2020年12月26日土曜日

貞享暦の日食法 (2)

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貞享暦の日食法について、説明を行っている。

前回は、月食と異なり、日食では観測者の位置の考慮が必要であり、そのためには月の視差を考えないといけないこと、月の視差にほる補正値(経度方向のずれであり、日食時刻に影響する「時差」、緯度方向のずれであり、食分に影響する「南北差」「東西差」の算出まで行った。

今回は、「南北差」「東西差」の持つ意味合いについてもう少し考察したのち、日食記事の記載に必要な諸項目(食分、 初虧/食甚/復末時刻、方向角、帯食時の食分)を算出する。

2020年12月20日日曜日

貞享暦の日食法 (1)

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前回は貞享暦の月食法の説明を行った。今回からは、貞享暦の日食法の説明を行っていくことになる。

日食は、月食よりも予測計算方法が複雑だ。なぜかというと、地球と月と太陽の位置関係だけでなく、観測者の位置も重要になってくるからである。

月食は、地球の影が月に落ちる現象である。一方、日食は、月の影が地球に落ちる現象である。月食が発生し、月に地球の影が落ちているとき、月が地平線より上にあって見えてさえいれば、地球上どこにいても地球の影が落ちている状態の月を観測することができる。

一方、日食が発生し、地球に月の影が落ちているとき、地球表面上にいる観測者からは、地球表面に落ちた月の影を見ることが出来ない。地球に月の影が落ちていることがわかるためには、観測者自身がその影のなかにいる必要があるのだ。観測者が影のなかにいない場合、その観測者にとっては日食が起きていることにならない。地球と比べ月は小さいから、月の落とす影も相応に小さい。観測者にとって日食が起きているかどうかを判定するには、その小さい影のなかに観測者がいるかどうか判定しないといけないのだ。そして、影の中心から観測者がどの程度離れているかで食分も異なってくる。 

2020年12月12日土曜日

貞享暦の月食法 (2)

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前回から、貞享暦の月食法について説明している。

頒暦の月食記事を記載するためには、

  • 食判定:不食、通常食、帯食(出帯食: かけはじめからかけおわりまでの間に月出、入帯食: かけはじめからかけおわりまでの間に月入)、見えない食(かけおわってから月出、または、かけはじめる前に月入)
  • 食甚時の食分
  • 初虧(かけはじめ)・食甚(食の最大)・復末(かけおわり)の時刻
  • 初虧(かけはじめ)・食甚(食の最大)・復末(かけおわり)時の方向角(かけている部分の方向)
  • 帯食の場合は月の出入時刻、月出入時の食分
 といった情報が必要となる。前回は食甚時刻と食甚時の食分の算出までの説明を行った。今回は残余の説明を行う。

2020年12月5日土曜日

貞享暦の月食法 (1)

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前回までのところで、貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦・明治期の旧暦併記時代における太陽・月の位置計算(日躔・月離)と太陰太陽暦の作暦について、ひととおり説明し終えた。

日食・月食の暦理について説明し残しているので、今回以降、順次説明していく。
今回は、貞享暦の月食法について。どんどん近代天文学に近いほうへ話を進めてきたので、貞享暦の時代に戻るのは頭の切替がちょっと大変だ。

頒暦の月食記事を記載するためには、

  • 食判定
    • 不食
    • 通常食
    • 帯食(出帯食) かけはじめからかけおわりまでの間に月出
    • 帯食(入帯食) かけはじめからかけおわりまでの間に月入
    • 見えない食(かけおわってから月出、または、かけはじめる前に月入)
  • 食甚時の食分
  • 初虧(かけはじめ)・食甚(食の最大)・復末(かけおわり)の時刻
  • 初虧(かけはじめ)・食甚(食の最大)・復末(かけおわり)時の方向角(かけている部分の方向)
  • 帯食の場合は月の出入時刻、月出入時の食分

といった情報が必要となる。今回は、食甚時刻と食甚時の食分の算出まで。以降は次回とする。

2020年11月28日土曜日

明治期の旧暦併記時代における旧暦

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前回までのところで、日月食関連を除き、江戸時代の幕府天文方による暦(貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦)の暦法の説明が完了した。

今回は、明治の新暦改暦以降における「旧暦」について少し話しておくこととする。

2020年11月21日土曜日

天保暦の暦法 (11) 月離 (6) 月出入時刻 (2)

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前回までのところで、月出入時刻を算出するにあたって、その近似的なアタリの時刻、「東時」「西時」を算出した。今回は、ここから、実際の月出入時刻を算出していくこととなる。

2020年11月13日金曜日

天保暦の暦法 (10) 月離 (5) 月出入時刻 (1)

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前回は、月の地半径差(地平視差 horizontal parallax)の計算を行った。

今回は、月出入時刻の計算について。寛政暦の月出入時刻の計算と比べて、天保暦の計算は、こんなに無駄に壮大な計算式である必要があるのか?と思うほど長ったらしい。長ったらしいが、複雑で理解が困難な箇所はそうは多くないので、ちゃんとステップを追っていけば大丈夫。

