2020年6月21日日曜日

宝暦暦の暦法

前回までで、貞享暦の説明は終わり。今回は宝暦暦。とはいっても、正直、宝暦暦は貞享暦の焼き直しで、諸定数が差し替えられているほかは、大して違いはない。駆け足の説明となる。

宝暦暦の概要

享保の改革を進めていた八代将軍徳川吉宗は、西洋書禁令を緩和し、西洋の科学技術の活用を振興していた。数学者建部賢弘(たけべ かたひろ。関孝和の弟子)に命じて、全国地図(元禄日本図)の改訂を行い、享保日本図を完成させている。
暦についても、西洋天文学からの知識を活用した改暦を行いたいと考えていたようで、享保十一(1726)年、暦学者中根元圭(なかね  げんけい)を召して、清朝の暦学者梅文鼎の著作全集「暦算全書」の訳を命じている。また、江戸城内に天体観測設備を整え、自ら観測を行い始めた。元圭にも太陽の観測を行わせ貞享暦のずれを調査させたが、「大きなずれはない」との結果であった。

しかしやはり改暦を諦められなかったようで、その後改暦作業を本格化させるが、その頃には、建部賢弘・中根元圭らは他界しており、天文方の渋川六蔵則休(しぶかわ  ろくぞう のりよし。春海の甥の子)も年若く改暦の任には堪えなかった。そこで、長崎の暦学者西川如見の子の西川正休(にしかわ  まさよし)を招へいする。正休自身も「天経或問」に訓点をつけ出版するなど、暦学者として活動していた。
延享三(1746)年、渋川・西川両名は改暦準備を進めるよう下命される。寛延ニ(1749)年、改暦準備が完成したところで正式に改暦の命が下る。

寛延三(1750)年、改暦にむけて朝廷方の折衝を行うため、渋川・西川が京都に派遣されるが、このさなか、渋川則休は 34歳の若さで急逝。以降、西川が中心になって折衝にあたる。
折衝の相手となるのが、陰陽頭土御門泰邦(つちみかど  やすくに)であった。貞享改暦以降、幕府天文方が編暦の中心となる体制となったが、泰邦はこれを朝廷中心の体制となるよう巻き返しをもくろみ、これにより改暦折衝は難航する。泰邦と西川は次第に対立するようになるが、西川の暦学知識が実際は大したものではなかったこともあって、泰邦が攻勢を深めるようになり、ついには改暦作業から西川を外させることに成功する。寛延四(1751)年、吉宗が死去しており、後ろ盾を失っていたことも大きかった。

以降は泰邦が中心となって改暦作業を進めることになる。以前も記載したとおり、泰邦の指示により「ずれている暦をそのままにしておくわけにはいかない」ということで、改暦直前の宝暦三(1753)~四(1754)年暦においては、二十四節気の時刻調整が行われている。そして、宝暦四(1754)年新暦の暦法書「暦法新書」が完成。暦名を「宝暦甲戌元暦(宝暦暦)」とし宝暦五(1755)年暦から施行。以降は、幕府天文方は引き続き暦原稿の作成は行うものの、各地の暦師・暦版元などの差配は幕府ではなく土御門家によって行われる体制となった。

改暦にあたって、宝暦五(1755)年暦の題詞に、
貞享以降距数十年用暦其推歩与天差矣。今立表測景定気朔而治新暦以頒之於天下
(貞享以降数十年ヲ距チ暦ヲ用ヰ其推歩ト天ト差アリ。今、立表測景シ気朔ヲ定メテ新暦ヲ治メ、以ッテ、之ヲ天下ニ頒ツ)
一、歴面に、いむ日は多しといへども、吉日は、天しゃ・大みゃうの二ツのみにて、世俗の日取足がたかるべし。仍て今、天恩・母倉・月徳三ツの吉日を記して、知しむるものなり。
一、彼岸の中日は、昼夜等分にして天地の気均しき時なり。前暦の記する所、是に違へり。故に今よりその誤を糾し是を附出す。仍て、前暦の彼岸と、春は七日進み、秋は三日すゝむもの也。
一、昼夜を分つこと、世俗の時取、惑多し。仍て、一たび翌の字を附出すといへども、なを其まどい解がたし。故に、夜半より前を今夜と記し、夜半より後を今暁と記すもの也。
土御門従三位陰陽頭安倍泰邦
門人渋川図書天文生源光洪
と記載。改暦弁とともに、①暦注に三吉日(天恩・母倉・月徳)を追加、②彼岸の日取り変更、③時刻表示方法変更、といった改定点を示している。なお、渋川図書光洪(しぶかわ ずしょ みつひろ)は急逝した則休の後を継いだ、則休の弟である。
また、暦名「宝暦甲戌元暦」を下賜され、宝暦六(1756)年暦の題詞に、
宝暦四年止旧暦用新暦十月十九日
詔賜名曰宝暦甲戌元暦
(宝暦四年、旧暦ヲ止メ新暦ヲ用ウ。十月十九日、詔シテ名ヲ賜ヒ、宝暦甲戌元暦ト曰フ)
去年、新暦面に記し出す所の三ヶ条、自今、永く用てことなる事なし。重て断り示に及ばず。
土御門三位泰邦
門人渋川図書光洪
と記載された。

