前回までのところで、日月食関連を除き、江戸時代の幕府天文方による暦(貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦)の暦法の説明が完了した。
今回は、明治の新暦改暦以降における「旧暦」について少し話しておくこととする。
明治六(1873)年暦より、太陽暦が採用された。明治六年天保暦は作成はされたものの実際には施行されなかった。
新暦改暦に伴い、当然のことながら、太陰太陽暦ベースで記載されていた月日が、太陽暦(グレゴリオ暦)ベースで記載されることになる。
また、日の吉凶に関する暦注(十二直、納音、選日、暦注下段)はすべて姿を消し、かわりに宮中祭祀や官幣社などの神社祭祀の日程が掲載されるようになった。雑節のうち、吉書始と三伏(初伏・中伏・末伏)は廃止されたが、その他の雑節は引き続き掲載されている。
- 以前に説明したが、明治期に一部の雑節の日取り方法が変更されている。
-
入梅
「芒種以降の最初の壬日」であったものが、明治九(1876)年暦から「太陽真黄経が春分起点 80° となる日時が属する日」に変更されている。 -
社日
春秋分に再近傍の戊日だが、春秋分が癸日で 5 日前も 5 日後も戊日の場合、明治七(1874)年暦までは「前の戊日」、明治十四(1881)年暦以降は「春秋分が午前のとき前の戊日、午後のとき後の戊日」。明治八(1875)~十三(1880)年暦では両者に差が出ないのでどちらだったか不明。
日の吉凶関連の暦注がなくなったことによって、スッカスカになった暦面を「これじゃあちょっとなあ」と思ったのかどうか知らないが、日々の太陽の赤緯などの天文情報を表記したり等している。そのあたりの情報が年を経るごとに拡充されていって、「暦」っていうよりこれ、理科年表なんじゃないの?
という感じになっていく。江戸時代に吉凶暦注を楽しみに暦を買っていた人たちからすると「いや、おれらが欲しいのはこれじゃないんだけどー」という感じかも知れない。
参考情報として併記された「旧暦」
明治六(1873)年暦~明治四十二(1909)年暦までの間、移行措置として、太陰太陽暦が併記されている。暦の下部に、明治六~十二年暦は「太陰暦」、明治十三~十九年暦は「太陰盈虚」、明治二十~四十二年暦は「月盈虚」と題されたカラムがあり、毎日が旧暦の何日か、旧暦の朔日にあたる場合「何月一日」か、が記載されている。また毎日の日干支も記載され、新暦1月1日と旧暦正月一日には年干支(新暦1月1日の箇所は前年の年干支)も記載されている。
- 「本暦」においては上記のとおりだが、「略本暦」においては、明治十二(1879)年暦までは本暦と同様「太陰暦」で、明治十三(1880)~明治四十二(1909)年暦は「旧暦(舊曆)」と記載されていた。
明治四十三(1910)年暦以降は、太陰太陽暦の併記がなくなり、もともと「月盈虚」が記載されていた場所には月齢が記載されるようになった。朔の日は記載されているから「旧暦日」は再現できるものの、それが何月かは単純には再現できない。
- 太陰太陽暦の併記はなくなったが、日干支は下段の月盈虚のカラムから、上段の新暦のカラムに移され、年干支は表紙や表題部等へ移されて生き残った。戦後の暦要項に日干支・年干支は表記されていないが、理科年表(暦部)(および、それと内容的に同一の暦象年表)には、年干支と1月1日の日干支が表記されている。
- なお、新暦改暦に伴い、月干支は廃止されている。
旧暦月がわからないといっても、再現しようと思えば二十四節気の中気を見て無中気月を探し置閏すれば出来るっちゃできる。しかし、それも、大正十二(1923)年暦~昭和十九(1944)年暦の間、二十四節気が限定的にしか表示されず、暦面からだけの情報では旧暦の作暦が出来ないようになっている。具体的には、二至(夏至・冬至)、二分(春分・秋分)、四立(立春・立夏・立秋・立冬)、および、小寒・大寒・小暑・大暑のみしか表示されなかった。中気のうち、雨水正月中・穀雨三月中・小満四月中・処暑七月中・霜降九月中・小雪十月中の 6 中気が記載されていないので、旧暦作暦のための情報としては不足している。たぶん、
- 旧暦併記していた
- → いつまでたってもみんなが旧暦使用をやめない
- → じゃあ、旧暦併記やめる!
- → 本暦に記載されていた二十四節気と朔から勝手に旧暦作暦してやっぱり旧暦使用をやめない
- → じゃあ、二十四節気のうち、実用的な意味があまりないものを記載しないようにして、旧暦作暦に使えないようにしてやる!