長ったらしくなっている要素として、ひとつは、京都以外の地点における月出入時刻算出を割とちゃんとやっていること、もうひとつは、地半径差(地平視差)の考慮をしていることである。地平視差は、地球に近い天体ほど大きく、月では最大 1° 程度の視差となる。そして、天体が地平線付近にあるときに視差が最大となるから、月出入時は、まるまる約 1° の視差が発生することになり、月出入時刻算出にあたって、無視できない効果をもたらすのである。

というように、長ったらしくなっているもっともな理由もある。……が、単に「無駄に長ったらしいんじゃないの?」と思うところもなくはない。

2020年11月8日日曜日

天保暦の暦法 (9) 月離 (4) 赤経・赤緯、地半径差

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前回までで、月の黄経・黄緯の算出が出来るようになった。

今回は、月の赤経・赤緯の算出と、地半径差の算出。

地半径差とは、月と地球との距離の逆数を意味する値である。

2020年11月1日日曜日

天保暦の暦法 (8) 月離 (3) 黄道緯度

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前回までのところで月の黄経の算出が完了した。今回は月の黄緯の算出について。

寛政暦での月の黄緯は、月の昇交点離角 \(F\) と、軌道傾斜角 \(i\) に基づいて、月の緯度 \(\beta\) は、\(\sin  \beta = \sin i \sin F\) を算出するだけだったが、天保暦では、黄緯についても種々の不等項を置いて算出している。

2020年10月25日日曜日

天保暦の暦法 (7) 月離 (2) 十一均~十三均、黄白升度差、黄道実行、定朔弦望

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前回に引き続き、天保暦における月の黄経の算出について記述する。

前回までのところで、平行(平均黄経)と一均~十均の不等項の説明が終わったので、今回はその残り、十一均(中心差 equation of center)、十二均(二均差 variation、月角差 parallactic inequality)、十三均、および、黄白升度差(道差)を算出し、月の黄道実行(真黄経)を算出する。

また、月・太陽の黄道実行から、定朔弦望日時を算出する。

2020年10月18日日曜日

天保暦の暦法 (6) 月離 (1) 平行、一均~十均

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前回までのところで、天保暦の日躔(太陽の運行)の説明が完了。今回からは月離(月の運行)の説明となる。今回は、太陰黄道実行(月の真黄経)を求めていくが、最後まで行くとあまりに長大になってしまうので途中まで。

2020年10月11日日曜日

天保暦の暦法 (5) 日躔 (5) 頒暦との突合

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前回までのところで、天保暦の日躔(太陽に関する暦法)の説明をひととおり終えた。これにより、天保暦の頒暦のうち、日躔に基づき計算する箇所との突合が可能となった。よって、今回は、頒暦の以下の事項について、算出結果と頒暦に記載されている内容との突合を行う。

  1. 節気記事における昼夜刻(日出より日の入迄、六より六迄)
  2. 二十四節気の日時
  3. 土用の日時
  4. 半夏生(はんげしゃう)の配当日

雑節「半夏生」の配当日については、頒暦上、時刻が記載されておらず日付のみなので、算出結果とずれることなどなく、貞享暦~寛政暦のところでは、特段、突合の対象として取り上げなかった(ちなみにいうと、算出した日付と頒暦記載の日付はすべて合致していた)。

天保暦においては、「定気法における半夏生の配当日付の算出方法」が、暦法書上どこにも明記がないこともあって、本項ではことさらに取り上げて突合を行うこととする。

2020年10月5日月曜日

天保暦の暦法 (4) 日躔 (4) 定気日時、赤経赤緯、時差総、日出入分、晨昏分

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前回までのところで、天保暦の日躔でもっとも中心となる部分、太陽の黄道実行(真黄経)の算出まで完了した。今回は、

  1. 定気の二十四節気の日時算出
  2. 太陽黄経の赤経・赤緯への変換
  3. 時差総(平均太陽時と真太陽時の間の均時差)と、真太陽時変換
  4. 日出入分、晨昏分(夜明け・日暮れ時刻)
  5. 距地心線(地球と太陽との距離)

について

2020年9月27日日曜日

天保暦の暦法 (3) 日躔 (3) 二均、三均、四均、黄道実行

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前々回は、太陽の平行(平均黄経)と初均(中心差)の算出を行い、前回は一均(章動)を算出した。太陽の実行(真黄経)を求めるためには、あと、二均(木星による摂動)、三均(金星による摂動)、四均(月による摂動)を算出する必要があり、今回説明するのはこれらである。

2020年9月19日土曜日

天保暦の暦法 (2) 日躔 (2) 一均(章動)と黄赤大距(黄道傾斜角)

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天保暦の日躔(太陽の運行)についての説明を行っている。前回は、平行(平均黄経)と、初均等(中心差、すなわち、地球の公転角速度が近点付近で早く、遠点付近で遅いことによる不等)の説明を行った。

