貞享暦の日食法について、説明を行っている。
前回は、月食と異なり、日食では観測者の位置の考慮が必要であり、そのためには月の視差を考えないといけないこと、月の視差にほる補正値(経度方向のずれであり、日食時刻に影響する「時差」、緯度方向のずれであり、食分に影響する「南北差」「東西差」の算出まで行った。
今回は、「南北差」「東西差」の持つ意味合いについてもう少し考察したのち、日食記事の記載に必要な諸項目(食分、 初虧/食甚/復末時刻、方向角、帯食時の食分)を算出する。
貞享暦の日食法について、説明を行っている。
前回は、月食と異なり、日食では観測者の位置の考慮が必要であり、そのためには月の視差を考えないといけないこと、月の視差にほる補正値(経度方向のずれであり、日食時刻に影響する「時差」、緯度方向のずれであり、食分に影響する「南北差」「東西差」の算出まで行った。
今回は、「南北差」「東西差」の持つ意味合いについてもう少し考察したのち、日食記事の記載に必要な諸項目(食分、 初虧/食甚/復末時刻、方向角、帯食時の食分)を算出する。
前回は貞享暦の月食法の説明を行った。今回からは、貞享暦の日食法の説明を行っていくことになる。
日食は、月食よりも予測計算方法が複雑だ。なぜかというと、地球と月と太陽の位置関係だけでなく、観測者の位置も重要になってくるからである。
月食は、地球の影が月に落ちる現象である。一方、日食は、月の影が地球に落ちる現象である。月食が発生し、月に地球の影が落ちているとき、月が地平線より上にあって見えてさえいれば、地球上どこにいても地球の影が落ちている状態の月を観測することができる。
一方、日食が発生し、地球に月の影が落ちているとき、地球表面上にいる観測者からは、地球表面に落ちた月の影を見ることが出来ない。地球に月の影が落ちていることがわかるためには、観測者自身がその影のなかにいる必要があるのだ。観測者が影のなかにいない場合、その観測者にとっては日食が起きていることにならない。地球と比べ月は小さいから、月の落とす影も相応に小さい。観測者にとって日食が起きているかどうかを判定するには、その小さい影のなかに観測者がいるかどうか判定しないといけないのだ。そして、影の中心から観測者がどの程度離れているかで食分も異なってくる。
前回から、貞享暦の月食法について説明している。
頒暦の月食記事を記載するためには、
前回までのところで、貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦・明治期の旧暦併記時代における太陽・月の位置計算(日躔・月離)と太陰太陽暦の作暦について、ひととおり説明し終えた。
日食・月食の暦理について説明し残しているので、今回以降、順次説明していく。
今回は、貞享暦の月食法について。どんどん近代天文学に近いほうへ話を進めてきたので、貞享暦の時代に戻るのは頭の切替がちょっと大変だ。
頒暦の月食記事を記載するためには、
といった情報が必要となる。今回は、食甚時刻と食甚時の食分の算出まで。以降は次回とする。
前回までのところで、日月食関連を除き、江戸時代の幕府天文方による暦(貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦)の暦法の説明が完了した。
今回は、明治の新暦改暦以降における「旧暦」について少し話しておくこととする。
前回は、月の地半径差(地平視差 horizontal parallax)の計算を行った。
今回は、月出入時刻の計算について。寛政暦の月出入時刻の計算と比べて、天保暦の計算は、こんなに無駄に壮大な計算式である必要があるのか?と思うほど長ったらしい。長ったらしいが、複雑で理解が困難な箇所はそうは多くないので、ちゃんとステップを追っていけば大丈夫。
長ったらしくなっている要素として、ひとつは、京都以外の地点における月出入時刻算出を割とちゃんとやっていること、もうひとつは、地半径差(地平視差)の考慮をしていることである。地平視差は、地球に近い天体ほど大きく、月では最大 1° 程度の視差となる。そして、天体が地平線付近にあるときに視差が最大となるから、月出入時は、まるまる約 1° の視差が発生することになり、月出入時刻算出にあたって、無視できない効果をもたらすのである。
というように、長ったらしくなっているもっともな理由もある。……が、単に「無駄に長ったらしいんじゃないの?」と思うところもなくはない。
前回までのところで月の黄経の算出が完了した。今回は月の黄緯の算出について。
寛政暦での月の黄緯は、月の昇交点離角 \(F\) と、軌道傾斜角 \(i\)
に基づいて、月の緯度 \(\beta\) は、\(\sin \beta = \sin i \sin F\)
を算出するだけだったが、天保暦では、黄緯についても種々の不等項を置いて算出している。
前回に引き続き、天保暦における月の黄経の算出について記述する。
前回までのところで、平行(平均黄経)と一均~十均の不等項の説明が終わったので、今回はその残り、十一均(中心差 equation of center)、十二均(二均差 variation、月角差 parallactic inequality)、十三均、および、黄白升度差(道差)を算出し、月の黄道実行(真黄経)を算出する。
