2021年1月16日土曜日

頒暦日月食記事との突合 (貞享暦中期以降)

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貞享暦の暦法に基づいて算出した日月食と、実際の頒暦面に記載された日月食記事との突合を行っている。前回は、貞享暦初期(貞享二(1685)年暦~正徳六(享保元 1716)年暦)のあまり記載フォーマットが定まっていない時期について突合した。

今回は、貞享暦中期以降(享保二(1717)年暦~宝暦四(1754)年暦)について突合する。

この時期では、「初虧→食甚→復末パターン」、つまり、「○の○刻×の方よりかけはじめ○の○刻×の方に甚○の○刻×の方におはる」という記載スタイルが定着する。

  • 後には「甚しく」となるが、この時期は「甚」。おそらく読み方はどちらも「はなはだしく」
方向角の表記方法も「東の方」「東南の方」のような形式に落着する。

時刻は辰刻表示(○の○刻)となる。刻数は宝暦二(1752)年暦までは切捨で、宝暦三(1753)以降は四捨五入。初期月食記事において見られた「夜明け(晨分)後の時刻は『明朝(あくるあさ、○日の朝、等)』として記載する」という記載形式は見られなくなり、夜明け後も普通に辰刻表示するようになる。

節気・土用では、元文四(1739)年暦まで、子初 (23:00~24:00) は「夜ねの○刻」としていたが、月食記事では夜半24:00を記載日の切れ目としない(翌日の日出が切れ目)ため、当初は「夜」を記載していなかった。享保十五(1730)年暦~元文四(1739)年暦の間のみ「夜」を記載する。節気・土用で、元文五(1740)年暦~宝暦二(1752)年暦の間、0:00~5:00の子丑寅時を前日に記載して「翌○の○刻」と表記することが行われていたが、この記法は月食記事では使用されていない。月食記事では、元文五(1740)年の前でも後でも夜半24:00過ぎの時刻は前日に記載されるが、「翌」の字は付記されない。

帯食の記載も、
「○の○刻△分ばかりかけながら出 [○の○刻×の方に甚] ○の○刻×の方におはる」
「○の○刻×の方よりかけはじめ [○の○刻×の方に甚] ○の○刻△分ばかりかけながら入」
の形式に定まる。

帯食の場合、西国における出入時食分が「西国にては△分ばかりかけながら出/入べし」のように末尾に表示される(「西国にては所見△分ばかり」になることもあるようだ)。京都では帯食だが西国では復末後に出る(西国では不見)のとき「西国にては復して出べし」、京都では帯食だが西国では復末後に入る(西国では通常食)のとき「西国にては復して入べし」と表記される。ただし、これらの西国食に関する記載は、だんだん記載されない例が目立つようになる。

ここで「西国ってどこのこと?」というのが問題になる。暦法上は定義がなくよくわからないというのが正直なところだが、記載されている西国食分から演繹して「京都との時差が 2.5刻の場所(経度にして 9° 西に行った場所)」であるとして計算した。 正直、経度にして 9° 西というのは西すぎるが(五島列島より西)。

貞享暦の暦法において、京都以外の地方における日月食の計算をする式は用意されていない。単純に、「西国」では京都と同じ日月食が観測できるが、日月の出入時刻が 2.5刻遅れるものとして計算した。

前回同様、時刻・食分・方向角などの算出値の相違と思われるものは赤字、記載情報の過不足は青字でコメントする。記載情報は相違ないが記載文言が想定と異なるものについては黒字。前回の貞享暦初期においては記載文言が固まっていない時期なので、特に目についたものだけ挙げたが、今回は一応すべて注記する。記載文言相違以外にも、注記すべきポイントがあれば黒字で注記する。