しかし、たいした暦学知識のない人間同士がすったもんだ揉めながら出来上がった暦、宝暦暦は、吉宗の理想とは程遠く貞享暦の改悪ともいうべきマイナーチェンジであり、やはりあまり優れた暦とは言えない代物であった。
寛政暦暦理の解説書である「寛政暦書」の序文に、天保暦の起草者である渋川景佑が記載したところによると、
有徳大君夙察漢法之未精、延享之末、下内旨於先臣則休西川正休、拠崇禎暦書及時憲書令議改憲、無幾遭有不諱而遂不果。
有徳大君[吉宗]、夙に漢法の未だ精しからざるを察し、延享の末、内旨を先臣則休・西川正休に下し、崇禎暦書及び時憲書に拠り改憲を議せしむ。幾ばく無く不諱有るに遭ひて遂に果さず。
とのことであり、もともとは清の時憲暦(第一期)に準拠した暦法の刷新を目指していたようだが、ただの貞享暦の劣化版に終わってしまったのである。

宝暦十三(1763)年九月に日食が発生したが暦面上は未記載という大失態を起こす。実際には七分ほどの日食だったが、宝暦暦法で計算すると 2.6分ほどの食。宝暦暦法の食予測の精度が高くなかったことに加え「三分未満は未記載」という内規があったため未記載となり、問題が大きくなってしまった。食分が多少違っているぐらいならともかく、 食は凶兆と考えられていたため縁起を担ぐ行事などは避けたりするのだが、未記載だとそれが出来ないので大問題なのである。

宝暦暦の問題が表面化したため、幕府は宝暦暦の修正作業を開始する。宝暦改暦の際、天文方手伝として参画していた佐々木文次郎長秀(ささき  ぶんじろう ながひで、後に吉田四郎三郎秀長(よしだ しろうさぶろう  ひでなが)と改名)に修暦の任に当たらせ、修暦完成までの間は三分以下の食であってもすべて記載する (※) ということで間をつなぐ。

(※) 明和四(1767)年暦題詞
今まで頒行ふ所の暦、日月食三分以下はしるし来らず。此たび、
命ありて、浅食といへどもことごとく記さしむ。しかれども新暦しらべいまだおはらず。よりて今までの数にならふのみ。
(※) 明和五(1768)年暦題詞
宝暦の新暦、日月食三分以下はしるし来たらざるを、
命ありて浅食といへどもことごとくしるせり。しかれども新暦しらべいまだおはらず。しらべおはらば、更にのべ告て頒ち行わん。

修暦が完成し「暦法新書続録」としてまとめられる。明和八(1771)年暦以降は改定後の暦法、修正宝暦暦により作暦されることになる。しかし、これも貞享暦のマイナーチェンジであることには変わりがなく、吉宗が目指した西洋天文学知識を導入した暦法は寛政暦を待つこととなる。
修暦成った明和八(1771)年暦題詞には、
宝暦の新暦しらべなり、
命をうけたまはり、ことしより後は、しらべたる法数を用て頒ち行ふものなり。
と記載された。