……みたいな感じの「旧暦を意地でも使わせない!」という嫌がらせだったんじゃないかと想像する。
が、戦前の最後の暦、昭和二十(1945)年暦から二十四節気のフル表記がなぜか復活し、それが戦後の暦要項にも引き継がれているので、現在では暦要項に記載の情報(二十四節気の中気と、朔弦望の朔)から旧暦を作暦することが可能となっている。
旧暦併記時期における「旧暦(太陰暦・太陰盈虚・月盈虚)」はどのように作暦されていたか
旧暦が併記されていた明治六~四十二年暦の間、旧暦はどのように作暦されていたのであろうか。はっきりした情報はないが、参考になるのは平山ルールだろう。東京帝国大学の天文学者であり、東京天文台にも勤務していた平山清次が、旧暦の暦法を整理したものである。「日本百科大事典」に記載され、また、平山の著作「暦法及時法」(1933
恒星社)にも転載された。
天保暦の準拠せる暦法原則を今の術語によりて記載せば次の如し。
明治五年改暦以後同四十二年迄、太陽暦に附して頒布したる太陰暦も亦、此原則に拠りたるものなり。但し第三項の日の始は明治二十年迄は東京に於ける地方平均太陽時午前零時を採り、以後は中央標準時午前零時に改めたり。
- (一) 太陽と太陰の黄経の相等しき時刻を朔とす。 (定朔)
- (二) 各宮の原点に太陽の在る時刻を中気とす。 (定気)。
- (三) 暦日は京都に於ける地方真太陽時午前零時に始まる。
- (四) 暦月は朔を含む暦日に始まる。
- (五) 暦月中冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むを五月、秋分を含むを八月とす。
- (六) 閏は中気を含まざる暦月に置く。中気を含まざる暦月必ずしもみな閏月とならず。
これは、平山が天保暦の暦法のエッセンスを抽出して(つまり、天保暦においては、日躔・月離の天文予測計算式と「太陰太陽暦の作暦の精神」とが一体となって暦法書(新法暦書)に記載されていたのだが、その作暦精神以外を捨象して)、記載したものであると同時に、明治期の旧暦の作暦方針をも示したものであると考えられる。
平山(一)(二)則において、「朔は太陽と月の黄経が等しい日時である」「中気は太陽の黄経が 30° の倍数となる日時である」という定義がされ(定義が確認され)た。これは、特定の太陽・月の位置予測計算式には依存していない。つまり、天保暦法の日躔・月離によって計算する必要は必ずしもない、ということである。後に詳述しようと思うが、明治期の旧暦併記時代の二十四節気・朔弦望の計算は、(当然ながらというべきか)天保暦の日躔・月離には依っておらず、天保暦よりはるかに精度が高い位置予測計算式に依っているようである。そして、旧暦作暦も、その精度が高い二十四節気・朔弦望に依って作暦しているようである。
平山(三)則で、暦日の定義が示される。
天保暦期の時制は京都真太陽時に依っていた。これは太陽暦改暦によって改定され、明治六~二十年暦においては「東京地方平均太陽時」(※1)、明治二十一年暦以降は中央標準時(JST
= GMT+9:00)を採用している
(※2)。これも旧暦作暦に影響を及ぼしうる要素である。
- (※1) 「明治十一年暦までは東京地方真太陽時、明治十二年暦から東京地方平均太陽時」との情報も見受けられるが、これはある意味正しい。どうやら、明治十一年暦までは日の出入り時刻は東京地方真太陽時で記載されていたようなのだ(日出と日入時刻の中間が正午になっているので、真太陽時であることがわかる)。一方、明らかに二十四節気・土用・朔弦望の時刻は東京地方平均太陽時で記載されている。
- (※2) 明治十七(1884)年10月にワシントン D.C.
で開かれ、日本も参加していた国際子午線会議で、グリニッジを本初子午線とすることが議決されたことを踏まえたものである。
官報 明治十九(1886)年7月13日 勅令第五十一号
一、英国グリニッチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス
一、経度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東経ヲ正トシ西経ヲ負トス
一、明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム
なお、「明治二十年までは日本の標準時は東京地方平均太陽時であった」というわけではないことを注記しておく。中央標準時採用までは、「日本の標準時」というものは定めていなかった。東京は東京の地方平均太陽時に依っていたし、各地は各地の地方平均太陽時に依っていたのである。本暦には、各地の東京からの時差が掲載されていた。「明治六~二十年暦においては東京地方平均太陽時に依っていた」というのは、本暦・略本暦に掲載される二十四節気や朔弦望等の時刻の表記、および、旧暦作暦は、東京地方平均太陽時によってなされていた、というだけのことである。
- 「標準時」という概念自体、鉄道などの近代的技術の進展に伴って生まれてきたものである。日本においても、明治二十二(1889)年の東海道線(新橋~神戸)の開通までは、標準時が必要とされるシーンはあまりなかっただろう。
平山(五)(六)則は、置閏規則である。これは「旧暦2033年問題」を引き起こしうる問題のあるルールであることは以前書いたとおりなのであるが、明治の旧暦併記時代においては、「旧暦2033年問題」が起きなかっただけでなく、そもそも、たまたま、「二中気月があって、その前後に複数の無中気月があり、そのうちどれを閏月にするか決定しなくてはいけない」という、定気法の暦における置閏課題が発生しなかった。よって、この期間は単純に、無中気月を閏月にすればよかった。おかげで、「旧暦2033年問題」のようなものが解決されないまま残存してしまったわけだが。
旧暦併記時代における二十四節気・朔弦望の予測計算
「明治期の旧暦併記時代の二十四節気・朔弦望の計算は、天保暦の日躔・月離には依っておらず、天保暦よりはるかに精度が高い位置予測計算式に依っているようである」と述べた。以下にこれを実際に検証してみようと思う。
これを検証するには、(1) 天保暦で計算した二十四節気・朔弦望、(2)
より高い精度で計算した二十四節気・朔弦望、を求め、それを (3)
本暦に掲載されている二十四節気・朔弦望の日時と比較する必要がある。
天保暦で計算した二十四節気・朔弦望
まず、天保暦の二十四節気・朔弦望を求める。これは、これまでに説明した天保暦の日躔・月離に従っていけばよいわけであるが、天保暦の時制が京都真太陽時であるのに対し、東京地方平均太陽時(明治二十一年以降は、JST = GMT+9:00)に変換しなくてはならない。
京都真太陽時から京都平均太陽時への変換は簡単である。そもそも、天保暦の暦算において、二十四節気・朔弦望の日時は、一旦、京都平均太陽時で算出したうえで、均時差(「時差総」)を加減して京都真太陽時の日時を算出しているのであるから、時差総を加減しなければいいだけのことである。
そして、京都平均太陽時と東京平均太陽時の時差も、月の出入時刻算出のところでも記載したとおり、天保暦法において、京師と江戸の時差として定義されている。0.0113 日(16分16秒.32)である。天保暦法によって算出した京都平均太陽時に 0.0113日を加算してやれば、東京平均太陽時となる。