今回は、太陽の実行(真黄経)を求めるための次の不等項、「一均」(章動)と、それに関係する項目「黄赤大距」(黄道傾斜角)について。

2020年9月12日土曜日

天保暦の暦法 (1) 日躔 (1) 平行、初均

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前回は、天保暦の歴史を語るだけで終わってしまったが、今回から天保暦の暦法の説明に入る。まずは例によって日躔から。今回は、太陽の平均黄経(平行)、太陽遠点の平均黄経(最高平行)の算出、および、初均(中心差)について。

2020年9月6日日曜日

天保暦について

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前回までで寛政暦についての説明が終わり、今回から、天保暦の暦法について記載していく。実際の暦法説明に入る前に、まずは、天保暦に関するバックグラウンド的な情報について。

2020年8月29日土曜日

寛政暦の暦法 (10) 消長法 (2)

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寛政暦の消長法、すなわち、麻田剛立が独自に考案し、寛政暦に取り入れられた天文諸定数の経年変化項の算出方法についての説明を行っている。

前回は、 天正冬至、天正経朔、冬至太陽距最卑(※1)、冬至太陰距最高(※2)、冬至太陰距正交(※3)の計算を説明した。

  • (※1) 太陽の近点通過~当年冬至(翌年天正冬至)までの経過日時
  • (※2) 天正冬至直前の月の遠点通過~天正冬至までの経過日時
  • (※3) 天正冬至直前の月の昇交点通過~天正冬至までの経過日時

今回は、これらの値を使い、

  • 10年に一度計算する値の算出
    • 各種周期
    • それから求める平均角速度
    • 太陽の(本当は地球の)離心率
    • 黄道傾斜角
  •  年根(天正冬至翌日 0:00 時点の黄経)の算出

について説明する。

また、今まで「消長法の説明が終わってから」ということで先延ばしにしていた、節気・土用・朔の頒暦との突合を行う。

2020年8月23日日曜日

寛政暦の暦法 (9) 消長法 (1)

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前回までで、ながながと説明してきた月離が終わり、今回からは、寛政暦の消長法について記載していく。消長法については今回と次回の2回に分けて説明する。

麻田学派は、イエズス会士 Ignaz Kögler が清朝のために著述した「暦象考成後編」を研究し、ケプラーの楕円軌道理論をマスターした。寛政暦は、その麻田学派の高橋至時・間重富らを中心に制定されたわけだが、寛政暦の消長法は、麻田学派の師匠である麻田剛立が、古今の暦・天文観測を通覧し、天文諸定数の経年変化項の算出方法を独自に考案したものである。中国・西洋の暦法に基づいたものではなく、麻田独自理論であることから、麻田学派以外の天文方メンバー(吉田秀升、山路徳風)は採用に難色を示しており、特に山路は強く反対していたようだが、高橋至時がなんとか説得して採用にこぎつけたのである。

経年変化項であり、長い時間レンジのなかでのゆっくりとした変化を記述したものだから、正直、使おうが使うまいが、寛政暦施行期間(寛政十(1798)~天保十四(1843)年)の頒暦への影響は極めて小さいのだが、もともと四捨五入で切り捨てられるか切りあがるかギリぐらいの値だったのであれば、影響が出ないこともない。

以下、暦法新書(寛政)巻一「消長法」に記載されたその計算方法を見ていこう。

2020年8月16日日曜日

寛政暦の暦法 (8) 月離 (5) 定朔弦望、赤経赤緯

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ながながと寛政暦の月離について説明してきたが、あともう少しだけ。前回までで月の黄経・黄緯を算出するところまできた。今回が月離の最終回になる。

今回は、月・太陽の運行遅速を勘案する朔弦望日時の計算、定朔弦望について。
また、月の出入時刻の計算について。

また、「その他」として、羅睺・計都について言及する。

2020年8月10日月曜日

寛政暦の暦法 (7) 月離 (4) 正交実行、黄白大距、黄道経緯度への変換

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前回までのところで、月の白道上の経度「白道実行」が算出された。
今回は、昇交点の真黄経「正交実行」、白道傾斜角「黄白大距」を算出し、月の軌道円を決定する。そしてこれらにより、黄道座標系への変換を行い、月の黄経・黄緯「黄道実行」「黄道緯度」を算出する。

2020年8月2日日曜日

寛政暦の暦法 (6) 月離 (3) 二均、三均、末均


寛政暦の月離の説明がまだまだ続く。
前回は、月の最高実行(遠地点の真黄経)、本天心距地(真の離心率)、初均(中心差)の算出について説明した。また、併せて、寛政暦の計算では、所謂「出差 evection」は、初均に包含されていることについても説明した。

