球儀 蛮製天地球儀 蛮製天体儀 蛮製八分儀 蛮製平面懸儀 蛮製分度諸器 諸儀製作法 築土法 分度式)
- 巻二十六 諸暦合考一(京師実測日躔校)
- 巻二十七 諸暦合考二(江戸実測日躔校上)
- 巻二十八 諸暦合考三(江戸実測日躔校中)
- 巻二十九 諸暦合考四(江戸実測日躔校下)
- 巻三十 諸暦合考五(江戸実測月離校)
- 巻三十一 諸暦合考六(各所実測躔離校(附 用実測日食初虧復円時刻推食甚用時法 用実測月食食甚前後食分及時刻推食甚時刻法)
- 巻三十二 諸暦合考七(古測交食校上)
- 巻三十三 諸暦合考八(古測交食校下)
- 巻三十四 諸暦合考九(新測交食校)
- 巻三十五 諸暦合考十(太陰恒星掩食凌犯校)
以下、寛政暦の暦算について説明する。
節気(平気)・土用等について
暦元・積年
暦法新書巻一 [推日躔用数]寛政九年丁巳天正冬至為元[推日躔法]
求積年「自寛政九年丁巳距所求之年共若干年減一年得積年」
寛政九年丁巳より求むるところの年を距つる共せて若干年、一年を減じ、積年を得。
\[ \begin{align}
\text{暦元年} &= 1797 \text{ (寛政九年)} \\
\text{暦元上元甲子} &= \text{1796-12-21T00:00:00} \\
\text{積年} &= \text{西暦年} - \text{暦元年} \\
\end{align} \]
寛政暦の暦元は、寛政九(1797)年。これが寛政暦の Year
#0。暦元天正冬至は、グレゴリオ暦で 1796-12-21 あたりのはず。後に「気応 =
0.107112
日」(気応は、暦元上元甲子0:00~暦元天正冬至の経過日時)とあるので、1796-12-21
あたりが暦元上元甲子日のはず。果たして、1796-12-21
は、甲子日なので、1796-12-21 が暦元上元甲子日である。これが寛政暦の Day #0。
なお、寛政暦の暦元上元甲子日は、貞享暦の暦元上元甲子日(1683-12-14)の 41280
日(688×60)後である。
積年は、暦元年を第ゼロ年として、何年目か。
「自寛政九年丁巳距所求之年共若干年(寛政九年丁巳より求むるところの年を距(へだ)つる共(あは)せて若干年)」の訓み下しが、これで合っているのかどうかはあまり自信がない。「一年を減じ」がよくわからない。計算としては「積年
= 年 -
暦元年(寛政九(1797)年)」で間違いないはず。「1797~該当年」の年数を両端入れで数えて
1
を引き、片端入れにするということなのか。或いは、暦元天正冬至は寛政八(1796)年にあるので、「1796~該当年」の年数を片端入れで数えて
1 を引くということなのか。
天正冬至
暦法新書巻一 [推日躔用数]歳周三百六十五日二四二三四七〇七一
紀法六十
気応初日一〇七一一二
[推日躔法]求中積分「以積年与歳実相乗得中積分」
積年を以って歳実と相乗じ、中積分を得。
求通積分「置中積分加気応得通積分。上考往古則置中積分減気応得通積分」
中積分を置き、気応を加へ通積分を得。上って往古を考ふるは則ち中積分を置き、気応を減じ、通積分を得。
求天正冬至「置通積分、其日満紀法去之、余為天正冬至日分。上考往古、則以所余転与紀法相減、余為天正冬至日分。自初日甲子起算、得天正冬至本日干支。不満日為分秒」
通積分を置き、その日、満紀法これを去き、余、天正冬至日分と為す。上って往古を考ふるは、則ち余るところを以って転じて紀法と相減じ、余、天正冬至日分と為す。初日甲子より起算し、天正冬至本日干支を得。日に満たざるを分秒と為す。\[ \begin{align}
\text{歳周} &= 365.242347071_\text{日} \\
\text{紀法} &= 60_\text{日} \\
\text{気応} &= 0.107112_\text{日} \\
\text{中積分} &= \text{積年} \times \text{歳周} \\
\text{通積分} &= \text{中積分} + \text{気応} \\