ここまでは、天保暦法に記載されている範囲内で計算可能であったが、JSTへの変換はそうもいかない。明治十一年の本暦(国立天文台蔵デジタル資料版)に手書きの付箋が付されていて、
置「所今用之英東京里差九時一九分〇〇秒四八」、減「英西京里差時分」、為「東西京里差時分」。用此数推壬寅暦、以求東京之諸数、即応適合于英暦之数乎。
「今用うるところの英東京里差九時一九分〇〇秒四八」を置き、「英西京里差時分」を減じ、「東西京里差時分」と為す。この数を用ゐ壬寅暦を推し、以って東京の諸数を求むれば、即ち応に英暦の数に適合すべきか。
「現用のイギリスと東京の時差は、9:19:00.48 である」としているので、これを採用すれば、東京平均太陽時から 19分00秒.48 を引けば JST になるだろう。つまり、都合、天保暦の京都平均太陽時から 2分44秒.16 を引けば JST になる。
が、明治二十一年暦に掲載されている「各所の経緯度」によれば、
- 京都御苑内測候所: 九時〇三分〇三秒
- 東京城内天守台: 九時十九分〇一秒
となっている。東京の時差はほぼ合っているが、東京・京都間の時差は 15分58秒、京都・JST間の時差は 2分44秒.16 ではなく 3分3秒となっている。実は、本暦に掲載されている東京・京都間の時差はいろいろと変遷を経ていて、
- 明治六(1873)~十二(1879)年暦: 16分16秒(天保暦の 16分16秒.32 と符合)
- 明治十三(1880)~十四(1881)年暦: 15分35秒
- 明治十五(1882)~十七(1884)年暦: 15分56秒
- 明治十八(1885)~十九(1886)年暦: 15分58秒(明治二十一年暦以降と符合)
- 明治二十(1887)年暦: 16分01秒
となっている。明治十二(1879)年暦までは天保暦と合っていて、明治十三(1880)年暦で大きく値が変わり、それ以降は微調整。
どうやら、天保暦の 0.0113日(16分16秒.32)は、京都御所と、浅草にあった天文方の観測所(司天台)との時差らしい。東京地方時の基点を江戸城天守台に変更したため京都(御所)との時差が変動したようだ。
とりあえず面倒なので、今回の計算にあたっては、
- 東京地方平均太陽時 = GMT + 9:19:00.48
- 東京と京都の時差は常に 0.0113 日
- 上記2点からの帰結として、京都と JST の時差は 2分44秒.16 とする
で統一することにする。本暦記載の精度の高い二十四節気・朔弦望日時は、浅草司天台の子午線ではなく、江戸城天守台の GMT + 9:19:00.48 ベースで計算した方が本暦との一致度が高いようであること、また、後述するように、太陽暦改暦初年である明治六(1873)年暦の二十四節気・土用日時の一部は天保暦ベースで算出されているようで、その場合、東京と京都の時差を 0.0113 日とした方が頒暦記載値と合致しやすいように思われることから、ちょっと変な計算かも知れないがそうすることとした。
天保暦から算出した二十四節気・朔弦望日時はもしかしたら 20秒ほど早めに算出されてしまうかも知れないが、天保暦から算出した日時は、そもそも数分レベルで本暦記載値からずれるので、20秒ぐらいどうということはないので気にしないことにする。
(2020.12.03 追記)
国立天文台暦計算室の「暦Wiki/時刻/日本の本初子午線」を見ると、東京地方時の基準子午線は、「明治六(1873): 浅草司天台 → 明治十三(1880): 赤坂区溜池葵町(現、港区虎ノ門二丁目)の内務省地理局測量課 → 明治十八(1885): 東京城天守台」みたいな感じで移動したようだ。
より高い精度で計算した二十四節気・朔弦望
「天保暦で計算した二十四節気・朔弦望」と比較するため、現在の天文位置予測計算方法に基づいて二十四節気・朔弦望を計算してみることにする。このために、太陽・月の黄経を算出する必要がある。水路部式でもよいのだが、精度的に若干心もとないので、もう少し精度の高いもの(そして、そこそこ実装が簡単そうなもの)にチャレンジしてみよう。太陽の黄経の算出には、VSOP87D、月の黄経の算出には、ELP2000-82B
を用いることとする。
地球時 (TT) の算出
VSOP87D や ELP2000-82B に投入する時刻系は地球時 TT であるので、まずは TT
を求めないといけない。東京地方平均太陽時から 9時間19分00秒.48 を引くなり、JST
から9時間を引くなりして、まずは GMT (≒ UT)を求める。\(TT = UT + \Delta T\)
を算出して TT を求める。
ΔT
ΔTはどういう値か。潮汐摩擦などにより長期的には地球の自転速度は遅く(UTの歩みは遅く、1 日の長さは長く)なる。X軸になんらかの力学的に均質な時刻系をとり、Y軸に UT をとったとすると、大体は y = x の直線的なグラフになるだろうが、UT の歩みがだんだん遅くなるので、わずかに上に凸な曲線になるはず。暦表時 ET / 地球時 TT / 国際原子時 TAI などの力学的に均質な時刻系は、グラフで書くなら直線になるはず。そしてそれらは、大体、どこかの時点の UT と時刻が一致し、時間の進み(グラフの傾き)が等しくなるように定義される。つまりは、上に凸な UT の曲線に対する接線となる。よって、ΔT = TT - UT は、接点においてゼロ、過去方向に向かっても未来方向に向かっても加速度的に値が大きくなっていくような値となる。現在の 1秒の長さは、大体、1900年頃の 1日の長さの 1/86400 となるように定められているようであり、ET/TT は、概ね 1900 1/1 ET/TT = 1900/1/1 UT となるように定義されているようなので、1900年頃に極小値 0 となるような下に凸な二次曲線っぽいグラフを ΔT は描くこととなる。
が、ΔT の予測は極めて困難である。地球の自転速度は、気象や潮流の状況などによってかなりランダムに変動するからである。 Morrison, Stephenson (2004) [S2004] や、Stephenson, Morrison (2016) [S2016] は、過去の天文記録の基づく歴史的 ΔT の推計と併せ、未来についての推計を示しているが、未来の推計があっている保証はない。
上のグラフは、[S2004] により計算した1600AD~2000ADの ΔT である。1900年あたりで極小値ゼロ(正確にゼロにはならず、若干マイナスに食い込んでいるが)となり、大雑把には下に凸な二次曲線っぽくなっているが、細かくは極めて複雑な動きをしているのがわかる。
一方で、ΔTの未来予測が難しいことがわかるのが、上記のグラフである。2009~現在のΔT
を示しているが、[S2004] の推計は、[S2016] と比較すると 2
秒程度大きく見積り過ぎている。[S2016]
は、「暦象年表」「UTC」の値と大体あっているが。つまり、Morrison, Stephenson が