今回は、月の経度を求めるにあたって残る不等項、二均、三均、末均について説明する。
二均は「二均差 variation」に、三均はニュートン言うところの「月の第2中心差」に、末均ははっきりしないところもあるが「月角差 parallactic inequality」に相当するものである。
これにより、月の白道に沿って測った真の経度(真白経)「白道実行」が得られる。

ただし、黄経・黄緯を求めるには、月の昇交点の真黄経、白道傾斜角を求める必要があり、これらについては次回まわし。

2020年7月25日土曜日

寛政暦の暦法 (5) 月離 (2) 最高実行、初均


前回
は、月の黄経の不等項: 一平均・二平均・三平均、遠地点黄経の不等項: 最高平均、昇交点黄経の不等項: 正交平均について説明した。今回は、いよいよ月の黄経における最大の不等項である初均(中心差)についてである。が、その前に、遠地点黄経(最高)の真黄経「最高実行」を求める必要がある。

今回のメニュー
  • 月の遠地点の真黄経(最高実行)、および、月の真の離心率(本天心距地)を求める。
  • 月の中心差(初均)を求める。
  • 月の不等項のうち、中心差に次ぐ大きな不等項「出差」の寛政暦における取り扱いについて

月の本当の真黄経を求めるには、あと、二均、三均、末均と、白経(白道上の経度)から黄経(黄道上の経度)への変換(升度差)が必要。月離はまだまだ続きます。

2020年7月18日土曜日

寛政暦の暦法 (4) 月離 (1) 平行、平均


前回
までで寛政暦の日躔(太陽の運行)の説明が終わり、今回からは、寛政暦の月離(月の運行)について説明する。

貞享暦・宝暦暦の月離における運行遅速要素は、「月行遅速」すなわち月の中心差であった。
一般に、中心天体と周回天体の二体しかない場合、周回天体は正確にケプラーの法則に従って運行するので、運行遅速要素は中心差のみとなる。しかし、そこに他の天体が加わると、ケプラーの法則からのずれが生じる。
太陽の運行(地動説に従えば実際は地球の運行なのだが)においては、他の天体(月や惑星)の影響はあまり大きくないので、中心差だけで計算してもさほどの誤差にはならない(よって寛政暦の日躔では中心差しか計算していない)が、月の場合は、中心天体(地球)と周回天体(月)に加え、無視できない影響を及ぼす第三の天体が加わる。太陽である。太陽の影響によって月の運行は極めて複雑になり、ある程度正確に計算するためには多数の補正項を加味しないといけない。

寛政暦の月離においては、太陰平行(月の平均黄経)に、一平均(年差)、二平均(ニュートンが「半年差」と呼んでいる補正項に相当?)、三平均(ニュートンが「第二の半年差」と呼んでいる補正項に相当?)、初均(中心差、および出差?)、二均(二均差)、三均(ニュートンが「第二の中心差」と呼んでいる補正項に相当?)、末均(月角差?)、および、升度差(白経(白道上の経度)から黄経への変換差、つまり、道差)を加味し、太陰黄道実行(月の真黄経)を得る。

今回説明するのは、平行、一平均、二平均、三平均まで。

2020年7月11日土曜日

寛政暦の暦法 (3) 日躔 (3) 黄赤・地平座標変換、時差総、日出入・晨昏分


前回
、寛政暦における太陽の実行(真黄経)の算出、定気日時(平均太陽時)の算出までを説明した。今回は、
  1. 黄道→赤道座標変換
  2. 平均太陽時と真太陽時の時差「時差総」
  3. (ご参考)赤道座標系から地平座標系への変換
  4. 日出入時刻
  5. 夜明け・日暮れ時刻(晨昏時刻)
  6. 寛政暦頒暦記載の昼夜刻との突合
について説明する。

2020年7月4日土曜日

寛政暦の暦法 (2) 日躔 (2) ケプラーの法則と均数、実行、定気日時


前回
は、寛政暦における日躔(太陽の運行)について、平気の節気、および、平均要素(太陽の平均黄経(平行)、平均近点黄経(最卑平行)、および、平均近点角(引数)の算出まで説明した。

今回は、中心差(均数)、および、真黄経(実行)の算出について。
寛政暦での中心差の算出は、ケプラーの楕円軌道モデルに依っているので、ケプラーの法則(特に、第二法則(面積速度一定の法則))についても併せて説明する。

2020年6月28日日曜日

寛政暦の暦法 (1) 概要、日躔 (1) 平均黄経


前回
は、宝暦暦について駆け足で説明を行った。今回からは寛政暦。寛政暦はさすがに駆け足というわけにはいかない。
今回は、寛政暦の簡単な歴史と、日躔の入り口あたり(平均黄経と平気節気)の計算。また、寛政暦で用いられる数学について、若干の説明。

寛政暦の概要

最新の天文学の知識を取り入れた暦の採用は、八代将軍徳川吉宗が強く望みながら宝暦改暦のときには頓挫してしまった。が、幕府として吉宗の遺志を果たそうと挑戦を続けていた。