\text{天正冬至} &= \text{通積分} \\
\end{align} \]
「中積分」「通積分」は、貞享暦で「中積」「通積」と呼ばれていたもの。それぞれ「暦元天正冬至~当年天正冬至」「暦元上元甲子0:00~当年天正冬至」の経過日時。
おそらく「中積の分(分単位の時間)」「通積の分(分単位の時間)」の意味であって、積分
integral とは何の関係もない。
天正冬至について、例によって、mod
紀法(60日)して、日干支と時刻を得ようとしているが、当ブログの式では日時はすべて暦元上元甲子0:00
からの経過日時で表現するのが扱いやすいと思っているので、単に「天正冬至 =
通積分」としておく。
二十四節気・土用・七十二候
暦法新書巻一 [推日躔用数]気策一十五日二一八四三一一二八
土旺策一十二日一七四七四四九〇二
候策五日〇七二八一〇三七六
宿法二十八
宿応六日一〇七一一二
[推日躔法]
求恒気「置天正冬至日及分秒、以気策逓加二十三次、其日満紀法去之、余為逐月恒気日分。如前法命之、得恒気本日干支及分秒」
天正冬至日及び分秒を置き、気策を以って二十三次に逓加し、その日、満紀法これを去き、余、逐月の恒気日分と為す。前法の如くこれを命へ、恒気本日干支及び分秒を得。
求土用事「置四季之節気日及分秒、各加土旺策、満紀法去之、余為四季土用事日分。如前法命之、得四季土用事本日干支及分秒」
四季の節気日及び分秒を置き、各おの土旺策を加へ、満紀法これを去き、余、四季土用事日分と為す。前法の如くこれを命へ、四季土用事本日干支及び分秒を得。
求七十二候「置恒気日及分秒、命為某気之初候。加候策、得次候。再加候策、得末候」
恒気日及び分秒を置き、命へて某気の初候と為す。候策を加へ、次候を得。再び候策を加へ、末候を得。
求紀日「以天正冬至干支加一日得紀日」
天正冬至干支を以って一日に加へ紀日を得。
求値宿「置中積分、加宿応、為通積宿。其日満宿法去之、外加一日、為値宿日分。上考往古、則置中積分、減宿応、為通積宿。其日満宿法去之、余転与宿法相減、外加一日、為値宿日分。自初日角宿起算、得値宿」
中積分を置き、宿応を加へ、通積宿と為す。その日、満宿法これを去き、外に一日を加へ、値宿日分と為す。上って往古を考ふるは、則ち中積分を置き、宿応を減じ、通積宿と為す。その日満宿法これを去き、余、転じて宿法と相減じ、外に一日を加へ、値宿日分と為す。初日角宿より起算し、値宿を得」
\[ \begin{align}
\text{気策} &= 15.218431128_\text{日} & (= \text{歳周} / 24) \\
\text{土旺策} &= 12.174744902_\text{日} & (= \text{歳周} / 30) \\
\text{候策} &= 5.072810376_\text{日} & (= \text{歳周} / 72) \\
\text{宿法} &= 28_\text{日} \\
\text{宿応} &= 6.107112_\text{日} \\
\text{平気二十四節気} &= \text{天正冬至} + n \times \text{気策} \\
\text{土用} &= \left\{ \begin{matrix} \text{清明三月節} \\ \text{小暑六月節} \\ \text{ 寒露九月節} \\ \text{ 小寒十二月節} \end{matrix} \right\} + \text{土旺策} \\
\text{七十二候} \left\{ \begin{matrix} \text{初候} \\ \text{次候} \\ \text{末候} \end{matrix} \right\} &= \text{平気二十四節気} + \left\{ \begin{matrix} 0 \\ 1 \\ 2 \end{matrix} \right\} \times \text{候策} \\
\text{紀日} &= [\text{天正冬至}] + 1 \\
\text{値宿} &= ([\text{中積分} + \text{宿応}] + 1) \mod \text{宿法} \\