月食記事

年月日
頒暦の月食記事 突合結果
1717年
8月
16
月そく六分: うしの時東南の方よりかけはじめうしの七刻南方に甚くとらの六刻西南の方におはる 丑0.92初→丑7.18甚[6.72分]→寅6.36復, 東南→南→西南
  • 初虧時刻だけ「うしの時」と辰刻表示でない
  • 「南の方」でなく「南方」
  • 「甚く」
1718年
2月
15
月そく皆つくる: 子一刻東方よりかけはじめ丑初刻甚丑七刻西の方に復す 子1.23初→丑0.22甚[14.61分]→丑7.53復, 東→×→西
  • 漢字表記の辰刻「子一刻」「丑初刻」「丑七刻」
  • 「東の方」でなく「東方」
  • 「におはる」でなく「に復す」
1718年
8月
15
月帯そく皆つくる: 丑六刻東方よりかけ初寅六刻甚十六日の朝七分ばかりかけながら入る西国にては二分ばかりかけて入べし 丑6.56初→寅6.88甚[14.16分]→卯3.23入[6.84分, 西2.53分]→卯7.20復, 東→×→西
  • 入時食分 6.84分だが「七分」
  • 漢字表記の辰刻「丑六刻」「寅六刻」
  • 「東方」「よりかけ初」
  • 入時刻を「十六日の朝」。満月の入時刻が朝(晨分後)なのは当たり前であって、時刻を表示したことになるのかは疑問。
  • 特定の場所を意識した「西国」についての記載の初例
1719年
正月
16
月帯そく五分: とりの二刻四分半ばかりかけながら出とりの三刻南方に甚とりの七刻西南の方におはる西国にては三分ばかりかけながら出べし 申5.51初→酉2.79出[4.45分, 西3.19分]→酉3.36甚[4.98分]→酉7.89復, 東南→南→西南
  • 「南方」。復末は「西南の方」で不統一
  • 食甚食分は 4.98分を五分(八捨九入仮説)
1719年
7月
14
月帯そく五分: とらの三刻東北の方よりかけはじめ十五日の朝北の方に甚して入西国にては三分ばかりかけながら入べし 寅3.41初→(寅8.18晨)→卯2.30甚[5.05分]→卯2.35入[5.01分, 西3.00分]→卯7.61復, 東北→北→西北
  • 「十五日の朝北の方に甚して入」は、食甚時刻・入時刻がともに晨分後であり、また、食甚食分と同食分(五分)で入ることを意味するものか。「明朝」パターンの末例。
1720年
12月
16
月そく六分: いの六刻東北の方よりかけはじめねの四刻北の方に甚うしの三刻西北の方におはる 亥6.09初→子4.21甚[6.77分]→丑3.59復, 東北→北→西北
1721年
6月
15
月帯そく: いぬの初刻三分ばかりかけながら出いぬの二刻西南の方におはる西国にては見べからず 申6.03初→酉4.41甚[9.83分]→戌0.60出[3.21分]→戌2.79復→戌3.10西国出, 東南→南→西南
  • 西国では復末後に月出のため「西国にては見べからず」。ただし、以降の例を見ると「西国にては復して出べし」とするのが普通か
1721年
11月
15
月そく皆つくる: いの一刻東方よりかけはじめねの一刻甚うしの一刻西方におはる 亥1.17初→子1.51甚[14.78分]→丑1.84復, 東→×→西
  • 「東方」「西方」
1722年
11月
15
月そく六分: いの八刻東南の方よりかけはじめねの七刻南の方に甚うしの四刻西南の方におはる 亥8.20初→子7.27甚[6.28分]→丑4.90復, 東南→南→西南
1725年
3月
15
月帯そく: とりの七刻五分ばかりかけながら出いぬの一刻西の方におはる西国にては復して出べし 申1.53初→酉1.65甚[13.97分]→酉7.00出[5.45分, 西1.05分]→戌1.77復, 東→×→西
  • 西国でも出時 1.05分かけているが「西国にては復して出べし」
1725年
9月
16
月そく皆既: うしの七刻東の方よりかけはじめとらの六刻甚うの五刻西の方におはる 丑7.20初→寅6.40甚[14.98分]→卯5.60復, 東→×→西
  • これ以降、「皆つくる」でなく「皆既」と漢字書きになる
1726年
3月
15