2004年に行った推計は、その 10年ほど後でさえ外しているということだ。
-
「UTC」の値は、「TT - UTC = 42.184秒 +
累積挿入閏秒」の値を示したものである。これが、ΔT
と近くなるように閏秒が挿入される。
- 「暦象年表」の値は、国立天文台が暦象年表を編纂するにあたって年毎にΔTの値を設定し、そのΔTに基づいて暦算を行っている。そのΔT の値を示したものである。整数値としているようだ。
とはいえ、今回計算を行おうとしている明治六(1873)~明治四十二(1909)年は、推計を行うための観測資料が十分揃っている時期の過去の推計であり、[S2004]
の値は十分信頼がおけるであろう。今回は [S2004] を ΔT
として採用することとし、
\[ \begin{align}
\mathrm{TT} &=
\text{東京地方平均太陽時} - \mathrm{9h19m00s.48} + \Delta T \\
\mathrm{TT}
&= \mathrm{JST} - \mathrm{9h} + \Delta T
\end{align} \]
として、TT
を求める。[S2004]の ΔT
は、年月をインプットとして算出するが、東京地方平均太陽時/JST
のグレゴリオ暦による年月に基づき算出する。
VSOP87D による太陽黄経の算出
太陽の黄経を求めるのに、VSOP87D を用いる。
Bretagnon, P.; Francou, G. (1988) による VSOP87 (Variations Séculaires des Orbites Planétaires 87) は、
-
VSOP87: J2000.0 の春分点・黄道面による、太陽を中心とする各惑星の軌道要素
- VSOP87A: J2000.0 の春分点・黄道面による、太陽を中心とする各惑星の直交座標の位置
- VSOP87B: J2000.0 の春分点・黄道面による、太陽を中心とする各惑星の球面座標の位置(黄経・黄緯・距離)
- VSOP87C: 瞬時の春分点・黄道面による、太陽を中心とする各惑星の直交座標の位置
- VSOP87D: 瞬時の春分点・黄道面による、太陽を中心とする各惑星の球面座標の位置
- VSOP87E: J2000.0 の春分点・黄道面による、太陽系重心を中心とする各惑星の直交座標の位置
の
5つのシリーズがある。今回は、黄経を求めたいわけなので、直交座標のものより球面座標のものの方が便利。J2000.0分点のものは、すなわち、歳差を計算にいれないということであり、瞬時の分点のものは、歳差を計算にいれている。最終的に求めたい黄経は「瞬時の真春分点・黄道面による、太陽の視黄経」、つまり、歳差・章動・光行差を計算に入れた黄経なので、歳差が計算に入っているものの方がよかろうということで、VSOP87D
を使う。VSOP87D.ear(地球 Earth
の位置の算出表)で、日心の地球の黄経を算出し、それに 180°
加算して、地心の太陽の黄経とする。インプットとする時刻は、J2000.0起点のユリウス千年紀すなわち、
\[t
= {\mathrm{TT} - \mathrm{J2000.0} \over 365250_\text{日}} \]
J2000.0
とは、2000/1/1 12:00 TT。つまり、ユリウス千年紀 \(t\)
は、この時刻をゼロとし、365250日(365250×86400秒)を 1 とする値である。
VSOP87D.ear
の黄経算出式は、1080の項を含み、それを全部足し合わせて黄経を求める。
VSOP87Dを使用することにより、歳差は計算に含まっているが、あと、章動・光行差を計算に入れないといけない。
太陽の光行差
光行差とは、光速が有限であり、かつ、地球が動いていることによる天体の視位置のずれである。もし地球が止まっているのなら、幾何学的に天体が存在している方向に眼なり望遠鏡なりを向ければ、そのまま真正面に天体からの光が対物レンズ~接眼レンズ~瞳~網膜へと落ちてゆくであろう。実際はその間にも地球は動いている。幾何学的に天体が存在している方向に眼・望遠鏡を向けたのでは、対物レンズから網膜に光が進む間にも、望遠鏡と眼とを一緒に引き連れて地球が移動し、結果、光が落ちるポイントが、地球の進行方向後ろ側にわずかにずれてしまう。よって、対物レンズから網膜まで真正面が光に落ちてゆくようにするためには、眼と望遠鏡が向く先を、若干、地球の進行方向側に傾けておかないといけない。すなわち、天体が見える方向が、若干、地球の進行方向側に傾くということである。
太陽の視位置に即して考えた場合、「地球の進行方向側」とは「地球から見ての太陽の進行方向の後ろ側」である。つまり、太陽の黄経が若干小さめに見えるということである。
どの程度、黄経が小さめに見えるのか。太陽から地球に光が届くまでの間、地球は近似的に等速直線運動をしていると見なし得て、相対性理論的な効果は無視できるほど小さいとする。とすれば、地球を静止系として、太陽が動いていると見てもよい。その場合、地球は静止しているのだから、光行差そのものは発生しないが、その代わり、太陽が動いていると見るので、地球から見える太陽は、太陽から地球まで光が届くのにかかる時間(8分強)前の太陽である。少々前の太陽を見ているのだから、少々黄経が小さめに見えるわけである。こうして計算した太陽の幾何学的位置と視位置とのずれは、光行差をちゃんと計算した場合の値と近似的に等しい。
太陽から地球まで光が届くのにかかる時間を求めるのに、VSOP87D
の距離の値を用いる(各惑星の球面座標の位置(黄経・黄緯・距離)のうちの「距離」)。VSOP87D
の距離の値は、天文単位 (AU) を 1 とする値で算出されるので、
\[
\begin{align}
\mathrm{AU} &= 149,597,870.7 \mathrm{km} \\
\text{光速度}
c &= 299,792.458 \mathrm{km/sec} \\
\text{太陽~地球まで光が届くのにかかる時間}
&= \text{距離} * \mathrm{AU} / c
\end{align} \]
として算出することができる。太陽~地球の平均距離は
1 AU だから、かかる平均時間は、\(149,597,870.7 \mathrm{km} / 299,792.458
\mathrm{km/sec} = 499 \mathrm{sec}\) である。
ある時刻における太陽の視黄経を求めるには、その時刻における太陽~地球の距離を VSOP87D で求め、その距離から光が到達するのにかかる時間を求め、その時間分だけ前の時刻について、VSOP87D により黄経を求めればよい。
なお、太陽~地球の距離はそう大きくぶれるわけでもないので、光行差を算出するのに、VSOP87D をフルに使って正確な距離を計算するのもばかばかしい。私は、距離の計算ではVSOP87D の項のうち、平均距離項と最大不等(中心差の項)だけを用いて計算した。
ちなみに、地球からは 499秒 (8分19秒)
前の太陽の位置を見ているわけだから、幾何学的黄経ベースで(光行差を考慮せず)二十四節気を計算した場合に比べて、視黄経ベースで(光行差を考慮して)二十四節気を計算した場合は、節気の時刻は