なお、貞享暦の暦法書である「貞享暦」では、著作者表記において、
天文生保井算哲源春海編著
陰陽頭安倍朝臣泰福校正
と、渋川春海は、陰陽頭/天文博士たる土御門家のもとで天文を学ぶ学生「天文生」の肩書ではあるものの主たる著作者として扱われ、土御門泰福は校閲者の扱いであったが、宝暦暦の暦法書である「暦法新書」においては、土御門泰邦が単独著者の扱いとなっている。「暦法新書続録」は泰邦が序文をつけているが本文に著作者表示がない。

宝暦暦は、宝暦五(1755)年暦から明和七(1770)年暦まで、16年間使用された。
修正宝暦暦は、明和八(1771)年暦から寛政九(1797)年暦まで、27年間使用された。

「暦法新書」「暦法新書続録」

宝暦暦の暦法書は「暦法新書」、修正宝暦暦はその補遺として「暦法新書続録」と銘打たれている。
寛政暦の暦法書も「暦法新書」でありややこしい。名前変えりゃいいのにさ。区別したいときは適宜「暦法新書(宝暦)」「暦法新書(寛政)」などと記載することにする。
そして、天保暦の暦法書は「新法暦書」である。これまた紛らわしい。そして、さらに、これにも同名の書がある。イエズス会士アダム・シャール(湯若望)が、明朝の崇禎帝の命に応じて著わした新暦案「崇禎暦書」は明の滅亡により採用されることはなかったのだが、清朝の求めに応じてその焼き直し版「新法暦書」を提出し、これが時憲暦(第一期)の暦法書となっている。この書は、日本では「西洋新法暦書」と呼ばれることが多い。

暦法新書の目次は下記のとおり。
  • 巻之一 儀象之上
  • 巻之二 儀象之下
  • 巻之三 表景
  • 巻之四 北極測量
  • 巻之五 月星測量
  • 巻之六 起源 暦元 日法 閏法 歳実 消長 歳差 列宿 日躔 赤道宿度 黄道宿度
  • 巻之七 盈縮 遅疾 太陰行道 昼夜 時候 交食
  • 巻之八 十二宮 北極 里差 五星 四余 宿曜
  • 巻之九 古今交蝕考
  • 巻之十 古今五緯考
  • 巻之十一 乾坤表
  • 巻之十二 黄赤道率 赤道内外度 盈縮初末限 半昼夜分 遅速転定度 遅速初末限
  • 巻之十三 五星立成
  • 巻之十四 四余立成 紀法 附諸暦合考
  • 巻之十五 和漢古今暦譜上
  • 巻之十六 和漢古今暦譜下
ここでは、推算が記載されている巻六・巻七あたりを中心に見る。

また、暦法新書続録は目次が付されていないが、中身を見ると下記のような感じ。
  • 続録上
    • 日躔 赤道宿度 黄道宿度 盈縮 遅疾 太陰行道 時候 交食 十二宮 歩中星 五星 四余 宿曜 黄赤道率 赤道内外度 半昼夜分
  • 続録下
    • 本朝新旧冬至合考 古今交食考 古今五緯考
続録上が、推算と立成(数表)の、暦法新書本編からの差し替えであり、続録下は、節気・食・五惑星などの天測・古今暦との突合。

日躔・月離

宝暦暦・修正宝暦暦の暦法は、基本的に貞享暦と全く変わらない。諸定数が適宜改定されているだけである。下に日躔・月離関連の諸定数を示す。対比のため、「貞享暦そのままに、暦元年だけを宝暦暦の暦元である宝暦四(1754)年に焼き直すと諸定数がどうなるか」を、「貞享暦@宝暦四(1754)」として示している。

宝暦暦・修正宝暦暦の暦元は、宝暦四(1754)年。暦元天正冬至は、グレゴリオ暦の 1753-12-21 頃と考えられ、気応が 14日程度なので、暦元天正冬至の14日前、1753-12-07 あたりの甲子日を探すと、はたして 1753-12-07 が甲子日なので、1753-12-07 が暦元上元甲子日となる。
なお、宝暦暦・修正宝暦暦の暦元上元甲子日 1753-12-07 は、貞享暦の暦元上元甲子日 1683-12-14 の 25560 日(426×60日)後である。

