2020年9月6日日曜日

天保暦について

[江戸頒暦の研究 総目次へ] 

前回までで寛政暦についての説明が終わり、今回から、天保暦の暦法について記載していく。実際の暦法説明に入る前に、まずは、天保暦に関するバックグラウンド的な情報について。

寛政改暦以降の高橋至時と、ラランデ暦書

寛政暦施行後も、高橋至時は、さらなる向上のため研究に努める。

麻田消長法は、麻田が暦象考成後編を入手する前に考案したものであり、ケプラーの楕円軌道説などの西洋近代天文学のなかに並べると座りの悪いものとなっていた。至時は、寛政十一(1799)年に「増修消長法」を執筆。麻田消長法を、歳差運動(赤道北極つまり地球の自転軸の首振り運動)の遅速(トレピデーション)によるものという説を展開する。正直、麻田消長法を理論づけしようとしても所詮は無理な話なので、妥当な説にはなりえていないというべきだろうが。この書は、至時が地動説について支持を表明したものとしても知られる。

また、暦象考成後編には五星(五惑星)の計算が含まれていなかったため、寛政暦の五星法では、ケプラー楕円モデルではなく、暦象考成上下編に記載されていたティコ・ブラーエの周転円モデルによる計算となっていた。享和元(1801)年、至時は「新修五星法」を執筆。ケプラー楕円モデルによる五星法を示した。

一方、伊能忠敬による第一回の地図測量(江戸~根室手前まで)が、寛政十二(1800)年に実施されている。「緯度一度の長さが知りたい」というところから始まって、蝦夷地までの測量の旅を幕府に支援してもらいたいがために「地図を作る」という実用的理由をくっつけたこの測量行、文化十三(1816)年に測量を完成させ、伊能が文政元(1818)年に死去した後、文政四(1821)年に地図が完成。当初予定した以上の成功をおさめることとなるわけだが、その第一歩は、寛政暦改暦直後にすでに始まっていたのであった。

至時は、さらに研究を進めるためには、西洋天文学の専門書の入手が必要だと考えていた。蘭学者の前野良沢や司馬江漢らとも交流し、情報入手に努めていたが、天文学の一般教養書等であればともかく、彼らが求めるレベルの専門書を入手することは出来ないでいた。

享和三(1803)年、その状況が一気に打開される。至時は、若年寄堀田正敦からとある蘭書を提示され、その内容を評価するよう指示される。その蘭書こそ「ラランデ暦書」と通称されている書籍であり、至時が待望していた西洋天文学の専門書であったのである。至時は一瞥して「実ニ大奇書ニシテ精詳ナルコト他ニ比スベキナシ」とし、借用していた十数日の間に一部の読解を進め、のちに「ラランデ暦書管見第一巻」となる研究記録、「ラランデ暦書表用法解」などを作成。幕府に同書の購入を進言。購入される運びとなった。

「ラランデ暦書」は、フランスの天文学者 Joseph Jérôme Lefrançais de Lalande ジョセフ・ジェローム・ルフランセ・ド・ラランドが、1764年に執筆した天文学の学術書 "Astronomie" 「天文学」(または、"Traité d'Astronomie" 「天文学書」)のオランダ語訳版であった。 de Lalande の Astronomie は、天文学を通解した書籍としてヨーロッパでも評判の高いものであったので、オランダ語訳版も出版されていたのである。

麻田学派は所謂「蘭学者」ではなかった。西洋天文学に基づいて研究していたのではあったが、暦象考成後編等の漢訳暦書に基づき研究を行っていたので、オランダ語の素養がもとよりあったわけではない。しかし、なんとかラランデ暦書の読解をすすめ、ラランデ暦書管見第二~八巻などの研究記録などを書き残した。

しかし、もともとあまり体が強くなかった至時の健康は、日々の天文方業務や伊能の測量作業の指導といった業務に加え、ラランデ暦書の読解作業への没頭によって大きく損なわれることになる。結核を患い、文化元(1804)年、41歳の若さで至時は死去した。

高橋景保・間重富と、シーボルト事件

至時の死去により、後を継いだのは、至時の長男、高橋景保(たかはし かげやす)であった。家督相続時、20歳の若さ。このため、至時の盟友であり、寛政改暦完了後は大坂に戻っていた間重富を幕府は再び呼び寄せ、景保のサポート役とした。