修正宝暦暦を起案した吉田秀長の子、吉田靫負秀升(よしだ ゆげい ひでのり)、宝暦改暦の際、改暦手伝として参加していた暦学者山路主住(やまじ ぬしずみ)の孫で志願して天文方に参加した山路才助徳風(やまじ さいすけ よしつぐ)らは、崇禎暦書(※)を基にした改暦を行おうと準備を進めていた。
  • (※) イエズス会士アダム・シャール(湯若望)が明朝の崇禎帝の命に応じて著わした新暦案。明の滅亡により採用されることはなかったのだが、その焼き直し版「西洋新法暦書」が時憲暦(第一期)の暦法書となっている

が、宝暦改暦の際、朝廷方の土御門家にしてやられた苦い経験から、土御門家の追随を絶対に許さない圧倒的に高度な暦法が必要とされていた。土御門家がどんな暦学者をブレーンに集めてこようが、絶対に勝てる暦法が必要だったのである。国内の民間の暦学者の間でも既に研究が進んでいた崇禎暦書では、それには不足だった。

そこで白羽の矢が立ったのが、大阪で活動していた麻田剛立学派であった。麻田剛立(あさだ ごうりゅう。綾部妥彰(あやべ やすあき))は、もとは九州の杵築藩(大分県杵築市)の儒者の家の出であるが、幼少時から医学・暦学等に興味を持ち独学で研究を進めていた。30歳のとき、宝暦暦が予報を外していた宝暦十三(1763)年九月日食も正しく予報していたとのことである。医学の腕を買われて藩主の侍医も務めるが、宮仕えは性に合わなかったようで、安永元(1772)年、侍医を辞して大坂に出、開業医を務めながら暦学研究に没頭することとなる。古今の暦の定数を比較勘案してその経時変化を推算した消長法を考案したり、また、ケプラーの第三法則(惑星の公転周期の二乗は、軌道長半径の三乗に比例する)を独立に発見したとも言われる(独立に発見したのか、ケプラーの法則をどこかで聞いたものなのかは議論の余地がある)。

2020年6月21日日曜日

宝暦暦の暦法

前回までで、貞享暦の説明は終わり。今回は宝暦暦。とはいっても、正直、宝暦暦は貞享暦の焼き直しで、諸定数が差し替えられているほかは、大して違いはない。駆け足の説明となる。

宝暦暦の概要

享保の改革を進めていた八代将軍徳川吉宗は、西洋書禁令を緩和し、西洋の科学技術の活用を振興していた。数学者建部賢弘(たけべ かたひろ。関孝和の弟子)に命じて、全国地図(元禄日本図)の改訂を行い、享保日本図を完成させている。
暦についても、西洋天文学からの知識を活用した改暦を行いたいと考えていたようで、享保十一(1726)年、暦学者中根元圭(なかね  げんけい)を召して、清朝の暦学者梅文鼎の著作全集「暦算全書」の訳を命じている。また、江戸城内に天体観測設備を整え、自ら観測を行い始めた。元圭にも太陽の観測を行わせ貞享暦のずれを調査させたが、「大きなずれはない」との結果であった。

しかしやはり改暦を諦められなかったようで、その後改暦作業を本格化させるが、その頃には、建部賢弘・中根元圭らは他界しており、天文方の渋川六蔵則休(しぶかわ  ろくぞう のりよし。春海の甥の子)も年若く改暦の任には堪えなかった。そこで、長崎の暦学者西川如見の子の西川正休(にしかわ  まさよし)を招へいする。正休自身も「天経或問」に訓点をつけ出版するなど、暦学者として活動していた。
延享三(1746)年、渋川・西川両名は改暦準備を進めるよう下命される。寛延ニ(1749)年、改暦準備が完成したところで正式に改暦の命が下る。

2020年6月13日土曜日

貞享暦の暦法 (3) 月離


前回
までは、貞享暦の日躔(太陽の運行)について書いてきたが、今回は月離(月の運行)について記述する。

経朔弦望

経朔弦望とは、平朔弦望、つまり、月・太陽の運行の遅速を考慮せず、月・太陽の平均黄経によって定めた朔弦望である。平均朔望月の 1/4 毎に、朔(新月)→上弦(半月)→望(満月)→下弦(半月)→朔(新月)が到来することになる。

2020年6月7日日曜日

貞享暦の暦法 (2) 日躔その 2 日出分、日行盈縮


引き続き、貞享暦における日躔(太陽の運行)について。前回は平気の二十四節気・土用についてであったが、今回は、日の出・日の入りと、平気(太陽平均黄経)から定気(太陽真黄経)への補正項である日行盈縮について。


2020年5月30日土曜日

貞享暦の暦法 (1) 貞享暦の概要、日躔


さて、長々と前置きを続けてきたが、ようやく本題。江戸時代の幕府天文方の暦(貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦)の暦法について述べていく。