月そく六分: いぬの六刻東北の方よりかけはじめいの五刻北の方に甚ねの二刻西北の方におはる 戌6.39初→亥5.29甚[6.71分]→子2.98復, 東北→北→西北
1728年
正月
16
月帯そく: とりの二刻五分半ばかりかけながら出とりの七刻西南の方におはる西国にては三分ばかりかけて出べし 申3.92初→酉1.19甚[6.88分]→酉2.05出[5.91分, 西3.10分]→酉7.82復, 東南→南→西南
  • 出時食分5.91分を「五分半」
  • 「西国にては三分ばかりかけながら出べし」でなく「かけて出べし」
1728年
7月
14
月そく七分: ねの五刻東北の方よりかけはじめうしの三刻北の方に甚とらの二刻西北の方におはる 子5.73初→丑3.81甚[6.98分]→寅2.99復, 東北→北→西北
  • 食甚食分 6.98分を八捨九入仮説により「七分」
1729年
正月
16
月入帯食皆既: とらの七刻東の方よりかけはじめうの六刻甚して入る 寅7.36初→卯6.73甚[13.80分]→卯7.09入[皆既, 西9.32分]→辰6.11復, 東→×→西
  • 「うの六刻甚うの七刻皆既て入」とあるべきかと思うが、「甚して入る」は、食甚時の食分(皆既)のまま月入することを言うか
  • 「月帯そく皆既」ではなく「月入帯食皆既」
  • 西国文言「西国にては九分ばかりかけながら入べし」なし
1730年
6月
15
月そく三分: 夜ねの三刻東南の方よりかけはじめうしの一刻南の方に甚うしの四刻西南の方におはる 子3.78初→丑1.09甚[3.49分]→丑4.70復, 東南→南→西南
  • 月食記事では夜半24:00は日の切れ目ではないので夜子時(23:00~24:00)と子時(24:00~25:00)の区別をつけていなかったが、節気・土用の時刻表記にならい、このあたりからは「夜ねの○刻」表記される
1731年
11月
15
月そく五分: いぬの二刻東南の方かけはじめいぬの七刻南の方に甚いの五刻西南の方におはる 戌2.06初→戌7.24甚[5.18分]→亥5.90復, 東南→南→西南
  • 「よりかけはじめ」ではなく「かけはじめ」
1732年
5月
16
月そく皆既: いの初刻東の方よりかけはじめ夜ねの初刻甚ねの八刻西の方におはる 亥0.81初→子0.35甚[12.36分]→子8.23復, 東→×→西
1732年
10月
14
月帯そく皆既: うの初刻東の方よりかけはじめうの七刻甚たつの初刻月入西国にては八分ばかりにして入べし 卯0.51初→卯7.95甚[14.18分]→辰0.57入[皆既, 西7.99分]→辰7.06復, 東→×→西
  • 「たつの初刻月入」として入時食分表記なし。食甚食分と同食分(皆既)で入ることを言うか
  • 「西国にては八分ばかりかけながら入べし」ではなく「にして入べし」
1733年
4月
15
月帯そく八分: うしの四刻東南の方よりかけはじめとらの三刻南の方に甚月入帯食所見三分ばかり西国にては復して入べし 丑4.31初→寅3.54甚[8.14分]→寅7.94入[3.41分, 西0.72分]→卯2.77復, 東南→南→西南
  • 「とらの七刻三分ばかりかけながら入べし」ではなく「月入帯食所見三分ばかり」と入時刻記載なし。
  • 西国の入時食分は 1 分未満で「復して入べし」と、帯食でなく通常食あつかい
1733年
10月
15
月そく六分半: いぬの八刻東北の方よりかけはじめいの六刻北の方に甚夜ねの三刻西北の方におはる 戌8.21初→亥6.34甚[6.50分]→子3.31復, 東北→北→西北
  • 食甚食分「六分半」。6.50分を「六分半」と記載したい気持ちはわかる気がするが「半」とする基準が全く見えない
1735年
3月
15
月そく五分: とりの七刻東北の方よりかけはじめいぬの三刻北の方に甚いの二刻西北の方におはる 酉5.45出→酉7.18初→(酉7.95西国出[1.45分])→戌3.92甚[5.29分]→亥2.36復, 東北→北→西北
  • 西国は出帯食だが、京都が通常食なので特段言及なし
1737年
2月
16