\end{align} \]
平気二十四節気・土用の求め方は、貞享暦と変わらず、特に説明は不要だろう。
貞享暦において、七十二候初候・次候・末候は、単純に二十四節気日の 0, 5, 10
日後であり、選日の「はんげしゃう(半夏生五月中末候)」の日付を見る限り、宝暦暦期間中の少なくとも安永六(1777)年まではそのルールだったと思われるが、遅くとも寛政二(1790)年以降は、候策(歳周÷72)を累加するようになったようである。
日の二十八宿の計算式が記載されている。「宿応」は暦元天正冬至直前の角宿日
00:00:00 から暦元天正冬至までの経過日時を示す値。「中積分 +
宿応」は、暦元天正冬至直前角宿日 00:00:00
から当年天正冬至までの経過日時となるので、これを mod 宿法
することにより、当年天正冬至日の二十八宿がわかる。
「外に一を加へ」というのが何の意味なのか少々悩んだが、寛政暦においては、当年天正冬至翌日がその年における
Day #0
となる(上記の「紀日」(※))。年間の日は、天正冬至翌日を第ゼロ日とする日数で示される。ここで計算している「値宿」は、天正冬至翌日の二十八宿なのだと考えられる。
ここで計算した値(0~27)が「角亢氐房心尾箕斗牛女虚危室壁奎婁胃昴畢觜参井鬼柳星張翼軫」宿にそれぞれ相当する(0→角宿)。
- (※)「紀日」という言葉は、言葉の意味としては、Day #0(天正冬至翌日)自体を意味しているのではなく、Day #0(天正冬至翌日)の日干支を意味しているのだろう。それをわかったうえで、このブログの式では、「紀日」は天正冬至翌日を意味するものとする。
時刻表示(辰刻)
暦法新書巻一 [推日躔用数]辰法一萬
半辰法五千
刻法一千二百[推日躔法]
求辰刻「置所求子正後分数、与十二相乗、以辰法除之、加一為辰数。余数以刻法除之(如余数在半辰法以上、則以半辰法除之)為刻数。自初辰子正起算、得辰刻(如以半辰法除之為一辰、則自初辰子初起算)。求むるところの子正後分数を置き、十二と相乗じ、辰法を以ってこれを除し、一を加へ辰数と為す。余数、刻法を以ってこれを除し(如し余数半辰法以上に在れば、則ち半辰法を以ってこれを除く)刻数と為す。初辰子正より起算し、辰刻を得(如し半辰法を以ってこれを除くは一辰と為し、則ち初辰子初より起算す)。
辰刻の計算方法が記載されているが、例によって二十四時制の辰刻表示である。頒暦(仮名暦)に記載されている十二時制の辰刻表示の計算方法は記載されていない。計算方法は、貞享暦のところで記載したので、そちらを参照されたい。
さて、寛政暦は平気の暦なので、ここまで来れば頒暦の二十四節気・土用・半夏生などと突合できそうであるが、そうは行かない。それをする前に、麻田消長法について説明しないと行けない。それは長くなりそうなので別途。
寛政暦で用いられる数学
太陽実行(太陽の真黄経)の話をする前に、寛政暦で用いられる数学について、ピックアップして説明しておく。
角度系
貞享暦・宝暦暦では、一日に太陽が恒星天を進む平均角度量を 1度(このブログでは
1日度と呼んでいる)とする角度系であったが、寛政暦・天保暦では、おなじみの一周360度の角度系である。
ただし、六十進法の度分秒ではなく、百進法の度分秒。とは言え、六十進法の度分秒を全く使わないわけでもない。下記で述べる「八線表(三角関数表)」は六十進法の度分で記載されている。三角関数表は西洋から伝わったのをそのまま使ってるんだろうから、百進法の度分に変換しようと思えば全部算出し直す必要があり、そういうわけにもいかないので。
また、「宮」という角度単位もよく出てくるので覚えておいて欲しい。30°
を意味する。0°~30° を「初宮」、30°~60°
を「一宮」、60°~90°を「二宮」……、330°~360° を「十一宮」と呼ぶこともある。
正弦 (sin)
値の正負を示すときに「初宮~五宮は加、六宮~十一宮は減」などという。つまり、第1,
2象限(0°~180°)は正で、第3, 4象限