8分19秒程度遅くなる。
章動(Δψ)
「瞬時の真春分点・黄道面による、太陽の視黄経」は歳差・章動・光行差を計算に入れた黄経であり、歳差・光行差までは計算に入れた。残るは章動。つまり、瞬時の平均春分点(歳差は計算に入れるが、章動は入れない)ではなく、瞬時の真春分点(歳差・章動を計算に入れる)を起点とした黄経を算出するために、章動を計算する。
章動は、Shirai and Fukushima (2001) [SF2001] により算出することとする。[SF2001] は、2003年以降の暦要項・暦象年表の算出にあたって国立天文台が採用している章動理論である。
[SF2001] において、\(\Delta \psi = \Delta \psi_P + \Delta \psi_F + \Delta
\psi_G\) であるが、
\(\Delta \psi_P = -0^{\prime\prime}.042888 -
0^{\prime\prime}.29856 t\) は、章動というより歳差の補正項である。
(\(t\)
は、J2000.0起点のユリウス世紀 \(t = \dfrac{\mathrm{TT} - \mathrm{J2000.0}}{36525_\text{日}}\) )
\(\Delta \psi_F\) は、日月項 162、惑星項 32 の周期項をすべて足し合わせたもの。章動計算の中核である。
\(\Delta \psi_G = -153.1 \sin l^\prime - 1.9 \sin 2l^\prime \mathrm{
({\mu}as)}\)
は、測地線章動 geodesic nutation
というもので、相対性理論効果で生じるものらしい。よく理解はしていないので間違っているかも知れないが、こんな感じかな?と思う説明をしてみる。地球が、地軸の向きを変えないように公転軌道をぐるっと一回りしたとする。曲率のないユークリッド空間内を移動したのであれば、地軸は元と同じ向きのままであるはずだが、実際は重力場による曲率を持った空間であるので、地軸は元と同じ向きにはならない。これが、測地線歳差
geodesic precession
で、中心差等により公転速度に遅速がある分、測地線歳差の進みに遅速があり、それが測地線章動、という感じですかね。間違ってるかも知れませんが。
測地線章動の式の単位は、マイクロ角度秒 \(0^{\prime\prime}.000001\))。正直、そのレベルの精度を求めた計算はしていないが、一応、[SF2001] に入っている項なので計算に入れておく。なお、測地線歳差そのものは、歳差のなかに織り込み済らしい。
VSOP87D で求めた太陽の黄経から光行差を引き、章動 \(\Delta \psi\) を加算して、瞬時の真春分点・黄道面による、太陽の視黄経を得る。黄道傾斜角の章動 \(\Delta \epsilon\) によって、黄道面が傾くことによる黄経への影響はあるが、微小だと思われるので、考慮しないこととする。
太陽の視黄経が 15°
の倍数となる日時が二十四節気ということになる。二十四節気の日時を求めるにあたっては、1
時間単位に視黄経を算出して、1時間のなかは線形補間して日時を求めた。1時間のなかでは真黄経は、ほぼ線形に増加すると考えてよいだろうから、この計算でも秒レベルの時刻ずれを起こすことはなかろう。
ELP2000-82b による月の黄経の算出
Chapront-Touzé, Chapront による ELP2000-82b により、地心の月の黄経を算出する。
ELP2000-82b は、main problem, earth figure perturbations, planetary
perturbations, tidal effects, moon figure perturbations, relativistic
perturbations, planetary perturbations (solar eccentricity)
といった不等項を含んでおり、黄経の算出は、全部で 20560
の不等項がある。これを全部足し合わせて求めるのであるが、そうすると計算するのに日が暮れてしまうので、振幅
\(0^{\prime\prime}.0001\) より大きい 4227 項だけ計算することにする。
計算した不等項を、平均項
\(218°18^{\prime}59^{\prime\prime}.95571 +
1732559343^{\prime\prime}.73604t - 5^{\prime\prime}.8883t^2 +
0^{\prime\prime}.006604t^3 - 0^{\prime\prime}.00003169t^4\)
に加算する。なお、ELP2000-82b
における時刻 \(t\) は、J2000.0 起点のユリウス世紀、すなわち、
\[t =
{\mathrm{TT} - \mathrm{J2000.0} \over 36525_\text{日}} \]
である(VSOP87
では、ユリウス千年紀であった)。
なお、こちらも視黄経とするため、地球と月との距離を ELP2000-82b により算出(こちらは、単位は km)し、それを光速度で割って月から地球に光が届くのにかかる時間を求め、その時間分だけ前の幾何学的黄経をもって視黄経とする。ここでも、距離を ELP2000-82b でしっかり計算するのもばかばかしいので、平均距離項と最大不等(中心差)のみで算出する。月から地球まで光は 1秒強で届くので、月の幾何学的位置と視位置のずれは大きくない。
- 本来的な光行差の意味からすれば、「月と地球が近いから光行差が小さい」というのはおかしいが、まあ、結果的にはそうなる。 正しくは、「月と地球の相対速度が小さいから光行差が小さい」というべき。
ちゃんと計算しようと思えば、地球と月が両方動くから話がややこしく、月が光を発した時点の月の位置と現在(光が届いた時点)の地球の位置とを結ぶベクトルが地球から月を見る方向なのだろうが、その方向が現在の地球の速度ベクトルに基づく光行差の分だけずれて、みたいな計算になろう。面倒なので、これも近似的に地球を静止系として扱って、月だけが動いているとして計算したわけである。
ELP2000-82b で求めた黄経・黄緯は、inertial mean ecliptic of date and departure
point \(\gamma^\prime_{2000}\)
の座標系らしい。「瞬時の慣性平均黄道面と、\(\gamma^\prime_{2000}\)
の分点」。よくはわからないが、ざっくりした話では、黄道面の歳差は含まっているが、黄経の歳差は含まっていないということのようだ。
ELP2000-82b で求めた黄経から光行差を引き、歳差と [SF2001]
で求めた章動を加算して、月の視黄経を得る。歳差は、Simon et al. (1994)
による歳差
\(50288^{\prime\prime}.200t + 111^{\prime\prime}.2022t^2 +
