前回までのところで、貞享暦における日月食の暦算について説明してきたわけだが、そこで算出したものと、実際の頒暦に記載されている日月食記事との突合を行う。
貞享暦初期は、日月食記事の文言のフォーマットがまだ固まっていない、というかフリーフォーマットで書いているように思われ固めようという意思があるのかどうかもよくわからない。後半になると、だんだん記載フォーマットが固まってくる。
今回は、前半の記載フォーマットが固まっていない時期、貞享二(1685)年暦~正徳六(享保元 1716)年暦について。
後の時代の日月食記事は「初虧→食甚→復末」パターン、つまり、「○の○刻×の方よりかけはじめ、○の○刻×の方に甚しく、○の○刻×の方におはる」のように、初虧の時刻と方向角を書き、食甚の時刻と方向角を書き、復末の時刻と方向角を書く、という記載パターンとなる。
が、初期の日月食記事では「時刻→方向角」パターンが多い。戌の時に東からかけはじめ、亥の時に西にかけおわるとき、「いぬいの時東の方よりかけはじめ西の方におはる」のような形となる。
とはいえ、後のスタイルに近い「初虧→復末」パターン(「初虧→食甚→復末」パターンと基本的に同じだが食甚文言がない)も見られる。復末時刻が「明朝」の場合や、初虧~復末が三時辰以上にまたがるとき、このパターンになりやすい。また、食甚文言がある「初虧→食甚→復末」パターンもないわけではない。
時刻は、辰刻表示(ex. 「戌の二刻」)ではなく、時辰のみ(いぬの時)で表示されている。その際、初虧時刻が八刻、復末時刻が初刻であるとき、その時辰において食が起こっている時間がとても短いので、その場合、初虧時刻は次の時辰からかけはじめたことに、復末時刻は前の時辰にかけおわったことにしているようだ。例えば、辰八刻からかけはじめ、午初刻にかけおわるとき、辰八刻は巳時に、午初刻も巳時にして、時刻表示としては「みの時」となる。
また、月食記事において、時刻が晨分(夜明け。日出の2.5刻前)以降の場合、「明朝」「あくるあさ」「○日の朝」等と記載しているようだ。入帯食で月入時刻を「明朝」とするものもあるが、月食時の月入時刻(イコール日出時刻)が「明朝」なのは当たり前であって、それで時刻を表示したことになるのかは疑問。
基本は辰刻表示の時刻ではなく、時辰単位の時刻表示なのだが、なぜだか知らないがまれに辰刻表示も散見される。また、「寅の下刻」などの表現も見られる。寅時(3:00~5:00)の前半(寅初。3:00~4:00)を「寅の上刻」、後半(寅正。4:00~5:00)を「寅の下刻」としたものか。
食分は、基本的にすべて整数単位の切捨て。1分未満(切り捨てるとゼロになる)は不食扱い(不記載)のようだ。ただし、1分以上でも不記載となっているものもある。完全な切捨てでもないようで、「八捨九入」、つまり、端数が .90分以上なら切り上げているように思われる。
宝暦暦初期(宝暦十三(1763)年九月日食を不記載とする失態を犯す前)では「3 分未満は不記載」という内規があったらしいが、貞享暦では 3 分未満でも記載した例は見られる。
食分は、初期は「○ふん」とかな書き、元禄三(1690)年暦から「〇分」と漢字書きになる。皆既の場合、この時期は「皆つくる」と「既」がかな書きだった。
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言わずもがなだが、「つくる」は、「つきず、つきたり、つく、つくる時、つくれば、つきよ」と活用する上二段活用動詞の連体形である(というより、連体形と終止形が語形統合した終止連体形というべきか)。現代語でいうところの「尽きる」。
文言は、「○の○刻×の方よりかけはじめ」「○の○刻×の方に甚(※)」「○の○刻×の方におはる」「○の○刻◇分ばかりかけながら出」「○の○刻◇分ばかりかけながら入」のようなかたちに統一されるまで、いろいろ揺れている。
- (※) 食甚文言の「に甚」は、さらに後には「に甚しく」となる
方向角の記載方法も、のちには「北の方」「西北の方」のように記載文言が固まるが、この時期では「正北」「北方」「きたの方」「西北方」「西北」「にしきたの方」「いぬいの方」などのように表記が揺れている。
帯食は、情報量がかなり貧弱なものが見られる。ほとんど「帯食があるんだなあ」程度しかわからないぐらいの。
出帯月食は「とりの時」、出帯日食は「うの時」から書き始める例が多い。夏冬の食だと月出(イコール日入)・日出は、必ずしも酉時、卯時ではないが、それでも「とりの時」「うの時」なので、単に出帯月食・出帯日食を意味する決まり文句だと考えた方がよさそう。