(180°~360°)は負だということだ。また、余弦 (cos)
値の正負を示すときに、「初一二九十十一宮は加、三四五六七八宮は減」などという。つまり、第4,
1象限(270°~360°、 0°~90°)は正、第2,
3象限(90°~270°)は負だと言っているのである。
三角関数(八線)
三角関数は「八線」と呼ばれている。「八線」とは、正弦 (sin)、余弦 (cos)、正切線
(tan)、余切線 (cot)、正割線 (sec)、余割線 (csc)、正矢 (versin)、余矢
(coversin) である。
tan (tangent), cot (cotangent)
は、現代では漢語に訳するならば「正接」「余接」と言うが、寛政暦・天保暦の暦法では「正切線」「余切線」と呼ばれている。"tangent"
は「接触するもの」「接線」を意味する言葉("tangible"
(触れることができる、有形の、明白な)とか、"Noli me tangere"(ノリメタンゲレ。我に触れるな)とかと同根の語)であり、下図でも AF, AG
などの円の接線 FG 上の線分の長さを指す値であるので、「切線」"切る線"
というのはおかしい気がするが、接線のことを「切線」とも書くらしい。「切る」の意味ではなく「切迫」「切実」とかの「せまる」「近づく」の意味の「切」。
sec (secant), csc (cosecant)
も現代で漢語に訳するならば「正割」「余割」と呼ぶが、寛政暦・天保暦では「正割線」「余割線」と呼ばれている。"secant"
は「切るもの」「分割するもの」の意味("section"
等と同根の語)。下図で、円の割線 HF 上の線分 OF の長さを示す値である。
- 「正接」「余接」「正割」「余割」ということば自体、あまり使わないかも知れないが。
寛政暦の暦法書「暦法新書(寛政)」、天保暦の暦法解説「新法暦書続編」には、「割円八線表」として三角関数表が付されている。「八線表」とは言っても、正矢・余矢は、1
から余弦・正弦を引くことによって簡単に求めることが出来るので表上には記載されておらず、実際は「六」線表である。
八線表は、現代数学の三角関数の 10,000,000倍の値で記載されている。例えば、sin
30° = 0.5 だが、八線表において 30度の正弦は、5,000,000
として記載されている。現代数学の三角関数は、半径 = 1
の円における値(または、該当の線分の長さと半径との比)として記載されているのに対し、半径
=
一千万の円における値として記載されているのである。寛政暦・天保暦の暦算式を見て「正弦」「余弦」などと書いてある場合は、sin,
cos の一千万倍の値だということを意識して読む必要があるので留意されたい。
- ただし、多くの場合、「正弦/半径」「余弦/半径」(半径 = 10,000,000)という形で出てくるから、「正弦/半径」「余弦/半径」が、sin, cos に相当するものとして読めばよく、さほど厄介な話ではない。
暦法新書(寛政)巻五 割円八線表上 右上から見た場合、0°~0°30′ の sin, tan, sec, cos, cot, csc 左下から見た場合、 89°30′~90° の sec, tan, sin, csc, cot cos になっている。 |
八線が、それぞれ何を意味する値なのか示しておく。上図、半径 r = OA = 1
の円において、∠BOA = θ の角度に対する八線がそれぞれ何を意味する値となるのか。
名称 | 英名 |
上図での長さ |
ー |
---|---|---|---|
正弦 | sin (sine) |
AD |
\( \sin \theta \) |
余弦 | cos (cosine) |
OD = AE |
\( \cos \theta = \sin(90° - \theta) \) |
正切線 (正接) |
tan (tangent) |
AF |