また、月・太陽の黄道実行から、定朔弦望日時を算出する。
前回までのところで、天保暦の日躔(太陽の運行)の説明が完了。今回からは月離(月の運行)の説明となる。今回は、太陰黄道実行(月の真黄経)を求めていくが、最後まで行くとあまりに長大になってしまうので途中まで。
前回までのところで、天保暦の日躔(太陽に関する暦法)の説明をひととおり終えた。これにより、天保暦の頒暦のうち、日躔に基づき計算する箇所との突合が可能となった。よって、今回は、頒暦の以下の事項について、算出結果と頒暦に記載されている内容との突合を行う。
雑節「半夏生」の配当日については、頒暦上、時刻が記載されておらず日付のみなので、算出結果とずれることなどなく、貞享暦~寛政暦のところでは、特段、突合の対象として取り上げなかった(ちなみにいうと、算出した日付と頒暦記載の日付はすべて合致していた)。
天保暦においては、「定気法における半夏生の配当日付の算出方法」が、暦法書上どこにも明記がないこともあって、本項ではことさらに取り上げて突合を行うこととする。
前回までのところで、天保暦の日躔でもっとも中心となる部分、太陽の黄道実行(真黄経)の算出まで完了した。今回は、
について
天保暦の日躔(太陽の運行)についての説明を行っている。前回は、平行(平均黄経)と、初均等(中心差、すなわち、地球の公転角速度が近点付近で早く、遠点付近で遅いことによる不等)の説明を行った。
今回は、太陽の実行(真黄経)を求めるための次の不等項、「一均」(章動)と、それに関係する項目「黄赤大距」(黄道傾斜角)について。
前回は、天保暦の歴史を語るだけで終わってしまったが、今回から天保暦の暦法の説明に入る。まずは例によって日躔から。今回は、太陽の平均黄経(平行)、太陽遠点の平均黄経(最高平行)の算出、および、初均(中心差)について。
寛政暦の消長法、すなわち、麻田剛立が独自に考案し、寛政暦に取り入れられた天文諸定数の経年変化項の算出方法についての説明を行っている。
前回は、 天正冬至、天正経朔、冬至太陽距最卑(※1)、冬至太陰距最高(※2)、冬至太陰距正交(※3)の計算を説明した。
今回は、これらの値を使い、
について説明する。
また、今まで「消長法の説明が終わってから」ということで先延ばしにしていた、節気・土用・朔の頒暦との突合を行う。
前回までで、ながながと説明してきた月離が終わり、今回からは、寛政暦の消長法について記載していく。消長法については今回と次回の2回に分けて説明する。
麻田学派は、イエズス会士 Ignaz Kögler
が清朝のために著述した「暦象考成後編」を研究し、ケプラーの楕円軌道理論をマスターした。寛政暦は、その麻田学派の高橋至時・間重富らを中心に制定されたわけだが、寛政暦の消長法は、麻田学派の師匠である麻田剛立が、古今の暦・天文観測を通覧し、天文諸定数の経年変化項の算出方法を独自に考案したものである。中国・西洋の暦法に基づいたものではなく、麻田独自理論であることから、麻田学派以外の天文方メンバー(吉田秀升、山路徳風)は採用に難色を示しており、特に山路は強く反対していたようだが、高橋至時がなんとか説得して採用にこぎつけたのである。
経年変化項であり、長い時間レンジのなかでのゆっくりとした変化を記述したものだから、正直、使おうが使うまいが、寛政暦施行期間(寛政十(1798)~天保十四(1843)年)の頒暦への影響は極めて小さいのだが、もともと四捨五入で切り捨てられるか切りあがるかギリぐらいの値だったのであれば、影響が出ないこともない。
以下、暦法新書(寛政)巻一「消長法」に記載されたその計算方法を見ていこう。
ながながと寛政暦の月離について説明してきたが、あともう少しだけ。前回までで月の黄経・黄緯を算出するところまできた。今回が月離の最終回になる。
今回は、月・太陽の運行遅速を勘案する朔弦望日時の計算、定朔弦望について。
また、月の出入時刻の計算について。
また、「その他」として、羅睺・計都について言及する。
前回までのところで、月の白道上の経度「白道実行」が算出された。
今回は、昇交点の真黄経「正交実行」、白道傾斜角「黄白大距」を算出し、月の軌道円を決定する。そしてこれらにより、黄道座標系への変換を行い、月の黄経・黄緯「黄道実行」「黄道緯度」を算出する。
「日本では全国で皆既食が見られる。ただし、北海道西部、東北地方西部、中部地方西部、西日本では月出帯食となる。各地における状況は次のとおりである。 」
地名 | 月の出 | 食の始め | 皆既の始め | 食の最大 | 皆既の終り | 食の終り | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
中央標準時 | 位置角 | 食分 | 中央標準時 | 位置角 | 中央標準時 | 位置角 | 中央標準時 | 位置角 | 食分 | 中央標準時 | 位置角 | 中央標準時 | 位置角 | |
那覇 | 19時07.3分 | 202度 | 0.348 | 20時09.4分 | 61度 | 20時18.7分 | 250度 | 1.015 | 20時28.0分 | 80度 | 21時52.8分 | 299度 | ||