地方によって出入時刻がずれるので、帯食の見え方が異なりうる。「東国」「西国」での見え方に関する注記が散見されるが、おそらく、この時期においては特定の地域をイメージして記載しているものではないように思われる。
食甚の見えない出帯食(食の最後の方だけが見えている)のとき、「西国にては不見」とあるが、これは「十分に西に行けば、食がおわってから日月が出るので不見になる」、つまり、単に食甚の見えない出帯食であることを意味しているだけのようだ。
また、食甚が見える入帯食(食の最後の方だけが入後で見えない)のとき、「西国にては復して入べし」とあり、これも「十分に西に行けば、食がおわってから日月が沈むようになるので、入帯食ではない通常食になる」、つまり、食甚が見える入帯食であることを意味しているだけのようだ。
さて、では、貞享暦初期の頒暦記載の日月食記事と、計算結果とを比較してみよう。
計算結果で、
「丑0.46初→寅0.61甚[11.85分]→(寅5.01晨)→寅6.17復→寅7.51入[0.22分],
東→×→西」
などと記載しているのは、
「丑の0.46刻にかけはじめ、寅の0.61刻に食甚(食甚食分は
11.85分(皆既))、寅の5.01刻が晨分(夜明け)、寅の6.17刻にかけおわり、寅の7.51刻に月入(入時食分は
0.22分)。方向角は、初虧では東、食甚では "記載せず"、復末では西」
であることを意味する。
突合の結果を、
- 赤字: 食分・時刻・方向角などの算出値が不一致のもの、または、不一致の懸念があるもの
- 青字: 記載情報量に過不足があるもの
- 黒字: 文言表記が不一致。その他コメント
で記した。ただし、黒字の「文言表記が不一致」は、この時期あまりにも多いので、目に付くポイントだけを記した。
頒暦記載の日月食記事において、表題部(「月そく」「日帯そく」等の文言と食甚食分を記載)と、ボディー部とをコロンで区切って表記した。享保三(1718)年暦あたりから「表題部は一行書きで大書、ボディー部は二行書き」になるのだが、実のところ、この時期はすべて一行書きなので、表題部とボディー部との違いははっきりしていないし、表題部とボディー部という概念があったのかどうかも定かではない。後の時代、表題部に書かれるような情報が書かれている部分を表題部としただけなので、あまり気にしないでおいていただきたい。
初期の月食記事
年月日 |
頒暦の月食記事 | 突合結果 |
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1685年 5月 15 |
月そく皆つくる: うしの時東方より初明朝西方に復 |
丑0.46初→寅0.61甚[11.85分]→(寅5.01晨)→寅6.17復→寅7.51入[0.22分], 東→×→西
|
1685年 11月 15 |
月帯そく: 寅の下刻より十六日の朝まで於東国未既於西国皆既にして入 |
寅7.07初→(卯6.60晨)→辰0.56甚[14.64分]→辰0.76入[皆既]→辰7.79復, 東→×→西
|
1686年 4月 16 |
月そく: 月の出うしとらの方より初いぬの時北方八分いの時いぬいの方に復 |
酉8.04初→戌0.66出[0分]→戌7.66甚[7.98分]→亥4.20復, 東北→北→西北
|
1686年 10月 14 |
× |
卯4.36初→辰0.52入[2.07分]→辰4.89甚[6.06分]→巳0.96復, 東南→南→西南
|
1688年 3月 15 |
月そく六ふん: うしの時よりあくるあさまで東南方より初西南方に復 |
丑2.56初→寅0.48甚[6.34分]→(寅8.00晨)→寅8.20復, 東南→南→西南
|
1688年 9月 16 |
月そく六ふん: いぬいの時ひがしきたの方より初にしきたの方に復 |
戌1.42初→戌6.62甚[6.29分]→亥4.72復, 東北→北→西北
|
1689年 2月 15 |
月そく皆つくる: うしの時ひがしの方より初あくる朝にしの方に復 | 丑1.05初→寅1.25甚[14.64分]→(卯0.53晨)→卯1.44復, 東→×→西 |
1690年 2月 14 |
月帯そく: 於東国不見於西国は月の入二分ばかり可現 |
卯2.15初→卯3.92入[0.81分, 西3.01分]→辰0.88甚[5.49分]→辰6.25復, 東北→北→西北
|
1690年 8月 16 |
月そく四分: いねの時ひがしみなみより初にしみなみの方に復 |
亥0.19初→亥6.99甚[4.59分]→子3.46復, 東南→南→西南