\( \tan \theta = \sin \theta / \cos \theta \) ∵ ⊿FOA と ⊿AOD は相似なので、 \[ \begin{align} \mathrm{AF} : \mathrm{OA} &= \mathrm{AD} : \mathrm{OD} \\ \mathrm{AF} : 1 &= \sin \theta : \cos \theta \\ \mathrm{AF} &= \sin \theta / \cos \theta \\ \end{align} \] |
余切線 (余接) |
cot (cotangent) |
AG |
\( \cot \theta = \tan(90° - \theta) = \cos \theta / \sin \theta \) |
正割線 (正割) |
sec (secant) |
OF |
\( \sec \theta = 1 / \cos \theta \) ∵ ⊿FOA と ⊿AOD は相似なので、 \[ \begin{align} \mathrm{OF} : \mathrm{OA} &= \mathrm{OA} : \mathrm{OD} \\ \mathrm{OF} : 1 &= 1 : \cos \theta \\ \mathrm{OF} &= 1 / \cos \theta \\ \end{align} \] |
余割線 (余割) |
csc (cosecant) |
OG |
\( \csc \theta = \sec(90° - \theta) = 1 / \sin \theta \) |
正矢 |
versin (versine) |
BD |
\( \mathrm{versin}\, \theta = 1 - \cos \theta \) |
余矢 |
coversin (coversine) |
CE |
\( \mathrm{coversin}\, \theta = \mathrm{versin}(90° - \theta) = 1 -
\sin \theta \) |
上表には示していないが、「大矢」を用いることもある。上図における DH の長さ、\(
1 + \cos \theta \) である。
相当比例
寛政暦・天保暦の暦法で頻出する定型文として「以A為一率、B為二率、C為三率、求得四率為X(Aをもって一率と為し、B二率と為し、C三率と為し、求め得る四率、Xと為す)」というのがある。暦法新書(寛政)で最初に出てくるところで「ニ率与三率相乗、以一率除之、即得四率(ニ率と三率相乗じ、一率を以ってこれを除し、即ち四率を得)」と書いてあるので、とりあえずそのように計算すればいいのだが、最初見ると「……なんの話?」という感じでちょっと面食らう。大変よく出てくるので、ここで解説しておく。
これは「相当比例」というものであり、天保暦の暦理を解説した書「新法暦書続編」の巻一数理総論上「比例」に記述がある。「一率比二率、如三率比四率(一率の二率に比するは、三率の四率に比するが如し)」、すなわち、「\(\text{一率} : \text{二率} = \text{三率} :
\text{四率}\)」という比例計算をせよということである。「以A為一率、B為二率、C為三率、求得四率為X」と書いてあれば、\(A
: B = C : X\) となるような X を求めよ。すなわち、
\[ X = {C B \over A} \]
という計算をせよということである。こんな書き方しないで普通に掛け算・割り算の式で書けばいいじゃないかと思わなくもない一方で、この書き方のほうが式の持つ意味合いがわかりやすい気もする。
小学校の算数でよくあるような道のり計算
\(\text{1時間} : \text{時速(1時間のうちに進む距離)} = \text{かける時間} : \text{進む距離}\)
のような比例計算として考えるとわかりやすかったりしますよね。
小学校の算数でよくあるような道のり計算
- 時速と、進んだ時間がわかっているとき、進んだ距離を求めるには?
- ある距離を、ある時速で進むとき、かかる時間は?
- ある距離を、ある時間のうちに進みたいとき、時速何キロで進めばいい?