武士ではない間重富は「天文方手伝」という扱いであったが、幕閣からは絶対的な信頼を得ており、景保・間は、時局からの要請により天文方の枠を超える様々な活動を行うことになる。文化七(1810)年に作成された世界地図「新訂万国全図」もその一つであった。伊能忠敬や間宮林蔵の測量の成果も取り入れられ、北海道やサハリン島がかなり正確に描かれた世界地図のなかでは世界的にも最早の部類であろう。

その一方で、景保・間にとっての最重要課題は、至時がはじめたラランデ暦書の訳出を継続・完成させることであった。しかしそれにはオランダ語と高度な天文学の知識を併せ持つ翻訳者の養成が必要であり、教育・養成にかかるコストは天文方の予算でやりくりできるものではなかった。間が一計を案じ、外国語文書(外交文書や諜報資料など)の翻訳業務を天文方が引き受けることにした。これにより、堂々と外国語教育にかかるコストの予算化を行えるようになった。

また、文化八(1811)年には、この業務をさらに拡大し、外国語出版物の翻訳所: 蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)の新設を提案し、これが容れられ、景保がその任につくこととなった。寛政四 (1792)年、ロシア使節ラクスマンの来航、文化元(1804)年に同じくロシアからレザノフが来航し、通商を求めていた。レザノフ来航では、配下の暴走により、樺太・択捉における松前藩拠点が攻撃を受けていた。この時局上、外国についての知識の拡充が幕府にとっても急務だったのである。文化八(1811)年、千島で測量を行っていたロシア艦船の艦長ゴロヴニンが捕縛された「ゴローニン事件」では、オランダ通詞であり蛮書和解御用にも参加していた馬場貞由とともに、麻田学派から天文方に入った足立信頭にロシア語学習の命が下っており、足立はゴロヴニン尋問の通訳として何度か蝦夷地に渡っている。蛮書和解御用は、その後、洋学所、蕃書調所、開成所、などなんどかの改名を経て、明治には開成学校となり、現在の東京大学のルーツの一つとなっている。

文化十三(1816)年、間が死去。長男の重新(しげよし)が家督を継ぎ、上方における天文観測などを中心に天文方手伝を継続するが、景保のサポート役としての役目は終了。以降は景保が独り立ちして天文方と蛮書和解御用の業務をけん引していくこととなる。 

高橋景保は「外国通の技術官僚」として幕府のなかで重用されることとなるが、その状況が一変する事件が起きる。名高いシーボルト事件である。景保は、シーボルトが所有していた書籍、クルーゼンシュテルン「世界一周記」(※) とオランダ領東インドの地図を入手する代償に、伊能地図の写しをシーボルトに渡していた。伊能地図は軍事機密事項として外国人への開示が禁じられており、この件が露見したため、景保が罪に問われたのである。文政十一(1828)年、景保は獄死、景保の二人の息子は遠島となり、高橋家は断絶する。

  • (※) レザノフが隊長となり、軍人クルーゼンシュテルンが艦長であった、世界一周探検航海の航海記。ロシアの太平洋地域進出をもくろんでいたもの。文化元(1804)年のレザノフ来航は、この探検航海の一部として行われたものであったから、この航海記を見れば「ロシア側の目から見たレザノフ来航事件」がわかるであろうことが期待された。

渋川景祐と、天保改暦

景保の後を継いだのは、高橋至時の次男、景保の実弟、渋川助左衛門景祐(しぶかわ  すけざえもん  かげすけ)(※) である。養子となり渋川家の人間となっていたため、シーボルト事件に連座することがなかった。景保生前から、翻訳事業に忙殺される景保に対して、天文方の本業の方は、景祐が担うことが多かった。初代天文方である渋川春海以来、養子縁組を繰り返しながら天文方筆頭としても家名を存続させてきたものの、天文方としての実績は皆無だった渋川家にあって、天文方らしい活躍を期待できる人間が久しぶりに登場してきたことになる。 

  • (※) ほかの人も同様だが、景祐の通名を「助左衛門」と書いてはいるけれど、ライフサイクルによって色々変わるので、生涯この通名だったわけではない。渋川家の場合、主人が初代春海も名乗っていた「助左衛門」、跡取り息子が「六蔵」、隠居になると「図書(ずしょ)」というのがパターンのようだ。