種目 項目
貞享暦 貞享暦
@宝暦四(1754)
宝暦暦
修正宝暦暦
平気 暦元年
貞享二(1684)年 宝暦四(1754)年
暦元上元甲子
1683-12-14 1753-12-07
歳周 365.241696日
365.241556日 365.241626日
気策 15.218404日
15.21839817日 15.21840125日
土王策 12.1747232日
12.17471854日 12.174721日
気応 7.69日 14.60382日 14.5360日
14.6810日
周天
365.256696日度
365.256556日度 365.256626日度
盈縮 暦応
6.445日度 7.4999日度
6.455日度 7.42日度
盈初縮末限 89.253920日
89.253886日 89.253885日
89.2539025日
縮初盈末限 93.366928日
93.366892日
93.366893日
93.3669105日
平朔 月朔 29.530590日
閏応 2.7790日 25.73247日 25.6540日 25.8200日
月周天
27.32171669日 27.32170622日 27.32171669日 27.32167375日
月平行度
13.36875日
遅速 転終
27.5546日
転応
22.72日 18.96502日
18.88日 19.3070日
遅初速末限 7.265342日
遅初速末限 6.511958日

日躔関連

歳周・気策・土王策・周天

宝暦暦の暦元(宝暦四(1754)年)は、貞享暦の暦元(貞享二(1684)年)の70年後なので、1年あたり 2 秒、70年で140秒 を消長し、365.241556日としている。
修正宝暦暦では、1年あたり 1秒、つまり、70秒のみ消長して、365.241626日としている。「改元するは、則ち、再して周歳の消長」、改元するときは倍(1秒/年でなく、2秒/年)消長せよ、というのに従っていない。消長法に従うとあまりにも1年の長さが短くなりすぎることを嫌い、「授時暦の消長には従うが、貞享暦で加えられた注記(改元するは、則ち、再して周歳の消長)には従わない」というかたちで、極力 1年の長さを長くするようにしたのであろうか。365.241626日だとしても短すぎることには変わりがなく、焼石に水だが。
気策、土王策、周天は、それぞれ、歳周/24, 歳周/30, 歳周 + 0.015日。

気応(平均太陽年周期)

宝暦暦の 14.5360日は、貞享暦と比べ、6.782刻、節気日時を早く置いていることになる。以前にも記載したとおり、これは貞享暦に対する改悪にしかなっていない。修正宝暦暦の 14.6810日は、貞享暦と比べ、7.718刻、節気日時を遅らせている。これにより、修正宝暦暦の平気は、天とのずれがかなり改善している。

暦応(近点年周期)

「暦応」は、暦元年における、冬至点と近点との離角であるが、暦元天正冬至~暦元年の近点通過までの経過日時と考えた方がわかりやすい。近点年周期を合わせるための定数である。

貞享暦の暦法によれば、宝暦四(1754)年での近点通過は、天正冬至の 7.4999日後であり、これが宝暦暦の暦応となるはず。しかし、気応の値を改定したことにより暦元天正冬至の日時がずれているので、これを加味すると、宝暦暦では 7.56772日、修正宝暦暦では 7.42272日になるはず。修正宝暦暦の 7.42日は貞享暦をそのまま延長した感じ。宝暦暦の 6.455日は何なんだろうか。

宝暦暦の暦応改訂が妥当だったか確認するため、各暦法にもとづき太陽の近点通過日時を算出して、現代天文学 (Simon et al. (1994)) によりその時刻の太陽平均黄経・太陽近点平均黄経の離角を求める。ゼロに近いほど暦法の精度が高い。プラスであれば近点通過日時の見積もりが遅すぎ、マイナスであれば早すぎる(1°違えば、ざっくり1日)。
貞享暦は 1° 以上のずれがあり、よいとは言えない。宝暦暦は改悪で、修正宝暦暦は貞享暦の延長。寛政暦・天保暦では飛躍的に精度が高まっている。天保暦よりむしろ寛政暦の方がいい感じ?