|
1691年 12月 16 |
月そく七分: いの時ひがしみなみの方より初うしの時までにしみなみの方復 |
亥7.12初→子4.65甚[7.38分]→丑2.94復, 東南→南→西南
|
1693年 6月 15 |
月帯食皆既とりの時: いぬの時に東方よりひかり生いの時西方に復す |
酉4.20初→戌0.30出[7.90分,
西12.36分]→戌3.38甚[11.63分]→(戌5.27生還)→亥2.55復 東→×→西
|
1693年 12月 16 |
月そく四分: いぬいの時ひがしきたよりかけ初きたの方に復す |
酉8.25初→戌6.90甚[4.55分]→亥3.49復, 東北→北→西北
|
1695年 4月 16 |
月そく四分: いぬの時北方より初いの時西北の方におはる |
戌2.96初→戌7.21甚[4.36分]→亥5.01復, 東北→北→西北
|
1695年 10月 14 |
月そく五分: うしの時東南方より初とらの時西南方におはる |
丑7.70初→寅4.77甚[5.48分]→卯3.56復, 東南→南→西南
|
1697年 9月 15 |
月そく六分: とらの時東北の方にかけ初め明朝西北の方に復す |
寅2.80初→卯0.87甚[6.00分]→(卯4.77晨)→卯5.92復, 東北→北→西北
|
1699年 2月 14 |
月そく六分: とらうの時東北よりかけ初め明朝西北の方に復す |
寅0.06初→寅5.83甚[6.38分]→(卯2.17晨)→卯4.61復, 東北→北→西北
|
1699年 8月 16 |
月そく七分: とりいぬの時南方よりかけ初め西南の方に終る |
酉3.47初→酉5.11出[2.17分]→戌1.78甚[7.38分]→亥0.95復, 東南→南→西南
|
1700年 正月 15 |
月帯そく六分半: とりの時西の方に復す西国にては不見 |
申0.03初→申7.36甚[14.19分]→酉2.78出[7.28分]→酉6.36復, 東→×→西
|
1700年 7月 15 |
月そく: いぬの時東の方にかけ初めいの時既ねの時西の方に復す |
戌2.97初→亥0.50食既→亥3.23甚[13.43分]→子3.49復, 東→×→西
|
1701年 7月 15 |
月そく四分: いねの時東北よりかけ初め西北に復す |
戌8.10初→亥6.72甚[4.26分]→子3.17復, 東北→北→西北
|
1702年 6月 15 |
× |
酉6.46初→酉7.38甚[0.70分]→戌0.61出[0.22分]→戌2.68復, 南→×→西南
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1702年 11月 16 |
月帯そく三分: とりの時西国にてはみゆべからず |
未5.19初→申3.35甚[6.86分]→申7.61出[2.75分]→酉2.72復, 東北→北→西北
|
1703年 11月 15 |
月帯そく: とりの時月の出すこしかくる |
未0.50初→申0.85甚[14.73分]→申7.50出[3.51分]→酉1.20復, 東→×→西
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1704年 5月 16 |
月そく九分: うしの時よりかけ初め明る朝かけながら入西国にては復して入べし |
丑7.04初→(寅5.01晨)→寅5.36甚[8.94分]→寅7.51入[6.06分]→卯3.69復, 東北→北→西北
|
1704年 11月 15 |
月帯そく四分: とりの時西国にてはみへがたし |
未6.79初→申5.86甚[6.20分]→申7.57出[4.61分]→酉3.46復, 東南→南→西南
|
1706年 9月 15 |
月そく五分: とらの三刻東北の方にかけ初めとらの八刻北の方に甚うの六刻西北の方に復す |
寅3.27初→寅8.26甚[5.88分]→卯6.30復, 東北→北→西北
|
1707年 9月 16 |
月そく皆つくる: とりの六刻東の方にかけはじめいの四刻西の方に復す |
酉6.61初→戌5.77甚[14.55分]→亥4.94復, 東→×→西
|
1708年 8月 16 |
月そく五分: とらの時かけそめ月入まで東国にてはあかつきしばらくの間みるべし |
寅6.26初→卯4.87入[5.11分]→卯4.95甚[5.18分]→辰1.83復, 東南→南→西南
|
1710年 7月 15 |
月帯そく八分: とりいぬの時かけながら出西北の方に復す |