景保の存命時、文化十(1813)年、景保の役宅が火災にあい、ラランデ暦書原本をはじめとするさまざまな貴重資料が焼失し、ラランデ暦書翻訳事業は暗礁に乗り上げていた。景祐と足立信頭は、焼失を免れた至時の遺稿「ラランデ暦書管見」の調査によってこの事業を継続し、文政九(1826)年「新巧暦書」としてまとめられた。また、至時の遺稿「新修五星法」をもとに、天保七(1836)年「寛政暦五星法続録」を編述。天保九(1838)年上奏され、寛政暦の五星法が、これをもととしたものに改訂される。

寛政暦は暦算法のみが「暦法新書(寛政)」に記載されているが、その後の至時の死去もあって、その暦理を解説したものがないという状況が続いていた。景祐を中心に天文方の総力をあげて、全35巻の大部の暦理書「寛政暦書」の執筆が行われた(完成したのは、弘化元(1844)年、天保暦改暦直前)。

上記のように、矢継ぎ早に大部の刊行物の編纂を続けており、景祐はかなり多産の研究者である。

一方で、天文方山路諧孝(やまじ ゆきたか。徳風の子)は、オランダの天文学者 Pibo Steenstra(ペイボ・ステーンストラ)の "Grondbeginsels der Sterrekunde" を翻訳し、「西暦新篇」としていた。

天保十二(1841)年、幕府は天文方に「新巧暦書」「西暦新篇」に基づく改暦の準備を命ずる。景祐を中心とした天文方は改暦案をまとめ、例によって、土御門家との改暦交渉を渋川景祐と足立信頭が行い、土御門家による上奏を経て、「天保壬寅元暦」との名を下賜され、天保十五(弘化元 1844)年暦から施行された。天保十五年暦には、

今まで頒ち行れし寛政暦は、違へる事のあるをもて、更に改暦の
命あり。遂に天保十三年新暦成に及び、
詔して名を天保壬寅元暦と賜ふ。
抑、元文五年庚申宝暦五年乙亥の暦にことわる如く、一昼夜を云は、今暁九時を始とし今夜九時を終とす。然れども、是まで頒ち行れし暦には、毎月節気・中気・土用・日月食の時刻をいふもの、皆昼夜を平等して記すが故、其時刻、時の鐘とまゝ遅速の違あり。今改る所は、四時日夜の長短に随ひ其時を量り記し、世俗に違ふ事なからしむ。今より後、此例に従ふ。
との題詞が付された。① 改暦したこと、② 「天保壬寅元暦」との暦名を下賜されたこと、③ 不定時法を採用したこと、が記載されている。寛政暦までは、改暦の翌年暦に暦名下賜の題詞が記載されていたが、天保暦では、改暦当年に全部記載してしまっている。また、改暦弁は、漢文で記載される例であったが、天保暦では和文になっている。

天保暦への改暦にあたっては、景祐の長男、渋川六蔵敬直(しぶかわ ろくぞう ひろなお)も片腕として活躍した。敬直は、幼少時からその才を嘱望されており、天保十(1839)年、老中水野忠邦に、民間での蘭学の規制などを求める上申書を提出。水野に抜擢され天保の改革に携わることとなった。目付鳥居耀蔵とともに蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に対する弾圧事件)にも関与したと言われている。そもそも高橋家自体が、蘭学者ではなかったにせよ、市井の西洋天文学研究者として始まったことを考えると随分皮肉な話だ。

しかし、敬直は、水野の失脚とともにその罪に連座し、弘化二(1845)年流罪。六年後、配流先で病死した。敬直も伯父の景保と同様、書物奉行(紅葉山文庫(将軍の図書館)の管理者)に就任していた。書物奉行は天文方より格上であり、知識人系の官僚の処遇を上げたいときに任じることがある。青木昆陽なども書物奉行であった。幕末期に天文方に期待されていた「外国通の技術官僚」という役割をおおいに果たし、幕府の期待に応えた高橋景保、渋川敬直の二人がともに非業の最後を迎えている。暦学一筋だった景祐は、兄と子の最期を見てなにを思っただろうか。