盈初縮末限・縮初盈末限

値が改定されているように見えるが、歳周の値が変わったことにより比例案分しているだけ。盈初縮末限 + 縮初盈末限は、半周天にならないといけないはずなのに、半歳周になっているのは相変わらず。盈初縮末限・縮初盈末限が変わったのなら、招差術の三次式の係数も調整しないといけないように思われ、そのままなのはいかがかとも思うが、歳周が70秒なり140秒なり数値が変わったことで影響を受けるほどの有効桁数を持った係数ではない気もする。

月離

閏応(朔望周期)

閏応は、暦元天正経朔(暦元天正冬至直前の平朔)~暦元天正冬至までの経過日時。朔望周期を合わせるための定数である。

貞享暦法により宝暦四(1754)年に引き直した 25.73247日に、気応をずらしたことによる天正冬至の日時のずれを加味すれば、宝暦暦 25.66465日、修正宝暦暦 25.80965日になるはず。これに比べると、宝暦暦 25.6540日、修正宝暦暦 25.8200日は、それぞれ、+1刻、-1刻ほど平朔弦望をずらしていることになる。観測等で調整を行ったのだろうか。

これも、各暦法にもとづき平朔を算出して、現代天文学でその時刻の月平均黄経・太陽平均黄経の離角を求める。ゼロに近いほど暦法の精度が高い。プラスであれば平朔日時の見積もりが遅すぎ、マイナスであれば早すぎる(1° 違えば、ざっくり 2時間)。
貞享暦も悪くない感じ。宝暦暦は改悪にしかなっていない。修正宝暦暦はとてもいい感じ。寛政暦はさほどよくない。平均朔望月周期(29.53058386623日)は若干短すぎ? 天保暦はさすが。

月周天

恒星月の日数。この値を実際なにに使うのかというと何に使うわけでもないのだが。

論理的には「周天 ÷ 月平行度」の値になるはず。そもそも、貞享暦の「27.32171669日」が、どこから出てきた値なのかよくわからない。試みに周天 = 365.2572日として、365.2572 ÷ 13.36875 とするとこの値となる。宝暦暦においては、この値そのまま。
修正宝暦暦では、周天 365.256626 ÷ 13.36875 = 27.32167375 としているようである。

転応(近点月周期)

転応は、暦元天正冬至直前の月の遠地点通過から暦元天正冬至までの経過日時。近点月周期を合わせるための定数。

貞享暦法により宝暦四(1754)年に引き直した 18.96502日に、気応をずらしたことによる暦元天正冬至の日時のずれを加味すれば、宝暦暦 18.8972日、修正宝暦暦 19.0422日になるはず。これに比べると、宝暦暦 18.88日、修正宝暦暦 19.3070日は、それぞれ、+1.72刻、-26.48刻ほど月の遠地点通過日時をずらしていることになる。特に修正宝暦暦では大きくずらしており、観測やなんらかの資料により値を正しているように思われる。

これも、各暦法にもとづき月の近点通過日時を算出して、現代天文学により、その時刻の月平均黄経・月近点平均黄経の離角を求める。ゼロに近いほど暦法の精度が高い。プラスであれば近点通過日時の見積もりが遅すぎ、マイナスであれば早すぎる(1°違えば、ざっくり2時間)。
貞享暦は 3° 程度のずれがあり「ひどい」とは言わないまでも悪い。宝暦暦は大差ないが改悪。修正宝暦暦以降で飛躍的に精度があがっている。天保暦はさすが。

その他、月離

月朔(平均朔望月)・転終(近点月)の値はそのまま。転終がそのままなので、遅初速末限・速初遅末限もそのまま。月行遅速の招差術三次式の係数も変更なし。

以上。結局、宝暦暦の諸定数はすべて、貞享暦からの改悪にしかなっていない。定数改定時のプラスマイナスを全部逆にしたんじゃないかと思えるほど。修正宝暦暦では著しく向上しており、宝暦暦のしりぬぐいを全部した、という感じ。

日出分(半昼夜分)

宝暦暦・修正宝暦暦においても、半昼夜分は数表(立成)によって示され、その導出式は示されていない。貞享暦のときと同様、立成に記載されている半夜分と、幾何学的に計算した日の出とをグラフで比較してみる。
立成は、宝暦暦:暦法新書巻十二、修正宝暦暦:暦法新書続録上に記載されている。
幾何学的計算式:
\[ \begin{align}
\delta &= - \sin^{-1}(\sin \epsilon \cos \lambda) &(\lambda \text{は、冬至起点の黄経とする})\\
\text{日出分} &= 0.25_\text{日} - {1_\text{日} \over {360°}} \sin^{-1}(\tan \phi \tan \delta) \\
\end{align} \]
について、宝暦暦は、\( \text{黄道傾斜角} \epsilon = 23.9030_\text{日度} (23°.559) \), \( \text{地点緯度} \phi = 35.516_\text{日度} (35°.005) \), \( 360° = \text{周天} 365.256556_\text{日度} \) として計算し、
修正宝暦暦は、\( \text{黄道傾斜角} \epsilon = 23.9030_\text{日度} (23°.559) \), \( \text{地点緯度} \phi = 35.635_\text{日度} (35°.122) \), \( 360° = \text{周天} 365.256626_\text{日度} \) として計算する。京都の地点緯度は、立成の数値に合うよう調整した。 
 