まずは、貞享暦の節気・土用について。なお、このブログでは、頒暦を作成するにあたって必要な部分だけを記述していく。暦法のうち、五星(木星・火星・土星・金星・水星)や、恒星(星宿)などの頒暦には記載されない部分などは対象にはしない。

暦法の説明に入る前に、簡単に貞享暦採用の経緯について説明しておこう。

貞享暦について

貞享暦改暦を主導したのは、渋川助左衛門春海(しぶかわ すけざえもん  はるみ、安井算哲、保井算哲(やすい さんてつ))(1639~1715) である。幕府・大名家・宮中などで、囲碁の対戦を披露したり、囲碁の指南をしたりする碁方であった。
安井家は、幕府の碁方四家(本因坊家、井上家、林家、安井家)の一であり、算哲は一世安井算哲の長男として二世安井算哲を名乗るが、父の死亡時は幼少であったため、義兄(一世算哲の養子)の安井算知が安井家を継ぐこととなる。
本業の碁方を務め、京・江戸を行き来しながら、囲碁の指南を通じて、水戸藩主徳川光圀や会津藩主松平(保科)正之らとも知遇を得る傍ら、暦学・天文学を学び、北極出地(北極星の仰角)測量による緯度測定なども行っている。


2020年5月23日土曜日

頒暦概観 (5) 日月食記事(貞享暦・宝暦暦)


前回
は、寛政暦・天保暦の日月食記事について書いた。
今回は、それ以前、貞享暦・宝暦暦の日月食記事について説明する。貞享暦の日月食記事は記載方針が未だ定まっていない感じで、正直、整理して説明し切れる自信もないのだが、わからないならわからないなりにわかっているところをちょろちょろと書いていくことになるので、ご容赦願いたい。その貞享暦のカオティックな状況から、少しずつ、寛政暦・天保暦の日月食記事の書きぶりに近づいていくことになる。

2020年5月16日土曜日

頒暦概観 (4) 日月食記事(寛政暦・天保暦)


前回までで、頒暦記載情報のうち、暦月記事・暦日記事・節気記事の説明が終わった。残すは日月食記事のみ。頒暦における日月食記事について話す前に、まず、今の暦(暦要項)で日月食がどんな感じで記載されているのか見てみよう。
下記は、令和三(2021)年の暦要項での、5月26日皆既月食の記事である。

「日本では全国で皆既食が見られる。ただし、北海道西部、東北地方西部、中部地方西部、西日本では月出帯食となる。各地における状況は次のとおりである。 」
地名 月の出 食の始め 皆既の始め 食の最大 皆既の終り 食の終り
中央標準時 位置角 食分 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角 食分 中央標準時 位置角 中央標準時 位置角
那覇 19時07.3分 202度 0.348

20時09.4分 61度 20時18.7分 250度 1.015 20時28.0分 80度 21時52.8分 299度
福岡 19時11.8分 196度 0.412

20時09.4分 53度 20時18.7分 243度 1.015 20時28.0分 72度 21時52.8分 291度
京都 18時52.7分 188度 0.127

20時09.4分 49度 20時18.7分 239度 1.015 20時28.0分 68度 21時52.8分 286度
東京 18時37.5分 ----- ---- 18時44.6分 185度 20時09.4分 47度 20時18.7分 236度 1.015 20時28.0分 66度 21時52.8分 283度
仙台 18時39.5分 ----- ---- 18時44.6分 182度 20時09.4分 44度 20時18.7分 234度 1.015 20時28.0分 63度 21時52.8分 281度
札幌 18時51.4分 179度 0.107

20時09.4分 40度 20時18.7分 230度 1.015 20時28.0分 59度 21時52.8分 278度


2020年5月9日土曜日

頒暦概観 (3) 節気記事


前回は、暦月記事・暦日記事について記載した。今回は、二十四節気が配当されている日に記載される節気記事について概観する。また、併せて、節気記事には節気時刻の記載もあるため、頒暦で使用される時刻表示についても言及する。

2020年5月4日月曜日

頒暦概観 (2) 暦月記事、暦日記事

日別記事

今回は、頒暦の本体部分、日別記事を概観する。

日別記事には、下記の4種類が存在する(名前は、勝手に命名)。
  1. 暦月記事
    • 暦月一日の暦日記事の前(右)に記載される。
    • 記載される内容は、月名(○月)、月の大小、月干支、 月の二十八宿、暦月一日の二十八宿、暦月一日の七曜。
  2. 暦日記事
    • 毎日記載される。
    • 記載される内容は、日名(○日)、日干支、十二直、日の納音、該当日に配当される雑節・選日・暦注下段。
  3. 節気記事
    • 二十四節気が配当される日の暦日記事の後(左)に記載される。
    • 記載される内容は、節気名(××○月節/中)、節気の時刻、日の出/日の入で昼夜をわけたときの昼/夜の時間、明六ツ/暮六ツで昼夜をわけたときの昼/夜の時間。
  4. 日月食記事
    • 日食・月食が発生する日の暦日記事の後(左)に記載される。節気記事とかぶる場合、節気記事の後(左)。
    • 日月食記事での記載内容は、詳しくは別途説明するが、
      • 初虧(かけはじめ)の時刻・方向角
      • 食甚(食の最大)の時刻・方向角・食分
      • 復円(かけおわり)の時刻・方向角
      • 初虧~復円の間に日月の出入りがあるとき(帯食のとき)、出入の時刻・出入時の食分
      といった情報が記載される。「食分」とは、かけの程度、「方向角」とは、日輪・月輪のかけている箇所の方向を示す情報である。
    • 基本的に京都から見たときの食の情報が記載されるが、「西国」・「東国」についての情報が記載されることがある。