景祐は、弘化三(1846)年には天保暦の暦理解説である「新法暦書続編」を完成させ、また、観測記録をまとめた「霊験候簿」、安政元(1854)年にはイギリスの航海暦をもとに、天保暦・グレゴリオ暦・ユリウス暦を対照した「万国普通暦」など、天保暦改暦後も精力的に執筆活動を継続するが、安政三(1856)年に没。

 景祐以降~大政奉還と太陽暦への改暦

景祐の後を継いだのは次男の渋川祐賢(しぶかわ すけかた)であったが、祐賢もほどなく病死。敬直の子、渋川孫太郎敬典(しぶかわ まごたろう よしのり)が祐賢の養子となって後を継いだ。敬典は大政奉還によって幕府天文方が廃止されるまで天文方を務め、その後、新政府における暦局である大学星学局に任じられている(天文方の下役から2名任じられているが、天文方から任じられたのは敬典ひとり)。

天保暦は、天保十五(弘化元 1844)年暦から、明治五(1872)年暦まで 29 年間施行された。

大政奉還後、土御門家からの申請を受け土御門家が編暦・弘暦を取り仕切る体制となり、明治二(1869)年暦以降は幕府天文方ではなく土御門家を中心とする新政府で編暦されている。土御門晴雄(つちみかど はれお)の死去に伴い、幼少の土御門晴栄(つちみかど はれなが)が天文暦道御用掛の任についたが、明治三(1870)年、晴栄はその任を解かれ、以降、土御門家と暦との縁が切れる。

明治六(1873)年暦から太陽暦に改暦され天保暦は廃止されたが、改暦が決定したのは年末ぎりぎりであり、 明治六(1873)年天保暦も作成されていた。

「新法暦書」と「新法暦書続編」

天保暦の暦法書は「新法暦書」である。章立ては下記のとおり。

  • 巻一: 推日躔用数/法、推定気用時及日出入晨昏分法
  • 巻二: 推月離用数/法、推太陰黄道緯度用数/法、推太陰赤道経緯度法、推太陰地半径差用数/法、推太陰出入時刻用数/法、推各方太陰出入時刻用数/法
  • 巻三: 推月食用数/法、推月食帯食法、推各方月食用数/法
  • 巻四: 推日食用数/法、推日食帯食法(求帯食初虧復円法附)、推各方日食用数/法
  • 巻五: 推土星用数/法、推木星用数/法、推火星用数/法、推金星用数/法、推水星用数/法、推五星伏見用数/法
  • 巻六: 推恒星用数、推恒星黄赤経緯度法、推歳差用数/法
  • 巻七: 京師実測二至考、京師実測二至外考
  • 巻八: 江戸実測至分考、江戸実測至分外考
  • 巻九: 各所実測躔離合考

基本的には「新巧暦書」をベースにしているように思われる。山路が訳出した「西暦新篇」の要素がどの程度含まれているのかはよくわからない。五星については改訂されたばかりでもあり、「新巧暦書」のではなく「寛政暦五星法続録」の暦法が継続使用された。

起草者の肩書としては、

従二位行 陰陽頭 安倍朝臣 晴親 校正
  天文方 渋川 助左衛門 景祐 同編
  天文方 足立 左  内 信頭

となっている。貞享暦のときは、春海は「天文生」つまり陰陽頭/天文博士である土御門家のもとで天文を学ぶ学生としての肩書であり、宝暦暦では土御門泰邦が単独執筆者扱い、寛政暦では、天文方吉田秀升・山路徳風・高橋至時が「臣」つまり天皇に事える一臣下としての肩書で執筆者となっていた。天保暦では堂々と幕府の役職である「天文方」として渋川景祐・足立信頭が名を連ねている。山路諧孝も天文方であったはずだが、起草者には含まれていない。山路は、景保更迭後に蛮書和解御用を継いだようなので、そちらの業務が中心だったのかも。

なお、校正者となっている土御門晴親(はれちか)は、改暦準備中の天保十三(1842)年に卒し、暦の上奏は子の晴雄が行っている。この関係で改暦が遅れたようで、天保暦において改暦当年段階ですでに暦名が下賜されていたのもこの辺に起因するのかもしれない。本当は天保十四(1843)年暦から施行するつもりで準備していたのではなかろうか。