\(\text{1時間} : \text{時速(1時間のうちに進む距離)} = \text{かける時間} : \text{進む距離}\)
のような比例計算として考えるとわかりやすかったりしますよね。
- 天保暦の解説書である「新法暦書続編」は、暦理に入る前に、「数理総論」として、三角関数・球面三角法など、暦理の理解に必要な数学の説明から入っていて親切な感じ。寛政暦の暦理解説書「寛政暦書」は、楕円について多少数学的解説があるものの、そこまで数学の説明はしてくれていない。
太陽真黄経の算出
太陽真黄経を算出するにあたり、太陽の平均近点角(太陽の平均黄経の、太陽の平均近点黄経からの離角)から中心差を求め、これで太陽の平均黄経を加減して真黄経を求めることになる。よって、まずは、太陽の平均黄経、近点黄経を求める。
太陽の平均黄経、近点黄経、平均近点角
太陽毎日平行九十八分五十六秒四十六微九十三繊五十二忽
黄道歳差一分四十一秒六十六微六十六繊六十七忽
最卑毎歳平行一分八十〇秒〇二微七十五繊八十一忽
最卑毎日平行四十九微二十八繊九十九忽
最卑応九度四十四分一十〇秒八十一微
求年根「以日周為一率、太陽毎日平行為ニ率、以天正冬至分(不用日)与日周相減余為三率、求得四率(ニ率与三率相乗、以一率除之、即得四率。後倣之)為年根」
日周を以って一率と為し、太陽毎日平行、ニ率と為し、天正冬至分(日を用ゐず)を以って日周と相減じ、余り三率と為し、求めて得る四率(ニ率と三率相乗じ、一率を以ってこれを除し、即ち四率を得。後、これに倣へ)年根と為す。
求日数「自天正冬至次日距所求本日共若干日、減一日、得日数」
天正冬至次日より求むるところの本日を距つる共せて若干日、一日を減じ、日数を得。
求平行「以所設日数与太陽毎日平行相乗、得数以宮法収之、与年根相加、得平行」
設くるところの日数を以って太陽毎日平行と相乗じ、得る数、宮法を以ってこれを収め、年根と相加へ、平行を得。
求最卑平行「以積年与最卑毎歳平行相乗、得積年之行。又、以所設日数与最卑毎日平行相乗、得日数之行。両数相併、与最卑応相加、得最卑平行。上考往古、則、置最卑応、減積年之行(不足減者、加十二宮減之)、加日数之行、得最卑平行」
積年を以って最卑毎歳平行と相乗じ、積年の行を得。また、設くるところの日数を以って最卑毎日平行と相乗じ、日数の行を得。両数相併せ、最卑応と相加へ、最卑平行を得。上って往古を考ふるは、則ち、最卑応を置き、積年の行を減じ(減に足らざれば、十二宮を加へこれを減ぜよ)、日数の行を加へ、最卑平行を得。
求引数「置平行、減最卑平行、得引数」
平行を置き、最卑平行を減じ、引数を得。
\[ \begin{align}
\text{太陽毎日平行} &= 0°.9856469352 &(= 360° / \text{歳周}) \\
\text{黄道歳差} &= 0°.0141666667 \\
\text{最卑応} &= 9°.441081 \\
\text{最卑毎歳平行} &= 0°.0180027581 \\
\text{最卑毎日平行} &= 0°.0000492899 &(= \text{最卑毎歳平行} / \text{歳周}) \\
\text{年根} &= (1_\text{日} - \text{小数部}(\text{天正冬至})) × \text{太陽毎日平行} \\
\text{日数} &= \text{本日} - \text{天正冬至次日} \\
\text{平行} &= \text{日数} \times \text{太陽毎日平行} + \text{年根} \\
\text{最卑平行} &= \text{積年} \times \text{最卑毎歳平行} + \text{日数} \times \text{最卑毎日平行} + \text{最卑応} \\
\text{引数} &= \text{平行} - \text{最卑平行} \\
\end{align} \]
「積年」は暦元年を Year #0
として、当年が第何年かを示す数字であり、「日数」は当年天正冬至次日を Day #0