2020年4月25日土曜日

江戸頒暦研究の基礎資料、頒暦概観 (1) 年頭

[江戸頒暦の研究 総目次へ]

前回までは、「太陰太陽暦とはどういうものであるか」について説明した。あわせて、所謂「旧暦2033年問題」についても説明した。
今回からは、江戸時代の「頒暦」(一般向けに頒布・販売された仮名暦)がどういうものだったか見ていく。

江戸の頒暦を研究するにあたっての基礎資料としては、暦法書、実際に頒布された頒暦暦面等であろう。この項では、それらの資料へのアクセス方法を記載しておく。
また、本題(暦の計算方法の研究)に入る前に、頒暦(仮名暦)とはどういったものだったかを概観する。

2020年4月18日土曜日

旧暦2033年問題について

前項で述べた内容をおさらいする。

  • 中国暦の流れを汲む太陰太陽暦の閏月は、無中気月におく。これは、平均して毎月1日程度月末にむかってずれていく月中の中気が、月末まで到達すると翌月初に突き抜ける。突き抜けたところに生ずる中気を含まない月(前月末に中気があり、翌月初にその次の中気があるが、当月自体には中気がない月)に閏月を置くということである。
  • しかし、二十四節気の配当に定気法を用いる場合、一旦月初に突き抜けた中気がまた月末に戻り、また月初に突き抜け、といった、月末月初の間で「行きつ戻りつ」を起こすことがある。その場合、下記の課題が発生する。
    • 複数の無中気月が発生し、閏月とすべきはそのなかの一つだけなので、どの無中気月を閏月とするか決定するルールが必要となる。
    • 平気法や、定気法でも、中気が月末月初間で「行きつ戻りつ」していない場合は、すべての中気が本月に属するが、定気法で中気が月末月初間で「行きつ戻りつ」している場合は、すべての中気を本月に属させることは出来ない。具体的には、閏月前の月初中気・閏月後の月末中気は本月に属さない。
  • 天保暦ルールでは、二至二分(冬至・春分・夏至・秋分)が本月(十一月・二月・五月・八月)になるように閏月を選定する。具体的には、二至二分だけをひろって見ていったときに、月末→月初に突き抜けている区間のなかの無中気月を閏月とすることにより、二至二分を本月に属させることが出来る。

旧暦2033年問題についてググってこのページにたどりついた方で、上記のまとめを見てなんの話をしてるんだか全くぴんと来ない場合は、ぜひ前項「天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール」にさかのぼって読んでから、このページに戻ってきてほしい。

旧暦2033年問題

天保暦ルール「二至二分を本月に属させるように閏月を選べ」を満足させることができない年が存在する。1844年から天保暦が施行されて以降はじめて、このようなケースが2033年に発生する。これを俗に「旧暦2033年問題」と呼んでいる。2033年の旧暦にどういうことが起きるのか、以下に述べよう。

2020年4月11日土曜日

天保暦の置閏: 定気法における置閏の課題、平山ルール


前項
で言及した、定気法で置閏する場合の「少々ややこしい話」について書き述べたい。

まず、中国暦の流れを汲む太陰太陽暦における置閏のおさらい。
二十四節気のうちの中気を含まない暦月を閏月とする。

中気の平均間隔は、約 365.2422  ÷ 12 = 30.43685日。一方、暦月の平均的な長さは 約 29.53日であるから、毎暦月中の中気の位置は、平均して毎月1日程度、月末方向にずれていく。そしてある時、月末を突き抜けて翌月初に中気が回ってしまう。ここに、「前月末に中気があり、翌月初にその次の中気があるが、当月自体には中気を含まない」という無中気月が発生する。この月を閏月とする。

2020年4月4日土曜日

太陰太陽暦の基本

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本題である「江戸時代、幕府天文方によって作成する暦の作暦方法を調べる」という話題に入る前に、ざらっと太陰太陽暦(中国暦の流れをくむ太陰太陽暦)の基本についておさらいする。