寛政暦では遅れに遅れた暦理解説は、弘化三(1846)年「新法暦書続編」として、下記の章立てで完成している。さすが景祐、仕事が早い。

  • 巻一: 数理総論上(三辺形、比例、割円八線)
  • 巻二: 数理総論中(直線三角形辺角相求、験八線表)
  • 巻三: 数理総論下(正弧三角形論、正弧三角形辺角相求、斜弧三角形論、斜弧三角形辺角比例法、斜弧三角形作垂弧法、斜弧三角形用総較法)
  • 巻四: 日躔数理上(気応、宿応、最高応、天正冬至、二十四気、七十二候、辰刻、鼓鐘時分)
  • 巻五: 日躔数理下(周歳、最高平行、黄赤大距年根、本時黄赤大距、初均、地半径差、地平出入時差)
  • 巻六: 月離数理上(朔弦望盈虚、平行応、最高応、正交応、本天一周、平行差、最高平行)
  • 巻七: 月離数理中(四大均、諸小均)
  • 巻八: 月離数理下(正交平行、黄白升度差、黄白大距及黄道緯度、地半径差、太陰出入時刻)
  • 巻九: 交食数理上(総論、朔応、太陰交周応、通朔積朔及首朔、界説、太陽光照月及地、実朔望、実朔望用時、斜距黄道交角)
  • 巻十: 交食数理下(日月距地与地半径之比例、太陽視径、太陰視径)
  • 巻十一: 月食数理上(影半径、太陰食限、帯食見不見限、食分、五限時刻、見食先後)
  • 巻十二: 月食数理下(赤経高弧交角、三限方位、帯食総説、帯食両心相距、帯食方位)
  • 巻十三: 日食数理一(総論、太陽食限、帯食見不見限、地球矮立円、地平高下差)
  • 巻十四: 日食数理二(本法与簡法之比例、月天両心視相距上)
  • 巻十五: 日食数理三(月天両心視相距下、帯食月天両心視相距)
  • 巻十六: 日食数理四(黄道面月距人線、食甚真時、食分)
  • 巻十七: 日食数理五(初虧復円真時、三限方位、見食先後多寡)
  • 巻十八: 割円八線表一(順自初度至五度、逆自八十四度至八十九度)
  • 巻十九: 割円八線表二(順自六度至一十度、逆自七十九度至八十三度)
  • 巻二十: 割円八線表三(順自一十一度至一十五度、逆自七十四度至七十八度)
  • 巻二十一: 割円八線表四(順自一十六度至二十一度、逆自六十八度至七十三度)
  • 巻二十二: 割円八線表五(順自二十二度至二十六度、逆自六十三度至六十七度)
  • 巻二十三: 割円八線表六(順自二十七度至三十二度、逆自五十七度至六十二度)
  • 巻二十四: 割円八線表七(順自三十三度至三十八度、逆自五十一度至五十六度)
  • 巻二十五: 割円八線表八(順自三十九度至四十四度、逆自四十五度至五十度)
  • 巻二十六: 寰宇総論一(七曜序次、地動成四時自転成昼夜、五星、恒星、諸曜径各不同、諸曜径比例表)
  • 巻二十七: 寰宇総論二(重力総論、物体、空隙、分子、同種分離、異種分離、引力、引力成体、重力、体動、堪力、墜落、垂球、中心力)
  • 巻二十八: 寰宇総論三(重力、垂球、諸曜重力、物質引力、物質作用)
  • 巻二十九: 寰宇総論四(平円本道中心力、遠心力、中心力与距離冪為転比例)
  • 巻三十: 寰宇総論五(諸曜物質及物質粗密、進行速力)

 巻一~三の「数理総論」では、数学理論の概説を置く。正弧三角形(球面直角三角形)、斜弧三角形(一般の球面三角形)として球面三角法の解説等があり、数学理論の説明がほとんどない寛政暦書よりも行き届いた記載となっている。

巻二十六~三十の「寰宇総論」(「寰宇」の読み方は多分「カンウ」。宇宙のこと)では太陽系をはじめとした宇宙論が記載されているとともに、巻二十七ではニュートンの万有引力理論を、巻二十八以降は、その天文物理への適用を記載している。

寛政暦の元ネタである暦象考成後編は、G.D. カッシーニの暦表理論によっているらしく、その下敷にあるのはニュートンの万有引力理論である。が、高橋至時・間重富らが、ニュートンの万有引力理論の持つ意味に気づいていたと考える証拠はない。