月そく五分: ねの六刻東南の方よりかけはじめうしの四刻南の方に甚とらの一刻西南の方におはる 子6.92初→丑4.90甚[5.40分]→寅1.33復, 東南→南→西南
1738年
12月
15
月帯そく: うの六刻 東北の方よりかけはじめ三分ばかりかけながら入西国にては所見五分ばかり 卯6.53初→卯8.31入[2.30分, 西4.66分]→辰4.58甚[6.63分]→巳3.95復, 東北→北→西北
  • 入時食分 2.30分を「三分」
  • 西国入時食分 4.66分を「五分」
  • 入時刻記載なし
  • 「西国にては所見〇分ばかり」
1739年
6月
15
月そく八分: ねの四刻東南の方よりかけはじめうしの二刻南の方に甚とらの初刻西南の方におはる 子4.36初→丑2.54甚[8.87分]→寅0.71復, 東南→南→西南
1739年
12月
15
月帯そく: うの一刻東の方よりかけはじめ皆つきて入 卯1.59初→辰0.44入[皆既]→辰1.91甚[14.87分]→辰2.94西国入[皆既]→巳2.23復 東→×→西
  • 入時刻記載なし
  • 入時食分が皆既であるのを「皆つきて入」と記載する初例。ただし以降の例では「皆既て入」と漢字表記するのが通例
1740年
6月
16
月帯そく皆つきて出: いぬの一刻光を生じいぬの七刻西の方におはる西国にては所見七分ばかり 酉1.20初→酉8.27甚[10.96分]→戌0.60出[皆既, 西6.93分]→(戌1.37生還)→戌6.997復, 東→×→西
  • 出時刻が表示されていない。また「月帯そく皆つきて出」までが表題部。
    「月帯そく皆既: 酉の初刻皆つきて出」について出時刻を表示しないと「月帯そく皆既: 皆つきて出」となり「皆既: 皆つきて」に重複感があるためにこのような記載となったのであろうか
  • 「いぬの一刻光を生じ」は生還(皆既のおわり)を表記したものか。頒暦の食記事に記載するのは異例
  • このあたりから「西国にては〇分かけながら出/入べし」ではなく「西国にては所見〇分ばかり」と記載するのが通例となる
1742年
4月
15
月そく四分: いの五刻東南の方よりかけはじめねの二刻南の方に甚うしの初刻西南の方におはる 亥5.96初→子2.30甚[3.96分]→丑0.95復, 東南→南→西南
  • 食甚食分、八捨九入仮説により 3.96分を「四分」
  • 元文五(1740)年暦から「夜ねの○刻」の表記法は用いなくなっている。
1742年
10月
16
月そく五分: いぬの八刻東北の方よりかけはじめいの四刻北の方に甚ねの二刻西北の方におはる 戌8.10初→亥4.44甚[5.26分]→子2.37復, 東北→北→西北
1743年
4月
15
月そく皆つくる: いの五刻東の方よりかけはじめねの五刻甚うしの五刻西の方におはる 亥5.37初→子5.42甚[13.18分]→丑5.48復, 東→×→西
  • 食甚食分「皆既」でなく「皆つくる」
1744年
3月
14
月帯そく: とらの三刻東北の方よりかけはじめうの一刻六分ばかりかけながら入西国にては七分ばかりかけながら入べし 寅3.93初→卯1.32入[5.78分]→卯2.83甚[7.42分]→卯3.82西国入[6.35分]→辰0.93復, 東北→北→西北
  • 入時食分 5.78分を「六分」
  • 西国入時食分 6.35分を「七分」
  • 「西国にては所見〇分ばかり」の形式ではない
1744年
9月
16
月そく六分: いぬの三刻東南の方よりかけはじめいの二刻南の方に甚いの八刻西南の方におはる 戌3.18初→亥2.19甚[6.15分]→亥8.05復, 東南→南→西南
1746年
正月
16
月そく六分: ねの五刻東南の方よりかけはじめうしの二刻南の方に甚とらの一刻西南の方におはる 子5.80初→丑2.90甚[6.52分]→寅1.17復, 東南→南→西南
1747年
7月
15
月帯そく: 所見七分ばかりいぬの二刻西の方におはる西国にては所見三分ばかり 申3.95初→酉3.20甚[14.26分]→酉6.69出[8.07分, 西3.15分]→戌2.46復, 東→×→西
  • 出時食分 8.07分を「七分」