宝暦暦
\[ \begin{align}
\epsilon &= {23.9030 \over 365.256556} \times 360° \\
\phi &= {35.516 \over 365.256556} \times 360° \\
\lambda &= {\text{入冬至} \over \text{周歳}} \times 360° \\
\delta &= - \sin \epsilon \cos \lambda \\
\text{日出分} &= 0.25_\text{日} - {1_\text{日} \over {360°}} \sin^{-1}(\tan \phi \tan \delta)
\end{align} \]
 
修正宝暦暦
\[ \begin{align}
\epsilon &= {23.9030 \over 365.256626} \times 360° \\
\phi &= {35.635 \over 365.256626} \times 360° \\
\lambda &= {\text{入冬至} \over \text{周歳}} \times 360° \\
\delta &= - \sin \epsilon \cos \lambda \\
\text{日出分} &= 0.25_\text{日} - {1_\text{日} \over {360°}} \sin^{-1}(\tan \phi \tan \delta)
\end{align} \]

グラフを見ると、貞享暦では立成の半夜分は中腹あたりがでぶっていたが、宝暦暦・修正宝暦暦では完全に重なって、グラフ上はズレが見えない。差違を見ると、宝暦暦では ±7秒、修正宝暦暦では ±2秒と、極めて小さいずれしかない(ここにおける「秒」(百進秒)は、1日=24時間の六十進時分秒に換算すると 0.0864sec。7 秒(百進)であっても、1sec 未満である)。組織的にずれているというより、ランダムノイズが載っているという感じであり、宝暦暦・修正宝暦暦の半昼夜分は幾何学的に計算したものである可能性が高い。
  • 宝暦暦では、±7秒のズレがあるといっても、大抵は ±2秒以内のズレであり、ところどころ異常値があるという感じに見受けられる。この半昼夜分の立成は、「冬昼夏夜」と「冬夜夏昼」は足すと 5000分にならないといけないのにそうなっていないとか、当日・翌日の半昼夜分の差分であるべき昼夜差がそうなっていないとか、ちょいちょい「計算間違い or 誤記じゃないの?」と思うところがあったりするので、宝暦暦のズレも、本来はもうちょっと小さいのかも知れない。
    • なお、上記のグラフにおいては表の辻褄が合わず「明らかに誤記」と思われるものは修正したうえで比較している。

しかし、ここで疑問が。宝暦暦・修正宝暦暦において、本当に、
\[ \begin{align}
\delta &= - \sin^{-1}(\sin \epsilon \cos \lambda) \\
\text{日出分} &= 0.25_\text{日} - {1_\text{日} \over {360°}} \sin^{-1}(\tan \phi \tan \delta) \\
\end{align} \]
のような計算をしたのだろうか? 三角関数の計算に関する知識を彼らは持っていたのだろうか?
土御門泰邦が援助していた市井の暦学者、西村遠里は、著書「授時解」(授時暦の解説書)において、黄経と赤経との変換に用いる補正値、黄赤道率(これも求めるためには三角関数の計算が必要)を求めるために、幾何学的な解法で求めている(ただし、三角関数自体は使えないので、漸近的に求めている)。漸近的であるにせよ、十分に漸近させれば三角関数で代数幾何的に求めたのと同じ結果が得られるはずである。宝暦暦・修正宝暦暦においても、このような形で半昼夜分を求めたと考えることも出来よう。