日本において、ニュートンの万有引力理論が初めて紹介されたのは、長崎の蘭学者、志筑忠雄の「暦象新書」(1798~1802) によってであると考えられる。 「暦象新書」は、スコットランドの自然哲学者 John Keill が著述した「真正なる自然学および天文学への入門書」のオランダ語訳版からの重訳。景祐は、蛮書和解御用の馬場貞由に紹介されてこの書を読んだらしい。初見では全く理解できなかったそうだが、暦学における重要性を理解できるようになり、新法暦書続編に取り入れたようである。

「新法暦書続編」の執筆者肩書は、

従四位下行 陰陽頭 安倍朝臣 晴雄 閲覧
   天文方 渋川 助左衛門 景祐 同編
   天文方 足立 久米之助 信行
   天文方 山路 弥左衛門 諧孝 同校
   天文方 山路 金 之 丞 彰常

となっている。山路諧孝、およびその子で天文方を継いでいた山路彰常は、「編」ではなく「校」とされており、「新法暦書続編」においても山路家は執筆者となっていない。足立家は、足立信頭が弘化二(1845)年に卒したため、孫の信行が継いでいる。

また、数式の形式で暦法が記載されている「新法暦書」に対して、複雑な数式を計算することなく、表引きにより暦算を行うことが出来る「新法暦書表」も作成されている。「新巧暦書」や「西暦新篇」も表引きスタイルで記載されているので、それらに倣った形式である(というか、表引きスタイルの「新巧暦書」を、その導出式を記載するかたちで書き直したのが「新法暦書」で、そのまま同じスタイルで書いたのが「新法暦書表」というべきか)。頒暦作成の際、この「新法暦書表」を実際に実用したのかどうかはわからない。

  • 巻一: 用表法上(推日躔法、推月離法)
  • 巻二: 用表法中(推交食法)
  • 巻三: 用表法下(推五星法)
  • 巻四: 日躔表上(年根前表、年根後表、周歳平行表、周日平行表、初均表、一均表、二均表、二均加減差表、三均表、四均表)
  • 巻五: 日躔表下(升度差表、赤道緯行表、均数時差表、升度時差表、升度差補数表、距地心線表、視半径表、一小時実行表、日出入分表、日出入時差表、晨昏分表)
  • 巻六: 月離表上(年根表、周歳平行表、周日平行表、経度一~十四均表)
  • 巻七: 月離表下(緯度一~十一均表、視差一~十三均表)
  • 巻八: 交食表(天正経朔表、朔望策表、矮立円地太陰視差表、太陰視径一~三均表、太陰視径加差表、太陰一小時一~十四均表、太陰一小時緯差一~二均表)
  • 巻九: 土星表(年根表、周歳平行表、周日平行表、初均表、距日心線表、初緯表)
  • 巻十: 木星表(年根表、周歳平行表、周日平行表、初均表、距日心線表、初緯表)
  • 巻十一: 火星表(年根表、周歳平行表、周日平行表、初均表、距日心線表、初緯表)
  • 巻十二: 金星表(年根表、周歳平行表、周日平行表、初均表、距日心線表、初緯表)
  • 巻十三: 水星表(年根表、周歳平行表、周日平行表、初均表、距日心線表、初緯表)
  • 巻十四: 八線対数表上(順自初度至二十一度、逆自六十八度至八十九度)
  • 巻十五: 八線対数表下(順自二十二度至四十四度、逆自四十五度至六十七度)


以上、天保暦のバックグラウンドを説明するのに、そこそこ紙幅を使ってしまったので、天保暦の暦法説明は次回に回す。次回は、天保暦の日躔について。

[江戸頒暦の研究 総目次へ]

[参考文献]

渋川 景祐; 足立 信頭「新法暦書」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

渋川 景祐; 足立 信行「新法暦書続編」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

渋川 景祐; 足立 信行「新法暦書表」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵

嘉数 次人 (2016)「天文学者たちの江戸時代――暦・宇宙観の大転換」ちくま新書, 筑摩書房, ISBN9784480069023 

国立天文台暦計算室「暦wiki: 5. 渋川景佑と天保暦」 https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CEF2BBCB2FC6FCCBDCA4CECEF12F5.BDC2C0EEB7CACDA4A4C8C5B7CADDCEF1.html


0 件のコメント:

コメントを投稿