  • 出時刻が表示されず、「酉の六刻七分ばかりかけながら出」ではなく「所見七分ばかり」
1748年
正月
16
月そく五分: いぬの初刻東北の方よりかけはじめいぬの七刻北の方に甚いの四刻西北の方におはる 戌0.65初→戌7.89甚[5.13分]→亥4.91復, 東北→北→西北
1749年
5月
16
×
酉5.35初→酉7.28甚[1.45分]→戌0.78出[0.62分, 西分0分]→戌3.41復, 北→×→西北
  • 出時食分が 1 分未満の食甚が見えない帯食であり、不記載
  • 西国の出時食分は、復末前だが初虧復末時差の関係でゼロ分
1749年
11月
14
月そく五分: とらの四刻東南の方よりかけはじめうの初刻南の方に甚うの七刻西南の方におはる 寅4.06初→卯0.85甚[5.11分]→卯7.79復, 東南→南→西南
1750年
5月
16
月帯そく: とらの四刻東の方よりかけはじめとらの七刻五分ばかりかけながら入べし 寅4.47初→寅7.50入[5.09分, 西9.29分]→卯3.93甚[11.37分]→辰3.39復, 東→×→西
  • 西国の出入時食分記載なし。このあたりから頻繁に不記載に
  • 「かけながら入」ではなく「かけながら入べし」
1750年
11月
15
月帯そく: さるの八刻五分ばかりかけながら出とりの一刻西の方におはるべし 未3.61初→申2.70甚[14.08分]→申7.55出[5.16分, 西0.14分]→酉1.78復, 東→×→西
  • 出時刻の申7.55刻を「さるの八刻」。1753年以降は時刻の刻数が四捨五入になるが、復末時刻の酉1.78刻は「酉の一刻」なので、四捨五入というわけでもなさそう
  • 西国の出入時食分記載なし
  • 「におはる」でなく「におはるべし」
1751年
10月
15
月帯そく: うの三刻東の方よりかけはじめ五分ばかりかけながら入る西国にては六分ばかりかけながら入べし 卯3.22初→辰0.57入[5.75分]→辰1.38甚[6.66分]→辰3.07西国入[4.76分]→辰6.77復, 東北→北→西北
  • 陽暦の中規模食であり、初虧方向角は「東の方」ではなく「東北の方」であるべき
  • 西国の入時食分 4.76分を「六分」としており不審。西国では食甚が見える入帯食になるため、食甚食分 (6.66分) を記載しているのだろうか
  • 入時刻「たつの初刻」記載なし
  • 「かけながら入」でなく「かけながら入る」
1753年
3月
14
月そく四分: うしの六刻東北の方よりかけはじめとらの二刻北の方に甚うの一刻西北の方におはる 丑6.08初→寅2.40甚[4.65分]→卯0.61復, 東北→北→西北
  • この年より辰刻の刻数は四捨五入。復末時刻 卯0.61刻を「うの一刻」とする
1753年
9月
16
月帯そく: とりの三刻五分ばかりかけながら出いぬの二刻西南の方におはる西国にては所見三分ばかり 申5.30初→酉2.44出[5.48分]→酉2.59甚[5.61分]→酉2.44西国出[3.58分]→戌1.61復, 東南→南→西南
  • 出時刻の酉2.44刻を「とりの三刻」。
  • 表題部の食甚食分・食甚文言なし。出時刻が「とりの三刻」なのだとすれば、たしかに、食甚(酉2.59刻)は月出前であり、食甚文言がなくてしかるべきなのだろうが
1754年
閏2月
15
月帯そく: とりの六刻六分ばかりかけながら出いぬの初刻西の方におはる 申2.39初→酉1.31甚[6.42分]→酉5.45出[6.42分, 西1.27分]→戌0.24復, 東→×→西
  • 出時刻の酉5.45刻を「とりの六刻」
  • 西国の出入時食分記載なし
1754年
8月
15
月帯そく: とりの三刻八分ばかりかけながら出とりの七刻甚但し既べしいぬの八刻西の方におはる 申6.83初→酉3.32出[8.30分, 西皆既]→酉7.20甚[14.56分]→戌7.56復, 東→×→西
  • 食甚が見える出帯食だが、表題部に食甚食分(皆既)の記載なし。そのかわりなぜか食甚文言に「但し既べし」との記載。読み方は「ただしつくべし」?
  • 西国の出入時食分記載なし