として、当日が第何日かを示す数字である。「日数」の計算にあたって、「天正冬至次日より求むるところの本日を距つる共せて若干日、一日を減じ」の「一日を減じ」の意味もよくわからないが、天正冬至次日~当日までの日数を両端入れで数えて、1日を引いて片端入れの日数にするということだろうか。
現代の天文学において黄経は春分点を起点 0°
とする例となっているが、中国・日本では冬至点を起点 0°
とする例である。「年根」は、天正冬至次日 0:00
時点の太陽平均黄経である。天正冬至は平気冬至であるから、その時点の太陽平均黄経は
0°
である。「天正冬至分(日を用ゐず)」とは、天正冬至日時のうち、時刻部分を意味し、それを日周一万分から引くと、天正冬至~天正冬至次日
0:00 までの経過時間となる。これに
太陽平均黄経の1日あたりの角速度である「太陽毎日平行」をかけると、天正冬至次日
0:00 時点の太陽の平均黄経が求まるわけである。
「日周を以って一率と為し、太陽毎日平行、ニ率と為し、天正冬至分(日を用ゐず)を以って日周と相減じ、余り三率と為し、求めて得る四率年根と為す」は、上記で記載した「相当比例」である。
1日 : 太陽毎日平行 = 1日 - 天正冬至分 : 年根
という比例計算、すなわち、「1日で ”太陽毎日平行” だけ進む」のと「(1日 -
天正冬至分) で X° だけ進む」との間の比例計算を行っているわけで、
年根 = (1日 - 天正冬至分) × 太陽毎日平行 ÷ 1日
という計算をすればよい。
「年根」は、天正冬至次日 0:00 における太陽の平均黄経であり、「日数」×
「太陽毎日平行」を加算すれば、当日における「平行」、即ち太陽の平均黄経が求まる。
「平行」は parallel の意味ではなく、「平均の運行」の意味である。
「最卑平行」とは、太陽の平均近点黄経を意味する。「最卑」つまり「もっともひくい(「いやしい」という意味ではない)」とは近点のことであり、「最高」とは遠点のことである。ちょっと奇妙な物言いのようにも思われるが、よくよく考えれば、「ものを上に上げる」「ものを下に降ろす」というのがどういう動作なのかといえば、ものを地球の重心から遠ざける、地球の重心に近づける動作なのであり、地球から近い・遠いというのを「卑(ひく)い」「高い」と言ってもおかしいことはなにもない。
「最卑応」は、暦元年の天正冬至次日 0:00 時点の太陽平均近点黄経。これに「積年 ×
最卑毎歳平行」を加算すれば、当年の天正冬至次日 0:00
時点の太陽平均近点黄経となり、「日数 ×
最卑毎日平行」を加算すれば、当日の太陽平均近点黄経となる。
なお、最卑毎歳平行(平均近点黄経の年あたり角速度) = 0°.0180027581
であるが、このうちのほとんどは、歳差により冬至点が毎年 -0°.0141666667
移動することによるものである。恒星天に対する実際の近点の移動量は、0°.0038360914、つまり、9万4,000年ほどで一周するような微小なスピードである。
「引数」は、太陽の平均黄経の、太陽の平均近点黄経からの離角、平均近点角 mean
anomaly である。なぜ「引数」と呼ぶのかは今ひとつよくわからないが、今でいう引き数、関数の引き数
argument
の意味だと考えてもいいような気がする。要するに中心差を算出する関数に与える引き数なのだから
(※)。実際「○○引数」などとして中心差以外の項の算出のための引き数を呼ぶ場合にも使われる言葉である。とはいえ単に「引数」というときは平均近点角(場合によっては平均遠点角)を意味するようだ。
- (※) 関数の入力として与える値(独立変数)を argument と呼ぶのは、そもそもは天文学の用語だったらしい。
[参考文献]
吉田 秀升, 山路 徳風, 高橋 至時, (校正)土御門 泰栄「暦法新書」
国立公文書館デジタルアーカイブ蔵
渋川 景佑「寛政暦書」
国立公文書館デジタルアーカイブ蔵
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