また、半昼夜分の計算に使用したかどうかは別として、三角関数という概念も、この時期には既に入って来ていたようだ。
実は、宝暦暦の暦法書、暦法新書には、三角関数表が掲載されている。
「巻十一 乾坤表」に記載されている、「乾線」は正弦 (sin) であり、「坤線」は余弦 (cos) である。角度は、一周=360°、六十進法の度分で記載されている。右のページは 1ページ目。右上から見れば、0°~0°30′までの sin, cos の表であり、左下から見れば、89°30′~90° までの sin, cos の表になっている。

「巻十一 乾坤表」の表題に土御門泰邦は、
凡作暦之術其原出於測量。測量既成而当験之於推歩。推歩之便莫易於立成。立成即表也。名称異而其実一矣。臣今以乾坤表為諸立成之根。太陽太陰及五緯猶如旧制。或加減而若四余立成。古暦所未載、今挙之、以便推歩之簡易而己。
凡そ、作暦の術、其の原は測量に出づ。測量既に成ってまさにこれを推歩に験ず。推歩の便、立成より易きは莫し。立成即ち表なり。名称異にして其の実一なり。臣、今、乾坤表を以って諸立成の根と為す。太陽太陰及び五緯、猶ほ旧制の如し。或いは加減して四余立成の若し。古暦未だ載せざるところ、今これを挙げて、以って推歩の簡易に便ずるのみ。
三角関数表(乾坤表)は、諸々の数表の根本(諸立成の根)であると言っている(ただし、宝暦暦においては、使用せず旧制のままとしたものもあるし、三角関数を使用して立成を補正したものもあるようである)。

土御門泰邦も、ただ余計な嘴を挟んできただけの面倒くさいおじさんではなく、それなりに周囲にも人を集めて勉強していたようだ。

ただ、三角関数の使用によりかなり精度が上がったように思われる半昼夜分も、残念ながら頒暦の節気記事における昼夜刻の表示には用いられず、貞享暦における値がそのまま用いられた。ただし、日月食の計算での日の出・日の入り時刻の算出では、おそらくこの立成が用いられたのだろうと思われる。

宝暦暦は、端数処理が切捨から四捨五入になったり、三角関数が一部導入されたり、数学的には見るべきところがなくはないものの、暦学で一番大事なところ、実際の天体運行とあっているかどうかがてんで駄目で、意欲は買うけど結果的にはかなり残念な暦になっているという感じですね。
修正宝暦暦は、宝暦暦の駄目なところをかなりしっかりカバーしている。一方で、後述するように置閏ルールの適用誤りのように運用面でいまいちなところがあり、手放しでは褒められない感じ。

頒暦との突合

二十四節気・土用

宝暦暦においては、刻数の表示にあたって切捨ではなく四捨五入を行う。これに従い計算したとき、二十四節気・土用で実際の頒暦と差違を生ずるのは下記のふたつ。
節気・土用
頒暦上の時刻 算出した時刻
明和九(安永元 1772)年十二月二十八日 大寒十二月中
さるの八刻 とりの初刻(0.000025刻)
明和四(1767)年九月二十七日 秋土用
ねの五刻 ねの四刻(4.1999刻)

明和九年大寒は、秒(0.0001刻)未満のわずかなずれ。歳実 365.241607日の 1/24 である気応 15.21840029166...日を、例えば秒単位で四捨五入し、15.218400日とするなどすれば合うぐらい。そうしてもよいのだが、とりあえず突合差違としておく。

明和四年秋土用は、明らかに異常値。計算間違い?

朔弦望

頒暦上の朔日が算出した朔日からずれるものはない。また、宝暦暦法において、月食食甚時刻=望時刻だが、食甚時刻が記載されている月食記事において、食甚時刻が算出した望時刻と相違するものもないようだ。

ただし、以前にもご紹介したことがあるが、修正宝暦暦において置閏の運用誤りと思われるものがある。「暦月は朔日に始まり朔日前日に終わる」とすべきところ、「暦月は朔に始まり朔に終わる」としたことによる誤りである。
  • 明和十(安永二 1773)年仮三月朔 3/23 14:34、穀雨三月中 4/22 00:27、仮四月朔 4/22 07:11
  • 安永四(1775)年仮十二月朔 12/23 00:41、大寒十二月中 1776/1/21 10:24、安永五(1776)年仮正月朔 1/21 12:29
  • 天明六(1786)年仮十月朔 10/22 12:08、小雪十月中 11/21 5:12、仮十一月朔 11/21 6:48
明和十年の例で説明すると、穀雨三月中 4/22 00:27 は 3/23~4/21の仮三月ではなく、4/22~の仮四月に属するため、仮四月が三月で、仮三月が閏二月とするのが正しいところ、誤って「穀雨三月中は、3/23 14:34~4/22 07:11 の暦月(仮三月)に属し、仮三月が三月、仮四月が閏三月」としている。
同様に安永四年は仮十二月を閏十一月とすべきところ、翌年仮正月を閏十二月としており、天明六年は仮十月を閏九月とすべきところ、仮十一月を閏十月としている。