0^{\prime\prime}.0773t^3 - 0^{\prime\prime}.2353t^4\)(\(t\) は J2000.0
起点のユリウス千年紀)
とする。
月視黄経の太陽視黄経からの離角が 0°、90°、180°、270° となる日時を朔、上弦、望、下弦とする。こちらについても、1時間ごとに黄経離角を求めて、1時間のなかは線形補間して日時を求めた。
以上で、VSOP87D, ELP2000-82b
による二十四節気・朔弦望を算出することが出来た。詳しい方の目から見たら「その計算はどうなの」、みたいなところも多々あるだろうが、とりあえず今回の議論をする上では十分な精度の計算になっていると考えている。
本暦記載の二十四節気日時と、天保暦・VSOP87Dで算出した二十四節気日時との比較
明治六(1873)~明治十二(1879)年暦について、二十四節気を比較してみたものが下記のグラフである。
縦軸の単位は秒。この時期の本暦の二十四節気日時は、明治六(1873)年暦は分単位、以降は秒単位で表示されている。グラフ外の時期だが、明治二十(1887)年暦以降は、また分単位表示になったようだ。
VSOP87D で計算したものは、ところどころ異常値が散見されるが、本暦記載日時と極めてよく一致していることがわかる。大体、1 分未満のずれ。
異常値と思われるのは、一旦、明治六(1873)年暦は置いておくとして、明治八(1875)年の立秋の本暦記載日時は 400秒ほど早すぎるようだ。理由はよくわからない。計算間違いだろうか。明治十(1877)年は、全体的に 500秒ほど本暦記載の二十四節気日時は早すぎる。「500秒」という値から考えると、光行差を考慮に入れなかったのではないかと思われる。ほかの年ではそんなことはないので、明治十年暦でやらかしてしまったようだ。
- [2023-04-10 追記] 伊藤(1970) によると
「明治10年は米暦の値が使用されているようである」
「米暦の黄経には Aberation [ブログ筆者注: 光行差 aberration] が含まれていない」
とのこと。その他の年では英国航海暦によっていたが、明治10年暦では何らかの事情により、英国航海暦ではなく米国暦によって本暦の記載が行われ、その米国暦では光行差を含まない黄経(視黄経ではなく幾何学的黄経)によって記載されていたために異常値になってしまったらしい。
異常値以外では、本暦とVSOP87D とは大変よく一致するのに対し、天保暦で計算した場合はかなりずれが大きい。本暦自体が異常な明治十年暦を除けば、最大 900秒(15分)を超えるずれがある。
天保暦施行期においては、不定時法の時分で時刻表示されていた。一日 12 時だから、不定時法により若干のブレはあるものの 1 時は約 2 時間。その 1/10 の「分」は(六十進時分秒の)12 分に相当する。12 分単位の時刻表示だと天保暦のアラも見えづらかったかも知れないが、(六十進時分秒の)分単位・秒単位となると、ちょっと精度が足りないなーという感が出てくる。
一旦わきに置いておいた太陽暦改暦初年の明治六(1873)年暦であるが、VSOP87と本暦がよく一致するものと、天保暦と本暦がよく一致するものとがあるように思われる。
節気 | 本暦日時 | VSOP - 本暦 | 天保 - 本暦 |
---|---|---|---|
小寒 | 01/05 14:26 | -420.60 | -25.64 |
大寒 | 01/20 07:54 | -295.92 | -6.42 |
立春 | 02/04 02:09 | 25.80 | 147.23 |
雨水 | 02/18 22:23 | 20.72 | -5.42 |
啓蟄 | 03/05 20:44 | 223.15 | 10.74 |
春分 | 03/20 22:11 | 17.76 | -336.47 |
清明 | 04/05 02:23 | 473.39 | -6.49 |
穀雨 | 04/20 10:04 | 522.31 | 0.01 |
立夏 | 05/05 20:37 | 633.08 | 24.69 |
小満 | 05/21 10:07 | 486.85 | -0.14 |
芒種 | 06/06 01:33 | 535.51 | -14.40 |
夏至 | 06/21 18:44 | -3.72 | -369.86 |
小暑 | 07/07 12:10 | 303.48 | 6.94 |
大暑 | 07/23 05:34 | 157.43 | -24.95 |
立秋 | 08/07 21:47 | 48.68 | 18.49 |
処暑 | 08/23 12:08 | 48.01 | 20.90 |
白露 | 09/08 00:03 | -175.04 | -10.80 |
秋分 | 09/23 08:54 | 2.95 | 87.82 |
寒露 | 10/08 14:46 | -269.71 | 33.54 |
霜降 | 10/23 17:18 | -153.36 | 42.43 |
立冬 | 11/07 17:03 | -387.65 | -11.00 |
小雪 | 11/22 14:04 | -268.89 | 23.65 |
大雪 | 12/07 09:14 | -389.03 | 0.82 |
冬至 | 12/22 02:51 | 28.78 | 330.17 |
上の表で、赤太字で示したものが、本暦との一致度が高いほうである。本暦との一致度が高いほうは、概ねプラスマイナス30秒以内の誤差の範囲に収まっており、すなわち、分単位で四捨五入すれば分単位で記載された本暦日時と一致する。
これを見れば、二分二至と立春は VSOP87D が一致度が高く、その他は天保暦で算出したほうが一致度が高い。想像するに、二分二至と立春の日時は西洋の天測暦(ex. イギリス航海暦)等から精度の高い日時が入手できたのでそれを採用し、入手できなかったその他の節気は天保暦法で計算して補完したということではなかろうか。なお、上表には掲載しなかったが、土用日時も天保暦法で計算したようである。
明治七(1874)年暦以降は、二十四節気・土用すべてにおいて精度の高い日時となっている。自分で高精度の計算ができるようになったんだか、西洋の天測暦から情報を拾う方法を発見したのだかは定かではない。
本暦記載の朔弦望日時と、天保暦・ELP2000-82b/VSOP87Dで算出した朔弦望日時との比較
朔弦望についても同様に比較してみる。
縦軸の単位は秒。本暦の朔弦望の日時は分単位で表示されていた。プラスマイナス30秒のずれ(上グラフのグレー網掛けの範囲)であれば、本暦の分単位表示と一致することとなる。
ELP2000-82b/VSOP87D で計算したものは、若干はみ出ているところもあるものの概ねプラスマイナス30秒の範囲であり、本暦との一致度が高い。
一方、天保暦法で算出した朔弦望日時は最大
240秒(4分)ほどのずれがある。360°=1年である二十四節気の周期に対し、360° =
1ヶ月の朔望周期は、角度ずれが日時ずれに寄与する量が小さいので、二十四節気よりはずれが小さいが、かなりのずれである。