酉1.17初→酉7.47出[7.05分]→酉8.19甚[7.82分]→戌7.34復, 東北→北→西北
|
1710年 12月 16 |
月そく皆つくる: いぬいねの時東の方よりかけ西の方に復す |
戌5.84初→亥5.18甚[13.57分]→子4.51復, 東→×→西
|
1711年 6月 14 |
月そく皆つくる: うしとらの時東の方よりかけ西の方に復す | 丑0.89初→寅0.11甚[12.56分]→寅7.66復 東→×→西 |
1711年 12月 16 |
月そく四分: とらうの時東北の方よりかけ西北の方に復す | 寅0.68初→寅7.73甚[4.68分]→卯4.43復, 東北→北→西北 |
1713年 5月 16 |
月帯そく三分: とらの時北の方よりかけそめうの時西国にて復して入べし |
寅1.20初→寅4.87甚[3.44分]→寅7.63入[1.42分]→卯2.30復
東北→北→西北
|
1714年 10月 15 |
月そく皆つくる: いの時東方よりかけそめねの時西方におはる |
戌6.27初→亥5.39甚[14.34分]→子4.51復, 東→×→西
|
1715年 4月 16 |
月そく七分: いぬの時東南の方よりかけはじめいの時西南の方におはる |
戌1.30初→亥0.71甚[7.24分]→亥7.47復, 東南→南→西南
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初期の日食記事
年月日 |
頒暦の日食記事 | 突合結果 |
---|---|---|
1688年 4月 1 |
日そく五ふん: みむまの時西北より初東北終 |
巳2.68初→巳7.03[5.52分]甚→午3.05復, 西北→北→東北
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1690年 8月 1 |
日そく四分: みの時にしきたの方より初ひがしきたの方に復す |
辰8.19初→巳3.9[4.78分]甚→午0.07復, 西北→北→東北
|
1691年 2月 1 |
日そく四分: ひつじの初刻西南方よりかけひつじの四刻正南さるの初刻東南方に復 |
未0.59初→未4.46[3.90分]甚→申1.17復, 西南→南→東南
|
1692年 正月 1 |
日そく六分: むまの七刻西北方よりかけひつじの四刻正北に甚さるの一刻東北方に復 |
午7.33初→未4.30[6.02分]甚→申1.27復, 西北→北→東北
|
1697年 3月 1 |
日そく五分: みの時西北の方にかけ初め東北の方に復す |
巳1.55初→巳5.85[5.54分]甚→午1.83復, 西北→北→東北
|
1700年 正月 1 |
日そく二分半: うたつの時見えがたし |
卯5.16初→卯6.71[1.73分]出→辰0.07[2.97分]甚→辰4.95復, 北→×→東北
|
1701年 正月 1 |
日帯そく五分: うの時南の方かくる西国にては不可見 |
卯0.17初→卯5.71[7.63分]甚→卯7.47[5.21分]出→辰2.92復, 西南→南→東南
|
1702年 7月 1 |
日帯そく七分: うの時南の方かくる西国にては不可現 |
寅1.83初→寅7.17[9.46分]甚→寅8.27[7.51分]出→卯4.18復, 西→×→東
|
1704年 11月 1 |
日帯そく九分: さるの初刻西の方にかけ初めさるの下刻食甚日入半帯食西国にては復して入べし |
申1.14初→申6.25[9.80分]甚→申7.94[6.57分]入→酉3.04復, 西→×→東
|
1709年 8月 1 |
日そく四分: たつみの時西南の方よりかけそめ東南の方に復す | 辰5.67初→巳1.65[4.28分]甚→巳5.15復, 西南→南→東南 |
1712年 6月 1 |
日そく九分: とらうの時 |
寅4.15初→寅7.61[5.73分]出→卯1.54[9.48分]甚→卯7.27末, 西→×→東
|
1716年 3月 1 |
日そく五分: むまの一刻西南の方よりかけはじめひつじの二刻東南の方におはる |
午1.05初→午5.42[5.68分]甚→未1.45復, 西南→南→東南
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以上、比較してきたが、「まあまあ、概ねは合ってるのかもなあ」という感じ。それ以上のことは言えない。
次回は、享保二(1717)年暦以降の日月食記事との突合を行う。
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