福岡 | 19時11.8分 | 196度 | 0.412 | 20時09.4分 | 53度 | 20時18.7分 | 243度 | 1.015 | 20時28.0分 | 72度 | 21時52.8分 | 291度 | ||
京都 | 18時52.7分 | 188度 | 0.127 | 20時09.4分 | 49度 | 20時18.7分 | 239度 | 1.015 | 20時28.0分 | 68度 | 21時52.8分 | 286度 | ||
東京 | 18時37.5分 | ----- | ---- | 18時44.6分 | 185度 | 20時09.4分 | 47度 | 20時18.7分 | 236度 | 1.015 | 20時28.0分 | 66度 | 21時52.8分 | 283度 |
仙台 | 18時39.5分 | ----- | ---- | 18時44.6分 | 182度 | 20時09.4分 | 44度 | 20時18.7分 | 234度 | 1.015 | 20時28.0分 | 63度 | 21時52.8分 | 281度 |
札幌 | 18時51.4分 | 179度 | 0.107 | 20時09.4分 | 40度 | 20時18.7分 | 230度 | 1.015 | 20時28.0分 | 59度 | 21時52.8分 | 278度 |
前回までは、「太陰太陽暦とはどういうものであるか」について説明した。あわせて、所謂「旧暦2033年問題」についても説明した。
今回からは、江戸時代の「頒暦」(一般向けに頒布・販売された仮名暦)がどういうものだったか見ていく。
江戸の頒暦を研究するにあたっての基礎資料としては、暦法書、実際に頒布された頒暦暦面等であろう。この項では、それらの資料へのアクセス方法を記載しておく。
また、本題(暦の計算方法の研究)に入る前に、頒暦(仮名暦)とはどういったものだったかを概観する。
前項で述べた内容をおさらいする。
旧暦2033年問題についてググってこのページにたどりついた方で、上記のまとめを見てなんの話をしてるんだか全くぴんと来ない場合は、ぜひ前項「天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール」にさかのぼって読んでから、このページに戻ってきてほしい。
天保暦ルール「二至二分を本月に属させるように閏月を選べ」を満足させることができない年が存在する。1844年から天保暦が施行されて以降はじめて、このようなケースが2033年に発生する。これを俗に「旧暦2033年問題」と呼んでいる。2033年の旧暦にどういうことが起きるのか、以下に述べよう。
(要旨) 日本語の動詞活用語形の起源解明に向け,大野(1953)をはじめとして,様々な努力が行われてきた。それらの研究を踏まえ,本稿では動詞活用語形の形成についてひとつの仮説を提案する。具体的には,①連用形語尾は *-iではなく *-jeであったこと,②短母音後の子音r, s, jの脱落が起き,また,脱落により生じた二重母音が子音の硬口蓋性を維持して短母音化したこと,③未然形の語形整理がなされ,二段・一段動詞では連用形語形が未然形に使用されるようになったこと,④半狭母音の狭母音化・硬口蓋化子音後の母音の前舌化が起きたことを仮説の骨子とする。それぞれの傍証として,①イ乙の語形を持つ下二段転成名詞形,②自他交替語形,③動詞からの形容詞派生・受身形(る・らる形)・使役形(す・さす形),④上代中央方言と上代東国方言における語形交替をあげる。
上代日本語の動詞活用形の起源 Ver. 2 以降の議論もたまってきたので、そろそろ
Ver. 3
を作ろうと思い書き始めていたのですが、読んでくれる人もほとんどなく、フィードバックも当然なく、ただただ孤独に書き連ねているこのブログ。一度、他人の意見も聞きたいと思い、意を決して論文の体裁にし、某誌に投稿したのが二年ほど前。
(ちなみに、学術誌の投稿は、学会員になりさえすれば投稿可能。学会員には会費を払いさえすればなれる、というパターンが多いです。なので、素人でも投稿することは可能)
結果は(当然のごとく)敢え無く惨敗。
「素人が見様見真似で書いたところで採用されるほど、査読付き学術論文の世界は甘くない」
「仮になんとかうまくいい論文を書きおおせたところで、動詞活用起源論みたいなどこまで行ったところで妄想の世界の域を出ないような事柄について、査読付き学術誌で掲載してもらうのは難しい」
とは思っていたので不採用になったことは、まあ想定どおり。
実際、今読み返してみても、独自の日本語観で無駄に壮大な仮説を、制限ページ数のなかで舌足らずに記述していて、そもそも読む気にもなれない文ですね。
とりあえず、査読者の方という狭い範囲ながら読んでもらって意見をいただいたので、それで目的を達した気分になり、そのあとずっとほったらかしになってました。
このブログでも、そろそろ別のテーマについて書きたくなってきましたので、このテーマについてけりをつけるべく、投稿していたものをこちらにのっけます。