天保暦の精度
以上、「天保暦の節気・朔弦望より高い精度で、明治期の本暦は作成されている」ということを述べてきたわけだが、別に、天保暦をディスりたいわけではないので注記しておく。
天保暦は、明治期の本暦よりは精度が低かったかもしれないが、それまでの暦よりはずっと高精度の暦である。貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦・本暦の節気・朔望の精度をグラフで見てみよう。
各暦法で算出定気日時と、VSOP87で算出した定気日時との時間差をグラフで示している。縦軸の単位は(60進法の)分。
貞享暦・宝暦暦には定気の計算方法が定義されていないが、
\(\text{定気日時} =
\text{平気日時} - \text{日行盈縮} / \text{太陽行度}\)
として計算できるものとして算出した。
これをみると、以前記したように、貞享暦・宝暦暦では平気(平均黄経)の計算自体に相当のずれがある。それは修正宝暦暦ではかなり改善しているのだが、それにしても、日行盈縮(中心差)をやや大きく算出していることは否めず、数時間レベルでの誤差が発生している。二十四節気ごとに誤差量が異なるので、誤差をグラフにプロットすると、24本のバンドのように見える。そもそも中心差が小さい冬至・夏至がもっとも誤差が小さい(24本のバンドのうち、中央付近に見える2本)。一方、なぜか、立春・立秋あたりが最大誤差になるようで、±4時間ぐらいの誤差がある。
寛政暦で大きく精度が向上しており、そして天保暦はそれを凌駕する精度である。本暦に比べれば確かに見劣りするが、それ以前の暦に比べれば高い精度なのだ。
次に、朔望の精度である。貞享暦・宝暦暦の月離では、出差(朔望では中心差を小さく、弦では中心差を大きくする効果を持つ不等)を考慮しない。そのかわりに、中心差を小さめに設定している。結果、朔望はそれなりの精度があるが、弦の精度は低い。ここでは朔望だけで比較する。
貞享暦→修正宝暦暦→寛政暦→天保暦と、どんどん精度が上がっていることがわかるだろう(そして、「修正」じゃないオリジナル宝暦暦が黒歴史であることもわかる)。
天保暦は、それまでに日本で行われた暦と比べて画期的に精度の高い暦であった。とはいえ、元にしたラランデ暦書が書かれたのは18世紀後半である。明治期はそれから一世紀あとの話だ。この間の西洋天文学の進歩を考えれば、天保暦よりも明治本暦の精度が高いのは当然であろう。
明治の旧暦併記時期における「旧暦」とは
ということで、明治期の本暦に記載されている二十四節気・朔弦望日時は、天保暦よりずっと精度の高いなんらかの天文予測計算法で記載されていたものと結論づけることができるだろう。精度が高い暦算法を習得し自分で計算したのか、西洋の天測暦をそのまま時差補正だけして使ったんだか、はたまた、基本的には天保暦法に依っているのだが諸定数を改定して精度をあげることが出来たのだかは定かではない。少なくとも、天保暦法をそのまま継続使用したのではないことだけは確かである。
さて、としたときに、「旧暦(太陰暦・太陰盈虚・月盈虚)」の作暦はどうだっただろうか。暦面に記載されている二十四節気・朔弦望の日時の算出には天保暦を使わなかったかも知れないが、旧暦の作暦に用いる朔日・中気日の算出には天保暦を継続使用したということも(考えにくいが)あったかも知れないではないか。
これを確認するために、本暦記載の朔日・中気日と、天保暦法で算出した朔日・中気日がずれるところを確認し、旧暦作暦に当たって、どちらを採用しているのかを見てみる。
実際のところ、旧暦作暦に影響するようなところは多くはない。朔日については、日がずれるものは、たまたま一つもなかった。上弦・望・下弦についてはいくつかあったが。
中気日については、2ヶ所相違がある。
- 明治二十一(1888)年秋分: 本暦 9/22 23:54(VSOP87Dでも同じ)、天保暦法 9/23 00:07。
- 明治二十二(1889)年冬至: 本暦 12/21 23:52 (VSOP87Dでも同じ)、天保暦法 12/22 00:01。
うち、明治二十一(1888)年秋分は、置閏に影響せず、旧暦作暦としてはどちらでも変わらない。
が、明治二十二(1889)年冬至は、置閏に影響する。1889/12/22 が朔日なので、冬至が 12/21 か 12/22 かで冬至が所属する暦月が変わってしまうのだ。
なお、天保暦法による 1889年冬至 12/22 00:01 は、JST
として表示したものだが、JST
でも東京時でも京都時でも、平均太陽時でも真太陽時でも、天保暦法による
1889年冬至は、12/22 である。京都平均太陽時 12/22 00:03:57
であり、京都・JST間の時差を、2 分 44 秒.16 でなく 3 分 3 秒としても、12/21
でなく 12/22 であることに変わりはない。
本暦の 12/21 23:52 は JST
だが、東京地方平均太陽時なら 12/22 00:11
となって、日付に差がでないはずだった。前年の明治二十一(1888)年暦から時制が JST
に変わっているので、差が出ることになってしまったわけである。
さて、冬至が 12/21 か 12/22 で、旧暦の作暦にどういう差がでるか。まず、本暦に記載の冬至日時どおり、12/21 だった場合。以前、「天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール」で、旧暦2033年問題を説明するときに使用したチャートのフォーマットを用いて図示する。
冬至は、仮11月の月末二十九日にある。無中気日は、中気が月末→月初に突き抜けている仮12月三十日大寒→仮2月一日雨水の間の仮正月。よって、仮正月が閏十二月である。一方、天保暦法で計算したように冬至日が 12/22 だったらどうなるか。
なんと、「明治期にはたまたま発生しなかった」と述べていた、二中気月があってその前後に複数の無中気月があり、どちらが閏月か決定しないといけないケースが現れる。仮10月末の小雪→仮12月初の冬至の間の仮11月は無中気月。仮12月は、月初に冬至、月末に大寒がある二中気月。そして、仮12月末の大寒→仮2月初の雨水の間の仮正月も無中気月である。
どちらの無中気月が閏月なのかというと、橙色の二至二分だけを追って見ていけば、秋分→冬至の間で月末→月初に突き抜けているから、閏月とすべきは秋分→冬至の間にある無中気月。すなわち、小雪→冬至間の仮11月が閏十月ということになる。
では、実際の頒暦の置閏はどうなっているか。
明治二十二(1889)年11月23日は、「十一月朔」である。「閏十月朔」ではない。
一方、明治二十三(1890)年1月21日は「閏十二月朔」である。
つまり、天保暦法の二十四節気ではなく、本暦記載の二十四節気に基づいて置閏されているのだ。
結論
太陽暦改暦後、明治六(1873)~明治四十二(1909)年暦の間、併記されていた旧暦は、天保暦とは別物である。
「平山ルール」で整理されているような天保暦の作暦精神だけは残しつつ、時制も京都真太陽時から東京地方平均太陽時/日本中央標準時に変更され、二十四節気・朔弦望の計算に必要な太陽・月の位置予測計算法も、天保暦法よりはるかに精度の高いものに改定されている。