ただし、寛政四(1792)年仮三月朔 3/23 2:52、穀雨三月中 4/21 14:36、仮四月朔 4/21 16:28 のケースにおいて、正しく穀雨三月中を 4/21~の暦月(仮四月)に属するものとし、仮三月を閏二月としているので、遅くともこの時点では間違いに気が付いたようである。

なんでこういうことが起きるのかを勝手に想像してみる。

一つの想像としては、貞享暦法の月離のところでご紹介した閏月の略算法(閏余(天正経朔~天正冬至までの経過日時)に月閏(気策×2(すなわち中気間隔) - 月朔(平均朔望周期))を累加していって、月朔以上となったところが閏月)をそのまま適用した、という説。

上記の略算法だとあまりにも今いちな略算法なので、もう少しましな閏月決定方法を考えてみる。

「朔日0:00 時点の日時(すなわち、朔の日時を日単位で切り捨てたもの) - 天正冬至日時」を計算し、天正冬至~朔日0:00までの期間を求め、それを気策×2(歳実 ÷ 12)で割り、商を整数単位に切り上げて1を引く(つまり、原則切り捨てるが、ちょうど割り切れるとき、つまり、朔日0:00がちょうど中気日時のときは、-1 する)。これにより、朔日0:00直前の中気がなにかがわかる(ゼロなら冬至十一月中、1なら大寒十二月中……)。

当月朔日0:00直前の中気と、翌月朔日0:00直前の中気が同一だとすれば、当月内には中気がないことになるので、当月は閏月である。
当月が閏月でないとき、翌月朔日0:00直前の中気は当月内にある中気なので、この中気により月名を決定してよい。この中気が例えば雨水正月中であれば、当月は正月になる。
当月が閏月であるとき、翌月朔日0:00直前の中気は前月内にある中気であり、当月は閏月で月名は前月月名に従うから、やはり、この中気より月名を決定してよい。この中気が例えば雨水正月中であれば、当月は閏正月である。

としたとき、「朔日0:00 時点の日時(すなわち、朔の日時を日単位で切り捨てたもの) - 天正冬至日時を計算」を、誤って朔の日時を日単位で切り捨てるという操作を行わず、「朔の日時 - 天正冬至の日時」として計算したとすれば、修正宝暦暦初期における誤りが現出することになる。

以上、本当にそういうことだったのかはわからないが、勝手に想像してみた。

駆け足だが、宝暦暦の暦法については以上。次回は寛政暦。三角関数とケプラーとニュートンの世界へ。


[参考文献]
土御門泰邦「暦法新書」, 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

土御門泰邦「暦法新書続録」, 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

国立天文台暦計算室「暦wiki: 徳川吉宗と西洋天文学、宝暦暦

嘉数 次人 (2016)「天文学者たちの江戸時代――暦・宇宙観の大転換」ちくま新書, 筑摩書房, ISBN9784480069023

渡辺 敏夫 (1973)「貞享補暦と宝暦改暦」, 日本天文研究会報文 6(1) pp.11-16

Simon, J. L.; Bretagnon, P.; Chapront, J.; Chapront-Touze, M.; Francou, G.; Laskar, J. (1994) "Numerical expressions for precession formulae and mean elements for the Moon and the planets. ", Astronomy and Astrophysics, Vol. 282, p. 663 https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1994A%26A...282..663S/abstract

Espenak, F., Meeus, J. (2004), "Polynomial Expressions for Delta-T" (adapted from "Five Millennium Canon of  Solar Eclipses”). NASA Eclipse Web Site, GSFC, Solar System Exploration Division https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEcat5/deltatpoly.html

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