日食記事

年月日
頒暦の月食記事 突合結果
1719年
正月
1
日帯そく三分: さるの五刻北方よりかけはじめとりの初刻甚二分半ばかりかけながら入る西国にては復して入べし 申5.67初→酉0.94[3.45分]甚→酉1.63[2.89分, 西0.89分]入→酉5.95, 西北→北→東北
  • 初虧方向角は「西北の方」であるべきだが「北方」
  • 入時食分 2.89分を「二分半」
  • 「かけながら入」とあるのが通常だが「入る」と送り仮名あり
  • 西国の入時食分は 1分未満のため、通常食扱いし「西国にては復して入べし」
1720年
7月
1
日そく七分: むまの八刻西南の方よりかけはじめひつじの四刻南の方に甚さるの一刻東南の方におはる 午8.19初→未4.995[7.13分]甚→申1.80復, 西南→南→東南
1721年
7月
1
日帯そく: とりの四刻西北の方にかけはじめ四分ばかりかけながら入べし 酉4.95初→戌0.06[4.04分]入→戌1.87[6.17分]甚→戌2.56[5.36分]西国入→戌7.12, 西北→北→東北
  • 入時刻(いぬの初刻)記載なし
  • 「よりかけはじめ」でなく「にかけはじめ」
  • 「かけながら入」でなく「入べし」
  • 西国出入時食分記載なし
1721年
11月
1
×
巳2.80[0.04分]甚→巳3.44初→巳4.31復, 北→×→東北
  • 0.04分の極小の食であり記載なし
  • 定用分より初虧復末時差のほうが大きくなってしまい、初虧と食甚の時刻が逆転
1723年
5月
1
日そく三分: むまの三刻西南の方よりかけはじめむまの六刻南の方に甚ひつじの二刻東南の方におはる 午3.47初→午6.66[3.36分]甚→未2.84復, 西南→南→東南
1725年
9月
1
日帯そく一分半: とりの初刻北の方よりかけはじめとりの二刻甚とりの三刻わづかにかけながら入見へがたかるべき蝕 酉0.20初→酉2.03[1.496分]甚→酉2.89[1.04分, 西0分]入→酉5.86復, 北→×→東北
  • 食甚食分 1.496分を「一分半」。そう書きたい気持ちはわかるが
  • 入時刻 酉2.89刻を「とりの三刻」
  • 入時食分 1.04分を「わづかに」
  • 「見へがたかるべき蝕」の記載基準がはっきりしない。
1730年
6月
1
日そく八分: むまの七刻西の方よりかけはじめひつじの四刻甚さるの二刻東の方におはる 午7.52初→未4.83[8.14分]甚→申2.15復, 西→×→東
1731年
12月
1
日そく九分余: たつの七刻西の方よりかけはじめみの四刻甚むまの一刻東の方におはる 辰7.55初→巳4.28[9.95分]甚→午1.00復, 西→×→東
  • ほぼ皆既(9.5分以上?)のとき、「九分余」としたようだ
1735年
9月
1
日そく九分余: みの五刻西の方よりかけはじめむまの一刻甚むまの六刻東の方におはる 巳5.22初→午1.94[9.69分]甚→午6.99復, 西→×→東
1740年
11月
1
日帯そく: 五分ばかりかけながら出たつの三刻東北の方におはる西国にては復して出べし 卯2.56初→卯7.38[6.38分]甚→辰0.83[4.02分, 西0.71分]出→辰3.87復, 西北→北→東北
  • 出時刻(たつの初刻)記載なし
  • 出時食分 4.02分を「五分」
  • 西国の出時食分 0.71分が僅少のため不見食扱いし「西国にては復して出べし」
1742年
5月
1
日そく八分: たつの四刻西の方よりかけはじめみの初刻甚みの五刻東の方におはる 辰4.52初→巳0.92[8.04分]甚→巳5.65復, 西→×→東
1744年
9月
1
日そく四分: たつの六刻西北の方よりかけはじめみの二刻北の方に甚みの六刻東北の方におはる 辰6.47初→巳2.03[4.65分]甚→巳6.51復, 西北→北→東北
1745年
3月
1
日そく二分: みの七刻南の方よりかけはじめむまの二刻甚むまの六刻東南の方におはる 巳7.72初→午2.16[2.40分]甚→午6.75復, 南→×→東南
1746年
2月
1
日そく七分: みの五刻西北の方よりかけはじめむまの二刻北の方に甚むまの八刻東北の方におはる 巳5.37初→午2.55[7.26分]甚→午8.07復, 西北→北→東北
1747年
7月
1
日帯そく: とりの五刻西北の方よりかけはじめ所見二分ばかりにして入見へがたかるべき蝕 酉5.86初→酉7.7[2.03分]入→戌0.77[3.13分]甚→戌1.87[2.26分]西国入→戌5.51復, 西北→北→東北
  • 入時刻(とりの七刻)記載なく「所見二分ばかりにして入」
  • 「見へがたかるべき蝕」の記載基準不明
  • 西国の出入時食分記載なし
1751年
5月
1
×
巳0.27初→巳2.29[1.98分]甚→巳5.97復, 北→×→東北
  • このあたりから 3 分未満の日食は記載しないようになったようだ。1747年7月の可見食分 2.03分の食は記載していたが。
1754年
閏2月
1
×
寅6.68初→卯0.86[2.07分]甚→卯4.08[0.16分]出→卯5.34復→卯6.58[0分]西国出, 北→×→東北
  • 出時食分 0.16分の極小の食であり不記載。

以上。帯食の出入時時刻や出入時食分などを中心に、計算と合わないケースも多々あり、計算にいまいち自信が持てないところもあるが、まあ、なんとなく合っている場合の方が多い気はする。

次回は、宝暦暦の日月食法について。貞享暦とほとんど変わらないが。

 

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