そして、現在、公的には存在しなくなったが、民間で勝手作暦されて継続使用されている「旧暦」は、天保暦を直接継承するものではなく、この明治期に併記されていた旧暦(太陰暦・太陰盈虚・月盈虚)を継承するものである。
つまり、現在「旧暦」を計算する方法に仮に「正解」というべきものがあるとすれば、この明治期に併記されていた旧暦に倣って、下記のように作暦すべきである。
- 平山ルールで整理されたような作暦精神に従う。
- 時制は日本中央標準時とする。
- 二十四節気・朔弦望は、明治期に本暦掲載の中気・朔を使用して作暦していたように、本暦の後継である公式暦「暦要項」掲載の中気・朔を使用して作暦するべきである。
- 自前で計算するのであれば、旧暦作暦に供する実用上、「暦要項」の二十四節気・朔弦望計算との互換性がある方法によるべきである。本暦や暦要項がそうしているので、黄経は「瞬時の真春分点・真黄道面による黄道座標系での、視黄経」、つまり、歳差・章動・光行差を計算に入れた黄経でなくてはならない。
明治四十三年以降、本暦・略本暦からは完全に姿を消した太陰太陽暦であるが、その後に公的機関により作暦されたものは皆無だったというわけではないようである。韓国では、ソルラル(旧正月)・チュソク(中秋旧八月十五日)といった旧暦ベース祝日が現在も公的祝日となっているが、日本統治時代に朝鮮総督府が「朝鮮民暦」として太陰太陽暦を公表していたらしい (※1)。また、戦後、2010 年まで、海上保安庁海洋情報部が旧暦を作暦して参考情報として公表していた時期があったようだ (※2)。それらの内容は確認していないが、基本的な作暦の考え方は、上記に示した明治の併記期の旧暦と同様だったと思われる。
- (※1) ただし、「朝鮮民暦」の置閏法が、天保暦置閏法(平山 (5)(6) 則)なのかは自信がない。中国の時憲暦/農暦の置閏法によるべきなのかも知れない。ただ、どちらであるとしても該当期間中、結果に差が出ないが。
- (※2) 1997~2010年の旧暦が、海上保安庁海洋情報部の Webサイトに掲載されていた(現在は掲載されていない → archive.org)
次回からは、日月食の暦算法について記述する。まずは貞享暦の月食から。
[参考文献]
平山 清次(1933)「暦法及時法」恒星社 https://books.google.co.jp/books?id=88p29z44kzoC
渋川 景祐; 足立 信頭「新法暦書」 国立公文書館デジタルアーカイブ蔵
[S2004] Morrison, L.V.; Stephenson, F.R. (2004) "Historical Values of the
Earth's Clock Error ΔT and the Calculation of Eclipses", Journal for the
History of Astronomy (35), pp.327-336
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2004JHA....35..327M
Espenak, F., Meeus, J. (2004), "Polynomial Expressions for Delta-T" (adapted
from "Five Millennium Canon of Solar Eclipses”). NASA Eclipse Web Site,
GSFC, Solar System Exploration Division
https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEcat5/deltatpoly.html
[S2016] Stephenson, F.R.; Morrison, L.V.; Hohenkerk, C.Y. (2016) "Measurement
of the Earth's rotation: 720 BC to AD 2015", Proceedings of the Royal Society
of London (A472, Issue 2196)
https://doi.org/10.1098/rspa.2016.0404
[VSOP87] Bretagnon, P.; Francou, G. (1988) "Planetary Theories in rectangular
and spherical variables: VSOP87 solution.", Astronomy and Astrophysics(202),
pp.309-315
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1988A%26A...202..309B
ftp://ftp.imcce.fr/pub/ephem/planets/vsop87
[SF2001] Shirai, T.; Fukushima, T. (2001) "Construction of a New Forced
Nutation Theory of the Nonrigid Earth", The Astronomical Journal
(121-6), pp.3270-3283
https://doi.org/10.1086/321067
Simon, J. L.; Bretagnon, P.; Chapront, J.; Chapront-Touze, M.; Francou, G.;
Laskar, J. (1994) "Numerical expressions for precession formulae and mean
elements for the Moon and the planets. ", Astronomy and Astrophysics, Vol.
282, p. 663
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1994A%26A...282..663S
[ELP2000-82] Chapront-Touzé, M.; Chapront, J. (1983) "The lunar ephemeris
ELP-2000". Astronomy & Astrophysics (124), pp.50–62
https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1983A%26A...124...50C
ftp://cyrano-se.obspm.fr/pub/2_lunar_solutions/1_elp82b/
(2023.04.10 追記)
伊藤節子(1970)「明治改暦後の官暦の数値について (I)」, 東京天文台報 15(1)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2322299/1/51
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