太陰太陽暦を作暦する流れとしては、

  1. 月の朔望周期(みちかけ)から、月初一日を定める。
  2. 太陽の周期(二十四節気)から、閏月を定める。閏月が定まれば、各月が何月なのかが定まる。

となる。以下に順を追って説明する。

ただし、閏月を定めるにあたり、現在行わている二十四節気の配日法である「定気法」による場合、少々ややこしい話があるので、それに関しては次回説明することにする。

2020年3月30日月曜日

おまつのブログ シーズン 2 「近世頒暦の研究」緒言

 
このブログでは、上代日本語について動詞を中心に調べたことをつらつらと書き並べてきたわけだが、それだけを書こうと思ってはじめたわけではない。思ったこと・調べたことを、いろいろ書こうと思っていたのだが、日本語に関しての調べものに、思ったより深入りしてしまった。
ここから、まったく別のテーマについてしばらく書いていく。
暦についてである。

2020年2月2日日曜日

総目次

最新版(ファイナル版)


今まで考察してきたものをまとめて、論文形式にまとめてみたもの。
(2020.03.25 リンクを張り間違えていたのに気づき、訂正しました)

2020.02.02: 上代日本語の動詞活用形の起源 Ver. 3 (ファイナル版)

(要旨) 日本語の動詞活用語形の起源解明に向け,大野(1953)をはじめとして,様々な努力が行われてきた。それらの研究を踏まえ,本稿では動詞活用語形の形成についてひとつの仮説を提案する。具体的には,①連用形語尾は *-iではなく *-jeであったこと,②短母音後の子音r, s, jの脱落が起き,また,脱落により生じた二重母音が子音の硬口蓋性を維持して短母音化したこと,③未然形の語形整理がなされ,二段・一段動詞では連用形語形が未然形に使用されるようになったこと,④半狭母音の狭母音化・硬口蓋化子音後の母音の前舌化が起きたことを仮説の骨子とする。それぞれの傍証として,①イ乙の語形を持つ下二段転成名詞形,②自他交替語形,③動詞からの形容詞派生・受身形(る・らる形)・使役形(す・さす形),④上代中央方言と上代東国方言における語形交替をあげる。

旧バージョン

2016.04.24: 上代日本語の動詞活用の起源 ver. 1

  1. はじめに
  2. 自動詞他動詞ペアのパターン
    1. パターンの類型
    2. パターンの起源
    3. イレギュラーなパターンについて
  3. 動詞の活用形発生のシナリオ
    1. 動詞活用形の発生過程その1
      • ① 連用形の成立
      • ② 未然・終止形の成立
      • ③ 連体形の成立
    2. 動詞活用形の発生過程その2
      • ④ 二母音連続の長母音化
      • ⑤ 命令形の成立
      • ⑥ 短母音化(八母音化)
    3. 動詞活用形の発生過程その3
      • ⑦ 受身形・使役形の成立
      • ⑧ 連用形の未然形代用
      • ⑨ 已然形の成立

2016.09.18: 上代日本語の動詞活用形の起源 Ver. 2

  1. 仮説の骨子
  2. 初期状態
  3. Step 1: 陽母音 e と陰母音 i の中性母音化
  4. Step 2: 活用形の整備
  5. Step 3: 子音脱落
  6. Step 4: 第1次高母音化
  7. Step 5: 高さ調整
  8. Step 6: 逆行同化
  9. Step 7: 文法の整理
  10. Step 8: 未然形の誕生
  11. Step 9: 第2次高母音化と、中央語/東国語/琉球語の分離
(上記の仮説について、その後の考察(下記「関連雑文」)に基づきブラッシュアップしたもの)

上代日本語の動詞活用形の起源 Ver. 3 (ファイナル版)

上代日本語の動詞活用形の起源 Ver. 2 以降の議論もたまってきたので、そろそろ Ver. 3 を作ろうと思い書き始めていたのですが、読んでくれる人もほとんどなく、フィードバックも当然なく、ただただ孤独に書き連ねているこのブログ。一度、他人の意見も聞きたいと思い、意を決して論文の体裁にし、某誌に投稿したのが二年ほど前。
(ちなみに、学術誌の投稿は、学会員になりさえすれば投稿可能。学会員には会費を払いさえすればなれる、というパターンが多いです。なので、素人でも投稿することは可能)

結果は(当然のごとく)敢え無く惨敗。

「素人が見様見真似で書いたところで採用されるほど、査読付き学術論文の世界は甘くない」

「仮になんとかうまくいい論文を書きおおせたところで、動詞活用起源論みたいなどこまで行ったところで妄想の世界の域を出ないような事柄について、査読付き学術誌で掲載してもらうのは難しい」

とは思っていたので不採用になったことは、まあ想定どおり。

実際、今読み返してみても、独自の日本語観で無駄に壮大な仮説を、制限ページ数のなかで舌足らずに記述していて、そもそも読む気にもなれない文ですね。

とりあえず、査読者の方という狭い範囲ながら読んでもらって意見をいただいたので、それで目的を達した気分になり、そのあとずっとほったらかしになってました。

このブログでも、そろそろ別のテーマについて書きたくなってきましたので、このテーマについてけりをつけるべく、投稿していたものをこちらにのっけます。